散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

こんにゃくえんま

2017-05-21 | Weblog
こんにゃくえんまってなんだろう。ちょっといってみよう。後楽園駅に掲示してある地図をみて、千川通りを歩いていく。
5月なのに真夏日! 日本に四季があるというのは昔の話で、いまは冬と夏しかない。


ふりむくとドームがあんなふうに

白いから光をはじいてカメラに写りにくいけど、道路のつきあたりに巨大なエアバッグが開いてるようにみえる。
それにしても暑い。


えんま通り商店街がみえてきた

フォーカス(新潮社)、フライデー(講談社)、フラッシュ(光文社)といった写真週刊誌のひとつで、エンマ(文春)
というのが昔あった。当時はいまと違って文春砲が当たらず、すぐ消えた。えんま通り商店街で思い出した。


ふりかえったらこんにゃくえんま

ゑんま、って書くのね。こんにゃくゑんまは、婚約ゑんま? 困厄ゑんま? 縁結びか厄除けか、どっちだろう?
お坊さんが卒塔婆をたくさん立てかけて葉っぱでなでている。あいうえお順に並べて。


お寺だけどちょっと神社っぽい

ふりむくと絵馬掛けがあって、目の病気が治るように祈願したものが多い。てことは婚約じゃなくて困厄ゑんま
の意味での、こんにゃく?


こんにゃくが山積みに

お供えのこんにゃくが、こんなにたくさん。毎日こんにゃくが供えられたら、毎日お坊さんがこんにゃく食べる?
こんにゃく食べきれる?


塩漬け状態の塩地蔵尊

西新井大師とかでも塩地蔵みたあるけど、これはまたずいぶん塩だらけな……書いてなければ地蔵なのか
何なのかわからないくらいだ。


鐘に老人が群がってる

なんだろうと思って近寄ってみると、支那事変から太平洋戦争に日本が向かいだす1937年にこの鐘はこの寺
からサイパンの南洋寺に寄贈され、1944年にサイパンが玉砕するまで鳴らされていたという。


銃弾の痕とかあるし…

米軍が上陸してサイパンの日本人が全滅したあと、鐘は行方不明だったが、1965年にテキサスで発見されて
1974年、こんにゃくゑんまに返された。


あの穴は貫通してそう

アメリカでは仏像とおなじように鐘も金色に輝いていると思われているので、この鐘もテキサスにあるときは
金色に塗られていた。だから、ところどころ金色がまだ残ってる。誤解ってすごい……!




関連記事:  江北六丁目団地  (西新井大師の塩地蔵が出てくる)

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TOKYO

2017-05-20 | Weblog
都心でよく見るようになったこの赤い自転車は千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、江東区に
設置されたポート(写真のような場所)で借りて、どこのポートでも返せるコミュニティサイクルだ。いま
月に1万1000人くらい利用していると、運営元のドコモ・バイクシェアの人が話していた。


きょうはこれを借りることにする

ヨーロッパの市街地でこういう自転車シェアリング見たことある。この自転車を使って、外国人向けに
東京を案内する CYCLING HOLIDAY TOKYO のツアーに参加してみた。午後ツアーは3時間、17km
の道のりをガイドさんが英語で引率してくれる。


ペットボトルの麦茶を買って参加

タイヤが小さいからペダルをいっぱい漕がなきゃいけないかと思ったけど、電動アシスト自転車なので
ひと漕ぎで距離がのびる、のびる。特に漕ぎだしがラクだから、停止することが多い都会のサイクリング
向きだと思った。高低差の多い東京めぐりに適してる。


電源オンにするだけで基本OK

車輪の大きいクロスバイクやロードバイクより都心を走るのはラクかも。丸ビルにあるポートを出発して、
8の字に東京をまわって歌舞伎座のちかくのポートまで行く。


まず東京駅の丸の内側を観光

ガイドが英語なので全部はヒアリングできないけれど、丸の内サイドはビルがクラシカルで八重洲サイドは
モダンだとか、この道はもともとエンペラーがパレスからステーションに行くための専用道路だといった解説
を聞いた気がする。世界でナンバーワンの乗降客がいるのは新宿ステーションで、ナンバーツーがインドの
長い名前の駅でナンバースリーが池袋とか。(東京駅は7番目だったかな)


皇居は400年ほど前にできたとか

要所、要所で自転車をとめて観光インフォメーションのアナウンスがある。皇居ができるまで東京はどこでも
なくて、キャピタルは京都だった。徳川の将軍が江戸をつくって、150年ぐらい前にエンペラーがやってきた。
この堀にはタートルがいて、私は見たことがないけれども彼は見たことがある。


緑の中をサイクリング(許可あり)

東京は変化に富む景観が特徴で、それを楽しむにはサイクリングがいちばん適している。このようなグリーン
は自動車のドライブでは感じることができない。これから景色がどんどん変化するからエンジョイしてほしい。


あれはウォーターフォールです

メイビー、あれはマンメイド(人工物)だと私は思う。秋になると紅葉するので美しい。もう少し行くとチェリー
ブラッサムがみごとに咲く場所を通る。時期は過ぎたが、いまはグリーンがきれいだと思う。


北の丸公園から武道館へ

剣道、柔道、空手など武道のための設備だがコンサートに使われることも多い。ここで最初にコンサートを
行なったアーティストはザ・ビートルズである。もう50年前になる。今日は韓流の公演があるようだ。


ここに千代田区のポートがある

ちょっと疲れてきたと思ったら、電動アシストの電源がいつのまにかオフになっていた。しばらく停車すると
オフになるのかもしれない。いかん、いかん。スイッチオン。


半蔵門から桜田門のほうへ下る

なかなか快適なサイクリング。このあたりだと個人で自転車シェアリングを利用している人にもよく会う。
しかし利用者がいちばん多いのは江東区らしい。


憲政記念館の庭園からの眺め

あのビルが建ち並ぶあたりは昔はオーシャンだったのである。銀座も海だったのである。これから我々は
昔の海に向かってダウンヒル。


水色のところは元々は海だった

銀座を走り抜けるときは、自動車も多いので写真を撮る余裕がなかった。鉄砲洲稲荷神社のほうへ抜けて、
お団子ちょっと食べて、神社の奥の富士塚を見物する。


富士から持ってきた石を積んだ

富士講でお金を出しあって代表者がお参りにでかけたとき、自分だけご利益を得て帰ってくるのではなく、
講のみんなにご利益があるように溶岩を運んできて積み上げたのが富士塚である。こういうものが東京の
あちらこちらにあるのである。


細い路地を抜けると月島に出る

月島とか、佃島とか、石川島は実際に島なのである。多くの橋で結ばれている。佃島には今も駄菓子屋が
あり、懐かしい人には懐かしいだろう。佃島は佃煮も有名である。ジャパニーズ・ティピカル・フードだ。


ららぽーと豊洲が突如、現れた

たしかに風景が一変するのだ。だけど東京オリンピックの頃には東京中が豊洲みたいになるんじゃないか。
自転車を漕ぎながらそんなことを考えているとは誰にもバレないだろう。(いまバレた)


あれが移転おあずけ豊洲市場?


あれが忌わしきオリンピック村?

皮肉にも(?)このあと橋を渡って築地市場のほうへ自転車を走らせていく。そして歌舞伎座を見物して、
3時間のツアーは終わり。これは午後ツアーのコースで、午前ツアーは浅草や東京スカイツリーの方面を
おもてなしするコース。オリンピックに向けてお客さんが増えるんだろうなー



関連記事:  銀座ツアー
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稚内

2017-05-12 | Weblog
南の果てとか西の果てとか東の果ての駅には行ったことがあるので、これで東西南北コンプリートした。
そんなつもりで来たわけじゃなくて、ただの偶然。うっかりコンプリートだった。


稚内の六本木ヒルズ森タワー

駅前にそびえるのは、ヒルズ森タワーそっくりのANA系列ホテル。その反対側をみると日本でいちばん
北にある市場だという、北市場。2階には夢広場がある。


夢広場は海の幸のレストラン

1970年代の半ば頃まで、つまり200カイリ問題が生じるまで、このあたりはもう漁船で大賑わいだった。
漁船の半数を所有していた瀬戸家の屋敷跡でこんな写真を見た。


右端のほうに現在は夢広場が

当時はこんな漁船が60隻ぐらい港にいて、1隻で水揚げが3億円ぐらいになった。いまの物価に直すと、
だいたい10億円ぐらいらしい。そんなのが60隻もいたら笑いが止まりませんな。半分として300億の金が
1回の水揚げで瀬戸家に入るわけだから。年収いくらやねん。


夢広場でお昼カニカレー食べる

ちなみに現在は数隻しかいなくて、水揚げが数百万円とか。昭和30年代、40年代はよかった。稚内の町
も活気が全然いまと違った。ちなみにカニカレーはカニの脚フライが乗ったカレーで、あんまりカニの意味
なかった。薄々そうじゃないかと思った。


夢広場にマトリョーシカがズラリ

さすがロシアが近いだけあって、マトリョーシカだらけ。昼ごはんを済ませて稚内をぶらぶら歩いてみると、
もっと間近にロシアを感じることになった。


道路標示にいちいちロシア語!


これにもロシアの文字!

札幌や旭川でこんなことがあるだろうか? 旭川は250kmも離れているし、札幌はもっとだからロシア語は
こんなに優遇されてなかった気がするけど、どうだろう。


商店街を歩いてみてビックリ!


くるみってロシア語でも出てる


電気屋さんにもロシア語の文字


コスメの店にもロシア語で何か


日本語よりも目立ってるじゃん


わっかないしんきん? (¥-$・$-¥) 

うっすら読めるようになってきたかも。どこかそのへんにムネオハウスがありそうなほどロシアの文字が
そこらじゅうに!


これは日本語だけか…


これも日本語だけ……

なんだろう、ロシア語に訳さない看板には法則性がありそうな気がする。おまん、ます助、おまん、ます助、
ああ! わかりそうでわからない。


派手な神社が山の上にあった


派手な神社から稚内を見下ろす

ここで仕事の電話を1本受けて、稚内にいることはおくびにも出さずに打ち合わせを終えて絵馬を見た。
ふしぎとロシア語の絵馬は見かけなかった。


散歩を終えてビールを1杯

ロシアのビールが町のいたるところに置いてあるわけでもなかった。ロシアの人をたくさん見るわけでも
なかった。最北端の町なのに中国の人、韓国の人は観光にきていた。ミサイルが飛んでくるかもしれない
と思ってるのは日本の人だけなのか?


夕飯はカニしゃぶ、タコしゃぶ

意味のないカニカレーから教訓を学びとって、メシも2度目なら少しは上手に海のメッセージ食したい。
いつもはこのへんで終わりが近いのだけれど、稚内は遠すぎて名所ろくに見てないので翌日も滞在して
ほっつきあるく。


宗谷岬にやってきました

流氷とけて、春風ふいて何とやら。これ以上書いたら、JASRACこと日本音楽著作権協会(だったかな)が
黙ってないかもしれないので控えますが、あの曲でもおなじみ宗谷岬です。日本最北端。


こういった位置関係……

肉眼だと海の向こうに樺太が見える。本当はあれも北緯50度まで日本のはずだけど、一応ここが最北端。
利尻島も礼文島も緯度は宗谷岬より低い。


間宮林蔵が島と証明

巨大すぎて何だかわからなかった樺太を実際に歩いて回り、島だということを見つけて地図を作製した。
だから樺太は日本だというのが日本の立場だったけど、ロシアが実効支配中。


明治35年に日本軍が作った望楼

軍艦のブリッジのような形のこの建物は、宗谷岬の高台に日本軍がロシアの艦隊を見張るために作った。
その2年後から日露戦争だから完全に本気だ。


ちなみに裏側はこうなってる

ここまでくるには稚内から路線バスで40分だか50分だか、1日に4~5本しか便がないので帰りの時間を
ちょっとは気にしておかないと危なっかしい。


また稚内の港まで戻ってきた

あのフェリーに乗ると利尻島とか礼文島まで行けるらしい。30分ぐらいで着くのかと思ったら、1時間40分
とか2時間とか片道かかる。なんか面倒だからやめようかな……。


へんてこりんな建造物があるぞ

もしかして日本軍が明治35年ごろ敵襲に備えて構築した、稚内の長城みたなもの? それとも砲台かな。
近づいてみたら、北防波堤ドームと記してあった。


おかしなカタチの防波堤だな…


この石の板に何やら刻んである

稚内港北防波堤ドームの由来: この防波堤は、戦前、稚内~樺太との定期連絡船発着所として築設された
もので、アーチ型構造物として立案され、昭和6年に着工し昭和11年に完成されたものであるが、激波のため
老朽が進み、昭和53年より改良施行し、完成は昭和55年である。


激波? 老朽? 防波堤が?

(つづき) この構造物の名称は、古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から通称「ドーム」と呼ばれ
世界で唯一のものである。


古代ローマっぽいが世界で唯一

石板に刻んであることを読んでも、いまひとつよくわからない。防波堤ドームの裏側に回ると、ちゃんと
防波堤があるし。


ドームである必要があるのか?

200カイリで漁業が下向いて観光が注目されるようになったとき、放置されていた定期連絡船の発着所を
整備しようと誰かが考えたけど、防波堤って名目にしないと賛成が得られなかったのかな?


こんな感じの発着所だったらしい


昔は稚内駅より先まで線路が…


この船着き場まで続いていた

いちばん手前の建物が駅だ。昭和11年に完成した稚内~樺太の連絡船発着所、わずか数年しか使われず
に放置されたというから、それで老朽したんだろう。世界大戦もあったし。


ハイカラな発着所は短命だった

これらの資料は底曳漁で巨万の富を得た瀬戸家が昭和27年に建てた邸宅跡にあって、稚内のことが詳しく
わかる。入場無料で、瀬戸家はどこにいるのかなと思ったら近くに住んでいるみたい。漁業で蓄えた資本を
生かして、邸宅跡のすぐそばでガソリンスタンドを営んでいた。


こちらが昭和27年築の旧瀬戸邸


底曳漁って大きな網を使うんだな

漁業も規模縮小して営んでいるようだった。小樽にある鰊御殿みたいなものかと思ったけど、底曳御殿と
いうべきものだった。秋田の大工が建てたから北海道の家とは構造が違うらしい。


いちばん見応えがあったかも…


関連記事:  利尻島
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利尻島

2017-05-08 | Weblog
せっかくだから行ったことないとこへ行こうと考えすぎて、気がつくともう海の上に利尻島が見えてきた。
利尻富士のふたつ名を持つ利尻山が噴火して隆起したことで生まれた島だから丸い。細長い礼文島と
は成り立ちが違う。ちなみにこっちのほうがでかい。


利尻山のすそ野に町が点在する

稚内から見たり、礼文島から見ると、利尻島って山がぽっかり海に浮かぶように見える。ところが上陸する
と、すそ野が広い。山なんかオマケです。島の外の人には、それがわからんのです。


姫沼から利尻富士を眺めにいく

フェリーを降りたら観光バスの受付をしてたので申し込んで参加した。島1週して3300円ならリーズナブル
というか、自分で回ることなんて無理だ。


うまいこと利尻富士が見えてる

この姫沼はもともと名もなき沼だったが、大正6年に養殖のためヒメマスが放流されたとき姫沼になった。
養殖に失敗したのか、商売にならなかったのか、ヒメマスはもういない。風が強くてまっすぐ歩けないほど
だから水面にさざ波が立っているが、これで波がなければ逆さ利尻富士が映る。


まだ雪がちょっとだけ残ってる

5月の初めにしては雪解けが早いという。しかしダウンを着てちょうどいい。東京からくると季節を2か月
巻き戻したみたいに感じる。桜の開花は5月下旬らしいし、一応ダウン持ってきて正解。


宗谷バスに戻るべく駐車場へ

フェリー港から姫沼まで5分ほどだった。この先も島を時計回りに、ちょっと乗っては降り、降りては乗り、
そのたびに利尻富士を眺める。曇ったり、もやがかかると何も見えない。そんなことがないだけでも運が
よかったかも。


続いてオタトマリ沼からの眺め

いつか賞味期限をごまかして回収になった白い恋人のパッケージはここからの眺めだそうだ。真冬で白い
湖面に白い森、白い利尻富士……実際にそんな景色を見にきたら寒くて死んでまう。


またバスで利尻富士を回り込む

海岸から眺めると、すそ野の広さがわかる。利尻4景、それぞれ山のかたち違って見えたが写真にすると
そうでもない。もういい加減このくらいにしておこう。


東映のロゴを入れたくなる海

利尻島には熊がいないけど一度だけ、明治45年に北海道本島から泳いで渡ってきたヒグマが、5月24日
に利尻の島民たちに斧で撲殺された。そのときの写真を博物館で見たけど、かなり大きかった。数十kmも
海を泳いできたのに、あっけない。


流氷はこないのかなと思ったら

このあたりは暖流が流れているから流氷はこなくて、真冬でも気温がマイナス20度以下になることはない。
マイナスになるだけスゴイと思うけど、北海道本島の内陸に比べると暖かいそうだ。


振り向けば昆布の加工直売所

そういえば利尻昆布って有名だもんな。ウニは昆布を食べるから、おいしいって聞いた。昆布がなければ
禅宗の料理も貧弱な内容だったろうし、和食をユネスコが文化遺産にすることもなかったはず。


とろろ昆布を作って見せていた

まんまと昆布を買ったところで、またバスに乗る。利尻町立博物館に連れていかれる。バスを降ろされて、
しぶしぶ中を見ていく。見たらそれなりに面白かった。


はからずも利尻5景、博物館ごし

島のどこからでも利尻山が見えるから、ちょっと気を抜くと写り込んでしまう。日本百名山の1番目の山が
たしかこれで、さっき本屋さんで立ち読みしたら、海岸線から登りはじめるからゆっくり8時間かかったとか
何とか書いてあった。登るのだけは絶対いやだ。


オホーツク文化の暮らしぶり展示

これが7世紀から13世紀ぐらいの生活だというから、倭人の漁村と変わらない。網を使って魚をとったり、
ウニやアワビをとって食べた。さぞかし、うまかったろうね。


こっちは倭人のニシン漁のようす

やってることはオホーツク文化と同じだけど、違うのは自給自足じゃなくて商売のため食べきれない量の
ニシンを獲りまくるところ。一時は千石場所と呼ばれるほどの活況をなして、栄えた。


いまはもうニシンはとれません

またバスに乗ってフェリー港に戻る。10時半ぐらいにスタートして島をぐるっと1周して、13時にゴール。
帰りのフェリーは夕方だから、数時間にわたり何もすることがなかった。


帰るころには、もやがでてきた

関連記事:  礼文島
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礼文島

2017-05-07 | Weblog
稚内からフェリーに乗って礼文島にきた。地図で見ると近いから、30分ぐらいで着くだろうと思ったら
2時間かかった。そうと知ってれば泊まったのに、ろくに下調べしてないので2時間かけて稚内の宿
まで今日は戻って、明日また利尻島と稚内をフェリーで往復しないといけない。小学校から利尻島、
すぐそこにあるように見える。


回転遊具の向こうに利尻島

風がすごい。まっすぐ歩けない。そのせいか海上も波が3mあってフェリーが揺れた。横になって本を
読んでたから船酔いはしてないが疲れた。2時間かけて稚内に戻るのが面倒になってきた。利尻島に
渡り直すのもおっくうだ。もしかしたら、やめるかもしれない。波が3mもあれば小舟で漁をする個人の
漁師は休むのに、フェリーは欠航しなくて結構だ。もっとも、食料や新聞や日用品のたぐいはフェリー
頼みなので、波が3mぐらいじゃ欠航してられないのだろう。


廃校になった麗端小学校岬分校

小学校の中に入る。吉永小百合のパネルが出迎える。『北のカナリアたち』という2012年製作の映画の
ロケ地だそうで、撮影の記録を展示してあるけど映画を見てないのでチンプンカンプンだ。玄関に白い
リスの剥製があった。白いフクロウの剥製も。


白いリスがくるよ


白いフクロウもくるよ

白いワニが見える前に小学校をあとにする。礼文島と利尻島には、北海道本島とちがってクマもシカも
いない。ヘビもトカゲもいない。爬虫類がいないそうだ。白いワニも出るはずないけど、それでも見える
のが幻覚ではないだろうか。これまで見えたことはないけれど。


ネズミだって島に元々いなかった

倭人がくるまでネズミもいなかった。倭人がきてから、はしかが流行してアイヌが減り、天然痘が流行
してアイヌがまた減り、この島は倭人のものになった。ネズミが増えてしかたないのでイタチを連れて
きたら、ようやく昭和になってネズミの害がおさまったと島の資料館で学んだ。


白いアザラシの親子がくるよ

トドだったりして。たぶんアザラシだと思う。海獣のトドやアザラシはほぼ1年じゅう見られる他、クジラ
が座礁することもある。鳥も多い。要するに海と空の生き物ばかりで陸の生き物が少ないのだ。


ウミネコとカモメがいっぱいいる

脚がピンクならカモメ、黄色ならウミネコだけど飛んでたら区別つかないし、何万羽もいると区別つける
意味ないから、このへんの人はまとめてゴメと呼ぶそうだ。


むやみやたらと歩きまわる


この先、道路状況が悪いため…

5月の初めともなれば札幌や旭川では桜が開花して、みなさん花見でジンギスカンしてるとニュースで
楽しそうな映像が流れるのをフェリーのテレビで見たけれども、このへん桜まだまだ咲かない。5月末
という話だ。桜は咲かないのに草花はもう咲いている。


高原に咲く花じゃないだろうか

これがもしニッコウキスゲだとしたら、標高は低いけど緯度が高いから咲いている? ニッコウキスゲは
このあたりでエゾカンゾウと呼ばれるらしいから、これがたぶんそうだろう。


神社がどこもかしこも真っ赤

赤いのは稲荷で白いのは八幡みたい。いちいち立ち寄らないけれど神社は多い。真っ赤か真っ白な鳥居
や社が多い。ここまでくると、いろいろ珍しい。


テトラポットが丸い

礼文島はウニが名産品で、5月の初めだとムラサキウニになる。島の人は正直だからバフンウニの方が
ムラサキウニより絶対うまいから6月に食べろという。そんなにバフンウニがうまいなら、ムラサキは丼で
食べるほどじゃないかもと思って軍艦にした。


ムラサキウニのにぎり3カン

これで十分うまい。バフンウニなら一体どんなことに? すし3カンじゃお腹すくから、太巻きを注文した。
このへんの太巻きは、きっと一風変わってるに違いない。


太巻きは普通の太巻きだった

まだフェリーの時間じゃないので、そのへんをふらふら歩き回ると町の施設で資料館があったので入る。
アザラシの剥製とか動物のパネルとかはここのだ。


続縄文文化とかの資料が多い

倭人の歴史では縄文文化のあと弥生文化、古墳文化、ヤマト朝廷、奈良、平安……という感じに続くが
このあたりでは縄文のあと続縄文文化、オホーツク文化、擦文文化……と続くらしい。


オホーツク文化の面白い遺物

縄文からこっちはみんなホモサピエンスで現代人と変わらないから作るものが器用だ。マッコウクジラの
歯を使って作られた。女性像が2体と、アルマジロみたいなのは礼文島にいないはずのクマ。


セルフサービスの休憩コーナー

ポットのお湯でインスタントコーヒーを入れて飲むことができる。『国指定重要文化財船泊遺跡出土品』と
いうオールカラーの図録を自由に持ち帰ってよいので、1冊もらってフェリーの時間まで読む。というか、
眺める。これで入館料300円はお得だ。


そろそろ稚内に戻らなければ

もう船には乗りたくないけど、他にどうしようもないので2時間揺られて帰る。明日も利尻島との往復で、
また船に揺られないといけない。だるい。


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