散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

漱石山房

2014-02-23 | Weblog
土曜の夕方から高田馬場に用があったので、午後ぶらぶら飯田橋から神楽坂をのぼって早稲田通りをあるいて
馬場へ。神楽坂ってこんなに急だったっけ?


天気いいから散歩

榎木町のあたりまでくると店がまばらになり、人通りも少ないので、看板があると目立つ。ネーミングセンスって
言葉など思い起こしつつ、眺めていくと……。


お食事処ブリッジ、キッチンスマイル、喫茶すーぱーみるく……

それぞれ思いが込められているんだろうけど、どんな思いが込められているのか、ちょっと測りがたいものが
ある。とくに喫茶すーぱーみるく、入っても大丈夫なのかな? そこいくと明快なのが、


居酒屋二十二坪

込められた思いが、一目でわかる。ブリッジより、スマイルより、すーぱーみるくより、安心して入れそうだ。
(好みの問題かも)


その先にある表示

三角定規の鋭角のところ(30度)ぐらいな路地に、漱石山房通りと掲げてある。なんだろう? 夏目漱石が
住んでいたのかどうか、ちょっと確かめにいってみる。


なんにもなかったらどうしよう…

細くて曲がりくねった上り下りの多い道をしばらく歩いて、あきらめかけたころにまた漱石山房通りの表示が
立ってた。明治の文豪、夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあったと書いてある。


あそこの空き地みたいなところに家があったらしい


銅像があって……石塔がある……

銅像のほうは見ればわかるけど、石塔のほうは何だろうかと思って、説明を読んでみる。これは「猫塚」という
そうだ。「吾輩は猫である」の猫ではなく、漱石の没後に遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥を供養するために
建てたと書いてある。なんという、まぎらわしいことを!


漱石はここに10年ほど住んだ

明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで、「坑夫」「文鳥」「夢十夜」「三四郎」
「それから」「門」「彼岸過迄」「こころ」「道草」「明暗」などなど、プロとしての執筆のほとんどを、ここで行なった
……それなら、たしかに「吾輩は猫である」は越してくる前だから「猫塚」の猫は別の猫だ。




それっぽくこしらえてある!!





鍵がかかっていて中を見ることはできませんでした。もときた道を引き返して、早稲田駅の近くで夏目坂通り
を上ってみると、そこにも何か書いてある。


漱石の随筆「硝子戸の中」(大正4年)によると…

「漱石の父で、この辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に
広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった」って、あんまりいい話でもない。


振り返れば……

ちゃっかり便乗商売で、「酒菜そうせき」という店がある。漢字ではなく、ひらがなで「そうせき」ってところに
遠慮を感じる。この坂のあたりに、漱石誕生の地っていう石碑があるらしいけど見当たらない。


やよい軒の店先になんかある

学生服の3人組がたむろしてる定食屋、やよい軒の店先になんか立ってる。「夏目漱石誕生の地」って石碑。
生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主
塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍したって書いてある。


苦労したのかな~

それでも生家のすぐそばで晩年を過ごし、木曜会なんかも開いて、多くの人に惜しまれて亡くなったのだから
よかったんじゃないかな。さて、そろそろ高田馬場に行かなくては……。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ど奈良

2014-02-15 | Weblog
隔世の感というのか、昔と違って最近の小学生は友達の影響なのか、あるいは親の影響なのか何なのか
中学受験する子が多いみたいで、うちのも小学校の高学年ぐらいから勉強・勉強・勉強の日々に突入して
聖武天皇だの国分寺だの国分尼寺だのと詰め込まれてお気の毒……それもようやく終わったようなので、
「奈良でも行く?」って聞いてみたら「行く」っていうから、ど奈良見物へ。


ど定番の奈良2泊3日

いつもやってる重箱の隅をつつくような散歩がウケるわけないので、ど定番の名所ばかり連れ回してみる。
学校を1日休ませて、日曜・月曜・祝日の3日間コース。初日の午後は近鉄奈良駅から歩いて奈良公園へ。
関東は積雪してるけど関西はしてない。鹿が寒くて丸まってる。


さっそくガラケーで撮影

どこまでベタなんだろう、と思いながら放っておく。すると女性が近づいてきて、上着を脱ぎだしたから
カメラをそっちに向けてなりゆきを見守る。


なんだ? 収録でもないのに脱いで

タレントでもないようだから、デートで男の好感度を上げる荒業に出たかと同伴者を見たら、母親らしき
熟年女性が一眼レフで連写してる。え? なにそれ!


寒さこらえる根性

どことなく衣装っぽい薄着で、鹿も丸まる寒さを感じさせない自然な笑みを浮かべるプロ根性みたいな
ものは、何が目的? 気になるけど、怖いので子を連れて立ち去る。


ど定番の大仏殿を見にゆく

全国の国分寺の1号店だよ、みたいなことを話してみるけど反応が薄いからやめる。そのわりに大仏は
見たいらしい。どこまでベタなんだろう。ぜったい柱くぐり挑戦するね(実際した)。


ど定番の盧舎那仏


顔面を撮ってみた


賓頭盧尊者も顔面


それから胴体も…

悪いところをなでると治ると書いてあるので、ためらわずに頭なでようとして、届かないといっている。
そろそろ鹿にエサやって遊んだら?


しかせんべい150円を購入


しかに追われる身になる


せんべい持つとこうなる

しばらく遊ばせておいて、そのすきに氷室神社(すぐそば)を訪ねてみる。折しもソチで冬季オリンピック
やってるときで、氷室だけにアイススケートの応援コメント書きこんだ絵馬が多い。


氷室京介のライブがどうこういう絵馬もチラホラ

そうこうする間に、しかせんべいを買い足したりして、しか遊びを存分に堪能したようなので、ちょっと
奈良国立博物館につきあってもらう。中国古代青銅器のコレクションがまた見たくて、写真撮影禁止
なのでしかたなく、ミュージアムショップで800円はたいてカラー解説図録を購入。これはホテルで、
子供が寝てから楽しむ大人の絵本。


坂本コレクション

青銅器ばかりでなく、せっかくだから仏像やら仏具やら何やら見物して、今日のところはこれぐらいに
しておく。聞いてみたら、明日は法隆寺に行きたいというのでそうすることにした。


夕暮れの猿沢池


あくる朝の猿沢池

池の周囲を歩くと、鳥居に背を向けた祠がある。普通は鳥居の方を向いているものだけど、立札によると
わけあって背を向けているらしい。


鳥居のほうは裏面みたい

奈良時代、天皇の寵愛が薄れたことを嘆いた采女(女官)が猿沢池に身を投げて、この霊を慰めるため
に祀られたのが、この采女神社。ところが、入水した池を見るに忍びなくて、一夜のうちに背を向けたと
木の板に書いてあった。


こっちを向いてしまった……

ま、それはともかく、この池のすぐそばの興福寺に寄って東金堂の仏像を見たり、国宝館の仏像を見たり
する。人気沸騰しているという、阿修羅像のあるところ。千手観音の手が千本なくって、数えてみると40本
ぐらいしかないことを話し、ちゃんと千本ぐらい生えてる千手観音が唐招提寺にあることを伝えてみたら、
詰め込みの成果で鑑真のことを知っていて、唐招提寺に行きたいというから明日にでも。


五重塔のとなりが東金堂……撮影だけでなく、スケッチも禁止

堂内スケッチ禁止って、なかなか厳しいな。ど定番の奈良めぐり、千手観音像くらべみたいになってきた。
今日のところは近鉄奈良駅前から1時間に1本のバスで1時間ほど揺られて法隆寺へ。


聖徳太子だけに、聖徳宗か……

親子とも爆睡。バスを降りると1本道で、法隆寺にたどりつく。南大門が見えてきて、その向こうに中門
と回廊があって、そのなかに金堂と五重塔が並んでる。


1本道を歩いてゆくと南大門


中門と回廊(の向こうに五重塔)

前の晩たまたま読んだ高村光雲の回想録には、「奈良では、あまり当時人がかれこれいわなかったあの
法隆寺の仁王さんは私は一見して結構だと思いました。これは和銅年間にできたもので、立派なもので
あります。法隆寺の仁王は、あれは化物だなどといって人がくさしたけれども、私は、そうは思わず感心
しました」とあったので、中門の仁王に注目した。

 

中に入ると、以前は気づかなかった「礼拝石」というのが、金堂の前と五重塔の前にある。ここに座って
僧が拝んだのかな?


中に入れてもらえなくて……

 

大宝蔵院で玉虫厨子とか、いろいろ見物して外に出て、夢殿に向かう途中で 「この先徒歩5分 斑鳩神社
お参りください」 という立札をみて、子供には悪いけどつきあってもらう。


「すごそこ」の立札から、しばらく坂を上るはめに


聖徳太子関連かと思ったら菅原道真関連だった

どちらも悲運といえば悲運つながり……。雨漏りがして本殿の修復が急務だけど予算の関係で従来の
檜皮葺きではなく銅板葺きが妥当である旨、ながながと説明書きが掲げられていた。


夢殿への道に戻る






……その手前にたいへん立派なお手洗いあり


翌日、唐招提寺に行くまえに、近鉄奈良駅の向かいの石碑に気をとられて、そこから6丁のところにある
という聖武天皇陵を見に行く。


この碑がきっかけ

6丁っていうのがどれくらいなのか、よくわからなかったけど、いま調べると1km以上ある。どうりで時間が
かかるわけだ。ちょっとそこまでのつもりだったのに。


奈良女子大の敷地を回り込んで


あのこんもりしたところかな?


この感じはどうやらそうみたい


……子供が階段の左に見つけた穴は何だろう?

見物して近鉄奈良駅前まで歩いて戻るのに、全部で1時間くらいかかった。またバスに乗って唐招提寺へ。
千手観音の手が本当に千本あったら? その答えがあそこに……


唐招提寺の金堂にある

堂内撮影禁止だから、売店でクリアファイルを買ってそれを写す。絵はがきよりこっちのほうが何となく
それっぽいような気がして。


手がびっしり並ぶ


修理のため解体するとこうなる

1000本あるかどうかはともかく、手が40本ぐらいの千手観音像とくらべると、気合がもうぜんぜん違う。
京都の三十三間堂には千手観音像が千一体あるけど、一体ごとの手は40本ぐらい……。三十三間堂、
行ったことあるよね? と確認したら「覚えてない」っていうから帰りに寄ることにした。


「ああ、あの弓矢のとこね」って


たしかにそうなんだけど、そっちで覚えるか


なんか燃えてる

護摩木か何か焚いてるみたいで、もうもうと白い煙が上がっている。近づいていくと、山伏みたいな格好
の人が子供に黄色い紙をくれて、「燃え残ったものだから玄関に貼るといいよ」と。


りんごもくれた

新幹線まで2時間あるから京都国立博物館にでも入って、休んだり見物したりしようかと思っていたけど、
間の悪いことに何か月も休館だった。


12月16日から4月21日まで休館

忘れていたけど、前に子供と来たときも何か月か休館中で、「いつも休館だよ」といっていた。この近くに
耳塚とか、豊国神社があったのを思い出して、そっちへ連れて行く。


公園の向こうにあるのが


   耳 塚

豊臣秀吉の唐入り(朝鮮出兵)のとき、首実検の代わりに塩漬けで保存した耳や鼻を持ち帰ったという
話で、供養のために作られたのが耳塚。この耳塚のすぐそばに、豊臣秀吉を祀った豊国神社がある。



別途、入館料が必要な宝物館(300円)の敷地に、馬塚があるとわかったので、入館料を払って探す。
駐車場の一角にあったのが、どうもそれらしい。何も表示がない。


耳より馬が大きいのに、耳塚よりも馬塚が小さい

せっかくだから馬塚だけでなく、宝物館も見てゆく。いろいろある中で、子供が喜んで見ていたものは、
豊臣秀吉の歯。


どうにか見えてる

豊国神社のとなりには、「国家安康」「君臣豊楽」の鐘がけしからんと言いがかりをつけられて大阪の陣
の原因になったという、方広寺がある。いまある鐘はその鐘じゃないはず。だけど一応、見て帰る。


現在の方広寺の鐘

新幹線で帰るときに、いつかまた行きたいところがあるかどうか聞いたら、「ネス湖」といった。ネス湖は
ちょっと……。

関連記事: 東大寺 春日大社と興福寺 唐招提寺と薬師寺 耳塚
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこらへん

2014-02-08 | Weblog
横須賀線が終日、雪で運転を見合わせているとか。首都圏は雪に弱く、昨夜遅く酔ってコンビニに
寄ったら食べ物がなかった。テレビが悪い。水と食糧を買い込むようにニュースで呼びかけるから
雪に弱い首都圏の人が真に受けて、3年前の震災の後みたいに過剰反応してる。


よく降るなあ

さいわい仕事もないから、うちに1日ひきこもってたら、友人知人のみなさんが雪の写真をSNSに
どしどしアップするので、夕方ようやくテンション上がって雪降るそこらへん巡回。サイフも持たず
カメラと傘を持って、防水シューズでずしずし雪を踏みしめてゆく。


第一ゆきだるま発見

めちゃくちゃ寒い。吹雪いてるので、傘さしても顔面に雪が直撃する。カメラを持つ手がふるえるし
かじかむ。だめだこりゃ。うちにいればよかった、と思った。


歩きにくそうだな

大きな荷物を引きずって、この雪の中どこ行くんだろう? 旅行のようでもあり、ホームレスのよう
でもあり。写真を撮ってみたら雪が丸く写った。


ベンチがふかふかになってる


もっとふっかふかになってる

やわらかそうだなあ、あったかそうだなあ……でも大人だから座らない。しかし、これだけ雪が降ると
思い出すのは下駄スキーや下駄スケート。


明治の人の楽しみ

なんでも日本で初めてスケート大会が開かれたのは明治39年(1906年)2月の諏訪湖で、その前から
下駄スケートやら竹スケートやら、ハイカラな器具が寒い地方で珍重されていたとか。


下駄スケート(フィギュア用)


竹スケートと竹スキー

そういえば、いまやってるソチオリンピックでも上村愛子とかモーグルの選手がスキーに竹を仕込んで
メダルをとろうとしているらしい。竹いいね。


第二ゆきだるま発見

最近の子供はドラえもんの見すぎか、頭部と胴体の大きさが同じか、やや頭部が大きいゆきだるまを
こしらえがち。べつにかまわないけど、ゆきだるまは胴体より頭部が小さいほうが、それっぽい。


第三ゆきだるま発見

こんなバランスかなー。コンビニをのぞいてみると、さっそく商品が補充されて、水も食糧も十分ある。
サイフを持ってこなかったので何も買わずに、寒いからそろそろ帰る。


車道はぐっちゃぐちゃ

あれれ、写真がおかしい。モザイクかけたみたいになってる。一時的な問題かどうか、このままにして
みよう……(元の画像はちゃんと写ってる)。あれが凍結すると、たち悪そう。


雪踏みしめて帰る
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻布

2014-02-02 | Weblog
夜中にテレビをつけてボーッとしていたら、見たことのある床屋さんが出てきた。散髪したことが何度も
ある。ナレーション聞いてたら、幕末に黒船でやってきたアメリカの公使ハリスも、ここで散髪したことが
あるという。通訳の人がスケベで有名な、本人は堅物だったらしい、あのハリスが?


近くに住んでいた

都旧跡 最初のアメリカ公使宿館跡 という碑が、床屋さんのすぐそばに建っている。わざわざ見にきた。
よく晴れた土曜の朝のことだった。午後から撮影なので、ロケバスさんが11時20分に麻布でピックアップ
してくれるというから、そのまえにアメリカ公使宿館跡でも見物しようと思ったのが10時45分。


麻布山善福寺へ

ハリスが麻布にやってきたのは安政5年(1858年)8月で、それまで1年あまりずっと下田にいた。寺を
宿館にしてたはずだけど、ニョキッと生えてる頭でっかちなビルが寺? なわけない。


ああ、これか……

まぎらわしいところに、ややこしいもの建てたな。あれの足元にある、ように見えるのが麻布山善福寺。
明治8年(1875年)まで7年ほど、アメリカ公使宿館として使われた。そのあとは築地の外国人居留地に
移り、外国人居留地が明治32年(1899年)に廃止されたあと、大正12年(1923年)関東大震災で焼けた
日本橋の魚河岸が移転して築地市場になったと。


ただいまの麻布山善福寺


ハリスの記念碑の横に立派な銀杏も


もっと立派な銀杏が墓地に生えてた

親鸞が植えたという嘘が石に刻んである。嘘はいいすぎか……伝説が刻んである。テレビでタレントが
いかにも感銘を受けたように眺めていたのを思い出す。墓場だったのね。気配を感じて振り向くと、


越路吹雪の碑

越路吹雪は日本のシャンソン歌手。その墓かと思ったら、碑だった。そこらへんに福沢諭吉の墓もある
らしいんだけど気配を感じなかった。宝塚出身、越路吹雪すごい迫力。


愛の讃歌の歌詞が刻んである

原曲の作者エディット・ピアフの墓を見たことあるなあ、パリで。たぶんあると思うんだけど、詳しくは
覚えてないから気のせいかもしれない。帰ろっと。じゃなくて、ロケバスさんとの待ち合わせ場所に
そろそろいかないと。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする