散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

筑波山

2022-07-30 | Weblog

つくばエクスプレスつくば駅から筑波山シャトルバスに乗り換えて筑波山に来たことは何度もあるけど、山頂まで歩いたことは一度もない。そこで今回は筑波山神社入口でシャトルバスを下車し、練習(なんのや)を兼ねて山頂まで登ることにした。登山口が神社なのはよくあるパターンで、そこには拝殿しかなくて本殿は山頂というのも実にありがち。というより、山そのものが御神体だったり、山の上の岩が御神体ってケースがあたりまえ。山頂は畏み崇め奉るもので気安く登るものじゃなかった。だが登る。

その前にせっかくだから絵馬を見て行く。ちかごろ願いごとが見えないようにシールを貼って隠すやからが増えたけど、見えなきゃ願いごとを叶えられないではないか。八百万の神は目に見えること、音に聞こえることしか感知しない。わざわざ柏手を打ったり、馬を奉納しないといけないことでも明らかではないか。本物の馬を差し上げて口上を述べる手間に比べたら、板に字を書いて吊るすだけの絵馬はそう目立たないではないか。シールで隠すなどつまらない。だから登る。

深田久弥の日本百名山に取り上げられた山の中でいちばん低いのが筑波山だというから登頂など簡単だろうと思ったら岩場などもあり楽ではない。それでも全体的によく整備されたコースなので、まあ歩きやすい。愛犬を連れて登る人がたくさんいた。犬はどれも舌を出し、笑いながら登っていた。筑波山の山頂は男体山、女体山に分かれており、どちらにも本殿が据えられていた。それぞれイザナギ、イザナミが祀られているとか。

こっちがイザナギを祀る男体山の山頂で、標高は871m。ちなみに女体山のほうは、標高877mとわずかに男体山よりも高い。日本神話は女性上位だから筑波山の祭神もそのように配置されていて面白い。古くからの日本文化を歪めた男性上位の世の中にどっぷり浸かって無批判な人には面白くないかもしれないが、御神体を動かすわけにはいかないので諦めるしかない。そもそも気安く拝むところではなかったし。

男体山からの見晴らしはこんな感じで、のどかな平地がふもとに広がる。しばらく眺めて男体山をくだり、こんどは女体山のほうに登らないといけないんだけど、疲れたので中間地点にたくさん店を構えるお休みどころに吸い込まれた。このまえ登った山のてっぺんは店もなく、ベンチもわずかしかなかった。それに比べると筑波山は店が豊富なので、持参した非常食の出る幕がなかった。

かき氷だって食べられちゃう。コーラ味という俗なものに惹かれたけど、写真映えも考えてオレンジにした。どうしても夏の低山を歩くと熱中症ぎみになるので、冷たくて甘いかき氷を食べると熱が冷まされ糖が血と共に体を回って元気が出た。そこで、女体山のほうへ歩き出した。

途中にガマ石があった。ここでガマの油売りの原案が生まれたことになっていて、道行く人が石を投げてガマの口に入れようとする。落とさずに口の中に石が入ったら、何かいいことでもあるのだろうか。ガマの油売りは江戸時代の商人が武士のふりして演じていたとか。しかし当時この石はガマではなく竜に見立てられていたというからガマはどこからやってきたのだろう。

女体山の山頂に来てみたら、男体山とは段違いに強い気を発していた。やはり男ではなく女がこの山の主である。登ってみなければ感じることができなかった。強い気といっても納得できないのであれば、男体山の山頂になかった「日本百名山 筑波山」の石碑がここ、女体山の山頂に屹立していることにも格の違いが表れている。

こちらにも、わかりやすい本殿が建てられていたが、うかつに近寄ると危ないのではないかという感じがしたのは女体山の社だけだった。男体山のてっぺんに着いたときは疲れて帰りたくなったのに、女体山のてっぺんに着いたらみるみる元気が湧いてきた。さっき食べたオレンジのかき氷の糖の効能効果だけではないだろう。

6mしか違わないのに女体山からの見晴らしのほうが勇壮で男性的なのだった。なぜか知らないけど筑波山はそういうふうに仕掛けてあった。このまえの山登りで筋肉痛になったところ(主に下半身)がいつのまにか痛くなくなっていた。適度に体を動かしたことによる効果効能だけではないかもしれない。そんなふうに思った。

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大雄山から明神ヶ岳

2022-07-23 | Weblog

朝6時30分に伊豆箱根鉄道の大雄山駅を後にして南足柄神社へ向かう。駅を背にして行くもんだと、寝ぼけてるせいもあって、少年野球の子たちがグラウンドに集合するのを横目にずんずん進む。どうもおかしいと思い、スマホで位置検索を行ったら、道を間違えていたと分かり駅に戻る。

7:20

駅を7:00に再出発して、そういえば飲み物と食べ物を補充しなければ(オイオイ)といまさらコンビニに寄って665ml入りペットボトルのお茶(カフェインなし)2本と441kcalのバウムクーヘン2個買う。あらためて南足柄神社に立ち寄る。絵馬もないので長くは留まらず、大雄山最乗寺のほうへ急な坂を登る。バスなら10分とかからない(乗ったことある)が、徒歩だと60分ぐらいかかる。

7:30

大雄山最乗寺を守る2体の金剛力士像が安置された仁王門をくぐって車道を離れ、木立の中を通る「てんぐのこみち」を進む。雨が降る。カッパのフードを頭にひっかけマントのように背中に羽織る。暑いから着るのは嫌だけど、背中の荷物は濡らしたくないから。しかし30分ほどで雨が上がる。ふもとから山を見ると、空は晴れているのに白いもやが所々たちのぼる。あれが雨を降らすのだろうか。

8:25

そうこうするうち始発バスに追い越され(7:50発だったろうか)大雄山最乗寺の三門を抜けたのは8:25だった。曹洞宗の大寺院で、一説によると福井の永平寺、鶴見の總持寺についで3番目の規模だというけれども比べてどうするんだろう。最乗寺は道了尊とも呼ばれていて、大雄山駅から出てるバスの行き先は道了尊と表示されている。

8:35

本堂の広場まで上がってくるのに、なお10分ほどかかる。道に迷ったのも含めたら6:30から歩き通しているので、ここで9:00まで休憩する。足柄の大雄山最乗寺から、箱根外輪山のひとつ明神ヶ岳の山頂を越えて尾根伝いに火打石岳を通り、矢倉沢峠で外輪山を離れて金時山の登山口に下りてくる約5時間のハイキングコースを歩くことにした。それがいけなかった。

9:00

巨大な天狗の下駄の脇からハイキングコースが始まる。ハイキングコースというからには楽々と歩けて、5時間後の14:00ぐらいには箱根の金時登山口に抜け、仙石のバス停から箱根湯本駅ないしは小田原駅まで登山バスで自動的に体を運べるだろうと思った。

9:24

ハイキングコースは崩れていて、よじ登らなければ通れなかった。這いつくばるのはすでにハイキングではない。雨の後で道が滑るし、かなり危険がある。こんなところで遭難しては一大事だから気を引き締めて進まねばならない。高度、数百mの場所でケガして動けなくなったらと思うと、高さは関係なくコースが整備されてるかどうかが重要だと感じた。

9:41

字が消えかけて、まともに読めない立札もあればこそ、迷子になってないことを確かめながら進める。赤や青のテープも目印になるけれど、テープのほうへ沢を登ったらそっちは材木置場かなにかでハイキングコースではなかったこともある。道らしいのはそっちだったのに崩れたところがハイキングコースだった。2019年の台風で箱根登山鉄道が通行不能になって復旧まで半年かかったことを思い出した。登山道もそのとき崩れたまま整備が不全なんだろう。

10:26

見晴小屋も朽ちて、相模湾の眺望もなかった。地図では大乗寺からここまで60分となっているが、ほぼ90分かかった。脚力のせいではなく、悪路のせいだろう。小屋から100分となっている明神ヶ岳の山頂まで、さらに悪路が続いて180分かかった。冗談ではない。もう山歩きなんか二度とするもんか、という気分になったが、山頂からの景色を見たらもう少しだけ続けるかという気になった。

1 3 : 26

箱根の大涌谷が望める。明神ヶ岳は標高1169m。360度の眺望があり富士山や相模湾も望めるというけど、富士山はどこにあるか全然わからなかった。そんなことは別にかまわない。正午までに登頂するはずだったから、ここから先も地図にある時間より余計にかかるようなら先を急がねば日が暮れる。とはいえ、昼食を取らないと危険なのでバウムクーヘンを口に入れる。食欲がなくて1個しか入らなかった。441kcal。まあ食べないより断然いいだろう。

14:08

ところがである。明神ヶ岳から金時山のほうへ続くハイキングコースはよく整備されていて歩きやすかった。地図に書いてある時間通りに無理なく歩けた。やはり整備は大切だ。ちょっと崩れても通行が困難になるのだから、自然通りの自然の中など歩けたものではないだろう。自然じゃなくて人工を満喫するのがアウトドアの醍醐味だとつくづく思った。逆説のハイキングだった。

15:18

せっかく下りてきたのに、また上るのかよと思わなくもないけど、整備されてるから平気だった。こんなところ、ちょっとでも放置したら植物にすぐ覆いつくされて人が通ることなど不可能になる。足柄にくらべると箱根のほうがコース整備に余念がないと感じた。箱根のほうから明神ヶ岳に登頂した人が、つらそうな様子だったけど足柄はもっと大変だから、いまごろ立ち往生してるのではないかと心配になった。

16:31

登山口まで下りてくる道もちゃんと階段になってた(崩れてなかった)ので、おやつにバウムクーヘンの残りを食べて元気に歩行できた。おかげで日が暮れるまでに下山できたけど、足柄のほうへ下っていった人たちは最乗寺にたどり着くころヘッドライトがないと怖いかもしれない。想像するだに恐ろしい。足柄はしばらく敬遠して、そのうち気が向いたら金時山にでも登ってみようかと思った。

 

関連記事:  足柄・箱根

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八甲田

2022-07-10 | Weblog

私は今、千人風呂で有名な八甲田山中の温泉、酸ヶ湯(すかゆ)の湯治部に宿をとって万年床でブログを書いている。場合によっては最後の普通選挙になるかもしれない参院選の開票速報を横目に見ながら……そんなことはどうでもよい。期日前投票を済ませたときから諦めはある程度ついているのだ。元総理のボンボンがいまさら死のうと生きようと、国境を越えた法人の奴隷にこの国の個人が落とされるのは規定路線にすぎないのだから。

 

なんでまた八甲田に来たのか。それは練習のためだ。白山にいつか登りたいとブログにうっかり書いた(下のほうにリンク)のを友人が読んで覚えていて、8月末に金沢で仕事があるからその前後1泊2日で白山に登らないかと誘われたのだった。山登りなど久しぶりなので装備をかき集めて整え、事前に一度ぐらい全部かついでトレッキングぐらいしておこうと酸ヶ湯に転がりこんだ。鹿が傷を癒す鹿湯(しかゆ)が訛って酸ヶ湯(すかゆ)になった湯治場に転がり込むのは確か2009年の9月以来、2度目だが特に変わりない。部屋でWi-Fiが使えるようになっていたから気兼ねなく長文が書けることぐらい、あと千人風呂に混浴じゃない時間(女性専用)が朝夕1時間ずつ出来たことぐらいが変化といえば変化だろうか。

 

千人風呂は入るたびに小さくなる。2009年に騙されたときは「百人ぐらいしか入れないな」と思ったものだが、今回さらに縮んで女性が混浴時間に姿を現さない。あっ現れたと思ったらおばあさんで、おじいさんと見分けがつかない。以上はきっと気のせいで前回もたぶん同じようなものだった。湯治部に漂う硫黄の匂いは変わらない。横溝正史の『獄門島』か『悪魔が来たりて笛を吹く』か『八つ墓村』か何か万年床で読んだことを覚えている。どれだったか忘れた。寝具や雨具や防寒具を全部かつぐ練習など1日やれば十分だから、2日目はデイパックで奥入瀬あたりを冷やかそうという魂胆で今回やってきた。天気がいいとは限らないし、Kindleで何か読みながら湯治部でごろごろして帰るだけになるかもしれない。別にそれでも構わないと思いながら来た。

 

6月のうちに梅雨が明けたから大丈夫だろうと思ったのに駄目だった。ちょっと晴れ間が見えて「今だ!」とばかり雨具とバックパックを装着して酸ヶ湯から八甲田ロープウェーまで1時間ほど歩き、結局のところ雨に降られた。わざわざ雨具のテストをしに来たようなものだ。日露戦争の演習で兵隊さんが200人ぐらい、ほぼ全滅したという雪中行軍に比べればどうということはない。ロープウェーで高度を稼いだ。霧で何も見えなかった。

 

小雨なので人もいないし、足場も悪いに違いないから、大岳まで歩いて酸ヶ湯に下るルートを諦めてひょうたん型の遊歩道を歩いてまたロープウェイで下りて来た。練習にあまりならなかったけど、なあに構うもんか。酸ヶ湯に戻るバスを待っていると、タクシーの運転手さんがバスと同じ400円で行くよと声をかけて来たので乗車した。見てるとメーター倒してないから、400円は運転手さんの小遣いになるんだろう。いいことをしてスッキリしたので千人風呂にゆっくり入った。

 

関連記事:    (白山)

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三鷹くんだり

2022-07-02 | Weblog

まだ中野に住んでいたころ、三鷹で暮らす先輩から「三鷹くんだりに遊びにこないか」と誘われて家にお邪魔したことがある。それ以来、三鷹といえば「くんだり」と脳に刻み込まれて早20年あまり。

三鷹くんだりの駅南口から、電車庫通りをさらに約500mくんだり歩いたところに三鷹車両基地があって、車両基地の上を歩いて渡れるように跨線橋が掛かっている。昭和4年(1929年)に作られたもので、あと7年すれば100周年だが、それまでに解体されるかもしれない。

晩年、玉川上水で入水自殺するまで三鷹くんだりに住んでいた作家の太宰治は、好んでこの跨線橋をぶらぶら渡ったというので有名だ。短い生涯に入水自殺を繰り返した太宰治だけど、ここから列車に飛び込んだことは一度もない。飛び込んだらどうなるか考えたことはあるかもしれない。

跨線橋は鉄道のレールを再利用して作られているから、よく見るとレールをぶった切って組み合わせ、塗装してある。そんなことも希少なので歴史的価値があるのではないかと保存活動もあったそうだが、結局は解体されることになったと聞く。ただし、その時期までは決まっていないようだ。

跨線橋からは車両基地をこのように見下ろせる。太宰治がぶらぶらした当時、すでに電化工事が終わって電車が行き来していた。汽車が当たり前の時代に電車というだけで珍しかったんだろう。「電車庫通り」という名称にそんな気分の名残がある。

昭和23年(1948年)に太宰治が入水自殺した玉川上水は、跨線橋を渡ってすぐのところを流れている。こんなチョロチョロした流れに入って命を落とすことが果たしてできるだろうか? 死ぬつもりなかったのでは……と思いがちだが、当時は今よりも水量が多くて流れも急だったという。

しかし、玉川上水にたたずむ太宰治の写真と見比べるかぎり、それほど現在より水量も多くはないし流れも急ではないように思われる。流れに沿って歩いていくと、太宰が入水したあたりに写真つきの金属パネルが立ててある。わかりやすい。

故郷の青森県北津軽郡金木町から「玉鹿石」を運んできて、太宰が入水したあたりに据えてある。とてもわかりやすい。後追いしようとする人がいたら目印になるはずだけど、流れがあれでは余程たくさん睡眠薬を飲まなければ後追いなど無理だろう。

そこから下流に900m行くと三鷹の森ジブリ美術館がある。太宰の土左衛門が上がったのは1.2km下流だから、三鷹の森ジブリ美術館の近くだ。わかりやすい。駅のほうへ引き返し、南口の中央通りを突き抜けた先にある禅林寺の墓地へ。

そこに鴎外、森林太郎の墓がある。漱石、夏目金之助の巨大な墳墓に比べると慎ましい。陸軍の人でも作家でもなく、石見の人、一介の私人として葬られたいと希望していたそうだから遺言の通りか。森林太郎と刻んだ墓石が削られているのは、心ない人が記念にかけらを持ち帰ったものか。

斜め向かいに太宰治の墓がある。隣は妻の美知子が眠る津島家之墓だ。太宰は生前、鴎外の墓に参って「私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いもあるかもしれない」と言っていたそうだが、片隅ではなく鴎外の墓のそばに埋められて恐縮しきり、含羞しきりかもしれない。

 

関連記事:  金木 

 

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