散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

島原の乱

2018-08-19 | Weblog
諫早から島原鉄道でガタゴト1時間、島原についたら昼ごはんでもと思っていたのに駅のまわりに飲食店がない。
しかたなく売店でポテチを買って食べ、駅から見える島原城のほうへ歩く。


島原藩士がたてこもった島原城

10月25日、島原藩の大名・松倉勝家の家臣で有馬村の代官・林兵左衛門らが有馬村の百姓により殺害された。
飢饉がもう何年も続いているのに、ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど出るとばかりに悪代官が年貢を取り立て、
うらみを買って殺された。島原藩士がただちに鎮圧しようと有馬村に向かったが、一揆に押されて島原城に撤退。
百姓キリシタンが数日にわたって城を攻め立てた。


2日後の10月27日には

天草諸島でもキリシタンが蜂起し、下島の富岡城を包囲して攻めたてた。島原半島と天草諸島をあわせて、住民
3万7千人が一揆を起こした。1637年のことで、秀吉以来のキリシタン弾圧で棄教してたにもかかわらず、蜂起の
機会に改めてキリシタンにもどった「立ち返りキリシタン」が多かった。


そして原城にたてこもる

彼らは島原城、富岡城を攻め落とすことができず、海に面した原城に集結して籠城した。11月9日に一揆の報告
を受けた徳川の3代将軍・家光は、ただちに原城の攻略を命じ、12月5日には諸大名による12万4千の討伐軍が
原城に総攻撃を仕掛けた。その原城に行きたいのだけどガイドブックに記載がないので、しかたなく観光協会に
電話をかけて聞いてみた。

「原城に行きたいのですが」
「いまどちらですか?」
「島原城です」
「島鉄バスの、カズサ海水浴場前行きに乗って原城前で下車すると
徒歩10分から15分です」



1時間に1本のバスで原城前へ

たっぷり1時間バスに揺られて、ようやく原城のほうへ。なかなか交通が不便だ。今年、キリシタン関連の遺跡群が
世界遺産に認定されたけど、訪ねてくる人がまだ少ない。


3万7千人 vs 12万4千人の戦場

戦争を知らない子供たちどうし戦っているせいか、島原城も富岡城も落ちなかったし、原城も圧倒的な人数の差が
あるにもかかわらず落ちなかった。


けっこう大きな城だったようだ…

周囲4km、どう見ても島原城より大きい。皇居ランナーが時計と逆まわりに走る江戸城(内堀)が周囲5kmだから、
考えてみると原城なかなか立派。


三の丸の跡に誰かの墓がある

家光に命じられて12万4千の軍を指揮していた板倉重昌とやらが、とうとう正月に銃撃を受けて死亡してしまった。
そのことを記した碑が、三の丸の跡にあった。元旦に死んだらしい。正月4日には幕府老中で知恵伊豆と呼ばれた
松平信綱が指揮官として赴任してきて兵糧攻めをはじめる。


名もなきキリシタンの墓

2月の終わりにやっと鎮圧。まるまる4か月もかかり幕府側の死傷者は8千人とも、1万2千人とも。籠城した側は
皆殺しで、3万7千人だから太平洋戦争の硫黄島の戦死者より多い。女子供も皆殺し。


本丸と二の丸のあいだの空堀に3千人ひそんだ

女子供が隠れた空堀は、いまも当時のまま。落城の翌日から、3日がかりで3千人が斬首された。知恵伊豆の息子
18歳の輝綱の日記に「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と書いてあり、3千人の
女子供みんな喜んで首を斬られた。


天草四朗時貞の像

このあたりの住民は全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、和津佐、串山は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、
三会などは村民の半数が一揆に加担して死んだ。3万7千人プラス8千人ないし1万2千人の死体を片付ける人手も
ないから、白骨の隙間に雑草が繁る島原はそのまま10年間、放置された。10年目に骨を集め、九州の僧を呼び寄せ
数夜にわたり供養した。他国から農民を移住させた。ずっと年貢が上がらなくて武士もこまった。


キリシタンも懲りて潜伏を強めた


関連記事:  大村 (20年後の郡崩れ)
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大村

2018-08-18 | Weblog
キリシタン大名として知られる大村純忠の居城があった長崎県大村市へ、猛暑のまっさかりに行ってきた。気温
37℃を超えるので、なるべく歩きたくないが歩かざるをえない。大村市は長崎空港のあるところ。土地勘がない
から、とりあえずJR大村駅前の県営バスターミナルまで来て涼む。


電飾の広告が裏返しになってる

地方に行くとよくある光景。ちかごろ東京の都心でも裏返しの電飾をみかける。人口が減っていくということは、
広告を出す人がいなくなるってことなのかもしれない。昔はどんな地方都市のバスターミナルでも地元広告が
らんらんと灯されていたのに。


バスを待つ人も少ないターミナル

2番乗り場から12時32分発の野岳入口行き​路線バスに乗り、よく夢に出てくる町を眺める。市民病院で下りて
赤い県営バスを見送る。料金は150円だった。赤字なんだろうな、県営バス。


帰りも市民病院からあれに乗ろう

放虎原小学校​のほうへ歩く。直線距離はたいしたことないのに、ぐるっと自動車教習所の周囲を遠まわりする。
汗だくになって見ず知らずの町をさまよう物好きが、熱中症で行き倒れたらなんと言い訳してよいやら。夢に…
夢に見る町がどんなところか確かめにきた? うわごとにしか聞こえない。


放虎原(ほうこばる)小学校…

虎が放たれている様子はない。夏休みで誰もいない。いまどきは部外者が学校に入ることを固く禁じているかも
しれないので、見覚えのある校庭だけ見渡して立ち去る。どうして懐かしいのだろう? 前世の記憶??


昼休み登るのにちょうどいい木

団地の子供たちは正門からではなく、あの木の向こうの通用口から登下校することを前世の記憶で知っている。
校庭をつっきる勇気はないので、塀の外をまわりこんで懐かしい木のほうへ。


そうそう、ここから出入りしてね

虎もいないのに放虎原。いったいどんな由来があるのかスマホで検索してみたら、由来はともかく近くに処刑場
があると知って炎天下、わざわざ歩いて訪ねてみた。


1日で131人が処刑されたという

これだけ広ければ可能だろう。大村純忠は日本で最初のキリシタン大名だったけど、子孫は棄教して弾圧する
側にまわった。島原の乱(1637-38)のあと大村に潜伏したキリシタンが、およそ20年後の1657年にたくさんバレ
る「郡崩れ」という事件が起きた。打ち首と決まった406人は、大村藩だけでは処置しきれず、付近の藩と手分け
して処刑した。1658年7月27日に、この放虎原殉教地で131人が斬首された。


街道筋の獄門所にさらした跡地

放虎原で処刑された131人の首は塩漬けにして棚板に並べられ、20日間みせしめのため街道筋にさらされた。
どういうわけか既視感があるのは、前世でさらし首になった記憶??? 放虎原から550mほど先。


さらに約1km先の胴塚

首とは別にして、131人の胴を埋めた場所がここだという話もあるけれど、3日後に掘り出して大村湾に捨てた
ともいわれているそうだ。キリシタンは妖術を使うから、首と胴を分けておかないと、つながって生き返ると恐れ
られたのでしょう。ということは当然ながら……


さらに750m離れた首塚

さらし首が終わったあと、131人の首を埋めた首塚が離れたところにあります。炎天下、塚をめぐるのも大変です。
何をしにきたのか、わからなくなってきました。


弾圧した大村藩の居城、玖島城

変わり身の早さが幸いしたのか、元キリシタン大名の大村家はお取り潰しになることもなく、大村は長崎街道の
宿場町として栄えたそうです。本陣(いちばん立派な、参勤交代の大名が宿る場所)は、くじら漁で巨万の富を
得た深澤義太夫勝清の屋敷で、そういえば長崎くじら屋さん多いですね。



まるいのは腸、しろいのは舌

それはともかく、2万7千石の小藩ながら改易されることなく幕末を迎えた大村藩、ここでも変わり身の早さを
見せて戊辰戦争で官軍に味方し、勲功で明治2年に3万石の賞典禄をもらったそうです。そのあと廃藩置県
ですけどね。


海に面した城に船着場があった

長崎港を開いたのも大村純忠だったとか。島原の乱の原城も海に面して、キリシタン大名は海に面した城が好き
なのか。九州の大名は朝鮮に出陣したとき海に囲まれた城に開眼するのか。玖島城には船着場が残っています。
「お船蔵」といって、船が大切なので柱を立てて屋根をつけたようで、柱穴の跡が石垣に開いてます。


なんというわかりやすさ


関連記事:  祈りの岩 (潜伏切支丹遺跡)
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