散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

大観覧車

2022-01-29 | Weblog

自家用バスでレインボーブリッジを渡ると、いつものようにお台場のパレットタウンにある大観覧車が見えてくる。なんの変哲もない、ただ退屈なだけの、永遠につづく日常とばかり思っていた。それが大きな間違いだったんだ。

今年の8月31日で、あの大観覧車は営業を終了して解体されてしまう。パレットタウンごと地上から消え去り、なんらかの施設がその跡地に建てられる。お台場なんか、いくらでも土地が余っていそうなものだけど、日本で3番目に大きい中途半端な観覧車(日本一は大阪、第二位は葛西)は壊される。

そういうことなら、なくなる前に一度ぐらい乗っておいてもいいだろう。執事の運転でパレットタウンに自家用バスを乗りつけ、ひとり下車して観覧車のチケット売り場をさがす。よしんば自分が世間知らずの御曹司であろうとも、そろそろ三十路なので観覧車のチケットぐらい執事のアルフレッドに頼らず購入できねばならない。

先祖代々暮らした屋敷は他人に奪われてしまった。パレットタウンも何か事情があるのだろう。自分には何の関わりもないが、今年3月までで廃墟になるそうだ。どうせなら困った人たちを住まわせるなり、新型コロナで隔離も療養もままならず遺棄されている人々のための臨時公助センターにすればいいのに。

チケット売り場はどこだろう? 22年間ここにあったトヨタのメガウェブは昨年の大晦日に閉鎖されてしまった。ここにしても、ただ放置しておくのはもったいないことだ。東京都の新型コロナ新規感染者数が1万人を超えた日、そして全国の新規感染者数が5万人を超えた日、すなわち手遅れのマンボウとやらが発出された翌日、遊びで観覧車に乗りにきて困ったものを見てしまった。

観覧車の乗り場を見つけた。とくに人が並んでいるわけでもなくて、ひまそうな番人にいくらか金を握らせたらすぐ乗せてくれた。1周するのに約16分かかる。箱の中のアナウンスによると、てっぺんの高さは115mで1999年には世界一だった。ギネスブックにさえ載ったのに、もはや栄光はあとかたもない。

それにしても観覧車というものは、ひとりで乗っても面白くもおかしくもない。これより大きな観覧車がどこにあろうと、ひとりで乗りに出かけたり絶対するもんかと心に決めた約16分間であった。だからといって、執事のアルフレッドと2人で乗るのはもっといやだ。2人きりで乗るのは自家用バスだけで十分だと、下界の様子を見下ろしながら思った。

 

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墓か碑か

2022-01-22 | Weblog

そこらを何となく歩いても、いつしか墓にたどり着きがちな散歩ブログだもの。いっそ初めから墓めがけて歩いたら、墓じゃない何ものかに出くわすかも。そんなわけで谷中墓地をうろつく。明治の毒婦、高橋お傳の墓があった。殺人犯として知られる割になかなか立派だけど、戒名でも何でもなく「高橋お傳の墓」とわかりやすく刻んであるのが怪しい。墓じゃないのでは?

傍を見ると立て札に「高橋お傳 碑」と書いてある。やっぱり墓じゃなかった。これは碑だった。墓地だから当然、誰もが墓だと思う。しかし、そこにお傳はいません。眠ってなんかいません。ちゃんとした墓は別の場所にあるか、どこにあるか不明かもしれない。こういうことはよくあり、あっちにもこっちにも墓があるけど実際はどれも墓じゃなくて碑でしかなく、ひどい場合はただの客寄せで碑を立てては墓と称する向きがある。

オッペケペー節で一世を風靡した明治の興行師、川上音二郎の墓めいたものが高橋お傳の碑の横にあった。これなどは墓でも碑でもなく、川上音二郎の銅像の台座にすぎない。本物の墓は博多の承天寺にあるのに、どうして墓地に銅像を建てる必要があるのだろう。しかも銅像は撤去され、台座だけ客寄せのため(?)残してある。

斜向かいには昭和の「時代劇六大スタア」のひとり、長谷川一夫の小さい墓がある。これは本当の墓で、家族と一緒にごく普通のちいさな墓に静かに眠っている。それなのに墓地が客寄せのため(?)わざわざ「長谷川一夫家の墓」という石碑を立てて、場所を特定しやすくしている。墓には長谷川としか刻んでないから、碑さえなければ静かに眠ることができる。なんだか気の毒でならない。

 

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水戸から出て一ツ橋へ

2022-01-15 | Weblog

東京ドームが水面に映り、やっと巨大なタマゴができた。上半分ではビッグエッグという感じがあまりしない。すぐ隣にある小石川後楽園の回遊式築山泉水庭園の池に姿を映して初めてビッグエッグだし、ビッグエッグを映して初めて後楽園が完成するといっても過言ではない。

徳川御三家のひとつ水戸藩の祖、頼房が江戸の屋敷の庭として造り、二代藩主の光圀が完成させたというが、屋敷をつぶした跡地に出現したドームシティの借景を得るまで約400年もの間この名勝は未完成だった。

後楽園の隣のホテルメトロポリタンエドモントのあたりには、水戸黄門こと光圀の兄の頼重が高松藩祖となって江戸屋敷を構え後楽園のような庭を築いた。本来なら水戸藩を継いで二代藩主になるべき長男が、なぜ弟の光圀に家督を譲って近所で讃岐守になったというと、御三家として格上の尾張と紀州が長男に恵まれる前に水戸の長男として生まれてしまったので、ちょっと差し障りがあるということで後継にせず、高松藩祖として「分家に出して」本家は後に生まれた光圀が継いだらしい。(ちなみに、レールのようなものは飯田橋駅がこっちの方にあった頃の名残)

大名の家督は複雑に入り組んでややこしい。将軍の後継に事欠きそうな事態が生じ、紀州から出た吉宗が八代将軍になったとき、自分の係累だけで御三家の予備のような御三卿を作って将軍職を受け継ぐことのできる家柄とした。一橋家、田安家、清水家がそれで、実際に将軍を出した御三卿は一橋家だけだった。十一代の家斉と、十五代の慶喜。

一橋家は江戸城(いまの皇居)の内堀にかかる一ツ橋に屋敷が面していたから一橋家と呼ばれた。9歳のとき水戸藩から一橋家に養子にきたのが、江戸幕府最後の将軍になった慶喜だった。水戸藩は御三卿の中でも幕府に何か変事があれば皇室に味方する役割の家で、尊王史観の大日本史を編纂したのは光圀の命令だし、そんな家で9歳まで薫陶を受けた慶喜がいざというとき天皇に歯向かえるはずもなく、あっさり大政奉還した。(ちなみに、江戸城の内堀の上に覆いかぶさってるのは首都高)

一橋家の屋敷がどのあたりか実際に見に行ってみると、いま気象庁があるところまで一ツ橋のたもとから広がっていて、かなり大きい。そのど真ん中に現在はこの道路が貫通して、さらに首都高まで張り巡らされ、まったく日本政府の敬意のようなものは感じることができない。石垣なども昭和の東京オリンピックの少し前、首都高の邪魔になる箇所を崩したまま放置してある。

慶喜は大政奉還した後、いまの寛永寺に蟄居謹慎し(もとの寛永寺=いまの上野公園は官軍に攻められて焼け野原になった)、やがて静岡に移り住んで趣味の写真などを楽しみながら過ごし、明治30年には東京の巣鴨に住居を構える。旧幕臣の勝海舟のおかげだろう。明治35年に公爵となり、貴族議員にもなった。大正2年に永眠すると、本人の遺志で将軍家の墓所に入らず、谷中霊園の個人墓に葬られた。歴代将軍は上野の寛永寺に6人、芝の増上寺に6人、日光の東照宮に家康と家光が眠っているから、個人墓に入ったのは最後の征夷大将軍だけ。

これが谷中墓地の徳川慶喜墓所。まわりに徳川家の墓がたくさんあったそうだけど、寛永寺が管理している区画なので徐々に整理されて一般に販売され、ずいぶん少なくなってしまった。わずか百年、経つか経たないうちに維持できなくなった墓所が次々と整理され売りに出される。どうやら現代というのはそういう時代らしい。

とても子沢山だった慶喜の十男、精(くわし)は勝海舟の亡くなる前に12歳で勝家の婿養子になり、やがて海舟の娘の伊代と結婚した。その勝精と伊代の墓が少し離れたところにまだ残っていた。慶喜の子は20人以上あったそうだから、墓所のまわりにその子らや孫らの墓がずいぶんあったようなのに、すでにそれらは多くが他家の墓地になった。残されているのは徳川家だからというよりも、むしろ勝海舟の係累だからのようだった。

 

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隅田川七福神

2022-01-08 | Weblog

正月ひまなので七福神めぐりでもしようと思った。東京だけでも七福神があちこちにあり、うんざりしそうなくらいだが、ちょっと前に隅田川七福神のうち長命寺と三囲神社にたまたま寄ったことがあるので、そこの七福神でもコンプリートしようと考えて調べてみた。

毘沙門天 (多聞寺)

江戸の文化年間(19世紀の初め頃)に始まったという隅田川七福神は、七福神めぐりの元祖と称しているが、どうも谷中の七福神めぐりのほうが先だったらしい。向島百花園の主人の佐原菊塢が福禄寿の陶像を所持していたから、その近く(隅田川東岸)で七福神めぐりができるよう谷中を真似して寺社を選定した。

毘沙門天はヒンズー教の神で多聞寺の本尊がそれだから、隅田川七福神のひとつになった。境内に「映画人ノ墓碑」があった。裏に回って碑文を読むと、故坂斎小一郎(共同映画株式会社創立者)氏の遺族ハツ夫人が墓地資金を提供し、日本映画の民主的発展のために尽した映画仲間を追悼する共同の墓碑を建立したとある。1992年から2021年に亡くなった多くの男女の氏名が刻まれ、なお更新中のようだった。

寿老人 (白鬚神社)

道教の神仙である寿老人が隅田川の東岸にいないので、佐原菊塢とその仲間たちは困ってしまった。目と鼻の先の白鬚神社に目をつけ、白い鬚の神様なら寿老人に通じるものがあるだろうと、寿老人を寿老神と見立てて七福神に加えた。すごい人出で、七福神めぐりの中でも一番人気だった。

かわいい猫の絵馬がある、と思ったら寅だった。もふもふに描きすぎ。

福禄寿 (向島百花園)

百花園は入園料を取るせいか、七福神めぐりの中で最も空いていたように思う。入園料といっても、たしか150円なのに。隅田川七福神は、ここにある福禄寿の陶像から話が広がって出来たのに。福禄寿は道教の神仙で、佐原菊塢が本草の神として崇めていた。

さすが百花園だけあって、春の七草が揃って植えられて紅白の梅の木と共に飾られていた。

弁財天 (長命寺)

弁財天はヒンズー教の水の神。徳川家光が鷹狩で腹痛を起こし、この寺の井戸水で薬を飲んだら治ったことから井戸水が長命水と呼ばれ、寺も長命寺になった。水にちなんで弁財天に選ばれた。裏手の山本やの桜餅が有名で、正岡子規が下宿したとき和歌を詠んだ。いちばん下のリンクに詳細あり。

裏の公園に十月桜が咲いていた。十月桜は秋から春にかけて咲くとか。

布袋尊 (弘福寺)

布袋尊は七福神で唯一実在した人物で、唐代から五代十国の頃の禅僧。大きな布袋をかついでいる、お腹の大きなニコニコした像が黄檗宗(禅宗)の寺には必ずあって、弥勒の化身とされている。

咳の爺婆尊像(翁媼尊)は、ここの風外和尚が修行中に両親を偲んで刻んだもので、風外の像なら風邪にも強かろう、コロナにも強かろうということで「風邪除け」「コロナ封じ」の看板が立っている。

恵比寿神 大國神 (三囲神社)

最後の三囲神社に恵比寿神、大國神の二神が祀られているので、隅田川七福神めぐりはここまで。最初の毘沙門天(多聞寺)から、およそ1里(約4km)なので歩いて回るのにちょうどいい。恵比寿も大國も日本の神で、越後屋(いまの三越)に祀られていたもの。

三越池袋店が潰れたとき、持ってこられたライオン像。

芸人がやってきて、春駒をやった。芸歴20年で毎年やっていると聞いた。長命寺と山本やと三囲神社はこの下のリンクをたどると出てくる。

 

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古墳と国分寺

2022-01-01 | Weblog

あけましておめでとうございます。お正月といえば、そうですね古墳ですね。古墳の上は神社になってることが多いので初詣にも打ってつけです。

というわけで栃木県は小山市にある国史跡摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館にきました。この資料館のすぐそばに摩利支天塚古墳と琵琶塚古墳があるんです。古墳って、いまの人から見れば古墳ですが、できた当時はピカピカの新品ですから古墳だなんていうわけない。なんていったんでしょうか。塚かな? 陵?

これは琵琶塚古墳です。古墳っていろいろな役割があるみたいですが、小山市のような関東にある古墳は「大和政権の重要拠点だよ」「蝦夷じゃなくて大和の土地だよ」というデモンストレーションを兼ねていた。つまりマーキング、犬のおしっこと同じです。

しかし小山市に前方後円墳ができるより早く、もっと北(15kmぐらい)の宇都宮市にマーキングの前方後円墳が作られていた。それなのに小山市へ拠点が南下してきたのは、大和政権の勢力がそれだけ縮小したということ。この近くに後世、下野国分僧寺や下野国分尼寺(ふたつ合わせて下野国分寺)と下野国府が置かれたことからも、こっちのほうがマーキングするには丁度よかったのかも。

琵琶塚古墳から出土した円筒埴輪が資料館に展示されていた。円筒埴輪のほうが形象埴輪(人物埴輪とか動物埴輪とか)より一般的なのだそうだ。

近くの飯塚古墳群から出てきた埴輪も一緒に展示されている。人が集まって何らかの儀式を執り行っているかのような人物埴輪の数々。なにをしているところだろうか。

丸裸になって公園として整備されるという琵琶塚古墳とは対照的に、堆積した土に樹木が生えて森にしか見えない摩利支天塚古墳。これが前方後円墳だと認識するには、イメージの助けが必要になる。後年このあたりを日光街道が通り、道行く人が塚を見ても山としか思えなかったろう。

たまたま摩利支天塚古墳の発掘調査をやっていた。どこからどこまでが墳丘部分に当たるのか検証するためにトレンチという溝を掘って古墳の形状について詳細なデータを得るのだそうだ。

榛名山の噴火に伴う火山灰が堆積しているため墳丘の範囲がわかりにくい。そこでトレンチを掘って元々の墳丘の範囲を特定しようという試みだと、現地説明会で小山市教育委員会の人がメガホンを使ってしゃべるのを聞いた。

摩利支天塚古墳から出てきた円筒埴輪も、こうして資料館に展示されていた。円筒埴輪はいったい何のために作られたのか、何のために穴が空いているのか、さっぱりわからない。5世紀・6世紀の人はいったい、どんなことを考えていたのだろう。

古びた案内図があったので周辺のようすを見る。さほど遠くないところに国分寺跡や国庁跡があるから、ついでに寄っていく。遺跡めぐりは冬のほうが、下草が枯れていて見やすい。夏は暑い上に草ぼうぼうで、どこがどうなってるか大変わかりにくい。

国分寺跡の近くにある、しもつけ風土記の丘資料館で人物埴輪などを見る。関東の人物埴輪は笑顔のものが多い。農閑期に集まってレクリエーションを兼ねた古墳作りをしたので、のんびり笑っている埴輪が多いとか。本当だろうか。

古墳時代は地方分権なので、のどかなところがあったという。律令制が敷かれて中央集権の時代になると、税は重いし貧富の格差は広がるし、現代につながる暗黒時代が飛鳥・奈良・平安……と坂を転がるように悪化していく。

8世紀になると大和政権のマーキングも古墳ではなく国分寺・国分尼寺で試みられるようになった。正統な皇位継承候補だったという粟津王が、藤原氏の謀殺を恐れて越に逃れ、泰澄大師となって軍事拠点を兼ねた寺を続々と作ったから、対抗するために藤原氏が聖武天皇をそそのかして全国に軍事拠点を兼ねた国分寺を作らせた。時期的にそういう見方もできる。

簒奪者のやることは動機が不純だから長く続かず、全国の国分寺・国分尼寺はすぐに廃れて跡形もなくなった。それに対して私度僧がたゆまぬ努力で広めた白山信仰は今も全国に根強く命を保っている。公のやることは私のやることに劣るものらしい。豪族が私財を投じた古墳は今も残っているが、同じような場所に官が命じて作らせた寺は大体このありさま。

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