散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

陶山神社

2020-01-25 | Weblog
およそ40年ぶりに有田にきてみた。何か思い出すかと思ったけど、川が流れていたことぐらいしか。
本数の少ないJR佐世保線の有田で下りて上有田まで歩く。結果的に、上有田の周辺を散歩するだけ
でも事足りたような気がする。それもこれも下調べをしないから。


おもしろそうな神社を発見!

参道の石段を線路が突っ切っているのは、茅ケ崎のほうの神社にもあった。あそこもおもしろかった。
この陶山神社は、名前といい立地といい陶器の神様っぽい。めずらしい。


鳥居もどうやら有田焼でできているようだ

創建は万治元年(1658年)となっているけど、陶山神社という名前になったのは明治以後らしい。
主祭神は応神天皇だから八幡さま。明治以後に陶山神社になったのは、おそらくだけど、有田焼の
輸出で金回りがよくなったので、やきもの神社にしようという話がにわかに盛り上がった。たぶん
国威発揚の機運もあいまって大正か、昭和のはじめに今のような社になったのでは?


こまいぬもやきものだった


もちろん阿形と吽形になっている


おさいせんまでやきもので?

拝殿の前にちゃんとお賽銭箱があったから、これは参拝にきた人たちが自発的にわざわざ金網の
隙間から錢をねじ込み、投げ入れいている。そうしたくなる気持ちはわかる。


こんなところにもやきものが


あんなところにもやきものが

有田焼だらけの陶山神社。よく盗まれないな、とか、よく壊れないな、とか、いろいろ心配になる。
作るとき小分けにするなら、盗むときも小分けにすればいい。



陶山社の額も有田焼のようだ。拝殿がこうなってるということは、本殿はどうかな? 奥の建物に
回り込んでみると……やっぱり。


やきもので飾られている本殿

おもしろかったので陶山神社を後にして急な石段を下り、線路を渡って町に戻ると、変わった壁面の
塀があった。


トンバイ塀というらしい

陶磁器を焼く窯の壁に使う耐火レンガのことを「トンバイ」といい、古窯のトンバイを再利用した
土塀のことをトンバイ塀というそうだ。窯の中で高温に熱せられ、いろいろな釉薬なども付着して、
おもしろい色合いになっている。トンバイ塀をたどって歩くと……やっぱり。


例によって、また墓地についてしまった

どうしてこのブログはいつも墓地にたどり着いてしまうのだろうか。もしかしてデスブログなのか。
散歩ブログというよりも、墓場ブログという感じ。次回もお楽しみに。


関連記事:   有田
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平戸から生月

2020-01-18 | Weblog
フランシスコ・ザビエルが平戸にやってきたのは1550年。そのとき平戸を治めていた松浦藩の藩主は
貿易はしたいけど改宗はしたくない。キリスト教にかぶれた家臣の籠手田氏と一部氏に改宗を許し、
籠手田氏と一部氏はその領地である平戸島の西海岸と生月島の住民をキリスト教に改宗させた。


タクシーを借り切らないと回れない

平戸も生月も「島」とはいえ広いし、潜伏キリシタンは港のそばなど便利なところに住んでくれない。
どうしてもタクシーを使わなければ回れない。1日、借り切ったら「坂田様」とプレートを立てられて
どうも極まりが悪い。誰か誘って連名にすればよかった? しかし、こんなこと興味ある知り合いには
心当たりがないし、突発的に平戸へ来たのでスケジュール合うはずない。


ザビエルは頭のてっぺんハゲてない

歴史の教科書でみたザビエルの頭頂部は河童のようにハゲていたけど、平戸のザビエルは髪ふさふさ。
ザビエルに種まかれたキリスト教はあっというまに信徒の数を増やして、1587年に豊臣秀吉が発布した
禁教令で殉教したキリシタンは400人を超えたという。殉教せずに潜伏したキリシタンのほうがきっと
多いだろう。何人いたことか。


また教会が建てられるのは明治以後

250年ぐらい教会なしで、神父も牧師も不在のままキリスト教の信仰を続けるのは世界に例がないから
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は2018年7月に世界文化遺産として登録が決定された。
しかしなかなか観光するのは大変だ。時間もかかるしお金もかかる。


平戸最古のカトリック宝亀教会

明治31年に建てられた宝亀教会は山の中。カトリックの神父がやってくると、大勢の潜伏キリシタンが
やってきて信仰を告白する。そしてカトリックの洗礼を受ける人もいれば、洗礼を受けないで先祖代々
の信仰を守り「かくれキリシタン」であり続ける人もいる。250年も守ってきたのだから、捨てるわけ
にはいかない。仏教や神道と習合したキリスト教。


カトリック紐差教会も山の中

これでだいたい平戸島の北部から中部に下ってきて東海岸から西海岸へ横断している途中なんだけど、
だんだん教会ばかり見物していてよいのか? という疑問が湧いてくる。教会は明治以後のカトリック
のためにある。潜伏キリシタン、かくれキリシタンの遺産ではない。


そこで世界遺産、春日集落へ急ぐ

西海岸に潜伏したキリシタンが棚田を切り拓いて暮らした春日集落。そこにはオテンペンシャという
御神体が保管されていた。オテンペンシャはポルトガル語のペニテンシアにおそらく「御」がついた
言葉で、ムチをあらわす。苦行に使ったムチらしい。SMクラブっぽい。


春日集落の潜伏キリシタンが拓いた棚田

沖合の中江ノ島はダミアン出口の家族6人とヨハネ坂本の家族5人が斬首されるなど、殉教の島として
潜伏キリシタンの聖地になった。お水取りの行事が行われた島は「サンジュワン様」として崇拝された。
お水取りって奈良東大寺でも行われてるから、やっぱり習合してる。


あれがその「サンジュワン様」(中江ノ島)

世界文化遺産に登録されてからも、上陸することが許されない。「御三体様」なるものが祀られている。
なんだろう「御三体様」って。


ここにあるのは「ガスパル様」

春日集落の対岸にあたる生月島に橋で渡る。橋は昭和63年にできた。それまでは舟だった。生月島には
「ガスパル様」と呼ばれる墓があった。生月島の住民をキリスト教に改宗させた籠手田氏、一部氏が、
領主の松浦氏の方針変更によって棄教を迫られ長崎に逃げた後、キリシタン代官として残った西玄可
(洗礼名ガスパル)が妻子と共に処刑された。その墓が「ガスパル様」で、墓から生えた大きな松は
「ガスパル様の松」と呼ばれたが今はない。小さい墓だ。1609年没。


大正元年にできた山田教会

ガスパル様を慕うこの地域の潜伏キリシタンが明治以後カトリックに改宗して通うようになったのが、
この山田教会。もちろん教会に通わず「かくれキリシタン」としてガスパル様の信仰を守った人々も
いる。ガスパル様のほかにも、すごいキリシタンがいた。


そのキリシタンの名はトマス西六左衛門

ガスパル様と共に処刑された妻子とは、ガスパル西玄可の妻と長男であり、次男の六左衛門は生き残る。
1620年ごろ、六左衛門は修道者となるべくフィリピンのマニラに渡り、ドミニコ会のロザリオ修道院に
入った。ドミニコ会初の日本人司祭になったトマス西は1629年、厳しいキリシタン弾圧が行われている
長崎に上陸し、信者に秘跡を授けた。1634年、病気の同僚神父の看護中に捕縛され、棄教を迫る役人の
水責めや竹串を爪の間に差し込まれるなどの拷問に耐えたが穴吊りの刑で死んだ。


大正6年竣工の田平天主堂

タクシーを走らせて塩俵断崖や大バエ灯台を回り、生月大橋と平戸大橋を渡って田平天主堂へ。現在の
ローマ法王の前のローマ法王がやってきたことがあるという。他の教会とちがって修復していないから
壁が渋い。いいね。


天主堂のすぐ脇にカトリックの墓地があった

立ち入り禁止なので手前から撮影。このブログの終わりは、やっぱり墓地の写真になってしまうようだ。
次回もお楽しみに。

関連記事:  佐世保から黒島
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佐世保から黒島

2020-01-11 | Weblog
佐世保まで来て気がついた。東西南北の端っこを、このブログですべて訪れたのではないだろうか?
日本最西端がこの佐世保なら、最北端は北海道の稚内。


稚内のブログはこちら

最南端は鹿児島の西大山という駅で、ここには東西南北の端っこのパネルがあった。


西大山のブログはこちら

最東端は根室だと思ったらパネルに東根室と書いてある。無人駅だし下車してないけど東根室も
たしかに通った。(根室の手前なのがふしぎ)


根室のブログはこちら

リンクを3つも貼ると、ここに戻れなくなるのではないだろうか? ここは佐世保……日本最西端の
終着駅、佐世保……ビートたけしが若くて元気だった80年代初期に「俺にも佐世保」というギャグを
テレビでやったのを思い出す、佐世保。


駅前にカトリック三浦町教会

佐世保には小学生のとき鉄道旅で来たことがあるけど、スタンプラリーが目的でろくに歩いてない
から何の記憶もない。村上龍の小説『69』は佐世保が舞台だったように思う。米兵がうろついて
危険な雰囲気に描かれていた。いまにして思えば佐世保バーガーやレモンステーキのような肉食と、
でかい甘いもの(シュークリームとか)が名物なのは、アメリカ人の好みか。


なんか見覚えのあるポーズ

桜を見る会で有権者に無銭飲食をふるまう安倍首相のポーズがこれと一緒だった。それで覚えてる。
政治資金規正法違反の疑いと、公職選挙法違反の疑いがあるから忘れられない。


潜伏キリシタン関連遺跡か……

天草から平戸まで広い範囲に広がる潜伏キリシタン関連遺跡のうち、黒島の集落が佐世保から近い
らしい。佐世保バーガーも甘いものも興味ないし、行ってみるか。


松浦鉄道はわずか1両編成だった

有田までずいぶん遠回りして鉄道で結んだ旧国鉄の松浦線、とっくに第三セクターになって松浦鉄道
として運営されていた。初めて乗るかも。本数はJR大村線より、むしろ多い。


人体でいえば毛細血管のような路線

相浦という駅まで30分ぐらい乘って、そこで下りたら無人駅だった。船が出そうなほうへ歩いて、
ニューフェリーくろしまに乗船。


通常は1日3便、片道50分

いかにもすぐ乗れたように見えると思うけど、よく調べないで来てるので2時間待ち。本を読む。
潜伏キリシタンはこの海をきっと手漕ぎの小舟でえいこら渡ったんだろうから、それに比べれば、
ぜんぜんどうってことない。


静かな海だから渡りやすかったろう

大村藩の人口増加に伴って、もともと潜伏キリシタンの多い外海地方などから黒島に移住する人が
増えた。表向き神道や仏教(明治以前は区別がない)を信じるふりをして、というより神道や仏教
のしきたりも守りながら、こっそりマリアやイエスの信仰を捨てず250年を過ごした人たち。


港のそばに黒島神社があった

潜伏キリシタンも全員ここの氏子だった。明治になって信徒発見があちこちで相次いだとき、すぐ
カトリックに改宗した潜伏キリシタンもいれば、かくれキリシタンとして自分たちが250年守った
信仰を続けた人たちもいた。理由のひとつは、カトリックになると氏子でいられなくなるから……
ここの人たちはどうだろう。


改宗した人が通うカトリック教会

世界遺産になったせいか改修工事をしていた。長崎、外海、島原、大村の潜伏キリシタンの遺跡を
訪ね歩いて、以前から興味のあった平戸に行くために佐世保まで来て、黒島に寄った。潜伏してた
わけだから、どこも交通の便が悪い。船の時間に合わせ、急いで佐世保に戻らないと。


教会の墓地に眠るカトリックの人たち

かくれキリシタンの墓はここではなく、どこか別のところ、たぶんお寺のそばにあるんだろうけど
探してる時間がない。それにしても墓地がよく出てくるブログだ……平戸でも墓地は出てくる気が
するのでお楽しみに。


関連記事:  島原の乱
Comments (2)
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ネパール

2020-01-03 | Weblog
もうすぐヒマラヤに日が昇る。半年に一度ぐらい明細がまとめて届いたときに思い出すだけなので忘れてた。
20年前から毎月5000円ネパールの子供に寄付してる。せめてもの罪滅ぼしで、基金に寄付を申し込むときに
子供は選べないが国は選べる。一生行くことがなさそうな国にしようと思い、ネパールとペルーで迷った末
ネパールにした。ペルーには結局2016年に出かけたし、ネパールにも今回うっかり来てしまった。



寄付を受け取った子供に会いに来たわけじゃない。会うことは禁じられている。基金を通じて文通することは
可能だけど、住所も知らないし恩に着せるつもりがないので会いたくない。子供が自活できる年齢になったら
基金がネパールの別の子供を選んで寄付を生活に役立てる。井戸を掘ったり、学費にしたり、そんなことだ。
20年も続けていると子供も3人、4人と変わる。最初の子はランクマー・ウラオンくん。2人目から名前さえ
覚えてない。要するに無関心なのだが、どんな国か見てみようと思って瞬間移動してきた。



成田から香港まで5時間、香港で乗り換え待ち5時間、香港からカトマンズまで5時間。あわせて15時間の
瞬間移動の記憶はない。読書してるか寝てるか飲んでるか。関空からの直行便は8時間だそうだ。成田から
もうじき直行便が開通するというので、つぎに機会あればそっちのほうが楽だろう。1980年代には直行便が
あったらしい。なんでなくなったんだろう。



朝日がヒマラヤ山脈に映える。7000m、8000mを超える山々が冠雪して美しい。その手前の黒っぽいとこに
5000m、6000mを超える山々が連なり、ヨーロッパのアルプス山脈より高いのだが7~8年ほど前から冠雪
しなくなった。地球温暖化のせいでヒマラヤの雪が消えつつある。初めて見るから美しいと思うが、以前に
見たことがある人はショックで言葉を失うらしい。知らないというのは幸せなことだ。



カトマンズ盆地の東の端のほう、ナガルコットという土地でヒマラヤを見てる。2000mを超える高地だから、
日本だったら冬場は寒くて仕方ないはず。防寒の装備を整えてきたのに、ネパールは亜熱帯だから寒くない。
ダウンに似た機能素材で、水に強くて暖かい光電子プリマロフトという素材のジャケットを町に置き忘れたが
フリースかなんか1枚羽織れば大丈夫だ。帰国後、仕事で庄内に行く用事があるが、そっちのほうがよっぽど
寒いんじゃないだろうか。おしんのしんは辛抱のしん。南国ネパールはそういう気候じゃない。



バナナにリンゴ、ミカン、パイナップル、マンゴー、スイカ、ココナツ、メロン……フルーツ国ネパールだ。
ヒマラヤを超えた北のチベットが極寒の地で、ハダカムギをヤクのバターで炒めたものと、ヤクの肉の生食が
伝統的な食べ物だったのと比べるとネパールは食が豊かだ。貧困のイメージと違う。



カレーの具は野菜か豆だが、ダルバートやターリーには鶏、豚、山羊、魚などが添えられる。インド料理店と
して日本の津々浦々で営業してる店の多くはネパール人がやってるそうだから、中国料理に席捲されて特徴が
わかりにくいチベットの食に比べて、ネパールの食は特徴が立ってる。ブロッコリー、カリフラワー、トマト、
キュウリ、ゴーヤ、オクラ、ピーマン、高菜など野菜がいっぱいでやさしい。



豆腐もある。釈迦はネパールのルンビニに生まれて、厳しい仏教(たぶん上座部仏教のこと)は東南アジアへ。
やさしい仏教(たぶん大乗仏教や密教)はチベットや中国や日本へ伝わったとネパールの人たちは思っていて、
自分たちの国がルーツだと考えている。多くの寺院は仏教とヒンズー教が混淆しているが、その様子は日本の
寺や神社と似ている。日本の寺社には仏教と共にヒンズー教が入ってる。外国の侵略を受けてないのも自慢で、
そんなことが誇りなのも日本そっくり。小さな国だがバリエーションが豊富で古い伝統を守る。



全然ちがうようで、どこか似てる。何かというと両手を合わせて挨拶するのも、はにかみがちで控えめなのも。
ところで左手は不浄だから食事はもっぱら右手で行うというのが本当かどうか、ものを食べる人の様子を注目
すると左手をガンガン使って食べてる。どういうことなんだろう?



ネパールでいちばん古いヒンズー教の寺院は3000年前の創建だという話だけど、本当かなあ。釈迦が2500年前
なら、その前に寺院ぐらいあってもおかしくない。しかし、いまあるような寺院じゃないだろう。神社の彫刻
が立派で細かい。つい神社と書いてしまうくらい、ヒンズー教の寺院は日本の神社っぽい。



どこにでも必ずある、リンガと称する男性器と女性器の象徴。これなんかも日本の神社を回るとあちこちに
転がってる。天満宮によくある牛の背中をなでる像なんか、そのまんまヒンズー教の神像だし、日本の古寺
には動物に乗った仏像がよくあってヒンズー教にしか見えない。千手観音も仏教よりヒンズー教だ。



カトマンズの市内にはクマリと呼ばれる生き神の館があって、いまも少女が生活してる。生き神は館の外に
出ないので、ときどき家族や友達が会いに来る。たまに窓から顔を出す。イヤそうな顔をして金色の窓から
こっちを見下ろすクマリを、たまたま見た。運がよかったのかどうか。



写真撮影厳禁なので、他の寺院に飾られていたクマリの写真を。こんな感じのメイクをした少女が館の中で
お世話係にかしずかれて生活している。生き神は現役だけど、王様はいなくなってしまった。カトマンズの
盆地には3つの旧王宮があり、それらは同じ王家の3兄弟の家系だった。18世紀にゴルカ王朝のプリティビ・
ナラヤン・シャハ王が盆地を統一した。



これがその王様。すごいヒゲ。それから王政が続いたが、2001年に王家の虐殺事件が起きた。寄付を始めた
ばかりだから覚えてる。当時の皇太子が銃を乱射して、国王夫妻と長女、次男、末弟など9人を殺害。その
直後に皇太子が頭部に銃弾を受けて重体になっているのが見つかり、重体のまま即位。2日後に逝去して、
事件のとき偶然ポカラという場所にいたギャネンドラ王子が国王になった。怪しい。



鎌倉幕府の3代将軍、実朝を殺害した公暁が殺されて「死人に口なし」となった件に似てる。傀儡にしたい
誰かさんがギャネンドラ王子をポカラに避難させて王家を始末したのではないか。恒例行事ということで、
その場にいたギャネンドラの息子だけ無傷だったのも怪しいとネパール国民の多くが首をかしげた。写真は
濡れ衣を着せられたのではないかと同情を集めている、事件後に重体で即位してすぐ逝去した国王。



旧王宮の回廊には初代から、銃乱射後即位して逝去したこの王までのパネルが飾られていた。難を逃れた
ギャネンドラは王になったのに飾られてなかった。2001年の悲劇のあと、2008年に王政が廃止され旧王宮
は博物館になったが、2015年の地震で倒壊しそうになり博物館は閉鎖。いろいろあったんだな……。



カトマンズ盆地の3つの旧王宮の遺跡や寺院をめぐると、たしかに地震で倒壊して現在修復中のものが多い。
ネパールはおよそ70年か80年おきに大地震に襲われるという。日本と一緒じゃないか。どこまで似てるんだ。
政治的に他国の傀儡というところまで、もしかしたら同じなんじゃないか?



遊覧飛行の飛行機に乗ってヒマラヤを空から見ることにした。寺ばかり見るのに飽きてきた。三浦雄一郎氏は
80代でエベレスト登頂にチャレンジしたが、自分は生涯そんなチャレンジしないだろう。エベレストのことを
現地語でチョモランマというから、なるべくチョモランマと呼べって聞かされたものだが、チョモランマは
中国側(チベット)の呼び方だからネパールでは使わない。ネパールではサガルマタという。



これにしたって黒いところが本来なら冠雪してるはず。グローバル・ウォーミング(地球温暖化)の影響やら
グローバリズム(悪い意味で)の影響が、ネパールにも日本にも押し寄せていることだ。2019年の10月を境に
日本人観光客がめっきり減った。乾季で観光シーズンなのになぜだろう、とネパールの人が首をかしげている
けれど、それは消費税増税のせいだと思ったことだ。地球は丸いなぁ。夕日が沈む。



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