散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

柳瀬川

2020-10-24 | Weblog
この川にカッパがいるというわけか。どれどれ、と川沿いを歩いてすぐカッパに出会うとは思えない
けれども、とにかく川沿いを歩いてみる。東武東上線の柳瀬川駅で降りてすぐ、駅前を流れる柳瀬川。
ここは行政区分でいうと埼玉県志木市にあたる。埼玉は広大だな、バトー。


あれがカッパだろうか?

どちらかといえばカッパより人間に近く見えるが、遠いので何ともいえない。昔、柳瀬川のカッパは
人間をよく襲ったという。人間だけじゃなく馬もよく襲った。人権のない時代は人間より馬が大事に
されたようだから、馬を襲うカッパはけしからん。人間ならまだしも、ということになっただろう。
それで柳瀬川のカッパは有名なのだ。


こんなところに貝塚がある……

この貝塚は城山貝塚といって、柳瀬川の低地を臨む台地の突端に位置し、標高およそ10m。低地との
比高差は約4mで、周辺から縄文時代前期の諸磯式期の住居跡(5000年ほど前)が発見されている。
そう立札に書いてあるのを読んで、諸磯式期って何だろうと思い、検索してみたら土器の形状の分類
のようだった。三浦の諸磯貝塚で見つかった縄文土器に近いものが発掘されたのかな。


馬頭観音の文字塔にぶつかった

街道沿いに建てられた石仏を示す文字塔で、荷物の運搬に使われた馬の供養のために建てられたもの
と立札に書いてある。カッパに襲われた馬というのは、その中の1頭だったかもしれない。妖怪伝説
にも当時の世相が反映されているものだ。ある日、寺の小僧が川で馬を水浴びさせに行くと、突然、
馬が嘶いて飛び出し、馬小屋に戻ってしまったとか。


塔の脇を見ると古そうな寺がある

あの寺の小僧が連れた馬だろうか。逃げ帰って興奮してる馬を追いかけて小僧が調べてみると、馬の
しっぽをつかんでるカッパがいた。小僧が騒いだのか、街道の人々が集まってカッパを懲らしめよう
退治しようと盛り上がったところへ和尚がのっそり現れた。


こっちですと猫が道案内を

許しを乞うカッパを和尚が助けると、翌朝、和尚の寝ている枕元にフナが2匹置いてあり、それから
柳瀬川にカッパが現れることはなくなった……なんだもう現れないのか。知ってたら来なかったのに。
猫についていくとカッパの像があった。フナか何か捧げ持っている。


新しいものに見えるけれど……

カッパの後ろに書いてある薄れた文字を読んでみると「この河童の像は文化6年(1809年に)今から
約200年前に刊行されました『寓意草』に最初に紹介され、さらに大正6年には日本民俗学の創始者
柳田國男氏の『山島民譚集』の中にもその概略が紹介されて全国的に有名になった」云々と、文脈が
やや乱れた記述の後に「後世に伝えるために中野の有志が浄財を出し合い河童像を製作して文殊堂前
に設立」と書いてあって、像が文化6年より前にできたか近年できたか不明。


平成4年に奉納した立札のようだし


おそらく檀家が平成4年に河童像をここに設置して、逸話が古いものであることを記す際に筆が滑り
像まで文化6年に最初に紹介されたかのような文脈になってしまったのだ。よく読まないと間違える
ところだった、危ない危ない。

関連記事:   多治見の河童
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慈恩寺

2020-10-10 | Weblog
左沢線(あてらざわせん)という盲腸線の途中の駅、寒河江で1時間あまり次の列車を待つしかなくなった。
本でも読んで時間つぶす。乗り鉄しにきたわけじゃなく、羽前高松にある寺に用がある。山形から寒河江まで
きたら左沢ゆきの乗り継ぎ列車が待ってるかと思ったのに、あてがはずれた。



ろくに調べもせずに旅するのが好きだから、1時間から1時間半待ちぐらいは覚悟してるといえなくもない。
こんなこともあろうかと、おにぎりとお茶を取り出して昼ごはんを済ませる。羽前高松の到着は昼すぎ。
無人駅の待合室で慈恩寺観光案内図をみた。郵便局のわきを通って橋を渡り、山を登れば慈恩寺だ。
これなら間違えようがない。ろくに調べずにきて正解だった。



盲腸線で山形まで戻るには、13時の列車はムリだから16時22分までこのあたりにいるしかないようだ。
ほぼ4時間……14時台、15時台の列車で帰れたらよかったのに、きっと寒河江で折り返しちゃうんだろう。



どういうわけでこの盲腸線ができたのか、さっぱりわからないけれど、大正11年(1922)に左沢線の
寒河江・左沢間が開通したときのことが待合室に掲示されていた。羽前高松駅を経由するか、それとも
寒河江と左沢を直に結ぶか大問題になったが、高松村の工藤八之助や國井門三郎ら大地主の政治力で
羽前高松を経由するルートが開通したと書いてある。そして百年後さびれた無人駅となった。



無人駅から徒歩20分の慈恩寺で、いま非公開の平安仏を拝観することができると聞いてやってきた。
山形くんだり(失敬)になぜ平安仏があるかというと、藤原摂関家の荘園を兼ねた寺だったので
そういうものがあり、都は焼けたが田舎は焼けなかったので残っているというわけだ。



もちろんGoToトラベルキャンペーンなんぞ利用せずに、徒手空拳でやってきた。二階氏らの中抜きが
気持ち悪くて使う気になれないのだった。ああ、また急坂を登らねばならない。



寺なのに瓦じゃなくて茅葺きだ。それにしても休日に古寺で秘仏を拝観するように自分がなるとは
もう完全にシニアじゃないか。案の定、他に訪ねてきてる人は足腰が弱った老人ばかり。自分も
あと10年もすれば同じようになるのだろうか。端から見れば一緒なのか? 諸行無常だから
すぐにポックリいったりして。



そうじゃないかと思ったけど「堂内撮影禁止」だから秘仏の写真はない。目にしっかり焼きつける。
とはいえ2時間も3時間も集中力は持続しないので、拝観はそこそこで切り上げて元きた道を後戻りし、
AEONマックスバリュでおやつを買って休憩コーナーで列車の時間を待つ。WAONポイント5倍デー
の音楽を、すっかり覚えてしまった。日本中どこへ行っても同じだと悟った。

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新しき村へ

2020-10-01 | Weblog
武州長瀬駅の商店街を過ぎて左へ進み、住宅地を抜けるとそこに「新しき村」があると聞いたので、その通り
1kmあまり歩いて新興住宅地を抜けてきたのに「新しき村」らしき集落がない。こんな踏み分け道のような
ところを歩くとは聞いてないんだけど、このまま進んで大丈夫なんだろうか。



たったひとりでボーッと歩いてると草の陰からマムシでも飛び出してきて噛まれそうだから怖い。あと600m
で「新しき村」という矢印を見てから、どれくらい歩いたろうか。この先に人が住んでるような気がしない。
それでも一応、この道のほかに道がないから、この道をいく。



踏切に出てしまった。なんかおかしい。東武越生線とJR八高線のあいだに挟まれて、どちらの駅からも
25分か30分ぐらい歩くところに「新しき村」があるはずなので、線路を越えちゃいけないんだ。
しかし戻ってどうなる。



いちおう何の踏切か確かめると、やはりJR八高線の踏切で、なまえは東原踏切というらしい。
いざとなったらこいつをググれば遭難しても現在地がだいたいわかるだろう。
電波がないということは、いまのご時世さすがにあるまい。もっとも、
たまに電池切れはあるが。



そのまま昼なお暗い森の中を進むと、幹線道路みたいなのに出た。こんなものがあるということは
道に迷ったと思うしかない。あまり気が進まないけど文明の利器、スマホで「新しき村」を検索して、
現在位置からの経路案内を表示してみる。



この国道30号をちょっと左に進んだところから、八高線のほうへ向きを変えて線路をつっきると
「新しき村」があるようだ。あと900mもあるのか、行くのはいいけど帰るのが面倒くさい。
距離もさることながらマムシやイノシシに噛まれそうだから。



武者小路実篤が100年ちょっと前たぶんトルストイに傾倒して始めた理想郷「新しき村」……
おそらく限界集落になってるその場所が商店街を抜けたところにあるなら寄って行こうと思った
のに、ずいぶん寂しいところを彷徨い歩いたものだ。ようやく見えてきた木の柱には
「この道より我を生かす道なしこの道を道を歩く」
と実篤節が炸裂。その道がどの道かわからなくて、こっちは苦労したよ。



「この門に入るものは自己と他人の」
「生命を尊重しなければならない」

と、こんどは右左に実篤節が炸裂してる。きっとこれが「新しき村」の入口なんだろう。
よかった、遭難しなくて。



路面に黄色い文字で「新しき村」と書いてあるから間違いない。1917年に宮崎県で始まった
「新しき村」だけど、宮崎の農地がほとんどダム工事で水没することになって、1938年にここ
埼玉県の入間郡に新しい「新しき村」ができた。宮崎でスタートして今年で103年になる。



「この先通りぬけできません」
ということは、自分が歩いてきた道はあながち間違いではなかったのかもしれない。説教が
書いてある木の柱の間を通らないと「新しき村」に入れないなら、そういうことになる。



「新しき村」60周年を記念して計画され、1980年にオープンした「新しき村美術館」を
見物することにする。なぜなら、いまも村で生活してる10名ぐらいの人の住居をあまり物珍しげに
じろじろ見るのも気が引けるからだ。美術館なら大丈夫だろうと思ったんだが、これはどうも
民家にしか見えなくて入っていいかどうか迷う。ちなみに入館料は200円……



同じように感じる人が多いらしく、ガラガラ……と開ける戸のガラスに、「入館出来ます」と
いかにもお年寄りが手書きしたような貼り紙がついていた。いいんだな、入館しても。
ガラガラ、ガラガラガラ……(チリン、チリンと鈴が鳴る)



のそのそと、番をしてるお年寄りが奥から出てきたので、こんにちはといって200円差し出すと
ゆっくりした動作でチケットと美術館の案内をくれる。これもくださいと武者小路実篤の小冊子を
指さすと、ああ……と声を喉の奥からしぼり出して『新しき村について』という印刷物を棚から
取り出して300円……とうめく。開館して40年も経てば、当然こうなる。



平成20年11月1日発行のパンフレット『新しき村について』は、武者小路実篤が折にふれて記した
新しき村についての文章をまとめて編んだもので、それを読むと新しき村がいかに理解されなかったか、
かえってよくわかる。ユートピアは現実社会で理解されない。



武者小路実篤はいう。新しき村は空想的社会主義ではないと。新しき村に来るものは数われるとか、
来ないものは救われないとか、そういう言い方をはっきりするし、トルストイの影響を強く受けたなら
原始キリスト教徒の暮らしに近いのかなと思ってパンフを読んでも、そういう記述は出てこない。



生活のために、したくないことをして生きるのは不幸だから、自他共にしたいことをして生きる。
自他共生ができるのは新しき村だけで、村の外では互いに縛り合う生き方しか出来ないと、
武者小路実篤は独特な文体で断言する。それを読んでいると、かえって相互監視が
強くなりそうな気がして、ちょっと息苦しい。



ソーラー発電の設備とかあるんだな……村で作った竹炭とか、梅サワーとか、農産物を売っている
公会堂に村の地図が掲げてあった。公会堂の中に、おじいさん1人、おばあさん2人、計2人の
村人を確認した。美術館の番のおじいさんと合わせて、3人の村人を目視した。
きっとこっちのことも注視されていることだろう。



白い点線に沿って帰れば、ここまで来た道を引き返さなくても東武越生線の武州長瀬駅に行けそうだ。
それにしても、ぐるっと回り道する必要がある。



「新しき村」を抜けた後の道も、なんだかグニャグニャしてわかりにくい。迷わず帰れる自信ない。
いちおうスマホで写真を撮って、この地図を頼りに歩くことにする。



また薄暗い森の中を通ることになった。どうなってるんだ。もしや人を寄せ付けないつもりなのか。
手描きの地図はあてにならず、またしても道に迷って、帰れなくなってしまった。
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