江戸の日本橋から京の三条大橋まで続く東海道五十三次の宿場のうち最初の品川宿と次の川崎宿のあいだに多摩川の流れがある。
天下分け目の関ヶ原の1600年(慶長5年)に徳川家康が架けさせたという六郷の大橋は、1688年(貞享5年)に洪水で流されてしまった。
以来、1874年(明治7年)まで、川を渡るには渡し舟しかなかった。
ベトナムから長崎に象がきて、東海道を通って江戸まできた1728年(享保13年)にも、象は舟でこの川を渡った。
幕府瓦解後、明治天皇が初めて江戸に入るときは舟をたくさん川に並べ、その上に板を敷いて臨時の橋を作り、因幡の白兎のようにその上を天皇が通った。
川崎宿でいちばん大きな茶屋は万年という店で、万年から川崎大師への参詣の道沿いには新田屋、会津屋などの茶屋が並んで賑わったそうだ。
万年の名物、奈良茶飯とやらは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも出てくるとか。いま売り出せば評判になりそうなのに現在の宿場はそっけない。
これが旧東海道の川崎宿の現在の姿で、宿場町だった名残なのか脇道に入ると姫とか重役室とか金瓶梅とか全力!!乙女坂46とかそういう店ばかり。
旧街道沿いはマンションとかスーパーとか高い建物が多くて昔の風情はないけれど、やはり道幅は江戸の街道を偲ばせる。
当時の歴史と文化を後世に伝える施設、東海道かわさき宿交流館に寄ろうとしたら例によって新型コロナウイルス感染症の自粛要請で臨時休館。
そうだろうと思って川崎宿の田中本陣跡を道端の地図を頼りに探し歩いたけど、見当たらないからマンションかラブホテルになったんだろう。
稲毛神社には、本陣の主人である田中休愚がこのあたりの勘定支配格になった1729年(享保14年)に奉納した手洗石があった。
田中休愚は多摩川の渡し舟で稼いだ金を使い、さびれた川崎宿を立て直した地元の恩人で、「民間省要」という書物を著したインテリさん。
稲毛神社のとなりの稲毛公園には、1925年(大正14年)から約60年間、ほぼ昭和の全期間あの川に架けられていた旧六郷橋の親柱が移設されてホームレスの住処になっていた。
関連記事: 品川神社
天下分け目の関ヶ原の1600年(慶長5年)に徳川家康が架けさせたという六郷の大橋は、1688年(貞享5年)に洪水で流されてしまった。
以来、1874年(明治7年)まで、川を渡るには渡し舟しかなかった。
ベトナムから長崎に象がきて、東海道を通って江戸まできた1728年(享保13年)にも、象は舟でこの川を渡った。
幕府瓦解後、明治天皇が初めて江戸に入るときは舟をたくさん川に並べ、その上に板を敷いて臨時の橋を作り、因幡の白兎のようにその上を天皇が通った。
川崎宿でいちばん大きな茶屋は万年という店で、万年から川崎大師への参詣の道沿いには新田屋、会津屋などの茶屋が並んで賑わったそうだ。
万年の名物、奈良茶飯とやらは十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも出てくるとか。いま売り出せば評判になりそうなのに現在の宿場はそっけない。
これが旧東海道の川崎宿の現在の姿で、宿場町だった名残なのか脇道に入ると姫とか重役室とか金瓶梅とか全力!!乙女坂46とかそういう店ばかり。
旧街道沿いはマンションとかスーパーとか高い建物が多くて昔の風情はないけれど、やはり道幅は江戸の街道を偲ばせる。
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そうだろうと思って川崎宿の田中本陣跡を道端の地図を頼りに探し歩いたけど、見当たらないからマンションかラブホテルになったんだろう。
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田中休愚は多摩川の渡し舟で稼いだ金を使い、さびれた川崎宿を立て直した地元の恩人で、「民間省要」という書物を著したインテリさん。
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