散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

はじめての熊野古道

2023-10-28 | Weblog

もともと修験者たちの修行場だったんだろう。陸の孤島というべき熊野(その名の由来も隅の野らしい)が穢れを祓う霊場として、俗塵まみれの上流階級から憧憬されるに至ったのは平安末期のいわゆる院政のころ。天皇が退位して藤原摂関家のしがらみを断ち切り、上皇として実権を掌握した時代だった。それはもう、生きているだけで穢れる実感ものすごく、祓わずにいられなくて上皇が大勢のお供を従えて熊野詣でを繰り返した。その経路が熊野道で、熊野詣でが廃れると道も廃れたが、近年になって「ここがそうかな?」と見当つけて部分的に整備されたのが熊野古道。

治天の君と敬われる上皇(院)の権力の源というべき始祖・神武天皇が九州から畿内へ東征するとき、激しい抵抗にあって回り道したのが現在の熊野だった。そのとき、3本足の八咫烏が神武天皇の道案内をつとめ、おかげで畿内に攻め込むことができたのだから、皇室は熊野をおろそかにできない。だから熊野本宮を敬い、京から約半月かけて本宮大社に詣で、そのあと速玉大社と那智大社に詣でる熊野三山めぐりを果たしてから、また約半月かけて京に戻る熊野詣でに熱心だった。

800年も昔の参詣道がそのまま残っているはずもない。皇室の主な尊崇が伊勢神宮へ移ると熊野詣では廃れ、道も多く荒れ果てた。時代が下って江戸期に、庶民がお伊勢参りをするようになると、ついでに熊野に参る人も増え、京から熊野大社への熊野道(紀伊路・中辺路・大辺路)とは別に、伊勢から熊野大社をめざす熊野道(伊勢路)も踏み固められた。他に高野山から熊野大社に至る小辺路と合わせて、紀伊路・中辺路・大辺路・小辺路・伊勢路の5ルートを熊野道(熊野古道)という。

とてもじゃないが全ルート踏破などできないので、要所だけ歩くべくバス移動する。ちなみに院政期の熊野詣では京から淀川を舟で下り、大阪湾の手前で陸に上がって、輿で紀伊半島をひたすら南下する。窪津王子、坂口王子、郡戸王子、上野王子、阿倍野王子(たぶん、あべのハルカスの近く)など、王子と呼ばれる道標をたどって熊野をめざす。王子は数が多いので、九十九王子と総称された。

おおむね紀伊路をバスで南下し、中辺路と大辺路に分岐する交通の要衝、「口熊野」ともいう現在の田辺のまちを少し歩く。ここにはJR紀伊本線の紀伊田辺駅で下車しても訪れることができる。田辺の自慢は合気道の開祖、植芝盛平で、熊野古道に面した植芝盛平翁生誕の地をまず見物。といっても家屋はなく、空地に石碑があるだけ。このあたりは植芝姓の家が多く、植芝の名を屋号にした店なども散見された。

口熊野というだけあって交通の要衝の田辺は史跡が多く、近世の著名人(相撲取りや商人など)の墓も多い。それらを見物して歩くうちに雨が降り出した。レインコートを着用して町歩きを続ける。紀伊路がここで終わり、中辺路と大辺路に分かれる。中辺路が院政期に流行した熊野詣でのメインルートで概ね山歩き。大辺路は紀伊半島の海沿いルートで、江戸期の文人墨客は風流がって大辺路を遠回りした。

山歩きの中辺路と海沿いの大辺路の分岐点に近い、出立王子の跡には鳥居もあれば祠も碑もある。これだけあれば見過ごさないけど、九十九王子と呼ばれる道標には何も痕跡めいたものがなく見過ごしがちな王子もある。およそ百年前(たしか大正11年)に埋め立てられる前は、出立王子のすぐそばが海岸線であり、大辺路は海岸線に沿い中辺路は山へ入って行った。上皇は海辺で潮垢離をし、身を清めてから中辺路を進んだという。潮垢離がどんな段取りの儀式だったか、記録がないのでわからない。

一説によると田辺は武蔵坊弁慶の故郷だという。弁慶は実在しない説が有力なので、田辺に伝わる伝説も後世の創作かもしれないが、熊野詣でを完遂する脚力のない人が熊野詣でと同じご利益を得ることができる神社がこの地にあり、弁慶の父が熊野別当を務めていた。院政期の少し後、源平合戦の折には熊野別当の司る熊野水軍の去就が源平の明暗を分けたが、どちらに就くか判断を誤れば死活問題になるので弁慶の父は紅白の鶏を闘わせて占い、紅なら平氏、白なら源氏に水軍を加勢させることにした。そのときの様子が銅像になって、闘雞神社に設置されていた。

白い鶏が紅い鶏に勝ったので、熊野水軍は源氏に味方することになり、結果として平氏は海戦に敗れて滅んだ。三種の神器も海に沈んだ。そんな逸話に因んで紅白の闘鶏が社にデザインしてあった。紅白歌合戦も、源平の合戦に端を発しているので、男女で勝敗を競うのは伝統を歪めて差別を助長する近代の忌まわしき趣向である。そんなメッセージを紅白の闘鶏が発信しているかどうかは、資料がないのでわからない。

さて、熊野本宮に詣でるのと同じご利益が得られるという世界遺産の闘雞神社は、本宮と同じ社殿の配置になっており、そこには本宮と同じ十二柱の神が祀られている。だから、よく眺めておいた。ところが、中辺路を通って辿り着いた本宮の社殿はここと様子が違っており、一見すると、四柱の神しか祀られていなかった。なぜだろう。それについては熊野本宮に到着してから、明治にかの地を襲った災難の詳細と一緒に書き留めておこう。

中辺路と大辺路の分岐点に、町人でも読めそうな道標が立ったのは江戸期だろうか。熊野に至るメインルートの中辺路について「左くまのみち」かなんか大きく彫ってあり、その下に小さく「すくは大へち(まっすぐは大辺路)」とある。中辺路を通って熊野本宮をめざすのは明日にして、そこらの宿に泊まる。繰り返すが、大辺路を行くと風光明媚な海沿いを歩くことになり、遠回りながら風情があるので江戸期には大辺路もそこそこ人気があった。

一例を挙げるなら、海沿いの大辺路を行くと道中こんな奇観も目にすることができたから、参詣ついでに物見遊山する近世人が喜ぶのも理解できる。熊野詣での最盛期、末法と信じられた平安の院政期には、かえって信心深い人が多かったので明媚な風光なんか眺めるよりも中辺路の山道をひたすら(輿に乗って)熊野へ急く人ばかり。そして現代、中辺路は山歩きが1/3で残りはほぼ車道だけど大辺路は車道ばかり。熊野古道を歩くといったら中辺路(の一部分)を狙い定めて歩く場合が多い。

全長1000kmに及ぼうという熊野古道が全てこんな感じだなんてことは決してなく、ほとんどが車道だし、山道もどこを通っていたか既にわからなくなっている。昭和の終わり(40年代以降)に復元の機運が高まり、有志の踏査なども行われたが明らかになったとは到底言えない。途切れ途切れに遊歩道が整備され、平成の初めに一通り現在のような形になり、後にところどころ世界遺産として認定された。だから外国人の姿もちらほら見かける。コロナの前は中国人が殺到したというが、いまはそれほどでもない。中国人のように見えても台湾か香港の人らしい。

というわけだからバスで遊歩道の入口まで移動して、そこから山歩き気分を味わう。標高はだいたい200mか300mぐらい(最高地点で600mかそこら)だから、感覚的にはハイキング。夏は暑いだろう。院政期の熊野詣では秋に出立することが多かったようだ。紀伊半島は温暖なので冬の古道歩きも夏に比べれば悪くないと評判だ。雪が降るわけでもないようだから、確かに冬はいいかも。

院政期の道標だった王子(九十九王子)とは別に、江戸期の街道に設けられた一里塚の跡もある。見方を変えれば一里塚さえ跡しかないのだから、江戸期に人が歩いた道も埋もれてどこだか不明だったりする。院政期には輿に乗った貴人がすれ違う程度の道幅があった熊野道、よくわからない部分は通りやすいところに新しい遊歩道を敷設して観光の便宜を図り、トイレなども設けて世界遺産の基準を満たした。そう思うと神秘性のようなものは薄れる。しかし、江戸の五街道がいまどうなってるか考えたら古道のありさまも無理ない。

その先に九十九王子のひとつ、近露王子之跡の碑があった。昭和8年に大本教の教主だった出口王仁三郎がこの地にきて休息したとき、当時の村長の依頼で紙に揮毫したのを石に彫りつけて昭和9年に建立した碑だという。昭和10年12月に大本教が2回目の激しい宗教弾圧を受け、この碑も取り壊さねばならなくなったが、村長が「この文字は王仁三郎の筆跡を自分が模写したものである」と主張して、王仁三郎の筆跡を警察に提出した上で、碑面にあった「王仁」の署名を削り、「横矢球男謹書」と彫り改めて、王子碑の撤去を免れた。出口王仁三郎の筆跡の碑は全国に数多くあったが、他はことごとく破壊されて、かろうじて残ったのはここだけだと脇の立札に記されていた。

発心門王子の後は神社になっていた。舗装道路を歩いたり、林道を歩いたり、木炭バスの時代のバス通りに並行して通された遊歩道を歩いたりして、熊野古道と推定される新しい道というか、熊野古道に仮託された道をたどると王子の跡がところどころに設けてある。どこまで本当なのか、いまはもう知るすべもない。

水呑王子の跡には廃校になった小学校の校舎とステージがあった。高度経済成長期にその廃校をリゾート会社が買い取り、アスレチック施設のようなものを運営していたという。ステージではフィリピン人ダンサーがセクシーなダンスを披露したが、その施設もやがて潰れてしまい、いまは何もない。ステージ周辺はテントを張るのにちょうどいい空地だから、平成の熊野古道ブームに火がついた頃はキャンプする人もいたのだが、それも禁止になった。

伏拝王子の跡にはカフェめいたものがある。空いてればコーヒーぐらい飲んでもいいんだけど混んでるから素通り。水分も行動食も携行している(山歩きの装備を整えて来ている)から、喫茶店めいたものがなくても平気なのだった。外国人の多さが見て取れる写真ではないだろうか。トイレを済ませて熊野本宮のほうへ歩く。いまのところ車道や林道ばかり歩いているような感じで、まあ遠足かな。

小辺路(高野山と熊野を結ぶルート)との合流地点の近くまでくると、やっと遊歩道っぽくなる。とてもよく整備されているので、山歩きというより散策という感じで、欧米人は雨蓋のついた大きなバックパックを背負ってるけど、日本人や台湾人や香港人や韓国人の中にはスニーカー履きでポーチぐらいしか持ってない、いかにも観光地めぐりといったスタイルの人も多い。熊野三山めぐりなら、それで十分かも。

樹々の合間から、熊野本宮の巨大な鳥居が見えた。あと4kmぐらい歩けば熊野本宮に到着する。高低差も大したことがないし、よく整備された道だから1時間ぐらいで着くんじゃないだろうか。実際のところそんな感じだった。なんかこう、拍子抜けではある。自分の足で歩いてこうだから、輿で運ばれる上皇の熊野詣でなんか楽ちんの極みだったのでは……往復1か月だし、従者が食べ物や飲み物を運んでくれただろうから。もっとも現代人は鉄道や航空機や自動車を利用して巡るし、さらに楽ちん。

古い石畳の道の脇に根を切り払った木が露出している。根のところまで土があったということだ。「ここが古道だろう」という道の土を堀り、邪魔な木の根を切り払うと下に埋もれた石畳が出てきた。これが古い参詣道の石畳らしい。古いといっても江戸時代の技術ではないか。織豊期に発達した城の石積みを応用している節がある。

大小の石が、ある程度の規則性をもって配置されている。大きく見える石は、手前が大きくて奥が小さい。小さく見える石は、手前が小さくて奥が大きい。楔のような石を互い違いに並べることで安定させ、水はけのよさも実現させている。こんなに努力して拵えた道も、200年かそこらで土に埋もれてしまい、どこにあるかさえ掘らないとわからない。しかもこれは江戸期の道だから、院政期の古道とは違う。この下に、また埋もれてるかもしれないが、石畳がないとすれば掘っても気づきにくい。

祓戸王子の跡には祠があった。ここまで来れば熊野本宮(の裏手)は目と鼻の先。熊野古道の主要な部分(熊野本宮をめざすのが熊野詣での主目的)はめちゃくちゃ歩きやすいことがわかった。山歩きの装備は必ずしもいらない。

そして本宮に詣でたら、なんだかおかしい。昨日の闘雞神社は熊野と同じ十二柱の神々を同じ配置で祀っている(だから熊野詣でと同等のご利益がある)と聞いたのに、闘雞神社にくらべて本宮のほうがどう見ても簡素。どう見ても社殿が少ない。それには理由があった。もともと本宮はここではなく、500mぐらい先の河川の中洲に熊野坐神社として存在していたのだが、明治22年の熊野川の大氾濫で社殿が流されてしまい、からくも残った4社だけが現在の本宮に祀られているのだ。

大洪水で流された8社に祀られた神々は、あの大鳥居(山道で樹々の合間から見えたやつ)の向こう側、大斎原(おおゆのはら=旧社地)の祠に祀ってある。せっかくだから、そこまで見に行く。もともとの熊野詣では、そこが主な目的地だったわけだから、いまの本宮でゴールと思ってはいけない。

大鳥居の手前で立ち止まって見渡す景色……明治22年の大洪水では、あの山の中腹にある小学校の1階までが水浸しになった。田んぼは完全に水の下、熊野坐神社も押し流された。しかし考えてみれば、河川の中洲に神社を設けて明治22年まで何百年も無事だったことのほうが意外といえば意外だ。社殿によると、十二柱の神々は三つの月のかたちで中洲に降り立ったというから、おいそれと動かすわけにいかなかったのかもしれないが。

石段の上の祠2基に4柱ずつ合祀してある。本宮に移された4柱と合わせて12柱。そして、ここが熊野詣での本来のゴール。ここから川を舟で下って熊野速玉大社に参詣し、那智の滝で知られる熊野那智大社に参詣する熊野三山めぐりを果たして、また輿で京に戻る1か月ツアーが平安末期に上皇が身心の穢れを祓った熊野詣でだった。

あらためて鳥瞰図を眺めると、やはり中洲の社殿が千年もよく洪水で流されなかったものだと思う。昔の上皇は川を下って熊野速玉神社に参ったが、今の庶民はバスで熊野速玉神社に向かう。着いたら何やら祭をやっていた。

祭があまり好きじゃないので音曲の喧騒を逃れると、速玉神社に隣接して地元出身の作家、佐藤春夫の家屋があった。そういえば『田園の憂鬱』とか少年のころ読んだなと思って見物して行くことにした。

佐藤春夫が東京で暮らした家がこうして故郷に移築され、記念館として展示されている。入館料330円だったかを払い、中を見ていく。建物は撮っていいけど中の資料は撮っちゃダメと言われた。「新宮市立佐藤春夫記念館だより第28号(最新号)」を手に取って読むと、1989年11月に開館した当館は移転計画が進行中だという。徒歩10分ほどの旧西村家住宅や旧チャップマン邸のそばに移る予定で、来年度は休館するとか。

東京都文京区関口町にあった佐藤春夫邸は昭和2年の建築で、けっして大きくはないが中が白壁でしゃれている。2階は明るいサンルームだった。老朽化のため屋根が後づけされていた。多くの人はサンマ苦いかしょっぱいかの詩で、春夫知ってるか知らないか。写真を見ると顔が険しい。疲れたから那智大社参りは明日にして、そこらの宿に泊まる。

JRの紀伊勝浦駅から出てる熊野交通バスの那智山行きに乗り、終点の那智山まで行けば那智大社まで近いのだが、それだと面白くないので手前の大門坂でバスを降り、那智大社まで歩いて登る。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社をまわる三山めぐりの締めくくり。20年前に吉野から高野山に行って宿坊に泊まり、熊野へ出たときは確か定期観光バスで三山をめぐった。

鳥居から先は神域で、鳥居の手前は人が生活するところ。明確な区別があるのだという。しかし大門坂を通り抜けて那智大社に至る石段を登ると、そこに上皇御一行様が参拝前に宿泊する場所の跡があった。貴人は鳥居の先で寝起きすることもできるが、庶民は鳥居の手前に宿を取る習わしだったんだろう。お伊勢参りのついでに熊野三山をめぐる物見遊山をかねた客などが鳥居の手前で休んだに相違ない。

そんな宿のひとつが手前のすぐ前にあった。立札に「南方熊楠が三年間滞在した大阪屋旅館跡」とある。この地で粘菌の研究をした南方熊楠は博覧強記の人で、最高学府の東京大学の講義をくだらないと断じて退学後、単身ロンドンに留学した。帰国後、家業は弟が継いだので熊楠はぶらぶらして、ここの旅館に三年間も長逗留して何やら研究をした成果が国際的な偉業として現在は認められている。そういえば20年前、熊楠記念館で遺品や資料を見たことがある。

そのころ那智山の樹木を伐採しようと資産家や役人が計画したのだが、粘菌の研究をしている熊楠が立ち上がり反対運動を繰り広げたおかげで、熊野に手つかずの自然が残って今では世界遺産となっている。東京では現在、外苑前や日比谷の樹木を資産家と役人が伐採し商業施設を建てようと計画している。熊楠が聞いたら猛烈に反対するに相違ない。ユネスコも反対している(環境破壊だけでなく文化破壊になるから中止せよと申し出た)にもかかわらず、政官財は耳を貸さずに木を伐ろうとする。日本にはもう観光のほかに立国の手立てがないのだから、自然と文化を大切にしないで一時の金に転んだら衰亡の道しか残らない。それでもいいと考えるのは、文字通り売国奴であり国賊に相違ない。

九十九王子の最後のひとつ、多富気王子の跡に石碑があった。なぜここが最後かというと、京から淀川を舟で下って大阪の中之島で陸に上がり、そこから九十九王子をたどる熊野詣でのメインルートが紀伊路、中辺路をへて熊野本宮にまいり、熊野川を舟で下って速玉大社にまいり、最後にこの先の那智大社にまいるから、手前の大門坂に最後の多富気王子がある。いよいよ終点が近い。

樹々の間からも那智の滝が見える。那智山は熊楠の主張が通って自然林が残されている。熊野でも他の地域、例えば昨日の中辺路の森などは伐採されて杉、檜の建材用の植林だった。和歌山県は7割が山地で、そのうち7割が植林だと誰かが言っていた。自然林はわずか。その自然林に比べると植林の保水力は低い。そのせいかどうか10年ほど前に河川が氾濫して交通が遮断され、復旧するまで熊野三山めぐりが数年間できなくなった。そんな期間を越えて、20年ぶりにやってきた。

十一文関跡を通った。江戸期の関所だろう。通行人から十一文ずつ徴収したようだ。そばが食える程度の料金だという。現在の感覚だと数百円から千いくら。こんな関所がたくさんあったというから、旅人にしてみれば痛い。お伊勢参りや富士講やなんかは近隣で金を出し合って代表として若い衆が物見遊山をかねた参詣をしたようだから熊野に寄る人もそうだろう。路銀が不足したり、紛失したり、盗難にあったら関所を通れなくて難儀する。そんな人のために、ふところに余裕のある人が関所で多めに金を払い、「困った人がいたら通してあげて」と役人に言付けする共助の文化が江戸期にあったという。

大門坂を登り切ったら、そこから那智大社の石段をまた登らなければならない。ちなみにバスで終点の那智山まできても、結局この石段は登らないといけない。輿で運ばれたきた院政期の上皇も、下馬の標示から先はさすがに自分の足で歩かなければならなかっただろう。まさかおんぶやだっこというわけにもいくまい。

なんらかの萌えキャラが境内にいた。本宮てるて、那智霧乃、速玉ナギ。さすがに那智大社だからセンターは那智霧乃。3人とも八咫烏を従えている。それぞれ手旗を持っているからバスガイドの設定なのかもしれないが、帽子はガイドというより運転手のものだし、装束は巫女さんだ。はたして何をする人だろう。

廃仏毀釈で神仏習合の世界観が破壊されるまで那智大社と渾然一体だった那智山青岸渡寺の向こうに那智の滝が見える。那智といえば大学に那智という名の学生がいて、いつも晩ごはんはナッツだとか話していたからリスみたいな食生活だなと当時は思っていたけど、いま考えるとキャバクラか何かで働いてたんだな。どうもメイクや髪型や物腰が夜っぽい感じだったし。

青岸渡寺を通り抜けて那智の滝まで歩いてきた。20年前はこんなに水量が多くなかった。前の晩に雨が降ったから溢れているのだろうか。滝を見て熊野三山めぐりを終えたら、院政期の上皇御一行様はまた中辺路と紀伊路をへて京へ戻った(淀川の舟は従者が綱で引いて上皇を遡らせたんだろう)。江戸期の参詣者は元の道を帰ったんだろう。修行者の中には、補陀落渡海といって棺桶のような箱に入り、舟で海に流された者も代々いた。補陀落浄土に逝けると信じられていたから。青岸渡寺の名のルーツではないだろうか。山を下ると海辺に補陀落山寺があり、そこから出発したようだ。江戸期に時代が下ると信心が弱まっているので、箱に入って舟で流された僧侶が死ぬのを怖がり、こっそり箱を蹴破って島に隠れているところを見つかった。それからは補陀落渡海がおこなわれなくなった。さっバスで帰ろう。

 

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