散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

観音崎

2016-10-23 | Weblog
秋は海。というのも夏はベタベタするし人が多いから、風が涼しくて人が少ない秋の海こそ心地いい。
とはいえ海が見たくて来たわけではない。


海のそばの美術館を訪ねてきた。

横須賀美術館で企画展を見て、収蔵品展を見て、谷内六郎館を見た。いい季節だからか、美術品も
よいけど自然の風景を眺めても美しい。


いつのまにか散歩の秋だった。

美術館のある観音崎公園のお楽しみマップを見つけた。このあたりは歩きがいのありそうなところだ。
とりあえず美術館の裏手の丘に上ってみる。


明治29年竣工の砲台があった。

24加砲4門、12加砲2門の砲台が、ほぼ原形のまま残されている。加砲って何だろう? 調べたらば
加農砲(カノン砲)のことだった。


こんな配置になっているみたい。

昭和9年まで使われていた地下の弾薬庫、見張所、井戸、便所などが残っている。こういう砲台跡が
観音崎には何か所も残っている。


東京湾の門だから

観音崎と対岸の房総の富津のあいだは、東京湾で最も幅がせまく、6 kmしかない。浦賀水道という
この場所に大砲をいくつも置いて、さらに海堡を3つ設けて狭くして備えた。


砲台のある丘から下りてくる。

手前が横須賀美術館で、その向こうが観音崎京急ホテルに隣接する温浴施設「SPASSO」。食事と
セットの料金が看板に出ていて、機会があったら来たいなーとか思いつつ観音崎のほうへ。


あの岬が観音崎らしいな……。


その手前にレストハウス……。


アジ刺身定食を食べることに。

昼ごはん食べてから観音崎を歩く。じつは初めてじゃなくて、1992年の暮れに家族とハトバスで
きたことがある。三崎の市場とかをめぐるコース。1993年の暮れだったかも。どっちにしたって、
もう20年以上も昔。


あまり覚えてない


人々が波打ち際で遊んでいる

どうして観音崎っていうんだろう? と思ったら、奈良時代に僧の行基が船の安全のために十一面
観音を、海蝕洞穴に納めたことに由来すると立て看板に書いてあった。カノン砲があるからじゃない
んだな。


これがその洞穴

江戸時代までは寺や社がいっぱいあったが、明治になって軍事的に重視されるようになると寺社は
観音崎から立ち退いた。関東大震災のとき灯台が崩壊して、その残骸があるそうだ。


……あれのことかな?

あれは第二次世界大戦のとき、潜水艦の音を調べるために造られた「聴測所」だという。それでは、
崩壊した灯台の跡はどこに?


素掘りのトンネル

トンネルをくぐると、そこはもう浦賀につづく道路だった。こっちではないらしいので、戻って探す。
灯台の残骸なんか見落とさないと思うけど……。


一体全体どこだろう……おや?


あそこにあるのはもしかして?


どうもあれが灯台の残骸らしい


パッと見に岩と同化してる……

せっかくから現在の灯台も見物する。1992年だか、1993年だか、ハトバスできたときも確か
灯台に上ったから今日も上ってみよう。


記憶より小さい!


あまり記憶ない!


上ってみると落ちそうでこわい!
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越後長岡

2016-10-21 | Weblog
花火大会が有名な長岡にきてビックリした。JR長岡駅はもと長岡城の本丸があった場所にあるという。
そんな城下町があるなんて。


大手口は大手門の側の出入口

鉄道を敷くときに、普通ならお城をさけて駅をつくる。たいていの場合、駅前がさびしい城下町はお城が
駅から離れていて、繁華街がお城のまわりにあったりする。お城のそばに線路を敷いて駅をつくる町も
あるけど、お城をつぶして駅にする城下町なんて聞いたことがない。


大手口に長岡城本丸跡の石碑

城の大手門の外にあるのが普通の駅、大手門の中にあるのが長岡駅。なぜそんなことを。戊辰戦争で、
奥羽列藩同盟に越後長岡藩が加わって、奥羽越列藩同盟として官軍に対抗して負けた経緯があるから、
薩長の明治政府に睨まれて城の本丸に鉄道を敷かれてしまったのでは? と勘ぐりたくなる。


大手通りに城の二の丸跡がある

長岡城は、戊辰戦争で焼ける前は独特の構えから「苧引形兜城(おびきがたかぶとじょう)」と呼ばれた
そうで、白狐のアドバイスを受けて築城したという。その白狐を祀った場内稲荷神社が、二の丸の跡に
いまもある。明治政府も本丸はつぶせても白狐の社はつぶせなかったのか。


白狐の社の狛犬はカエルだった

官軍にやられて荒れ果てた長岡だが、明治2年に人材育成のための国漢学校が開かれた。昌福寺の
本堂を借りて始められた学校で「米百俵」の逸話がうまれる。小泉純一郎が国会で引用していたから、
なんか聞いたことある。


商店街に常在戦場、米百俵のノボリ

廃藩置県になる前のこと、明治3年に三根山藩(現在の新潟市西蒲区)から長岡藩への救援として、
米百俵が送られた。米の分配を求める藩士らに「人づくり」の重要性を説いた小林虎三郎という人が、
食べてしまえばおしまいの米を金に換えて国漢学校の整備資金にあてたというエピソード。


国漢学校の跡地に米百俵の碑

ライオンハートは虎三郎をほめながら、痛みをともなう改革を弁じてたっけ。刻苦精励する富国強兵の
日本人を、長岡人は先取りした。長岡は日本の縮図のような町で、第二次世界大戦でも爆撃で焼けた。
維新で焼けて大戦で焼けて、それでも勤勉に立ち上がった。


長岡戦災資料館に立ち寄る

1945年7月20日に長岡に落とされた超大型爆弾は、模擬原子爆弾だった。広島、長崎などと共に、
長岡は原爆投下の候補地に挙がっていた。


平和像をながめる

8月1日の夜10時30分、アメリカ軍のB29による焼夷弾爆撃がはじまり、2日の午前0時10分まで
1時間40分にわたり空襲が続いた。市街地の8割が焼け野原になり、1,486人の命が失われた。


長岡出身、山本五十六の生家

連合艦隊司令長官、山本五十六の生家があった。よく焼けなかったなと思ったけどそんなはずはなく、
戦後あらためて復元されたもの。


山本五十六の像

生家の前にある山本五十六の胸像は、もとは全身像だった。敗戦後、進駐軍に汚されるのを怖れて
二分され(おそらく上下に分けられ)、霞ヶ浦に沈められた。その後、湖底から引き上げられて、現在
の像の原型になったという。下半身は引き上げられなかったのだろうか?


山本五十六記念館のぞいていく

乃木大将の家は東京に保存され、その奥に乃木神社ができて祀られているから、山本五十六の家の
そばにも神社があるかなと思ったら、神社のかわりに記念館があった。ブーゲンビル島で墜落して戦死
したときの、爆撃機の左翼がぐちゃぐちゃになったものを展示してあり、迫力があった。


いい感じの店だな

お腹がすいたので長岡で創業50年になるという、中華料理おがわに入る。新潟県内で3本の指に入る
レバニラ炒めが自慢の店で、店主の手書きポスターが店の外にも中にも貼ってある。


「今とても注目されています」と

「軟らかな食感、味付けがおいしくビール、お酒、焼酎がぐいぐい、ライスもぐいぐい、ブラボーです」
などと書いてある。どんなレバニラ炒めかと思ったら……


こんな感じのレバニラ炒め

創業50年ということは、敗戦後20年ほど経って長岡に店を開いたことになる。そのころはもう
焼け野原ではなく、所得倍増計画とか列島改造論とか景気のいい話も聞かれたろうか。むしろ
今のほうが商店街にシャッター下りてたり。


ネコの写真だらけ

本丸跡の駅から、二の丸跡、米百俵の碑、戦災資料館、山本五十六の生家、中華料理おがわ
などはすべて歩いて回れる。敗戦後に町を盛り上げるために始まったという長岡の花火大会も
機会があれば見てみたいけど、きっと機会はないだろう。

関連記事:  乃木坂
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会津若松

2016-10-15 | Weblog
会津若松にきたのは何回目か、はっきりと思い出せない。何度きても、これでもう十分だ
ということがないのは一体どうしてだろう。また会津若松にきた。


赤べこアゲイン

きたからには鶴ヶ城まで歩こうと思って雨の中をいく。駅から微妙に遠いけど歩けないと
いうほどの距離じゃないのも会津若松を見つくした感じがしない一因かも。鶴ヶ城なのか
会津若松城なのか、地元とそれ以外で呼び方に差がある点も。


雨が激しくなってきた……

バス停に雨宿りして、ここからバスで行くのも半端だけど雨の中を歩いていくのもな……
と思って振り向いたら、蔵なのか館なのかリフォームした飲食店がある。ちょうどお腹が
空いたところなので、雨宿りがてらランチにする。


1,550円のコース頼んでみた

「料理をお待たせするかもしれませんが」というわりに前菜がすぐ出てきた。「ハンバーグ
と野菜の店」と掲げているだけあって野菜のテリーヌがおいしい。


カジュアルなお見合いしてる

若い男女のそれぞれの母がついてきて、デートの見送りを兼ねて政治的なやりとり(?)
を繰り広げている。そのうち若い人たちが立ち去り、母同士おしゃべり。


よく見るとデートが多い店だ

油でじっくりと余分な脂を落とすってメニューに書いてあったから、ハンバーグに時間が
かかるかもって覚悟していたが、それほど待たされなかった。しかしである。


デザートでかなり待たされた

リベンジブログじゃないけれど「デザートお持ち致しますね」といわれてから30分ぐらい
何の変化もなかった。雨宿りだから構わないとはいえ、お店の人が行き来してもお冷を
注いでくれるでもなく、うとうとしたころデザートとコーヒー到着。


2時間近く滞在していたかも

おかげで雨がちょうど小止みになり、そろそろ移動しなければいけない時間がきたので
鶴ヶ城はあきらめて駅のほうへ戻る。こんな調子でやってたら会津若松に何回きたって
これで十分ということにならない。


またくるぞ~~

ちなみにハンバーグはおいしかった。駅に戻る途中で、状態のいいキカイダーの立像を
見かけた。磐越西線に乗ったら雨がまた激しくなってきた。
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浦島急行

2016-10-02 | Weblog
打ち合わせで来たことある。京浜急行の仲木戸駅とJRの東神奈川駅はこんな通路で結ばれている。
どうして相互に乗り換え案内しないんだろう? どちらの駅からでも、横浜方面に歩くと5分かからず
浦島寺につく。


浦島観世音浦島寺

いじめられてた亀が背負ってる。浦島太郎は丹後の人だと聞いたけど、ここには太郎が竜宮城から
持ち帰った観音像があるという。


本当の名は慶運寺

浦島太郎の父の浦島太夫(ほんまかいな)は相模の人で、丹後に移り住んだ後、太郎が生まれた
そうな。太郎は二十余歳になると亀を助けて竜宮へ。そこで3年暮らし、澄の江の浦に戻ると里には
知る人もなく、相模に父母を訪ねて下ると三百余年前に死去していた。


ここに竜宮から持ち帰った観音が

がっかりした浦島太郎は神奈川の浜から亀に乗り、竜宮に戻って再び帰らなかった……あれ?
玉手箱は? 玉手箱を開けておじいさんになって、ぼんやり生きたんじゃなかったっけ。


竜宮産の観音像

やっぱり亀に乗っている。立ち乗り。どうも浦島太郎より亀のほうが目立ってる感じがするけど、
これが浦島観世音であれば浦島がメインだ。自分で自分の観音像を土産にするかな普通。


神奈川新町の駅前に浦島公園

仲木戸駅まで戻り、京急で1駅の神奈川新町で下りると、そこに浦島公園がある。京浜急行は
まるで浦島伝説のために敷かれた鉄道のようだ。浦島急行、略して浦急。


浦島公園の所在地は亀住町

やっぱり太郎より亀が目立ってるような気がする。浦島は失踪してしまったが、亀はそれからも
相模の浜に住んでいたのだろう。


となりは浦島町…

亀だけじゃなくて浦島も地名になっていた。バス停ひとつ分、京急の駅もひとつ分。子安駅まで
歩く途中にある浦島町。川の向こう岸(海側)は新浦島町。


商店街のゆるキャラ、かめ太郎

やっぱり亀のほうが太郎より目立ってる……ゆるキャラグランプリ2016 in 愛顔のえひめにも
エントリーしてるそうなので、かめ太郎に投票してあげてください。


子安駅の近くにある蓮法寺

失踪した浦島太郎が浦島大明神として祀られた観福寿寺は幕末の慶応四年(1868)に焼けて、
その跡地に大正末期どこからか移転してきた蓮法寺に供養塔がある。


亀と浦島観音像?

子安、神奈川新町、仲木戸と京急沿線に浦島太郎ゆかりの地が広がっているのを見て歩いた。
万葉集にも出てくる古い時代の人がこのあたりに実在したかどうかはわからない。


亀なら実在したにちがいない

関連記事:   小浜 (人魚伝説)
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