散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

東池袋

2021-09-25 | Weblog
東急ハンズ池袋店がなくなるという話は、たしか春ぐらいには聞いていた。なくなる前に
いちどぐらい名残惜しみに行っておくか、なんて思ってるうちに夏がすぎ、秋になった。
たしか秋ごろ閉店するという話だったから、もう消えたかもと思って足を運んでみたら、
なんということだろう! まだあった。



10月31日まで営業するらしい。思ったより長くやるんだな。しかしせっかくの機会だから
売場をひと通り見て歩いて、名残惜しませてもらう。中学高校の頃、池袋駅からけっこう
離れている東急ハンズまで、よく歩いて買い物にきた。東急ハンズがなかったら、こんな
ところまで足を伸ばさなかっただろう。



1980年代、私は練馬に住んでいた。練馬区民なんて、ほぼ埼玉県民のようなものだから、
都会に出るといっても池袋がせいぜいで、渋谷の東急ハンズは恐れ多くて立ち入ることが
できなかったといっても過言ではない。いちど挑んだ渋谷のハンズは螺旋階段状でめまい
がした。池袋のハンズはエスカレーターがあるので与しやすい。



池袋ハンズの脇にはサンシャインシティに至る地下道が口を開けている。昔の巣鴨刑務所
である。人道に対する罪でデス・バイ・ハンギングの巣鴨プリズン跡地にたくさんの人が
吸い込まれていく。自分もよく吸い込まれたし、東急ハンズの裏側の寂しい路地に寄った
ことも少なくない。バブルを他所目の裏道通い。



人目につかない雑居ビルの奥に、その昔「まんがの森」があった。レアなまんがを買いに
よくきた。いまは「K-BOOKS」のキャスト館VOICE館に変わっている。「K-BOOKS」
が東池袋で増殖して、乙女ロードを牽引しているらしいのだ。中野のブロードウェイ内で
「まんだらけ」が増殖して沼化したようなものか。



東急ハンズ脇の首都高をくぐると、乙女ロードがひろがっている。道路の向こうに見える
スポーツショップは昔、トヨタのアムラックスだった場所じゃないだろうか。その奥の、
ちょっと前まで誰も足を踏み入れなかったようなところに乙女ロードがひろがっている。
なんだろう、どういうんだろう? 乙女ロードって。



コスプレ者がたくさん歩いている。集団で向かってくるグループを撮るのは気が引けて、
後ろ姿を写すにとどめた。あの人はどう見ても男だった。乙女ロードなのに男であった。
そういう専門の乙女ロードだったら困るなあと思ったけど、コスプレ集団の人口構成は
普通の意味の乙女が主だったので安心した。



全体を1枚の写真に収めることはできないが、これが東池袋の乙女ロードだ。先ほどの
「K-BOOKS」の他にも「アニメイト」や「とらのあな」などのさまざまな業態の店が
軒を連ねて腐女子を待っている。いつのまにやら、そういうことになっていたようだ。
BL関連グッズ専門店など入って大丈夫だろうか。



入ってみると意外に大丈夫だった。どのタイプの店も在庫点数が多い商品は缶バッジで、
缶バッジなら無限にモチーフを変えて廉価で製造して高値で売ることが可能だろうから
どんな専門店だって増殖できる。元「まんがの森」の場所はキャスト館VOICE館だった
し、乙女ロード内でも店舗に棲み分けがあるらしい。



こちらの1階は乙女ゲームグッズ専門店で、地下はアニメ館だ。興味がなければどれも
一緒に見えるはずだが、関心の強い乙女にとって全然別ジャンルに属すると思われる。
巣鴨プリズンの真ん前がこういうことになったのを目の当たりにすると感慨を催しそう
になるが、ぐっとこらえつつ各店をのぞいて回った。



おじさんはアニメ館がいちばん親しみやすいと思った。せっかくだから何か買おうかと
本気で棚の商品を物色したけど今日のところは購入に至らなかった。エヴァンゲリオン
のグッズなんか結構エロいのもあって、乙女向きじゃないんじゃないかと戸惑ったり、
2次創作はこんなもんじゃないだろうと推測したり。



そうなのだ。お昼ぐらいにならないと店がオープンしないのに、2次創作物を扱ってる
と思われる同人館の前だけ朝9時台から行列ができていて異様だったのだ。そこに並ぶ
どこか共通点のあるお客さんは、人によりイメージが違うかもしれない言葉の使い方に
公正を期するかぎり、乙女と呼べそうな人々だった。


関連記事:    B&C

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロラド

2021-09-11 | Weblog
松陰神社にコロラド1号店があると聞いたのは今年2月11日。どうしてわかるかというと
メモに日付があるから。どこかの喫茶店でブラジルを飲んだ話をSNSに上げたら、自分が
生まれたときにはもう社会人だった人生の大先輩から、松陰神社のコロラドでブラジルを
初めて飲んだときの感想がコメント欄に寄せられた。1号店なのだそうだ。



ゆうに20年は先に世の中を渡ってきた人の足跡を辿れる貴重な機会だと思ってメモした。
メモ魔をなめてはいけない。7か月も経って、高校の先輩が先週このあたりを豪徳寺から
闊歩してSNSに上げたのを見てコロラド1号店を思い出し、涼しくなってきたことだし、
「風立ちぬ……いざブラジル飲めやも」と三軒茶屋から路面電車に乗ってきた。



神社の境内に松下村塾の模造がある。吉田松陰は幕末の長州で私塾=松下村塾をひらいた
思想家で、門下に倒幕のテロリストを輩出し、自身も安政の大獄に連座して江戸の牢獄で
30歳の若さで刑死した。4年後の文久3年(1863)門下の高杉晋作、伊藤博文らが毛利
の所領だったこの地に葬り、幕府瓦解後の明治15年(1882)墓のそばに社を築いたのが
松陰神社のはじまり。



長州・山口の選挙区を親から受け継いだ東京育ちの世襲議員、安倍晋三が自らを記念する
私塾のようなものを籠池さんに作らせるために、官有地を破格の安値で売却させた疑獄が
森友学園問題だったと、松下村塾の模造を見て思い出した。修学旅行で山口の松下村塾を
見物したはずだが、何も思い出さない。あの頃まったく興味なかったから。



長州人は明治から同じような疑獄ばかり繰り返してる。幕府から日本を取り戻すつもりで
いるのかもしれない。400年の恨み、150年で取り戻すアベノミクスは道半ばで終わった。
国民から吸い上げたものを私する流れはアベノミクス以後も政府自民党内で継承されてる。
墓所に眠る吉田松陰の、「やむにやまれぬ大和魂」はそんなものじゃなかったはずなので、
さぞかし「売国奴」「国賊」とお怒りのことだろう。



烈士ごっこも済んだところで、世田谷通りに面したコロラド1号店めがけ参道を引き返す。
おしゃれっぽくて目新しいカフェがそこかしこにあるけれど、脇目を振るだけで寄らない。
コロラドでブラジルを飲むのが本日のメインエベントで、ネトウヨが逆上しそうな憂国は、
おまけにすぎないのだから。



まんまとブラジルをいただく。松陰神社にきてよかった。座ると灰皿がそっと差し出され、
そうかコロラドは喫煙ありか。郷に入りては郷に従え。とはいえタバコの持ち合わせがない
ので胸いっぱい副流煙をたしなみながら本を読む。メモ魔は覚えている。ここをコメントで
教えてくれた大先輩がもう1軒、近くの店を紹介してくれたことを!



世田谷通りを下ると、そこも営業してた。大吉……炒飯が美味しいと聞いたので、迷わずに
五目炒飯を注文した。本日の第2の目当ては大吉の炒飯であって「やむにやまれぬ大和魂」
の持ち合わせは元々ないのだから。安政の大獄を引き起こした井伊直弼ら、井伊家の菩提寺
である豪徳寺まで歩く歴史への興味もない。



直弼は彦根城の内堀の外に建てた離れ小屋に閉じ込められて育った。ひこにゃんは直弼の
怨霊じゃないのかと、彦根城の界隈を徘徊したとき思った。桜田門外の変でやられたし。
ごくつぶしとして軟禁された子が大老にまで上りつめ、憂国の志士を大量に検挙して獄死
させた果てに自らも惨殺されて、ひこにゃんになった。炒飯ほおばりながら、そんなこと
ばかり考えてブログに書こうと思った。おいしかった。



関連記事:   彦根
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野間大坊

2021-09-04 | Weblog
暮れも押し詰まった12月29日に風呂場でホッとしたところを信頼する長田忠致に斬り殺されたところへ
来てみたら、思ったよりも田舎だった。誰が斬り殺されたって、861年前に平治の乱で敗走した源義朝。
雪が降る琵琶湖のほとりで息子の頼朝とはぐれて、命からがら逃げ込んだ尾張国知多半島の野間大坊に、
その義朝の墓がある。



配下の長田に風呂を勧められて入浴してるとき騙し打ちに遭った。「我に一握りの木太刀のありせば」
と叫んで死んだ。かわいそうなので墓の石塔をかこみ、木太刀がいっぱい並べてある。願い事を書いて
供えれば叶えられるとか。塔を埋めつくす勢いで、おびただしい願い事が寄せられている。



当時の風呂は文字通り、蒸気を浴びる密室だったから刀を手の届く場所に置けない。五右衛門風呂なら
そばに立てかけて危険を悟れば掴んだ刀で防ぎようもあったかもしれないが、裸に湯帷子一枚はおって
生き返った心地で密室にいたら襲われておっ死んだ。



墓に供える木太刀は絵馬といっしょに500円で売られていた。願いを書いて奉納するのだから木太刀も
絵馬もおなじようなものか。ちなみに、湯に入るタイプの風呂が広まったのは室町時代だというから、
鎌倉時代や平安時代の生活習慣はいまと全然ちがって、日本と呼んでいいのかどうか迷うくらい意識も
感覚も現代人と隔絶してる。



ところで惨殺された義朝の墓がなぜ堂々と残っているか不思議だけど、首は平清盛のいる都に送られて
胴体は野間大坊に葬られたらしい。後年、息子の頼朝が天下となり、供養のために石塔を建てた。脇に
ある池禅尼の塚も頼朝の寄進と伝わる。池禅尼は清盛の継母で、頼朝が捕らえられたとき助命を乞うた
のが後に平家の命取りとなったが、頼朝には感謝された。



何百年も前のことだから痕跡なんか残っているほうが本当はおかしいのに、なぜそれがあるのだろうか。
いちどは風化しかけたものを後世が新しく整えたか、ないものを拵えたのでは? というのも、血の池
を見てしまったから、そう考えずにいられない。



殺された義朝の首を長田が洗った血の池で、国に変事が起こると池の水が赤くなる。菅義偉が急に昨日、
総理総裁やめると言い出したので、そろそろ池の水が赤くなるかもしれない。やめてくれてよかったら、
血の池の水が赤くならない。



本能寺の変で頓死した織田信長の三男織田信孝は、豊臣秀吉に攻められてこの寺に逃げ込み切腹した。
何百年か時代が離れているけれども、気を許した配下に討ち取られた無念は同じという意味を込めて、

  昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前

という辞世の歌を詠み、切腹して自分の臓物をつかみ出すや掛け軸に投げつけた。そんなエピソード
も、どれくらい盛ってあるか分からないけど伝えられている。



インドネパールより伝来(どっちなんだろう?)般若心経が刻まれています世界で最初のマニ車……
世界で最初のは盛りすぎ! さすがにそう思った。




関連記事: インドの車窓から



Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする