散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

さよなら国立劇場

2023-09-25 | Weblog

あって当たり前だから、その気になればいつでも行けると思ってる場所がなくなるのは痛い。名画座や行きつけの喫茶店ぐらいでも痛いし、しばらく行ってなかった公共施設も、なくなると分かると惜しい。歌舞伎や文楽、落語などを楽しみに学生のころときどき寄ってた国立劇場が、10月で公演を終えて取り壊されるという。歌舞伎とか落語とかは10月も上演の予定があるのに、あれれ?

加齢とともに伝統芸能から遠ざかりつつあるけど、なぜか文楽が無性に見たい。調べたら文楽をしっかり見る機会は、9月24日で終わってしまう。あわてて23日、24日の両日チケットを買い、通し狂言「菅原伝授手習鑑」を鑑賞することにした。非常に有名な演目ながら通しで上演するのは50年ぶりらしい。そんなことで伝承できるのか心配……つぎの機会あるんだろうか?

オープン当初、なにも最高裁判所のとなりで芸能やらなくてもと揶揄されたのも記憶に新しい国立劇場、もう取り壊すなんてもったいない。いつ完成したか調べたら生まれる前だった。そうか、大人たちが囁きあうのを幼少のころ耳にして記憶したということか。調べたら最高裁判所の建物のほうが後にできている。なにも国立劇場のそばに裁判所おっ立てなくても、という順序になる。

とくにこれ、大劇場と小劇場の裏手にある演芸場がすぐ横に聳える要塞のような最高裁に睨まれて、どうしても卑屈にならざるを得ない。だから落語はどうも見る気分にならない。歌舞伎もなんか気が引ける。ところが文楽(人形浄瑠璃)は品があるせいか、小劇場が裁判所から比較的に離れてるせいか、よそで鑑賞する機会が乏しいせいか、さよならしておきたかった。

あらためて観る「菅原伝授手習鑑」は平安時代に題材をとっている(菅原道真の失脚と復讐にまつわる物語)なのに、登場人物というか人形がみんな儒教道徳にしばられすぎて、がんじがらめすぎて背筋が寒くなる。江戸時代の脚本だから致し方ないのだろう。観ていてだんだん平安時代ということを忘れて江戸時代としか思えなくなり、儒教にしばられない能や狂言との違いを感じる。

それでも「菅原伝授手習鑑」の間に挿入された明るい演目「壽式三番曳」は、狂言の影響が色濃かった。「能や狂言が好きな人は変質者」と言い放った橋下徹が文楽について「演出を現代風にアレンジしろ」「人形遣いの顔が見えると作品世界に入っていけない」「クラシックや文楽が芸術ならストリップも芸術だ」などと変質者以下の発言をしたこと、思い出さなくていいのに思い出した。維新の関係者は文化や行政の破壊しかしない。ひさしぶりに観る文楽が最高だけに、あいつらは許せん。

さよならだからなのか、千穐楽のときは配るものなのか、入口でこんな封筒を渡された。もらってもどうしたらいいものか。五円玉ぐらい入ってるのかな? と中を確認したら、べつになにも入ってなかった。文楽をしっかり見る機会は当分ないけど、10月も1日単位の出し物はつづく。舞踊とか謡とか。異色なのは「ナイツ独演会」で、チケットが残ってたら行きたいのに売り切れ。

「壽式三番曳」と「菅原伝授手習鑑」の幕間に、席を立たずに座って休んでたら場内アナウンスで国立劇場の緞帳について解説が始まった。前の日は幕間にトイレに立ったり売店を冷やかしたりしたので、さよなら公演だから緞帳を見せびらかしてるのか連日こんなふうに緞帳を見せびらかしてスポンサー名を読み上げるのか、判別するのが難しかった。ことによると連日やるお約束なのかも。

前の席のおばちゃんが動画で緞帳を取ってる(写真の下方にスマホが見切れてる)ので、わざわざ動画でなぜ? と思ったら、場内アナウンスの説明を録音したくて動画モードにしてるのだった。安土桃山時代にこのようなモダン美がすでに確立していたとか、この緞帳の提供は竹中工務店ともう一社だとか、そんなようなこと。幕間なので人が出入りして動画に入るのを、おばちゃんは嫌がっていた。

3枚目の緞帳は三井住友カードがスポンサーだったのを覚えている。緞帳のことなどどうでもいい。文楽を鑑賞してると人形が人間にしか見えなくなる。リアルさの極みで、それが人形なのだと気づかせるシーンが時折あり、緊張と緩和(あるいは同化と異化)で場内が笑いに包まれる。うつむいた人形遣いも微笑んでいる。そこがいいんじゃないか。「人形遣いの顔が見えると作品世界に入っていけない」なんて、とんでもない。

悲劇的な場面は人形だからこそ容赦なく、人間がやるより切ない。人間がやるより哀しい。人間がやるより残虐、非道、冷酷。そこがいい。首を引きちぎって投げ飛ばすなんて、人形じゃなきゃできない。千穐楽の前の日、国立劇場の裏手にある伝統芸能情報館で文楽の人形かしらを見物しながら、そんなことを思った。千穐楽で実際に悪役が部下の首を引きちぎって投げるシーンがあり、退治されて当然という流れを作るために必要なことながら、歌舞伎であれをやるのは無理だと思った。やると作り物めいて滑稽になる。

伝統芸能情報館も国立劇場と一緒に取り壊されるのかもしれない。取り壊されるに違いない。おそらく見納めだろう。そう思ったから、いちおう写真に撮っておいた。近ごろは工事の人手が不足しているから、計画通りに建て替えが進むとは限らないし、つぎに国立劇場で文楽を楽しむのはいつのことだろう。公演自体は場所を変えて、確か北千住のホールで12月にやったり、年明け外苑前のホールでやったりするらしい。場内アナウンスで宣伝していた。

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白樺湖から車山をへて霧ヶ峰へ

2023-09-22 | Weblog

1日に数本のバスで茅野から上がってくると、白樺湖でアナウンスが流れた。標高約1400m、1周約4kmの人造湖だという……人造湖? そうだったのか。下車して畔を歩いてみる。遊歩道(というよりランニングコース)が敷いてあり、1時間とかからず散策できる。ボートで釣りをしてる人や、木陰にイスを置いてお茶など沸かして飲んでいる人がいて、のどかなものだ。

白樺湖は農業用の溜池として1940年、戦時中に着工した。敗戦が近い1944年、資金難を理由に工事が中断され、戦後の1946年に再開、数年かけて人造湖ができた当時は「蓼科大池」と名づけられたが住民に不評で、1953年に白樺湖と改称。そのころから観光開発が行われ、1980年代に観光のピークを迎えたが、1991年から観光客が減り続けて30年あまり。

湖畔を歩くとバブルの残骸が至るところで野ざらしになり、日本の発展と衰退を手に取るように見物できるテーマパークのよう。向こうに車山が見える。肉眼だと山頂に気象観測台が確認できて、それとわかる。タイミングが合えば茅野からくる1日数本のバスに乗って10分ほどで車山高原に到着し、そこからリフトで山頂まで上がれる。湖畔からリフトまで歩いても1時間かそこら。

1925mの山頂に上がると、気象観測台に寄り添うように車山神社が鎮座している。四隅におっ立つ御柱は、ふもとの諏訪大社の影響だろう。諏訪の神社や祠には御柱がつきものだ。諏訪湖の花火の会場にも御柱がおっ立つ。男性の陽物をかたどる石棒もあちこちにおっ立つ。長野の人は……少なくとも諏訪湖のあたりの人は、棒状のものをおっ立てるのが好きなんだな。

山頂からは八ヶ岳の連峰が望める。反対側に目を向けると、霧ヶ峰に至る高原の小径が続く。写真では分かりにくいが肉眼ならば一目瞭然。ここから先は、上り道もあるが基本的には霧ヶ峰まで下りだから割合に楽な気分で歩き通せる。日本の四季は失われ、5月から9月まで真夏日・猛暑日のオンパレードだから、今年は霧ヶ峰に2回もきたし、来年以降も手軽な山歩きにくるだろう。

車山から下りてくる途中にある湿原がまた、高山植物が豊かで歩きがいのあるところだ。白樺湖も人造湖になる前は湿原だったそうだから、こういう感じだったんだろうか。観光目的なら湿原のままのほうが案外よかったかもしれないが、戦前の人たちにその発想はなかった。農業用の溜池を作るので精一杯だった。湖畔が観光開発された後も、用水は農業に使われてるという。

蓼科湖もほぼ同じころ農業用の溜池として設けられた人造湖だというから湿原だったのかもしれない。蓼科湖と白樺湖の水は茅野や諏訪などふもとの田んぼで米作りの役に立っているそうだが、水量の確保というよりも、溜池でいったん温めることで冷水の害からイネを守るのが目的らしい。人造湖ができる前は、雪解け水が冷たすぎて、田んぼのイネが生育せずに人が飢えがちだったとか。

霧ヶ峰まで下りてくると、あとは路線バスが1日に何本か、上諏訪まで送り届けてくれるのでソフトクリームを食べるもよし、うどんかそばでも啜るもよし、時間調整にそこらへんを歩き回るもよし。上諏訪と霧ヶ峰を結ぶバスは先ほどの湿原や車山高原のリフト乗り場まで延びているから、茅野ではなく上諏訪を起点にしてもこの界隈は散策することができる。

霧ヶ峰ではグライダーの離陸を間近に見物できる。どうやら自動車で引っ張って凧のように宙に上げたあと、凧糸がわりのケーブルをグライダー側でリリースして気流を生かし飛ぶようだ。切り離されたケーブルがパラシュートで降りてくるのが、のどかでなかなかいい。あのグライダー、観光用に営業してるのかと思えばそうではなく、クラブの会員にならないと乗ることができない。なんだそうか。

 

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松山ふたたび

2023-09-17 | Weblog

時間が余ったので松山を少し観光した。いつだったか四国を香川→徳島→高知→愛媛と巡ったとき最後に泊まったのが松山だった。自然豊かなところを経て市街地にきたせいか煌びやかに見えた。九州の博多、北海道の札幌に匹敵する四国の松山として、珠玉のように感じた。

それから十数年のあいだ日本全国津々浦々をいよいよ不況が襲ったせいか、それとも今回は東京から直行直帰したせいか、再訪した松山はどこか寂しさを感じる地方都市のひとつで、大街道なども往年のギラギラした雰囲気を失い果て、どちらかといえばシャッター街に近づいた印象。

急いで帰りたい。しかし時間が余ってる。そこで前回まだ松山になかった、坂の上の雲ミュージアムにきてみた。平成19年に誕生したということは、おそらく前回の松山にまだなかったはず。司馬遼太郎の『坂の上の雲』は昭和の終わりに読んだから前回あれば存在ぐらいは意識したと思われる。

三角形の狭小地に合わせた三角形のビル内部が三角形の螺旋スロープになっていて、大回りにぐるぐる歩かされる割にあまり展示物が目を引かず、三角形の一片にあたる窓から見える萬翠荘の眺めがいいことが取り柄だった。旧松山藩藩主の子孫の久松某伯爵が大正11年(1922年)に別邸として建てた館。

それ以前に明治の文豪、夏目漱石が松山中学に英語教師として赴任したとき下宿した小料理屋の愛松亭(あいしょうてい)が、萬翠荘の傍に復元されて「漱石珈琲店」として営業中だという。ちょうどコーヒーが飲みたくなったところなので、坂の上の雲ミュージアムのカフェではなくそっちで憩うことにした。

「小生下宿は眺望絶佳の別天地」と漱石が子規に手紙でかつて自慢したと、漱石珈琲店がいま自慢している。後に旧藩主の子孫が自慢げにフランス風洋館を建てるほどの場所だから眺望はいい。というより、この上に松山城があり、中腹に漱石の下宿とか子孫の洋館があるわけで、坂の上の雲ミュージアムはそのまた端っこ。

マドンナ珈琲と称するブレンドコーヒーをブラックでいただく。すごくおいしいのかと期待したら、それほどでもなかった。思えば漱石の『坊ちゃん』に出てくるマドンナは俗物の典型みたいなところがあり、あまりイメージがよくない。うらなりと交際してたのに赤シャツと結婚するような不確かなお嬢さん。

漱石は『吾輩は猫である』の作家でもあり、ここに下宿していた当時はまだ英語教師のはしくれで『猫』は1行たりとも執筆してないはずだけど、店にはこれ見よがしに猫の置き物があった。よくできた置き物だから、剥製かなと思ってよく見たら、目玉が動くし息をしている。生きた本物の猫だった。

萬翠荘に寄るつもりはなかったんだけど、せっかくすぐそばまで登ってきたんだし、ついでに中を見物していく。101年前の洋館……こういうところにはコスプレイヤーが大勢あつまって耽美なポートレイト撮影をしているのではないかと懸念されたが、そんなことはなかった。

『バスカヴィル家の犬』という2022年公開の映画(見てない)のロケ地になったと自慢してあった。シャーロック・ホームズはイギリスで活躍した私立探偵なのだからフランス風の洋館じゃ何かとマズいのではないかと思ったけど、この映画はおそらく原作通りではないから洋館ならフランス風でもよかったんだろう。

天皇家っぽい人の肖像画が2点、父子のような感じで飾ってあるから、昭和と平成の天皇かなと思ったらそうではなく、皇太子だったころの昭和天皇と即位してかなり後の昭和天皇だった。ということは大正と昭和にこの館へ立ち寄ったに違いない。ちなみに左が皇太子時代で、右が天皇に即位した後の肖像。

もう帰ろうかと思ったが、時間があるので松山城下を何百mか回り込み、お山の上の松山城へと敷設されたロープウェイ乗り場まで歩く。この日も9月とはいえ残暑が厳しく、蒸し暑い猛暑日だった。萬翠荘からロープウェイ乗り場まで歩いただけでも、頭がだんだんボーッとしてくる。

ロープウェイでアクセスできる城というのも珍しい。おまけにリフトまである。どっちに乗ってもいいのだが、リフトのほうが1人でのんびりできるからリフトにした。歩いて登ることも可能なんだけど、そんなことしたら熱中症で倒れてしまう。しかし強者がタオルを頭に巻いて本丸まで駆け上がり、駆け降りるのを見た。

松山城は日本に12しかない現存天守閣(できた当時のまま失われていない天守閣)の1つ。たしか現存天守閣は12か所すべて訪ねたことがあり、松山城は2度目だ。標高200mかそこらなので、せいぜい1℃くらいしか松山市街と気温が変わらないはずなのに、風の通りがいいせいか少し涼しく感じる。たわいない観光これで終了。

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石鎚山炎上

2023-09-08 | Weblog

西日本最高峰の石鎚山(1982m)に登頂する計画を立てていたのだが、10日ほど前に八甲田山で遭難した(なんでもないところで尻餅をついて尾骶骨を石に打ちつけて微妙にまだ痛い)ので、登頂はあきらめた。しかし、せっかくの機会だから七合目にある修験道場、石鎚神社中宮成就社ぐらい見ておこうと訪ねてきた。

松山駅から鈍行でおよそ2時間かけて伊予西条駅へ。そこからバスで険しい山道を約1時間。だいたい標高450mから1300mまでロープウェイで7分あまり。さらに徒歩で1kmぐらい行くと成就社がある。修験道場というから古びて神さびて厳しい場所を想像してきた。しかし何やら新しく、年輪のようなものがない。

これはどうしたことかと訝りながら、そこらへんを歩きまわる。昭和57年7月1日竣工の成就社復興記念碑なるものがあった。側面の文字を読むと、昭和55年11月13日に旅館から出火して成就社礼拝施設等ことごとく類焼したと刻んである。1980年そこらじゅう焼け野原になり、1982年に建て直して今年で40年あまり。

それでどこもかしこも新しく、歴史の重みがないわけだ。絵馬など眺めていたら雨が降ってきたので旅館の食堂に身を寄せ、カレーライスでも食べて身体をあたためる。「次こそは……リタイア組」という絵馬が意味不明で、いったい何を願うのか考えていたら、ふと思い当たるところがあった。

石鎚山登頂を目指して成就社の登山口からスタートしたけど、途中で断念したリタイア組が、次こそは……(登頂したい)と絵馬を掲げたのだろう。その気持ちなら自分にも分からないことはない。四国までくる機会なかなかないし、これからどこで野宿しようかと迷いながらロープウェイ駅まで戻ってきた。

徒歩3分のピクニック園地は水場、トイレ、自販機がありテント泊OK(無料)だなんて完璧じゃないか。残暑という名の猛暑がつづく日本列島、どこへ行っても寝苦しい時節だったが、標高1300mの園地は涼しく、ホームレス志向のある自分などには願ってもない居場所だった。四国はお遍路さんの文化があるから、このような穴場がまだ他にもあるかもしれない。

 

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