散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

石仏の里

2018-01-20 | Weblog
JR奈良駅前の観光案内所で「当尾に行きたいんですけど?」と聞いてみたら、急行バスが西口から
出るので500円の一日乗車券で行ったらいいと教えてくれた。なにしろ40年近く前のガイドブックしか
持ってなくて、それにはバスの本数が少ないと書いてあるから、当尾(とうの)に行くのは難しいかと
思ったけれど、案外あっさり行けそう。


20分ちょっとで浄瑠璃寺に到着

バスはざっくり1時間に1本あり、山を越えると京都府らしい方向へ二十数分ゆくと終点の浄瑠璃寺。
あたりは石仏の里と呼ばれていて、歩き回ると石仏がごろごろ……観光客がちらほら。


薮の中三体仏って何?

バスを降りて歩きはじめると木の杭に何か打ち付けてある。薮の中三体仏……なるほど、こういうのを
探しながら行けばそこらに石仏があるのかな。


たしかに三体の石仏があった

正面に地蔵菩薩立像、向かって右に十一面観音立像、左の岩に阿弥陀如来坐像……銘文の弘長2年
は1262年らしいから、鎌倉時代。そのころ当尾あたりに庵を結んで僧が住み、石仏を彫ったようだけど、
いまは石仏だけが残っている。


野菜や果物の直売をやっている


道がいくつもに分かれていく……

あらゆる石仏を見ようと思ったら歩き回るのが大変そう。あくまで散歩にすぎないので、気の向くままに
ふらふらと首切地蔵のほうへ。


どっちが首切地蔵なんだろう?

立札の字を読むと、これも弘長2年のもので首のくびれが深くきれてみえるため首切地蔵といわれるとも、
処刑場にあったから首切地蔵といわれるとも書いてある。首が切れてるわけじゃないのか。


あたご灯籠の前を通って


柿とか眺めながら歩いて


からすの壺二尊を通りかかる

見えている一尊は阿弥陀如来坐像で、康永2年の銘文がある。1343年だから、ちょっと新しい。左の奥に
地蔵菩薩の立像があって、回り込まないと見えない。


物陰の地蔵菩薩立像


この実なんの実……?

足下に供えてある実がへんなかたちをしているので、Facebookでこの実なんの実? と投稿してみたら、
フォックス・フェイスだとコメントが返ってきた。いわれてみれば狐の顔みたい。狐茄子とも角茄子とも。


生き埋めになってる……

これは眠り仏といわれているけど、埋まり仏という感じ? 「この石仏は、長い間土の中で休んでおられ
ます。それで、いつの間にか、眠り仏の名がつきました。安らかにお休みください」と立札に書いてある。
安らかにお休みください?


笑い仏はどういうわけか斜めに

笑い仏と呼ばれてる、阿弥陀如来坐像、観世音菩薩坐像、勢至菩薩坐像……みんな斜めになっている
のは、眠りかけなんだろうか?


弥勒磨崖仏わかりづらい

線刻してあるんだけど風化してわかりにくい。文永11年ということは、1274年。チベット仏教の寺にも
おなじころ、おなじような線刻の仏がつくられていたのを思い出した。

関連記事:  臼杵
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当麻寺

2018-01-13 | Weblog
タイマーズを聴いてたら当麻寺へ行きたくなった。決めたい……燃やしてくれ……冴えない時は……
ぶっ飛んでいたい。タイマーズを口ずさみながら石川淳の「当麻」という中編小説を読みながら、近鉄
に揺られて当麻寺(タイマでら)駅に降り立つ。当然、アレを所持している。


いつでも、どんなときも

不祥事だらけの相撲界の開祖、当麻蹴速(たいまけはや)の碑が道端にあった。飛鳥の山の辺の道沿い
に、野見宿禰(のみのすくね)を祀る社があって、そこの野見宿禰とここの当麻蹴速が昔バーリトゥードで
たたかったのが相撲のルーツといわれてる。おのおの足を高く挙げて蹴り合い、宿禰が蹴速のあばら骨
を踏み折り、さらに腰の骨まで踏み折って勝者になったというから、リモコン暴行で引退した日馬富士より
かわいがりの度が過ぎる。


衰退した豪族、当麻氏の氏寺

タイマーをまきもどすと、当麻寺ができたのは奈良時代よりまえで白鳳9年〈681年)だというけれども、
そんな古いことがちゃんととわかるはずもない。仏教にしても公というより私のものとして徐々に帰依
する豪族がふえた、手さぐり時代のプライベートな寺院らしい。だから由来のわからない遺物が多い。
たとえば……。


日本最古の梵鐘(国宝)

白鳳時代の梵鐘だという。本当だろうか。あやしいけど近づいて見ることはできない。もっと後の時代に
作られたものじゃないかと思ったのは、銅の仏像もない寺に銅の梵鐘があるのは変だから。



つきあたりの曼荼羅堂の中では

仏像ではなく曼荼羅が国宝の厨子に収まっている。厨子は国宝でも曼荼羅は国宝じゃないのはなぜか。
曼荼羅は掛け軸だから掛けっ放しだと傷むので次から次へと複製されて、いま厨子の中にある曼荼羅が
4代目、室町時代のものだから。


撮影禁止なので資料より

伝説では、とある娘(のちに中将姫と仮託される)が蓮の糸で織り出したことになっている曼荼羅だけど
蓮の糸なんかで織物ができるだろうか。そう思った大宅一郎という人が綿密にこの曼荼羅のことを調べ、
どこにも蓮は使われておらず、絹で織られていると明らかにした。それでも当麻寺はこの「蓮糸曼荼羅」
が人気で、源頼朝が寄進した螺鈿の須弥壇が厨子の下に置かれ、須弥壇も国宝になっている。


元々あっちの金堂が根本の御堂

本堂より古い金堂の中に、元々の本尊である国宝の弥勒菩薩像がある。これも撮影禁止なので資料から
転用するけれど、銅像かな? 木像かな? と思ったら、なんと土像だった。


粘土作りの最古の仏像

関連記事:  山の辺の道
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奈良井宿

2018-01-06 | Weblog
この橋は12年前にも渡ったことがある。そのときは夏だった。中山道の奈良井宿にある木曽の大橋。
冬はどうかなと思ったら、やっぱり雪つもってた。


木曽路はすべて山の中である

島崎藤村は小説『夜明け前』にこう書いた。 あるところは 岨づたいに行く崖の道であり、あるところは
数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道
はこの深い森林地帯を貫いていた。


12年前もそうだったし今もそう

贄川宿から馬籠宿まで歩いた12年前の夏、『夜明け前』の描写どおりに道が通り、トラックが往来し、
鉄道が並行しているのを見て面白いなあと思った。車道の隅っこか農道を歩くので、街道らしい景色
が珍しかった。この奈良井には宿泊した思い出がある。


インスタ映えするから?

2005年なのでインスタなかったし、FBもツイッターもなかった。黙々と中山道を歩く日々。ブログは
前の年ぐらいから流行りだしたけど、雑誌のウォーキング記事にする散歩だったから上げなかった。
当時かえうたぐらいしかブログに上げてなかったし。


木曽路はすべて雪の中である

うっかりすると足がすべるので、しっかり踏みしめないといけない。吐く息が白い。氷点下3度だった。
真昼間でこれだから、真夜中はさぞかし冷えるだろう。12年前に泊まった宿を見かけたけど、今日は
やめておこうと思った。


こういう水場が上中下3か所ある

夏に飲んだときは冷たくておいしかった。甘露だと思った。冬に飲んだら冷たすぎて体が凍てついた。
氷水など飲むのではなかった。


危険! 落雪事故防止の為…

宿場のいちばん上にある神社に絵馬でも見ようと立ち寄ったら、縄が張ってあって自由に歩けない。
落雪事故防止の為って、木の上から雪が落ちる?


屋根雪に注意

木じゃなくて屋根から雪が滑り落ちてくる! それは怖ろしい。近づくまい。絵馬を見るのもやめよう。
そもそも絵馬掛けありそうにない。12年前はこの先の峠を越えてつぎの宿場をめざしたものだけど、
ちょっとそういう気になれないので宿場の外れで引き返す。


あの階段の先はちょっとな……
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