散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

なめとこ山

2024-05-05 | Weblog

なめとこ山の熊のことならおもしろい。で始まる宮沢賢治の「なめとこ山の熊」なら子供のころ読んだことがある。どうやらここは、なめとこ山のあたりらしい。東京を午前中に出て、新幹線で駅弁を食べて、新花巻からバスに乗って、バス停で宿のバンに乗り換えて到着したら午後4時。夕食は5時。

移動と食事しかしていない。夕食後、といってもまだ明るいうちに湯に入る。白猿の湯というのが自慢らしい。熊とか、白猿とか、動物の多いところだが、この白猿の湯は宿の案内によると日本一深い自噴岩風呂だという。自噴ということは、この場所で噴出してる(ポンプなどで運ばない)のだろう。深いから立って浸かる。

神棚の奥に書いてある文字をのぞき込んで読んだ。応仁の乱より前、当温泉主の藤井家の遠祖が薪樵をしていると、白猿が岩窟から出て桂の根元に湧き出る湯で手足の傷を癒しているのを発見し、それが温泉であることを知った。仮小屋を立てて、一族の天然風呂として開いた。

藤井家は武士であったが、1440年に江刺勢と戦って鉛(このあたり)に敗走してきた。それで木樵百姓に身をやつしていたそうである。子孫の三右エ門が宝暦年間に大衆浴場とすべく安浄寺住職の計らいで役司の許可を得るも、飢饉、震災などの苦難により開業ままならず、三之助の代にようやく長屋を建てて温泉旅館を始めることができたのが1786年(天明6年)……238年前。

藤井家の三之助が始めた旅館だから、藤三旅館というらしい。宮沢賢治が書いた「なめとこ山の熊」は没後まもない1934年(昭和9年)に刊行されたそうだが、その冒頭近く「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている」とある。なめとこ山はこのあたりの山である。藤三旅館の湯治部は夜9時消灯だから寝る。

朝7時に朝食の膳が運ばれてくるから、6時45分に起きて待つ。標高はどれくらいあるか腕時計の高度計で調べたら、128mと表示された。さほど高地でもない。あたりの山の標高は600m〜800mぐらい。なめとこ山はどれだろう。詳細不明だそうだけど観光目的の地図にはダムの上流の山の一つがそれに比定されている。

たしか十分な田畑を持たず、山林が国の所有になって伐採できなくなった小十郎は、家族を養うために熊撃ちを生業にした。名人などと呼ばれているが熊には申し訳なく思っており、胆や毛皮を里の商人に買い叩かれるのを不当に感じている。そのうち熊の言葉がわかるようになり、熊撃ちを苦痛に感じていたある日、不意を襲われて熊に討たれる。熊は小十郎を殺すつもりではなかったとか何とか、死にかけの小十郎に伝えた。そんな話だった。

山歩きの装備で来てるので、ハイキングコースか何かおすすめの散歩道がないか宿の人に聞いたら、整備されたコースはないし熊が出るから1人で山に入るのはおすすめしないという。買い物をするような店もなく、飲み食いできるものもなく、見るものといえば近くの赤い橋と鉛のスキー場(シーズンオフで閉鎖中)ぐらい。橋を渡ると鉛の集落がある。(要するに何もないのか……)

赤い橋は映画『海街diary』に出てくる橋だという。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずが一緒に暮らすあの映画はたしか鎌倉・江ノ島あたりの話だったのに、岩手の橋がどうして出てくるのか。不思議に思って聞いたら鉛の藤三旅館がロケ地になっているからだという。どうして東北の湯治場が、湘南のdiaryに出てくるのか。もしや湘南のふり? 見てないから、わからない。

宿からも見えるくらい近い。もしかして、「なめとこ山の熊」ゆかりの地としてよりも『海街diary』ゆかりの地として知られていたりして。ブログのタイトル、「なめとこ山」より「湯の街diary」のほうがよかったかな? どっちにしても場所がよくわからないことに変わりはないが、岩手の花巻の鉛温泉スキー場のあたり。

布観橋(ふかんばし)と表示されている。「布観橋 海街diary」で検索したら、すずが旅館を指さした場所と出てきた。何でも出てくる世の中だな。3姉妹と母を捨てて家を出た父がよそで作った腹違いの妹を迎えて4人で暮らす、吉田秋生の漫画を下敷きにした是枝裕和監督の2015年の映画。ふーん。

すずが指さした旅館が鉛温泉の藤三旅館だが、映画では「あづまや」という旅館になっているらしい。3姉妹のうち2人ここに逗留したようだ。ちなみに立って入る白猿の湯は混浴だが、場所がバレるので入浴シーンはないだろう。川に面して露天風呂もある。そっちは座って入れるが、もし対岸からのぞけば丸見え。だからどうという話ではないけども。

忘れ物かな? と思ったら宮沢賢治ゆかりの地の案内板だった。それによると、なめとこ山は賢治を研究する人々の間では「特定の山を指していない」として豊沢川源流の山々の総称とされてきたのだが、無名の山「八六〇高地」の古地図(なんのや)に「ナメトコ山」の記載があることから、賢治生誕100年の1996年に国土地理院の地形図に「ナメトコ山」と記載されることになったようだ。

 

関連記事:  酸ヶ湯と八甲田山

 

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 震生湖 | TOP | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

post a comment

Recent Entries | Weblog