散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

備中松山城

2022-03-27 | Weblog

現存する天守は全国に12しかないそうだ。コレクションするつもりがなくても、狭い日本国内に12しかないんじゃ大体いつのまにやら訪ねてしまっている。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、伊予松山城、宇和島城、高知城……ん? 備中松山城というのは行ったことない。

そんなわけで現存する天守のうちで標高が最も高く、アクセスが悪い唯一の山城で、ロープウェイもエスカレーターもエレベーターも何もない備中松山城に歩いて登る。天下人にふさわしい安土城をつくるとき織田信長が発明したという天守は、それから誰も彼も真似たので江戸時代の初めまで約半世紀のうちに大小3000ほど築かれた。せめて100ぐらい残ってたら、諦めてこんなところまで来ないのに。

中太鼓の丸から高梁のまちを見晴らす。高梁はむかし松山といった。明治になって、ほかに松山があるから改名せよと政府にいわれて高梁になった。松山城まで高梁城にされなかったのは不幸中の幸い。ところで、中太鼓の丸というのは非常時の連絡用に太鼓がここにあったから。下太鼓の丸と連携して本丸に急を告げる場所。きっと上にも太鼓があった。

みえてきた上の城郭。かたわらのパネルになにか書いてある。なんの解説かと思って近づいたら、N H Kの大河ドラマのロケ地として備中松山城が使われたっていう解説パネルだった。

『真田丸』(2016)は大阪城の出丸なのにロケ地として山の上の城が使われていたなんて……まったく思いもしなかったけど、いわれてみれば見覚えがあるような気がしなくもない。大河ドラマのロケも場所をさがすの大変なんだろうな。だいたい馬で大軍が合戦するロケなんて撮れる場所もうなさそう。

備中松山城の本丸は標高430m。天守は二層二階だけど三層にみえるようにデザインしてある。戦国時代から後だけでも城主がころころ変わっており、三村家、毛利家、小堀家、池田家、水野家、水谷家、浅野家、安藤家、石川家、板倉家とつぎつぎに城主を変えて、いまは猫のさんじゅーろーに乗っ取られて数年。

赤坂自民亭で安倍総理が選挙対策の酒宴を繰り広げて豪雨対策が放置され、甚大災害の被害が拡大した西日本豪雨災害(2018)のとき、山を彷徨い歩いて備中松山城に取り憑いて城主におさまった。その年の11月に城を抜け出したが、19日後に家臣らの元へ戻り、再び12月に正式な城主となった。

城主のおなりー。毎日10時と14時に城内を見回るのが日課で、城主が出てくると観光客が喜んでカメラを向ける。さんじゅーろーもどうやら満更でもない様子で、声も出さずに(ニャアとも鳴かないで)撮影されるがまま。

山城は登るのが大変だから、戦争がない江戸時代になると城主がほとんど来なくなり、天主に姿を見せるのは年に3回ぐらいで普段は足軽が3人ばかり警備しにくるだけだった。そこ行くと当代の猫城主さんじゅーろーは毎日のように現れて下賤な観光客どもに写真を撮らせるのだから人間が出来ている。

表彰状、あなたはその愛くるしい容姿で観光客を魅了し、昨年の七月豪雨で激減した観光客数をV字回復させるなど災害からの復興と地域の活性化に大いに関係されましたので表彰します。令和元年九月三十日、岡山県備中県民局長水田健一……猫又に表彰状まで出ている。

すっかり猫ブログみたいになってしまったけど、天守に登ったら籠城戦に備えた囲炉裏が切ってあって珍しかった。炎上を心配して囲炉裏など切らない(天守で生活するつもりがない)のが普通なのに、ここの城主は一味ちがう。(猫じゃなくて人間のほうの城主

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水攻めされた高松城

2022-03-19 | Weblog

待っとるで!と小学生の手描きポスター見せられたら、おじさん行っちゃう備中高松城……家柄よりも能力主義の織田信長に嘱望されたハゲネズミこと秀吉が毛利攻めを命じられ、手をこまねいたところで黒田官兵衛の提言により水攻めした城。

水攻めされるだけのことはある低湿地……そういえば黒田官兵衛、信長の命を受けて味方に抱き込もうとした中国地方の武将に捕獲され1年ほど投獄された場所も低湿地だった。それで頭が禿げて脚が不自由になった。中国は低湿地が多いのか。

水攻めされた高松城主、清水宗浩……だれ? 毛利攻めといっても毛利の本体じゃなくて、下っ端ごときに手こずって水攻めの奇策を用いて兵糧攻めしてる最中、あろうことか主君の信長が本能寺の変で死去したと知らせが来たからサァ大変! 清水宗浩の首を急いで取って、秀吉は「中国大返し」から「山崎の合戦」で明智光秀を討ち、天下人になる転機をつかむ。

その「中国大返し」だけど、小学校の歴史の時間に先生の話を聞くともなく聞いていたときは日本海側だと思っていた。山間の城を急流でも堰き止めて水攻めしてた秀吉が急報に触れて中国山地を越えて天王山に駆けつけたものとイメージして、それからずっと日本海側だと思っていたのに来てみたら太平洋側(岡山)じゃないか。

岡山なら京都からの伝令だって速やかに駆けつけるし、清水宗浩とやらの首を取った秀吉が大急ぎで引き返せば光秀を討ち取ることも可能だろう。「中国大返し」なんて大袈裟な呼び方、きっと秀吉の法螺話が史実の皮をかぶったに違いない。そんな岡山の高松城址公園にある土蔵の資料館(無料)に立ち寄る。

水攻めの詳細をスタッフ(83)が解説してくれる。この土蔵、1億を超える予算がついて近代的な資料館に改築されることになり、今年8月に工事が始まって来年3月リニューアルオープン予定だという。今度ここに来ることがあれば装いも新たな資料館になっていることだろう。果たして来る機会あるだろうか。

このへんは元から低湿地なので、水攻めなどしなくても水害に遭いやすい。その証拠に昭和60年(1985年)にも一夜にして水浸しになってしまった。蛙ケ鼻のほうなど毎年のように国道が冠水して通行止めになる。おそらく土地勘のある黒田官兵衛は、そういった事情を知っていて水攻めの奇策を秀吉に進言したのだろう。

土木工事の仕切りが得意な秀吉は蛙ケ鼻(手前)から取水口(奥の川沿い)まで約3kmに及ぶ堤(赤っぽい線)を12日間で完成させ、梅雨で増水した足守川が氾濫して高松城をたちまち孤立させた。6月2日に信長が死んだと伝令に聞いた秀吉は大いに泣き崩れたが、官兵衛がそそのかし秀吉に天下取りの野望を抱かせた。

毛利側の軍師である安国寺恵瓊を招き、清水宗治とやらに「今日中に和を結べば毛利の領土には手を出さない。城主・宗治の首だけで城兵の命は助ける」と伝えさせた。おかしな条件なのだが、宗治(写真の像)は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明日6月4日に切腹する」と条件を飲んだ。

何枚も上手の秀吉に転がされた凡将としか思えないが、400年以上経っても地元の小学生は「みんなの命を守ったヒーローなのです」って清水宗治とかいうのを激賞してやまない。もしくは先生にそう書けと指導されて素直にそんなものかと従っている。なあにかまうもんか、そのうちわかるだろう。

資料館があるのは高松城の二の丸の端っこ。見ての通り周囲は田畑か平家の民家で、城の建物や石垣といった当時を偲ぶよすがは残っていない。立て看板にさえ「詳細は不明である」と明記してある。資料館のおじいさん(83)が案内してくれなかったら何もわからない。おじいさんは引退を考えているそうだから、次にここに来る機会があったとしても、資料館はリニューアルされているとして案内はきっと望めない。

本丸と二の丸の間には沼があったという記録があるので、昭和57年(1982年)に岡山市が歴史公園造成計画で沼の復元を試みた。すると土中の蓮が息を吹き返し、植えてもいないのに400年前と同様みごとな蓮の花を咲かせるようになったという。

さて、五千の城兵の命と引き換えに自刃した宗治の首塚が本丸跡にあり、いまでも毎年、清水家の末裔が集まって追悼の祭礼を催したり会食を行ったりする。首塚の頂には五輪塔があったけれども、なぜかギャンブル運がつくというので石を持ち去る族が後を絶たず、あのような間に合せの石を積み上げる仕儀になっている。

明治になるまで首塚はあの山の中腹、黒田官兵衛が陣取ったあたりに秀吉が首実験後に築かせつつ「中国大返し」したそうだけど、それを高松城址の本丸に末裔が移してきたらしい。だから本丸の首塚の土中には、ちゃんと壺に入った宗治の骨や歯や刃物が埋まっている。

そして、首が戻って来ないものだから胴塚を遺臣たちが少し離れた場所に作った。これも心ない人たちが少しずつ削り取ってギャンブル運を高めようと試みるため、だんだん貧相になっているとか。

それを悲しんでかどうか、最近になって末裔の有志が清水宗治とやらの自刃の地に、ちゃんとした五輪塔を建てた。その石には清水方と豊臣方の双方の兵士を悼む文言が刻まれている。しかし自刃の地はここではない。

清水宗治が自刃した場所は、三の丸のはずれにあたる2本の電柱(トランスつき)のそばだった。以前そこに記念物があったが、どういうわけか撤去されてしまったので現在はもう詳しい場所がわからない。

現在ある「自刃の地」の五輪塔の近くには「こうやぶ遺跡」なるものが佇み、あそこで宗治を敬愛する家臣が数多く互いを刺して殉死したそうだ。触るとお腹が痛くなるので地元の人は誰も触らないが、歴史に興味を持つミーハーが訪ねてきては触るのでお腹が痛くなるとか。(触りにくいよう囲ってあるのに触る人は触る)

水攻めのために築いた堤は明治になっても残っていたが、その土台を利用して鉄道が敷設されるころ切り崩されてしまった。しかし現在も、蛙が鼻と呼ばれる場所にだけ堤がちょっと残っている。わずかに残った堤を見に行く。

ちょっとわかりにくいけど、これが水攻めに使われた堤らしい。鉄道のコースを外れていても、周辺の土地を水没させないための盛り土にしたり、自動車の道路を通すために切り崩されたりして、幅も高さも削られている。秀吉が築いた当時は、高さ8m、上部の幅12m、底部の幅24mあったらしい。そんなものを約3kmも、たった12日間で……。

手前の芝生が底部の幅24mに当たり、奥の囲んだ部分が上部の幅12m、高さ8mだった部分がせっせと削られた残り。この芝生のエリアの左にある低地が水浸しになった側で、遠くに列車が走っていく様子をときどき眺めることもできる。そこが堤だった場所だと思ってイメージふくらませる。

堤に下には俵に土を詰めて埋めた工事の跡や、俵に混入していた人骨などがある。人の骨はわざわざ埋めたわけではなくて、墓地の土を俵に詰めて堤を築く基礎にしたことから骨が紛れ込んだのだろうと目されている。

高松城の清水宗治を攻める秀吉の軍勢は約3万人だった。約3万人で約3kmの堤を築くということは、1km当たり1万人、100mあたり千人、10mあたり百人、1mあたり十人だから1人あたり10cmという計算になる。それなら12日間で堤を作らせることができなくもないような気がしてくる。競わせて褒章を与えれば何とかなるのかも。

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ハーブ庭園旅日記

2022-03-12 | Weblog

コロッケのライブを見にYCC県民文化ホール(甲府)に行った帰り、どこか初めての場所へ寄り道しようと思って普通列車に乗り、勝沼ぶどう郷駅で降りた。大日影トンネルを歩きに来たことがある駅だけど、今日はトンネルが目的ではなく「ハーブ庭園旅日記」が目当て。

そういう名前の観光施設(無料)のそばを通る市内バスの時間を駅前で確認したら、1日に数本しかなくて全然タイミングが合わず、あきらめてタクシーに乗る。曲がりくねり起伏の多い道を走り、10分ほどで「ハーブ庭園旅日記」へ。1190円だった。ぶどう畑やもも畑に囲まれてハーブ農園があった。

なんの花かと画像検索したら○○○○○だった、で始まるネタ投稿に使えそうな写真を大量に採集できた(こっちの話)ので甲府からの帰りにわざわざ途中下車してタクシーで乗りつけた甲斐があったんじゃないだろうか。甲斐国だけに……いかん、加齢のせいでダジャレをブログに書いてしまった。

大温室を出てハーブ庭園をめぐると「花観音」なる白い大理石の立像があった。高さ5m20で重さ7t……「たくさんの花が咲き競うハーブ庭園では私達の生活に潤いを与えてくれる草花のために、花観音を建てました」と説明書きがあるけど、その花観音がいったい何なのか釈然としない。

無料で入園して写真を撮りまくってただ帰るのも気が引けるので、売店に併設されたカフェで柄にもなくハーブティーなど静かにいただき、さっきのタクシーのレシートで電話番号を調べて帰りのタクシーを庭園に呼ぶ。そうしないと勝沼ぶどう郷駅まで戻る手段がないから。同じ運転手さんが来た。

運転手さんが駅で「行きと同じ料金ですね」とつぶやいた。列車が来るまで待合室に入り、壁の掲示など見ていると甲州市は『アサルトリリイ』の舞台になったと書いてある。『アサルトリリイ』というのは1話だけ見たことがあるけど、人類の危機を救う武装少女たちの成長を描くアニメだった。

リアル勝沼ぶどう郷駅(下)とアニメ勝沼ぶどう郷駅(上)なんかも比較してあった。『アサルトリリイ』は2020年の放送だったらしいから、そりゃ現在の勝沼ぶどう郷駅そっくりで当たり前……しかし、飲食店も売店も新型コロナウイルス感染拡大防止のために営業してないのは痛かった。

関連記事: 大日影トンネル

 

 

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河津町

2022-03-05 | Weblog

ある日のこと、伊豆の加茂郡河津町に住む飯田勝美さんが川沿いを歩いていたところ雑草の中に1mほどの桜の木があった。1955年(昭和30年)頃のことだと飯田さんはいう。庭先に移植したら10年ほどで開花。その後の学術調査で、いまだ確認されていない新種とわかり、1974年(昭和49年)に「カワヅザクラ(河津桜)」と名づけられた。早春の伊豆に大勢の観光客を集める、河津桜のはじまりである。

見物客が増えるにつれ、これは町おこしになる! と地元の人が気づいた。ちょうど全国で町おこしの気運が高まっていた1991年(平成3年)から「神津桜まつり」が催されるようになり、今年で31回目だった。ぽかぽか陽気の2月27日(日)いちどぐらい河津桜をしっかり見物しようと思って河津町へ。飯田さんが発見したってことは、あのイイダデンキの看板のそばで咲き誇るのが原木ではないか?

まさしくそうだった。飯田さんが川沿いで見つけて庭先に植えた原木が大きく育ち、道のほうまで枝を広げて花を咲かせ、わざわざ遠くから渋滞に負けず見にきた人たちを喜ばせていた。多くの人が寝乱れて隠れ宿、九十九折り浄蓮の滝を経由して、くらくら燃える火をくぐり天城越えしてたどり着いている。どれだけ山が燃えたことか、カップル見るとつい想像しちゃう。

走り水、迷い恋、風の群れ、天城隧道……ポンポンポン(鼓の音)恨んでも恨んでも軀うらはら、あなた……山が燃える♪   戻れなくても、もういいの。くらくら燃える地を這って、あなたと越えたい天城越えというわけでカップルが写真を撮りまくる河津桜である。男女のカップル、男同士のカップル、女同士のカップル、あるいはお友達などが遠路はるばる思い出づくりに訪ねてきて、行きも帰りも渋滞が凄まじかった。もう二度と河津桜まつりに来るまいと、まつり嫌いだから密かに心に誓った。でも、いちど満開の河津桜を目にすることができて冥土の土産ができた。

愛車のハーレー・ダヴィッドソンも久しぶりの遠乗りでゴキゲンだから、これでいいのだ。桜というのは変異株が生まれやすい、いま流行りの新型コロナウイルスのようなもので、伊豆には昔から桜の変異株がたくさん存在している。早咲きのものが多くて、神津桜もだいたい梅と同じような時期、スギ花粉症が大暴れする時期に咲き誇る早咲きの桜だ。なんだか目が痒いと思ったら、そうかスギ花粉が飛んでるのか。調査によると河津桜は、大島桜と寒緋桜の交雑で生じた変異株らしい。

これはいけると踏んだ地元有志が接ぎ木などで増殖した河津桜をがんばって川沿いに植樹した結果、堤防の土壌がゆるんで決壊しやすくなり、1998年(平成10年)施行の改正河川法で川沿いの植樹が禁止になった。それでも現在、約4kmにわたる遊歩道に850本の河津桜があるという。川沿いだけでなく町のあちこち、山のあちこちに河津桜が植えられているので、山の河津桜などは3月になってようやく開花するとか。それは愛車のハーレー・ダヴィッドソンが喜びそうな話である。

 

関連記事:   染井村

 

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