土曜の夕方から高田馬場に用があったので、午後ぶらぶら飯田橋から神楽坂をのぼって早稲田通りをあるいて
馬場へ。神楽坂ってこんなに急だったっけ?
天気いいから散歩
榎木町のあたりまでくると店がまばらになり、人通りも少ないので、看板があると目立つ。ネーミングセンスって
言葉など思い起こしつつ、眺めていくと……。
お食事処ブリッジ、キッチンスマイル、喫茶すーぱーみるく……
それぞれ思いが込められているんだろうけど、どんな思いが込められているのか、ちょっと測りがたいものが
ある。とくに喫茶すーぱーみるく、入っても大丈夫なのかな? そこいくと明快なのが、
居酒屋二十二坪
込められた思いが、一目でわかる。ブリッジより、スマイルより、すーぱーみるくより、安心して入れそうだ。
(好みの問題かも)
その先にある表示
三角定規の鋭角のところ(30度)ぐらいな路地に、漱石山房通りと掲げてある。なんだろう? 夏目漱石が
住んでいたのかどうか、ちょっと確かめにいってみる。
なんにもなかったらどうしよう…
細くて曲がりくねった上り下りの多い道をしばらく歩いて、あきらめかけたころにまた漱石山房通りの表示が
立ってた。明治の文豪、夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあったと書いてある。
あそこの空き地みたいなところに家があったらしい
銅像があって……石塔がある……
銅像のほうは見ればわかるけど、石塔のほうは何だろうかと思って、説明を読んでみる。これは「猫塚」という
そうだ。「吾輩は猫である」の猫ではなく、漱石の没後に遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥を供養するために
建てたと書いてある。なんという、まぎらわしいことを!
漱石はここに10年ほど住んだ
明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで、「坑夫」「文鳥」「夢十夜」「三四郎」
「それから」「門」「彼岸過迄」「こころ」「道草」「明暗」などなど、プロとしての執筆のほとんどを、ここで行なった
……それなら、たしかに「吾輩は猫である」は越してくる前だから「猫塚」の猫は別の猫だ。
それっぽくこしらえてある!!
鍵がかかっていて中を見ることはできませんでした。もときた道を引き返して、早稲田駅の近くで夏目坂通り
を上ってみると、そこにも何か書いてある。
漱石の随筆「硝子戸の中」(大正4年)によると…
「漱石の父で、この辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に
広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった」って、あんまりいい話でもない。
振り返れば……
ちゃっかり便乗商売で、「酒菜そうせき」という店がある。漢字ではなく、ひらがなで「そうせき」ってところに
遠慮を感じる。この坂のあたりに、漱石誕生の地っていう石碑があるらしいけど見当たらない。
やよい軒の店先になんかある
学生服の3人組がたむろしてる定食屋、やよい軒の店先になんか立ってる。「夏目漱石誕生の地」って石碑。
生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主
塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍したって書いてある。
苦労したのかな~
それでも生家のすぐそばで晩年を過ごし、木曜会なんかも開いて、多くの人に惜しまれて亡くなったのだから
よかったんじゃないかな。さて、そろそろ高田馬場に行かなくては……。
馬場へ。神楽坂ってこんなに急だったっけ?
天気いいから散歩
榎木町のあたりまでくると店がまばらになり、人通りも少ないので、看板があると目立つ。ネーミングセンスって
言葉など思い起こしつつ、眺めていくと……。
お食事処ブリッジ、キッチンスマイル、喫茶すーぱーみるく……
それぞれ思いが込められているんだろうけど、どんな思いが込められているのか、ちょっと測りがたいものが
ある。とくに喫茶すーぱーみるく、入っても大丈夫なのかな? そこいくと明快なのが、
居酒屋二十二坪
込められた思いが、一目でわかる。ブリッジより、スマイルより、すーぱーみるくより、安心して入れそうだ。
(好みの問題かも)
その先にある表示
三角定規の鋭角のところ(30度)ぐらいな路地に、漱石山房通りと掲げてある。なんだろう? 夏目漱石が
住んでいたのかどうか、ちょっと確かめにいってみる。
なんにもなかったらどうしよう…
細くて曲がりくねった上り下りの多い道をしばらく歩いて、あきらめかけたころにまた漱石山房通りの表示が
立ってた。明治の文豪、夏目漱石が晩年を過ごした家、通称漱石山房がこの地にあったと書いてある。
あそこの空き地みたいなところに家があったらしい
銅像があって……石塔がある……
銅像のほうは見ればわかるけど、石塔のほうは何だろうかと思って、説明を読んでみる。これは「猫塚」という
そうだ。「吾輩は猫である」の猫ではなく、漱石の没後に遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥を供養するために
建てたと書いてある。なんという、まぎらわしいことを!
漱石はここに10年ほど住んだ
明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで、「坑夫」「文鳥」「夢十夜」「三四郎」
「それから」「門」「彼岸過迄」「こころ」「道草」「明暗」などなど、プロとしての執筆のほとんどを、ここで行なった
……それなら、たしかに「吾輩は猫である」は越してくる前だから「猫塚」の猫は別の猫だ。
それっぽくこしらえてある!!
鍵がかかっていて中を見ることはできませんでした。もときた道を引き返して、早稲田駅の近くで夏目坂通り
を上ってみると、そこにも何か書いてある。
漱石の随筆「硝子戸の中」(大正4年)によると…
「漱石の父で、この辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に
広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった」って、あんまりいい話でもない。
振り返れば……
ちゃっかり便乗商売で、「酒菜そうせき」という店がある。漢字ではなく、ひらがなで「そうせき」ってところに
遠慮を感じる。この坂のあたりに、漱石誕生の地っていう石碑があるらしいけど見当たらない。
やよい軒の店先になんかある
学生服の3人組がたむろしてる定食屋、やよい軒の店先になんか立ってる。「夏目漱石誕生の地」って石碑。
生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主
塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍したって書いてある。
苦労したのかな~
それでも生家のすぐそばで晩年を過ごし、木曜会なんかも開いて、多くの人に惜しまれて亡くなったのだから
よかったんじゃないかな。さて、そろそろ高田馬場に行かなくては……。