この川にカッパがいるというわけか。どれどれ、と川沿いを歩いてすぐカッパに出会うとは思えない
けれども、とにかく川沿いを歩いてみる。東武東上線の柳瀬川駅で降りてすぐ、駅前を流れる柳瀬川。
ここは行政区分でいうと埼玉県志木市にあたる。埼玉は広大だな、バトー。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/03/9a7b4498e26f2d879b9ba0e2e7a6d0c3.jpg)
あれがカッパだろうか?
どちらかといえばカッパより人間に近く見えるが、遠いので何ともいえない。昔、柳瀬川のカッパは
人間をよく襲ったという。人間だけじゃなく馬もよく襲った。人権のない時代は人間より馬が大事に
されたようだから、馬を襲うカッパはけしからん。人間ならまだしも、ということになっただろう。
それで柳瀬川のカッパは有名なのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/3b/7ae8a870c7fa7b7b0b4aac76945585ae.jpg)
こんなところに貝塚がある……
この貝塚は城山貝塚といって、柳瀬川の低地を臨む台地の突端に位置し、標高およそ10m。低地との
比高差は約4mで、周辺から縄文時代前期の諸磯式期の住居跡(5000年ほど前)が発見されている。
そう立札に書いてあるのを読んで、諸磯式期って何だろうと思い、検索してみたら土器の形状の分類
のようだった。三浦の諸磯貝塚で見つかった縄文土器に近いものが発掘されたのかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/52/81870d6fd595f01859af0621f6010591.jpg)
馬頭観音の文字塔にぶつかった
街道沿いに建てられた石仏を示す文字塔で、荷物の運搬に使われた馬の供養のために建てられたもの
と立札に書いてある。カッパに襲われた馬というのは、その中の1頭だったかもしれない。妖怪伝説
にも当時の世相が反映されているものだ。ある日、寺の小僧が川で馬を水浴びさせに行くと、突然、
馬が嘶いて飛び出し、馬小屋に戻ってしまったとか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/08/5d10fe3fe7c4bc2beee275d26dfbd568.jpg)
塔の脇を見ると古そうな寺がある
あの寺の小僧が連れた馬だろうか。逃げ帰って興奮してる馬を追いかけて小僧が調べてみると、馬の
しっぽをつかんでるカッパがいた。小僧が騒いだのか、街道の人々が集まってカッパを懲らしめよう
退治しようと盛り上がったところへ和尚がのっそり現れた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/c9/235a76db8e4b7d27588238b4447c342b.jpg)
こっちですと猫が道案内を
許しを乞うカッパを和尚が助けると、翌朝、和尚の寝ている枕元にフナが2匹置いてあり、それから
柳瀬川にカッパが現れることはなくなった……なんだもう現れないのか。知ってたら来なかったのに。
猫についていくとカッパの像があった。フナか何か捧げ持っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/dc/f8f8a6e03cff5491d7a280976b3b2f2a.jpg)
新しいものに見えるけれど……
カッパの後ろに書いてある薄れた文字を読んでみると「この河童の像は文化6年(1809年に)今から
約200年前に刊行されました『寓意草』に最初に紹介され、さらに大正6年には日本民俗学の創始者
柳田國男氏の『山島民譚集』の中にもその概略が紹介されて全国的に有名になった」云々と、文脈が
やや乱れた記述の後に「後世に伝えるために中野の有志が浄財を出し合い河童像を製作して文殊堂前
に設立」と書いてあって、像が文化6年より前にできたか近年できたか不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/a4/027d648dd374f8baeb55ba19623bd2ea.jpg)
平成4年に奉納した立札のようだし
おそらく檀家が平成4年に河童像をここに設置して、逸話が古いものであることを記す際に筆が滑り
像まで文化6年に最初に紹介されたかのような文脈になってしまったのだ。よく読まないと間違える
ところだった、危ない危ない。
関連記事: 多治見の河童
けれども、とにかく川沿いを歩いてみる。東武東上線の柳瀬川駅で降りてすぐ、駅前を流れる柳瀬川。
ここは行政区分でいうと埼玉県志木市にあたる。埼玉は広大だな、バトー。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/03/9a7b4498e26f2d879b9ba0e2e7a6d0c3.jpg)
あれがカッパだろうか?
どちらかといえばカッパより人間に近く見えるが、遠いので何ともいえない。昔、柳瀬川のカッパは
人間をよく襲ったという。人間だけじゃなく馬もよく襲った。人権のない時代は人間より馬が大事に
されたようだから、馬を襲うカッパはけしからん。人間ならまだしも、ということになっただろう。
それで柳瀬川のカッパは有名なのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/3b/7ae8a870c7fa7b7b0b4aac76945585ae.jpg)
こんなところに貝塚がある……
この貝塚は城山貝塚といって、柳瀬川の低地を臨む台地の突端に位置し、標高およそ10m。低地との
比高差は約4mで、周辺から縄文時代前期の諸磯式期の住居跡(5000年ほど前)が発見されている。
そう立札に書いてあるのを読んで、諸磯式期って何だろうと思い、検索してみたら土器の形状の分類
のようだった。三浦の諸磯貝塚で見つかった縄文土器に近いものが発掘されたのかな。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/52/81870d6fd595f01859af0621f6010591.jpg)
馬頭観音の文字塔にぶつかった
街道沿いに建てられた石仏を示す文字塔で、荷物の運搬に使われた馬の供養のために建てられたもの
と立札に書いてある。カッパに襲われた馬というのは、その中の1頭だったかもしれない。妖怪伝説
にも当時の世相が反映されているものだ。ある日、寺の小僧が川で馬を水浴びさせに行くと、突然、
馬が嘶いて飛び出し、馬小屋に戻ってしまったとか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/08/5d10fe3fe7c4bc2beee275d26dfbd568.jpg)
塔の脇を見ると古そうな寺がある
あの寺の小僧が連れた馬だろうか。逃げ帰って興奮してる馬を追いかけて小僧が調べてみると、馬の
しっぽをつかんでるカッパがいた。小僧が騒いだのか、街道の人々が集まってカッパを懲らしめよう
退治しようと盛り上がったところへ和尚がのっそり現れた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/c9/235a76db8e4b7d27588238b4447c342b.jpg)
こっちですと猫が道案内を
許しを乞うカッパを和尚が助けると、翌朝、和尚の寝ている枕元にフナが2匹置いてあり、それから
柳瀬川にカッパが現れることはなくなった……なんだもう現れないのか。知ってたら来なかったのに。
猫についていくとカッパの像があった。フナか何か捧げ持っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/dc/f8f8a6e03cff5491d7a280976b3b2f2a.jpg)
新しいものに見えるけれど……
カッパの後ろに書いてある薄れた文字を読んでみると「この河童の像は文化6年(1809年に)今から
約200年前に刊行されました『寓意草』に最初に紹介され、さらに大正6年には日本民俗学の創始者
柳田國男氏の『山島民譚集』の中にもその概略が紹介されて全国的に有名になった」云々と、文脈が
やや乱れた記述の後に「後世に伝えるために中野の有志が浄財を出し合い河童像を製作して文殊堂前
に設立」と書いてあって、像が文化6年より前にできたか近年できたか不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/a4/027d648dd374f8baeb55ba19623bd2ea.jpg)
平成4年に奉納した立札のようだし
おそらく檀家が平成4年に河童像をここに設置して、逸話が古いものであることを記す際に筆が滑り
像まで文化6年に最初に紹介されたかのような文脈になってしまったのだ。よく読まないと間違える
ところだった、危ない危ない。
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