散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

Queen展

2011-11-26 | Weblog
いつでも行けると思いながら、11月24日木曜日のお昼ごろ無性にQueen展が見たくなってしまい、
仕事ほったらかして東京タワー1階の会場まで足を運んだら、その日がフレディ・マーキュリーの
20回目の命日だった。


献花台に花が、Hey!

そういえば1991年の勤労感謝の日、「すべてを明らかにするときがきた」という謎のコメントと共に
フレディの危篤がニュースで報じられ、その後まもなく息を引き取ったと翌朝スポーツ新聞で読んだ。
昨日のことのように覚えてる。


AIDSでやせ細っていた。

そういえば1986年のツアーを最後にライブをやらなくなってたし、アルバムのジャケットもイラストや
加工した写真ばかり。プロモーションビデオの映像で見るフレディはマッチョじゃなくなってきていて、
ヒゲも筋肉も落として、さっぱりしたと思ったら亡くなって……。


それから20年、東京タワーでQueen展。

没後10年の2001年11月23日から12月3日まで、渋谷パルコPART3スクエア7でメモリアル写真展
「フレディのラプソディカルな人生を綴る展覧会」が開かれたとき、その入場料は500円だったけど、
没後20年の今回は遺品が多いせいかファンの足もとを見てるのか、入場料1,800円。


バァーンと大きく出ました!

ロックTなんかも他のバンドと比べてQueenのは高いことが多い。高くても買うお客さんがいるから
それだけ作りにも凝って価格を高めに設定している……と、善意に解釈して中に入る。その前に、
ふと会場の脇のパネルを見ると'70年代に来日して東京タワーに立ち寄ったQueenの4人が。


なぜに、けん玉を……?

みんな髪が長い。いちおう説明しておくと、右から順にギターのブライアン・メイ、ボーカルの
フレディ・マーキュリー、ベースのジョン・ディーコン、ドラムのロジャー・テイラー。


これが1970年代のQueenのステージ衣装だ!

こういうメンバー全員ヒラヒラ衣装の時代があって、そのうちフロントに立つフレディの衣装が
1976年ごろからレオタードやバレエシューズになっていく……。

 
※当時のフレディは、まだマッチョでもヒゲでもなかった

どうらかというと'70年代は耽美系のボーカリストとして日本の女性ファンに受け入れられていた
フレディ・マーキュリーが、'80年代になると鍛えたカラダを誇示するヒゲのマッチョマンに変貌して
みんなをズッコケさせた。しかし、いまやフレディといえばヒゲとマッチョの力強いパフォーマンスが
すっかり浸透して、ほとんどタンクトップのイメージしかない。

 
矢印のタンクトップ(左)と、稲妻のタンクトップ(右)


その他、私物や写真が数多く展示されている

 
ブライアンのギター(左)と、ジョンのベース(右)


ロジャーのパスンパスンって鳴り響くドラム

写真撮影OK!(入場料が高いから当然といえば当然)なので、会場にきている大人のみなさんも
スマホで撮影しまくり。物販も盛況で何より。12月11日(日)まで、やってるよ。


「……カップヌードル♪ 他のじゃヤダもう~!」
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ロックンロール・バザール

2011-11-22 | Weblog
よく通販でロックTシャツを買ってるぼくは、現在うちにロックTが何枚あるか自分でもわからない
にもかかわらず、春とか秋になると新しいロックTをまた買ってしまう。そんなぼくにうってつけの
バザールが、お台場のヴィーナスフォート2Fのいちばん奥で催されている。


QUEENのスタジャンやKISSのスカジャンが!

こういうのは何万円もするので手が出ないから、3千円前後のTシャツや、3百円前後の缶バッジを
中心にじっくり選び、気に入ったやつを透明なビニールの手提げバッグ(店内用)へ。


ワッペンやキーホルダーも!

この催しが毎年、地方を巡回してることは知っている。東京の会場は何年か前まで、池袋東口にある
P'PARCOのいちばん上の階になることが多かった。たぶん、ヴィーナスフォートは初めてだ。案内状を
もらうわけでもないのに、なぜか毎回この催しに吸い寄せられてロックTが増えていく。


ビートルズのサイン入り
おもちゃギター42,000円

原宿にあったロックンロール・ミュージアム(っていう名前のお店)がなくなって、ロックTの入手法が
通販と巡回バザールになった。原宿のお店も通販も巡回バザールも、同じ会社がやっているらしい。
つまりこの会社がなくなったら、ぼくは終わりということだ。


イエローサブマリンの
おもちゃ31,500円

神田にあったシンコーミュージックのロック・グッズ専門店も、原宿のお店より早く消えてなくなった。
高円寺には90年代、ロックTシャツを商うお店が3軒ぐらいあったのに、とっくになくなってしまった。
そこいくとロックンロール・バザールやってる会社はがんばってるよ。


お客さん案外マジメそうな人が多く、グッズを選ぶ表情は真剣そのもの

そういうわけで、毎回ぼくがロックンロール・バザールに吸い寄せられるのはロックTが欲しいのと
もうひとつ、この催しが成功して今後も続いて欲しいからだって、書いてみてわかりました。

11/27(日)まで、やってますよー!
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芦花公園

2011-11-20 | Weblog
いやぁよく降りますねー、きょうは雨が……。この雨の中を歩いて芦花公園まで萩原朔太郎展を
見物にいきました。歩いてといっても、電車に乗りますけどね。


世田谷文学館で12/4までやっております (月曜休館)

生誕125年なのだそうです。年表を眺めていたら、詩集『月に吠える』が世に出たの、31歳のとき。
ちょっと遅咲きかな……? 


『青猫』が37歳、『氷島』が48歳、『猫町』はアラフィフ

自筆原稿や書簡がいっぱい展示されている。29歳のころ「浄罪詩篇ノオト」に詩を書きつけていて、
そのノオトこそ『月に吠える』の原型なんだけど、奇妙に震える文字のつらなりを先入観なく見たら
たぶん「気持ち悪っ」と思うんじゃないかな。髪の毛が絡まるような文字。


雨だからか空いていて、ゆっくり見られる

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、

という例の詩がノオトでは、ますぐなるもの地面に立ち生え、するどき青きもの地面に立ち生え、
……「立ち生え」って書いたあと「立ち」を消してあったり……

なみだたれ、
なみだをたれ、

の部分も、ノオトでは

なみだをたれ、
なみだをたれ、

と書いたあとで前の行の「を」を消してあったりして、じつに興味深い。やっぱり推敲後のほうが
音律が調っている気がするし。

読点(、)の打ち方に関心を持ったの、萩原朔太郎の詩を見てだったような、そうでなかったような、
もう無意識の底に沈んで思い出せないけど、ことばに出会ったころの感じが少し蘇った。


自筆原稿の文字にも、年齢と共に変化が

かすかにけぶる繊毛みたいに不揃いだった文字が、『氷島』のころになると堂々たるペン使いで、
原稿用紙のマスいっぱい安定感ある太字が並ぶ。(詩の印象もずいぶん変わった)

自作朗読コーナーで「沼沢地方」や「乃木坂倶楽部」を本人が読み上げる音声が繰り返し再生
されていた。玉音放送かと思ったくらい棒読みで感情の抑揚がなく、これが萩原朔太郎の声かと
びっくりした。リズムもなく強弱もない。晩年の録音かもしれない。


音楽や写真の展示が目を引いた

詩を作る前に、音楽活動をしたり、立体写真(ステレオスコープ)に凝ったりしていたみたい。
短歌も作っていたし、本のデザインにも興味があったみたいだし、いろいろな表現活動をへて、
アラサーで詩作にたどりつき、アラフィフで散文に重心が移ったかな。

さびしい字面の詩作と、堂々たる字面の散文。……その違いは自筆原稿だからわかることで、
いまみたいにテキストデータだと全然わからないだろうなー。展示する手記がない代わりに、
デジタルで画像や音声や映像がいっぱい残るのかなー。

晩年に録画された棒読みの3D映像が永遠に残ったりしたら悲劇ですね。喜劇か。


併設の喫茶どんぐりで猫カステラをひとのみ
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久能山東照宮

2011-11-16 | Weblog
サンダル履きで日本平を登って、左足のうらのマメがつぶれたのは誤算だった。さらなる誤算は
「日本平のような観光地にいけば、そば、うどん、カレー、その他、なにか昼食がとれるだろう!」
という期待で、たしかに食事処はあったけれども、観光バスで運ばれてきた団体客に占拠されて、
「満員につき個人客おことわり」の状態になっていた。やむをえず、ロープウェイで海側へ下る。


ロープウェイで下りると、久能山東照宮

2010年12月(つまり最近)、国宝に指定されたばかりの久能山東照宮がキンキラキンの葵の紋で
観光客を待ち構えている。なんだろう、この居心地の悪さ。


自慢げに「国宝指定」って書いてある

もともとは信玄が駿府を攻める際、ここに築いたのが久能山城で、のちに家康が駿府入りすると、
平地の駿府城になにかあったら久能山城に立てこもる備えをしていた。家康の没後すぐ、遺体が
この地に運ばれて「久能山東照宮」になり、11か月後に久能山から日光まで再び遺体が移されて
「日光東照宮」ができた。日光ばかり目立ってたから、国宝になってうれしいにちがいない。


だからって、参拝初穂料はちょっと

お寺はいやしくも修行の場だから、ところにより拝観料を求めるのも致し方ないとしなくもないけど、
神社はね。お金を徴収するほうも違和感あるらしく、参拝初穂料なんて造語ひねり出してる。


だいたい中はこんな感じ

お金を払ってまでお参りする気はしないなあ。「やーめた!」と心に決めて、ふと見ると神社の境内に
侍装束の人が……。


威張って下りてきて社務所に入っていく


続々と社務所に入っては、高笑いしてる

撮ってるときは気づかなかったが、お姫様ふうの人のすぐそばにいるのは、もしかして忍者ですか?
ものすごい速さで動いているから肉眼じゃ見えない忍びをカメラがとらえたとか?


久能山からは、駿河湾が見渡せる

山城だったと思いつつ石段を下りていくと、眼下に駿河湾が広がる。海のない甲斐から駿河にきた
信玄の目に、この眺めはどう映ったのだろうか。ちなみに海岸の近くにはビニールハウスが並び、
およそ8kmにわたってイチゴが栽培されている。(通称いちご海岸通り)


たしかに神社というより城という感じ


大軍が押し寄せにくいようになってる


上ってくる敵を討ち滅ぼしやすいかも


ここまで下りてくると海はすぐそこ!

日本平で食いっぱぐれた昼ごはん、ここまで下りてやっと食べることができた。丼もの頼んだら、
お茶がとてもおいしくて印象に残ってる。丼はそうでもなく普通だった。

しずてつジャストライン、という名の路線バスを乗り継いで静岡まで戻り、そこから新幹線ひかりで
ピューッと帰った。


関連記事: 静岡
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草薙神社から日本平へ

2011-11-12 | Weblog
ちびまる子ちゃんと次郎長のまち清水は、そういえばJリーグ清水エスパルスのまちでもあった。
サッカーボールを象った石造物(足もとを照らすライトのようにも見えた)が道端に並んでいるのは
さすがだし、清水港には「エスパルスドリームプラザ」という遊戯施設まである。


海の幸おいしい……!

サッカー興味ないので、早々に居酒屋へ。知らない土地でお酒を飲むのは楽しい。その晩は泊り、
翌朝めざめてから、さてどこへいこうかと考え、とりあえず東海道本線で静岡まで戻ろうとしたら
草薙という駅があった。そう、あの「裸になって何が悪い?」のほうではなく、ヤマトタケルノミコト
が持っていたクサナギノツルギのほうの草薙だろう。


草薙神社があるらしい

駅前の看板で地図を見ると、草薙神社というのが近いらしい。駅を背にまっすぐ歩き、つきあたりで
左に曲がると、最初の信号のところに大きな石の鳥居がある。


ここから参道というわけか

ちょっと歩くと、無人の野菜スタンドがあった。モロヘイヤ、みょうが……って、意表をついた野菜を
どれでも100円で売っている。


参道だから人が通るのか

その先に天皇原公園がある。古事記、日本書紀の世界みたいな名前の公園で、児童が遊んでるかと
思いきや、そこには……


だれもいなかった

ちなみに静岡のあたりを歩いたり、清水のまちを歩いたりしてるときから、お気軽なサンダル履きで
ペタペタ、ペタペタ徘徊してる。草薙神社がもし遠かったらどうしようかと思ったんだけど、わりとすぐ
見つかった。徒歩15分ぐらいかな。(よかった……!)


草薙神社の鳥居、発見


これが草薙神社の縁起らしい

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が狩りをしているとき、野に火を放たれてしまい、とても困った。
叔母の伊勢斎王にもらって腰につけていた叢雲剣(ムラクモノツルギ)で、周囲の草を薙ぎ払った
ので火難を逃れることができた。以後、剣は草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ばれるようになり、
この地に日本武尊を祭神とする草薙神社ができたとか、できなかったとか。


日本武尊の真新しい石像

 
樹齢1000年以上といわれる大楠……の根元

 
お社はこんな感じ……ペタペタとサンダル履きで歩き回ってたら……

おかしなものが目に入った。えーっと、あれは打ち上げ花火というか、ロケット花火の大きなやつ
みたいに思えるけど一体全体なんだろう? 近くに寄って目にも見よう。


やっぱりロケット花火みたいだな~

どうして神社に、こんな大きなロケット花火のようなものが献じられているんだろう? 目の錯覚かな?
いやいや、ちゃんと手で触ることもできるし、下に何か額に入った説明書が。

 
草薙大龍勢といって、これを飛ばす祭があるらしい

龍勢(ロケット花火みたいなやつ)を奉納した建物まである。そっとのぞいて見てみると……あるある。
いろいろ大事に飾ってある。

 

 

どういう神社なんだろう、日本武尊とロケット花火がどうして結びついてしまったんだろう? 毎年、
9月になると打ち上げているようだけど……ぜんぜん知らなかった。


神社の外にこんな案内が

駅まで戻るのもつまらないし、反対のほうへ小一時間ほど歩いていけば日本平のてっぺんにつく
というなら、歩いてみてもいいかな? サンダル履きだけど。


だいたいこういう道のりみたい

赤いラインが遊歩道になっているらしい。地図を持たずに歩いても何とかなりそう。さっそく歩くと、
曲がり角のそばには


朽ち果てた路線バスが野ざらしになってる

 
そして上り坂になる。道端に、みかんがなってる。

サンダルでペタペタ歩いてるせいか、足の裏に違和感がある。構わず歩いていくと、こんな警告が
目に入った。


ずいぶん念入りなこと

この看板があるところで右に曲がる。あんまり歩いてる人がいない。みかんを盗もうと思えば盗める
のは確かだけど、李下に冠を正さず。みかんに近寄りもせず、ペタペタ歩いて通る。


見捨てられた自転車


その先にハイキングコース


それっぽくなってきた?


けっこうキツイじゃん……

サンダル履きで歩くところじゃないと、気づいたときはもう遅かった。後戻りするわけにもいかず、
足の裏にマメができて気持ち悪いのガマンしながら前に進む。

 
なだらかな道もあるんだけど、栗とか落ちてるし

日本平は、日本武尊が立って四方を見渡したことから日本平と呼ばれるそうだけど、とんねるずが
ザ・ベストテンの中継で暴れまくった「雨の西麻布」の印象がいまだに消えない人も多いという。


それにしても左足の裏がおかしい

廃ホテルかなと思って、近寄ってみたらどうもそうではないらしく、これは教派神道か新興宗教の社が
うち捨てられたものだった。


よくわからない説明が昔の写真と一緒に

とうとう左足の裏の豆がつぶれて、熱い液体が流れ出した。血じゃなくて、透明な汁みたいなもの。
とても痛い。びっこをひかないと歩けない。失敗したなあ。日本平をなめてたよ。


なんでこうなるの?

土に埋もれた軽トラックの先を歩くと、ようやく頂が見えた。観光バスが何台も停まり、バイクも
いっぱい並んでる。観光名所なんだ。ふーん……




関連記事:  久能山東照宮
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清水の次郎長

2011-11-07 | Weblog
静岡のあたりを歩き回って気がすんだので、清水に行ってみることにした。JR東海道本線の
上り列車に乗って、3駅。あっというま。清水といえば思い出すのは、次郎長親分。


……おおっ、親分!

と思いきや、駅前はどちらかというと、ちびまる子ちゃん一族が幅を利かせてる。そういえば
あの子って、1970年代の清水の小学生だっけ。


ピーヒャラ、ピーヒャラ

踊るポンポコリン! ピーヒャラリー、お腹がへったよ~♪ という主題歌が自然に口をついて
出てくるから、テレビの力はすごい。次郎長一家が押されるのも、至極当然。


巡回バスまで、ちびまる子ちゃん一族

最近どこいっても、百円の巡回バスがある。ちょうどいいから飛び乗って、次郎長親分の生家を
めざす。清水はどことなく、ホッとする町だな~(なんでだろう)


次郎長通り商店街、なんてわかりやすい!


案内板ぶらさがってるし…


「清水次郎長生家」って書いてあるし…


「見てください」って感じになってるし

ちびまる子ちゃんが1970年代の清水っ子なら、次郎長は1820年代(文政3年生まれ)の清水っ子。
船持ち船頭・高木三右衛門の次男として生まれるが、母の弟で米屋を営む叔父の甲田屋次郎八の
家に養子に出され「長五郎」と命名された。次郎八とこの長五郎がつまって「次郎長」になった。

 
ちびのまる子がつまって、「ちびまる子」になるが如し

生家は見学無料だったが、店番の方とマンツーマンで会って何も買わずに出てくるのも何なので、
次郎長一家の子分たちの名前を染めた手ぬぐいを購入。 (手ぬぐいファンなので)


壁に名札が掛かってるのが次郎長一家

ちっちゃな頃から悪ガキで、9歳で寺子屋を追われたよ。長ドスみたいに尖っては、親類4軒を
たらいまわし。Ah,百両持ち出し米相場。商才があって大儲け。養父がびっくり店任せ、家業に
精出し、繁盛さ~♪ (16歳ごろから)


と・こ・ろ・が! (対岸に次郎長の生家)

旅の僧が、次郎長の人相を見て「25歳の命」と宣託。どうせ死ぬならと、悪ガキ根性が再発して
米屋を姉夫婦に譲り、23歳で渡世人生活に。殺しもやるし、ゆすりたかりもやる大悪党だけど、
維新後に幕臣が官軍に殺されて清水の港にプカプカ浮いているのを見かね、官軍に睨まれても


プカプカ浮いてる遺体を舟で集めて……

「てやんでい!死人に官軍も賊軍もあるかい。仏さんを葬って悪いんなら、この次郎長、どんな
罪でも着るぜ!」と、言ったとか言わなかったとか。 (明治元年、49歳のとき)


その仏さんたちの墓がこちら (壮士墓)

ここは巴川東岸にある、次郎長の生家の土地で、舟で集めて回った土佐衛門さんたちを手厚く
葬った。これに山岡鉄舟(将軍にも天皇にも仕えた剣客で静岡県大参事)が感激し、次郎長も
鉄舟に心服して、明治21年に鉄舟が亡くなるまで県大参事と渡世人の親交が続いたと。


墓には立派な碑も建った


立派な門も建った

明治26年に76歳で大往生するまで、次郎長親分は晩年いろいろ社会貢献したということで、
失業した幕臣に仕事や住居を斡旋したり、富士の裾野を開墾したり、英語塾を開設したり、
蒸気船の航路を清水港に導いたり、汽船宿「末広」を開業したり、がんばった。


汽船宿「末広」 (を移築したもの)

この「末広」も見学無料で、なんだか無料じゃ悪いから、『絵で見る次郎長一代記』という
ブックレットを購入。かなーり参考にして、書いております。


これが英語塾(先生怖っ!)
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登呂遺跡

2011-11-03 | Weblog
安本博という小学校の先生が、軍用地のわきを通りかかったとき、丸木舟の先端のようなものが
土の中から飛び出しているのを見つけた。太平洋戦争をしている昭和18年(1943年)のことで、
「何とか発掘させてほしい」と安本さんは駈け回った。


ちょうどこのあたり

軍用地だからということで、軍関係者はとりあってくれず、警察の叱責を受けて、ついに教職を
追われてしまった。その後、静岡県庁に勤務し、やがて敗戦を迎えると発掘することができた。


それが登呂遺跡

専門家が考えたら、丸木舟なんか地上に飛び出るわけがないから、わざわざ発掘しようだなんて
思わない(と考古学者が本に書いている)。しかし、この古代の丸木舟は軍需工場の建設の際、
整地のために地面に圧力をかけた結果、一方の端が地上に飛び出したのだった。


埋まったものが見つかるのには理由がある

手作業で発掘した結果、1700年ほど前の炭化した米が見つかって、このあたりが弥生時代の遺跡
だということがわかった。いまは住宅に囲まれているけど昔は海の近くだったらしい。


静岡駅から約3km南、海岸線はもっと南

たしか20分に1本ぐらいの間隔で、静岡駅と登呂遺跡の間をバスが結んでるので、思いつきで
散歩に出かけても大丈夫。バスの名前、「しずてつジャストライン」だって。


弥生人の知恵、食糧庫のネズミ返し


ネズミ返しがない建物は、庫ではなく祭殿


お家のほうは竪穴式で、煙は天井から逃げる


中に入るとこんな感じ


けっこういいもの食べている


麻を織って貫頭衣を着る


火おこし体験をやっていた

いまでこそ佐賀の吉野ヶ里遺跡のような、弥生時代の大規模な遺跡が発掘されてもいるけれど、
敗戦後ほどなくして登呂遺跡が発掘されたときは、それはもう大騒ぎだっただろうね。小学校の
歴史の教科書にも、そういえば載っていたし。(最近はどうか知らない)

関連記事: 吉野ヶ里
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