散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

錦糸町

2012-01-30 | Weblog
いやー驚いた、驚いた。JR錦糸町駅前の錦糸公園にある、墨田区総合体育館に用事があって
でかけたら、ものすごいものが吊るしてあった。


こっ、これは……!?

王貞治の選手時代のユニフォーム(本物)。どうして墨田区の体育館に? と思ってキョロキョロ
あたりを見回すと、王さんが2009年に墨田区名誉区民になったお知らせが目に入った。


写真パネルがいっぱい。

王さんは、昭和15年(1940年)5月20日に東京市向島区吾嬬町西(現・墨田区八広西4丁目)の
中華料理店「五十番」で、中国出身の父・王仕福さんと、富山県出身の母・登美さんの間に誕生。
そして20歳まで墨田区で暮らしたというから、50年も前のことだ。


王さんからのコメント:

「小さい頃を過ごした墨田区は、私にとって野球人生の原点でもあります。今の私があるのも、
その頃の友人や地域の方々のおかげだと思っています。中でも、早稲田実業学校高等部在学
中に春の甲子園大会で優勝した際、町内でお祝いの提灯行列をしてくださったことが大変嬉しく
思い出に残っています。離れて50年になるにもかかわらず、あたたかい目で見守り続けていただ
いた故郷の皆さまに心から感謝しております」


渋いコメントだなぁ~!

巨人軍入団以後の3年間は、成績がふるわなかった王さん。昭和37年(1962年)に荒川博氏が
打撃コーチとして巨人軍に入団し、一本足打法をはじめてから数々のホームラン記録を打ち立て、
“世界の王”として花開いた。

「墨田区出身」のイメージが薄いのは、「荒川コーチ」に指導を受けたイメージが強いからだよって
うまいこというFacebookの友達がいたことを書き添えて、今回はおしまい。
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高崎

2012-01-20 | Weblog
だるまさんといえば高崎、高崎といえばだるまさん。高崎をブラブラすると、街中いたるところで
だるまさんに出会う。


たとえば橋の欄干で…

だるまさんてインド人なんですね。どうりで顔が濃いわけだ。最期は中国で毒殺されたとか、わざと
毒をあおって果てたとか。波乱万丈の人生を、1600年ほど前に閉じたと。


高崎名物だるま弁当!


高崎駅の構内には、紅白のだるまが仲良く並んでる。


そして道端で、だるま作りが行われてる。

だるまさんは張り子なので、木型に紙を張りつけて乾燥させ、中の木型を取り出してから、まず
白く塗って乾かし(左)、赤く塗って乾かし(右)……やがて一人前のだるまに。

だるまさんは中国で毒殺されたから日本にきてないのに、高崎でこんなに愛されてるのはなぜ?
不思議に思って、観光案内所で群馬の案内をもらってパラパラめくると、小林山達磨寺っていう
名所がある。これかな……足を運んでみるか。


ババーン! 黄檗宗……縁起だるま発祥の寺!


そしてまた“高いところに上るはめになっちゃうパターン”のやつね。


おじさんがだるまを供養しようとしている。


だるまがおとなしく供養されようとしてる。

なんでも天明3年(1783年)の夏、浅間山の大噴火があり、火山灰で関東一円の作物ができず
天明の大飢饉になったと。当時の和尚が経済状態のよくない周辺の農民のために、励みになる
ものはないかと考え、江戸で見た疱瘡除けのだるまを思い出して「縁起だるま」を作らせたら
大ヒット! だるまに紙を張るのも、色を塗るのも、からっ風の上州が最適だったおかげもあり
このへんの名産品になったとか、ならなかったとか。


でっかいだるまがあると思ったら、「日本のだるま」を集めた建物だった。


中曽根康弘、小渕恵三……群馬出身だっけ?

選挙とだるまの関わりは、昭和5年(1930年)の衆議院総選挙のとき、長野の候補者・松本忠雄が
選挙事務所に片目だけ入れただるまを祀って「当選させたらキッと片方の眼を入れてあげます」と
書いた紙を貼り付けた写真が、2月6日の東京朝日新聞に掲載されたのが始まりなんだって。


「あなたとは違うんです」……のお父上も!

みんなみんな松本忠雄のマネをして現在にいたる。しかし、福田康夫のだるまは見かけなかった。
「おやじとは違うんです」ということか? だるまさん! だるまさん! にらめっこしましょ!
笑うと負けよ! あっぷっぷ!


あっちっち! だるまさん

たいへん! だるまさんがころんだ、じゃなくて……だるまさんに火がついた! どんどん燃えてる。
かわいそうに……。


よく見ると、まわりじゅう灰のだるまさん


あのおじさんが、だるまさんを燃やしてる!

聞いたら1月15日は「お焚き上げ供養」の日で、朝11時から本堂の裏庭でだるまさんを焼くことに
なっているらしい。


おつかれさまでした。
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水上

2012-01-15 | Weblog
群馬をなめていたと白状しないといけない。どこまでも広がる平野に、からっ風が吹いて
青空が広がっているものとばかり思って、こんなに雪が降るとは考えもしなかった。


水上は雪がつもる土地柄。

おなじ群馬でも、高崎、前橋、渋川、沼田のあたりは雪がつもっていない。水上のあたりだけ
どうしてこんなに?


ここは本当に群馬なのか。

宿の人が「せっかく除雪したのに一晩でこんなになっちゃったよ!」と話しているのを耳にした。
そりゃたいへんだ……。


クルマの屋根にも雪が!

わけは長くなるから省くけど、前の晩に吹雪の中を20分ほど歩くはめになり、路面の凍結を
ふせぐスプリンクラーの水しぶきを浴びつつ雪の道を行くのが辛かった。あのスプリンクラー、
もしなかったら一晩で交通がマヒするんだろうな。


仕事の用でスキー場へ。

そういえば県内からやってくる人が雪の多さに手間取って遅刻しそうになったぐらいだから、
やっぱり群馬でも水上だけ特別なんだろう。なめていたのは地元の人も一緒。


「白い針葉樹」って……。

これはセーフなんだろうか? 「面白い恋人」に比べて名前が遠いとはいえ、見た目はそっくり。
ラングドシャでホワイトチョコレートをサンドして一世風靡した「白い恋人」を真似るのはよくても、
賞味期限を偽装するところまでオリジナルを真似したらアウトだからね!


つららが3本あったとさ。

ちかごろはスキー場も雪不足(と客不足)で困っていると聞いたけど、水上は雪も客もたっぷり。
山から平地まで下りてきても、この通り雪に埋もれている。


つららが…つららが…!
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化野念仏寺

2012-01-09 | Weblog
作家の松本清張と考古学者の樋口清之の共著『名著復刻 第1集 京都の旅 今日の風土記』に
ビックリするようなことが書いてあった。初版は1966年で、復刻が1996年のこの旅行ガイドブック
(光文社カッパ・ブックス)には、観光名所についてビックリするようなことばかり書いてあるので、
何度も行ったことがある場所について読んでも楽しい。


化野念仏寺の挿絵

ざっくりいうと嵐山のほうにある、化野(あだしの)念仏寺は小さな石仏がびっしりと並んだお寺で、
ぼくもこれまで二度ほど足を運んでいる。


だいたいこんなようす……

それで興味を持って読んでたら、「境内に七千八百五十体もの、小石仏と小石塔が集められたのは、
明治の終わりごろであった。岡山の中山通幽という人が、野にさらされ、山に埋もれた石仏を惜しんで、
ここにならべ、無縁仏の浄土として供養したことにはじまる。」と書いてあって、意外に新しいんだなと
思った他にビックリしたのが“中山通幽”という名前!!

以前、岡山の吉備津を歩いているとき、“鼻ぐり塚”というヘンテコな、牛の鼻輪を七百万(?)も集めた
塚にぶつかって、そのことをブログに書いた。たしか“鼻ぐり塚”を作ったのも“中山通幽”という人だった。

京都で小さな石仏をいっぱい並べたり、岡山で牛の鼻輪をいっぱい積み上げたり、中山通幽という人は
細々したものを大量に集めて人をアッと驚かせ、供養するのが好きだったんだな~

関連記事: 吉備津 (鼻ぐり塚と中山通幽が出てくる)
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雨の徳川美術館

2012-01-08 | Weblog
名古屋についたら雨だった。地下でどこでもいける街だから雨でもべつに心配ないんだけど、さて
どうするか……。日が暮れるまで時間あるので、いきなり手羽先をつまみに飲むわけにもいかず。

名古屋城、熱田神宮、大須観音、日泰寺、名古屋市美術館、平和公園(墓地)……思いつくところは
これまで足を運んだことがあるので、まだいったことなくて雨に濡れない場所。



ということで、やってきたのは徳川美術館

どこにあるのかよくわからないし、雨だから駅前でタクシーに乗って「徳川美術館」といってみた。
けっこう遠いのね。名古屋城の外堀みたいなところを通って、ぐんぐんいく。後から地図をみたら、
ほとんど名古屋ドームのほう。イメージしてたより倍ぐらい距離あるけど、タクシーで正解だった。
いろいろ乗り継いでいくの時間かかるし、閉館時刻17:00(入館は16:30まで)だから。


歩きもしないで「散歩ブログ」とは

帰りは長々とタクシー待ちの行列ができてたから、あてずっぽうに名鉄瀬戸線の森下駅まで歩いて
栄まで電車に乗り、街で本を買って喫茶店で読んだけど、それじゃ話が終わっちゃう。


維新後に徳川家で使われたテーブルウェア

源氏物語絵巻が自慢らしくて、とても質の高いカラーコピーが堂々と展示されてた。他にも屏風や
能衣装、いろいろと大名道具のたぐいが飾られていた。
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こんぴらさん

2012-01-07 | Weblog
いったことなくて気になってるところのひとつ、さぬきのこんぴらさんに飛んでいく。羽田から
1時間そこそこ、高松空港は山の中。こんなところに空港が隠されてたとは! いや、べつに
隠してるわけじゃないだろうけどね。


うどん県になった直後

うどん県、みかん県、くじら県、すだち県……四国いいなあ! 本州じゃ改称うまくいかないよ。
りんご県、さんま県、こまち県……やればできるかもね。

いけばなんとかなるさと、ろくに下調べもせず飛行に走ったから、高松空港でどうするか迷った。
日も暮れてきたし、高松市街で一泊するのが妥当かなと思ったところへ、琴平ゆきのバスが。

「琴平には泊まるところありますか?」
と運転手さんに聞いてみると
「まぁまぁあるから大丈夫だよ!」
なんていうからバスに乗る。

1時間近く、夕暮れの道を揺られてゆく。弘法大師が残したといわれる、満濃池が見えたような
暗くて見えなかったような、ぜんぜん通らなかったような。しかし、少なくとも気配は感じた。


JR琴平駅は大正時代の北欧風建築

運転手さんが駅の手前、何百mかのところでバスを停めて、
「お客さん、ここで降りて一の橋を渡ったら、つきあたりのホテルに泊まれるから」
と教えてくれたのでそうする。まっすぐホテルを訪ねると、フロントで
「満室なんです」
と断られてしまった。運転手さん……。

金倉川ぞいに暗い夜道を歩き、うらぶれたソープ街を抜けて駅前へ。観光会館のおじさんに
空いてる宿を探してもらい、何軒かダメで、参道の入口にある温泉宿「わだや」に泊まることが
できた。急に転がり込んだわりに、部屋で食事もできて助かったよ。


翌朝、わだやを出て左へ

そこはもう、こんぴらさんの参道。御本宮までは785段、一段下がると786段(ナヤム)だから、
悩みがとれるというんだけど、いまひとつ意味がよくわからない……。


こういうの難しく考えたら負けだと思ってる

奥社まで、1368段(イサムヤ)だから、心が勇んでも登りきるには、なかなかむずかしい……
っていうけどさ、やっぱり意味よくわかんないよ。


いま何段目なのか、よくわかるようになってる

祭神は大国主命のちに大物主神とよばれ、のちに75代崇徳天皇を一緒にまつっているという。
ちょいちょい、大国主命も悲劇的だけど、崇徳天皇も讃岐に流されて憤死した怨霊じゃん!


年の日数と同じ365段めに大門(ここから境内)

崇徳天皇は戸籍の上では鳥羽天皇の子ながら、鳥羽天皇の祖父の白河法皇が鳥羽天皇の后に
生ませた不倫の子で、鳥羽天皇から見ると子でもあり叔父でもあり、「叔父子」と呼んで崇徳天皇を
それはもう、いじめたなんてものじゃないらしい。


五人百姓が飴を売ってる(朝早いので準備中)

父が甥とは気づかない崇徳天皇は、位まで取り上げられてしまい、怒り心頭に発したのかどうか
鳥羽天皇(父で甥)の死後、天皇に返り咲こうとして「保元の乱」をおこす。

平清盛が後白河天皇について、源氏にかつがれた崇徳天皇は敗れ、処刑されないまでも讃岐に
流された。ここで反省して仏教の経典を写経して、兵を供養するため都に送ったのに、呪いと
思った後白河天皇がそのまま讃岐に送り返したから、さあ大変だ。


海の守り神ということでスクリューが奉納されてるんだけど

崇徳天皇は自分で指をかみきって、これらのお経を魔に捧げる旨を血で書きつけて海に沈め、
それからは爪も切らず髪も切らず、魔物そのものみたいな姿になって憤死したとか。そのとき
叫んだ言葉が、皇を臣とし、臣を皇となさん……国を転覆させて上下を逆転させてやると。

その言葉通り、まもなく朝廷や天皇の権威は地に落ちて、もとは下賎な武士が国の頂に立ち、
明治維新まで700年も上下が逆転したままだった。


それもこれも崇徳天皇の怨霊のなせるわざ

どれだけ皇族が恐れをなしたかというと、明治天皇は即位する前にわざわざ勅使を讃岐に遣わして、
崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を作ったし、昭和天皇は東京オリンピック開催の年に、
崇徳天皇八百年祭として讃岐の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。


金毘羅大権現時代の金堂、旭社

そんな由緒あるこんぴらさん。あるときは金毘羅大権現となり、またあるときは金刀比羅宮となって
長年にわたり信仰を集めてきた。

「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

「この経を魔道に回向す」



まるで叫びが聞こえる

一生一度はこんぴらまいり。清水の次郎長の一の子分で、あのガッツ石松の元ネタでもある森の石松は
親分に命じられて金刀比羅宮に代参にきて、帰りに待ち伏せにあって斬り殺されたとか。


こんぴら 船 船 おいてに帆あげて シュラ シュシュシュー ♪

象頭山(ぞうずさん)の山腹のこんぴらさんから海が見晴らせるというわけでもないようだけど、
いつも海のほうから象頭山を見上げることができるのだろう。船にちなんだ奉納品がたくさん。


金毘羅 み山の 青葉の陰から キララララ~♪

「こんぴらふねふね」をうたいながら、石段を上り下りしてお参りすることに昔からなっているとか、
一概にそうでもないとか……。

金毘羅船々 追風に帆かけて
シュラシュシュシュ まわれば 四国は
讃州 那珂の郡 象頭山 
金毘羅大権現 一度まわれば

金毘羅み山の 青葉の陰から
キララララ 金の御幣の 
光がチョイさしゃ 海山雲霧
晴れわたる 一度まわれば

金毘羅石段 桜の真盛り
キララララ 振袖島田が 
サッと上る 裾には降りくる
花の雲 一度まわれば

阿波の殿様 蜂須賀さまだよ
シュラシュシュシュ 私ゃあなたの
そばそばそばだよ ほんとに
金毘羅大権現 一度まわれば

お宮は金毘羅 船神さまだよ
キララララ  時化でも無事だよ
雪洞ゃ明るい 錨を下して 
遊ばんせ 一度まわれば


「 しあわせさん こんぴらさん…… 」
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上野の大仏

2012-01-03 | Weblog
あけましておめでとうございます。年末年始うっかり遠出すると帰省ラッシュやUターンラッシュに
巻き込まれかねないので、近場をウロウロ歩き回ったり、家でゴロゴロ寝っ転がったり……


パゴダ薬師堂をのぞいたり

ここは上野公園の中。こんもり小高い丘の上にトンガリ屋根の塔が見えます。おやなんだろうと
思ってちかづくと……


ドオオォォォ~~~ン

小ぢんまりしたパゴダがお出迎え。中には薬師如来像があり、両脇にはお約束どおり日光菩薩像と
月光菩薩像があります。向かって左斜め後方には……


なんじゃこりゃあ~~!

あやしい巨顔がこちらの様子を、見ないふりして見ています。ジム・キャリー主演の映画『マスク』を
思い出しますが、ちょっと大きすぎる。


正面から見てみよう

左上に表札みたいなのが掲げられていて、「上野大仏」とある。顔面の両あごに額入りの写真が
あって……よく見ると同じ顔かも。


大正12年に震災で顔が落ちてしまった

釈迦如来像ということは、この大きな顔はお釈迦様……。関東大震災まで全身ちゃんとあったのに、
グラッときたとき落っこっちゃった。それだけならば、まだいいが!


パゴダをぐるっとまわる

第二次世界大戦中に、顔面だけ残して軍に供出されてしまい、戦争の道具にされちゃったみたい。
どういうわけか、顔だけは勘弁してもらった(……いじめの手口に偶然似てる)。


合格祈願の鉛筆なども

いま残っているのは顔面だから、すっかり頭部はないんだけど、なぜか合格祈願に訪れる受験生が
後を絶たない。頭あるとかないとか、あんまり関係ないのかな?
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