散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

修復された姫路城

2022-04-24 | Weblog

ポエム心をくすぐられる姫路城のたたずまいだった。

石垣はスポンジ

白壁はクリーム

瓦はチョコレート

城はデコレーションケーキ

 

修復される前からそんなふうに見えた姫路城、別名「白さぎ城」。平成の大修復工事が済んで、久しぶりに全貌を眺めたら以前より白くなっていた。あれは「白さぎ城」じゃなくて、「白すぎ城」だと観光客がつぶやいた。

押しも押されもせぬ観光地で、世界遺産にまでなっている。「マツケンサンバ」でおなじみの松平健がまだ『暴れん坊将軍』だったころ、オープニングで白馬に乗って、この石段を駆けてきたという。そんなシーンあったかな? 時代劇に出てくる江戸城は9割がた姫路城というのは世界中の人に知れ渡った話だ。

 

織豊時代はチョコクリーム

徳川時代は生クリーム

 

江戸城や姫路城のように、徳川の世になってから築かれた城は壁が白く塗られてる。それ以前、信長や秀吉が覇をとなえた時代の城は実戦的で、黒い壁の城が多い。熊本城、松本城、岡山城、などなど。ケーキにも流行り廃りがあって、織豊時代がチョコクリームなら徳川時代は生クリームだ。

スポンジ部分の材料もいろいろ。自然の石を積んだり、切り出した石を積んだり。特大のケーキを作るには手当たり次第の石を投げ込む。石灯籠を使ったり、墓石を転用したり……古墳の石棺を持ってきて石垣の一部にしたりもする。この真ん中の石なんか、古墳にあった石棺をよっこらしょっと持ってきて算木積みの一部にした。当時の武将にはタブーがなかったんだな。

隙間からのぞくと確かに石棺のような穴が繰り抜いてある。バスタブを横にしたような穴といったら、わかりやすいだろうか。こんなのが、とある門の両側に据えてあるので偶然ではなく、わざとやったに違いない。いっそのこと、おまじないかも。

いろいろな仕掛けがあって面白いんだけど、たくさんありすぎて書く気がしない。石垣はスポンジ、白壁はクリーム、瓦はチョコレート、城はデコレーションケーキ。修復中の姫路城をブログに書いたことがあるような気がしたけど、検索しても出てこなかったからブログに書いたこと、どうやらなかったみたい。観光地なんてそんなもの。つぎはどこか地味ところに行こう……。

次回は「吹屋」です。

 

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天空の竹田城

2022-04-17 | Weblog

年に何度か、秋から冬にかけて朝霧が発生すると竹田城の跡が雲海に包まれ、とあるアニメに出てくる天空の城のようだと人々が感嘆する。兵庫県朝来市、朝来山の中腹にある立雲峡という渓谷からの眺めが有名で、数年前のブームの折は人がたくさん詰めかけた。新型コロナウイルスが世界を一変してからは、さほどでもないというので見物に行ってみた。

朝霧が出ていないときは雲海に包まれないので、丸裸の山城を見ることができる。標高350m程度だというから、同じように雲海に包まれる山城でも、先日出かけた備中松山城の現存天守のほうが高地にある。しかし石垣だけの竹田城跡のほうが人気だ。風評の力はすごい。遠くから眺めるのに飽きたので、向こうの城跡へジャンプ。

マチュピチュのようだと人はいう。竹田城は太田垣氏を初代城主とし、6代目までは石垣のない土塁の山城だったらしい。木下藤吉郎秀吉が落城させて、弟の秀長を城代にするなどしたが、やがて城代に据えられた赤松氏が秀吉の援助を受けて石垣を築き始めた。関ヶ原の戦いの後、廃城になった。竹田城の石垣はごく一時のもの。

マチュピチュのようでなくもないが、あっちは石垣が主でこっちは土塁が主というのを歩いて回ると実感する。あっちの石垣はジャガイモなどの作物をわずかな高低差を利用して品種改良し、気候の変化に適応させる役に立っていたが、こっちの石垣にはそういう役割が一切ない。防備もしくは示威のため。

土塁だったころは手前のように自然の岩や土が露出していた。地形を生かして石垣を築いたのが向こう側。信長、秀吉、家康の時代を通して徐々に石垣が中部・近畿から西へ東へ広まった。ちょっとの間しか赤松氏が城代をつとめなかったから、変わり目の様子が見てとれる。

天空の城はだいたい平らなので上ってきてしまえば見物して歩くのが容易だ。しかし人が少ない時期だからで、ブームのときは通路に人がびっしり。立錐の余地もなかったという。新型コロナウイルス感染症が蔓延してからというもの、観光客も減ったしインバウンドの旅行者も減った。それはそれでいいんじゃないだろうかと、混雑してたら絶対来ないので思った。あしからず。

 

関連記事:  マチュピチュ

 

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小田原コロナワールド

2022-04-10 | Weblog

箱根仙石原のポーラ美術館が今年で開館20周年になるという。オープンのとき内覧会にでかけたから、それから20年経ったのか。歳をとるわけだ。12年目ごろ雑誌のART欄を担当することになってから年2〜3回お邪魔してたけど、最後に足を運んだのは2021年6月らしい。ブログの過去記事によるとそうなる。最近は行くとブログ書く習慣だから、今回も書いてる。

20周年記念展「モネからリヒターへ ー 新収蔵作品を中心に」のプレスツアーにお招きいただいたので、2021年からプレスじゃないのにお言葉に甘えて参加した。新型コロナウイルス感染対策として、学芸員さんが会場を巡りながら展示解説を行うギャラリートークは今回なく、講堂で解説を聞いたあと少人数の班に分かれての自由鑑賞となった。一般のお客様もいらっしゃるので作品撮影は控えめに、配慮しながら撮ってブログに上げる。

朝、都内からバスでポーラ美術館に運んでもらい、夕方、バスで都内に運んでもらうバスツアーなのだが、帰りに途中下車して箱根なり小田原なりを観光して帰るパターンが自分の中でほぼ固定化しており、今回も小田原に1泊して芸術鑑賞の余韻を楽しんだ。印象派、後期印象派からキュビズム、フォーヴィズム、シュルレアリスムなど主に19世紀末から20世紀初めのアートを多数収蔵しているポーラ美術館だが、30周年に向けて20世紀後半から最近のコンテンポラリーアート、現代美術に力を入れていくという。

そんな中、学芸員さんの話を講堂で聞いていて特に印象に残ったのは岸田劉生のことで、有名な「麗子坐像」(暗がりで5歳の麗子が強張った顔して坐る1919年の着物姿)は父にモデルを命じられて動くと叱られるから硬い表情なんだという。今回、1920年の「麗子微笑」と1922年の「麗子像」も並列展示してあるが、モデル役にもだんだん慣れて表情が柔らかくなっていく。岸田劉生は初めに印象派の影響を受けた後、西洋絵画の流れを逆行して北欧ルネサンスに傾倒し、重厚で精緻な表現を試みたというのも日本ならではの受容のしかたで興味深い。

翌る日、「小田原コロナワールド」というスゴい名称の遊興施設までシャトルバスで運ばれてみる。新型コロナウイルス感染症が武漢で発生して全世界に蔓延してから、小田原のコロナワールドに一度でいいから行ってみたいと思っていたのだが、コロナ禍も3年目にしてようやく夢がかなった。信じていれば夢はかなう。

小田原コロナワールドは映画館、パチンコ、スロット、天然温泉、サウナ、ボウリング場、ゲームセンター、カラオケボックス、飲食店などが揃う複合アミューズメント施設で、小田原といいつつ国府津とか鴨宮とかそっちの方にあるのでシャトルバスで小田原駅から片道20分ぐらいかかる。調べてみるとコロナワールドは小田原だけでなく北は仙台から南は小倉まで広範囲に展開していた。ぜんぜん知らなかった。コロナの湯に入った。

関連記事:  きんじろうカフェ

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津山城

2022-04-03 | Weblog

織田信長の小姓をつとめ、本能寺の変で死んだ森蘭丸の弟、森忠政が慶長9年(1604)から足かけ13年で築いた津山城は明治6年に取り壊しが決まり、明治7年から8年に石垣を残して全ての建物が解体されてしまった。築城開始から400年後の平成16年(2004)に備中櫓だけ復元されて現在の姿はこう。

ちょこんと乗ってる白いのが備中櫓。しかし石垣は立派だ。1604年から足かけ13年で築いたということは、築城技術のピークの時期に作られたと津山の人は自慢する。たしかに織田信長が死んだ後、近江の穴太衆が石工技術を全国に伝えて築城術が飛躍的に伸び、江戸城の天下普請を通じてピークに達したと城好きの人は口を揃える。

森蘭丸の弟、森忠政は本能寺の変の後は秀吉に仕え、のち家康に仕えて美作18万6500石を与えられ津山に入封。それから津山城の築城に着手して、城下町津山の基をなした。というわけで城にこんな銅像がある。森家は4代つづき、以後は松平家が幕末まで9代にわたり藩主をつとめた。

どこの城もだいたい明治になって取り壊された後、せめて年に一度くらいは大勢の人に親しまれるようにと桜を植える。それが花見のソメイヨシノを全国に広めた。城が現役だった江戸時代までは一斉に散る桜など縁起でもないので植えられず、常緑樹で縁起のいい松ばかり生えていた。松は燃料になるので非常時の備えを兼ねた。

桜じゃなくて松の木だったらと想像しながら歩いて回る。確かに立派な石垣だから、見える。自分にも城郭が見える。そんなつもりで徘徊すると石垣だけの城跡めぐりも面白いような気がしなくもなくもない。しまった、面白くないという意味になってたらどうしよう。

矢穴を彫ったけど割らないで積んだ石があった。見当が違ったのだろうか。あそこに矢(クサビ)を打ち込んで大玄能で叩き割ったり、木製の矢を打ち込んで水や湯をかけ膨張させて石を割ったり、縄を詰め込んで火をつけて石を割ったり、いろいろな石工技術があったらしい。詳しい人に聞いたことがある。

ハート型の石が石垣の中にあった。この前でツーショット写真を撮ったカップルは必ず別れると詳しい人に聞いたことがある。どうしてそんなことに詳しいのか、事情がありそうなので気になったけど気にならないフリを装って無難にやりすごした。ぼくはいつもこうなんです。

天守があったところまで上り、津山の町を見渡す。津山三十人殺しはどっちのほうで起きたんだろう。昭和13年(1938年)性的な恨みを持った犯人が計画的に大量殺害を実行したという『八つ墓村』のモデルになった事件……たたりじゃ、八つ墓村の祟りじゃ……角川映画のCMが脳内でループする。城を歩きながら余計なことばかり考えてしまう。ぼくはいつもこうなんです。

関連記事:   小峰城

 

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