散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

大雪山

2024-07-04 | Weblog

勤続30年の休暇を会社が付与したので、キャンプ用具を一式かついで大雪山に来た。この30年の悪政の結果、円の価値が60年前(1964年)より下がったと聞いているので海外へ飛ぼうとは思えず、梅雨のない北海道がそろそろ登山の季節らしいから地図をたよりに歩こうと思った。

雨が降ったら宿をとり、晴れたら野営しようという考えで、なかなか使う機会のない大型のバックパックに簡易なテント(ツェルト)と化繊のシュラフとエアマットと、ミニマムな煮炊きの道具と着替え少しと、日帰り装備のデイパックなどを詰めてしばらく放浪してみる。

飛行機に燃料を持ち込めない(預け入れも不可だ)から、旭川駅前のイオンモール3階の100円ショップで固形燃料とライターを買い求め、とりあえず1日3便あるバスで旭岳ロープウェイを訪ねたら強風のため運休していた。小雨もパラついてるし、野営する気にもならず、旭川にバスでトンボ帰り。

車窓から眺めても景色が雄大で、どこか荒涼としており、人の営みも含めてフロンティアの趣きがある。山を歩くと疲れるから、公共交通機関での移動と合間の読書だけで休暇が終わっても文句はない。平日なので車内には定年退職後のご同輩と、どこか海外からわざわざ分け入ってきた小金持ちしかいない。街でも山でもそう。街に泊まり、小金持ちの素行を眺める。

翌朝、他の路線バスに乗って大雪山の別の登山口にアクセスした。小手調べにデイパックだけで層雲峡ロープウェイを利用し黒岳に登頂。その先の野営地など見学して下りてくる。セイコーマートで食料を少し補充すれば、野営地をつないで黒岳から旭岳へ抜け、例のバスで旭川に戻れる気がした。推奨される携帯トイレも浄水器も荷物にたまたま入ってるし。

大雪山の野営地で携帯トイレと浄水器が推奨されるのは、し尿の対策だろうか。高緯度の高地で微生物に分解されない、し尿の害が問題になっている。携帯トイレは害を増やさないためとポスターに書いてあり、登山地図に浄水を推奨する注があるのは、し尿の害から身を守るためと思えてならない。

人が分け入ると汚染されるのだ。しかし、野生動物の糞尿はどうなんだ。あるいは、エキノコックス? 水洗トイレと電源とWi-Fiのある都会の生活がなつかしく、野営ばかりもしていられない。モバイルバッテリーが充電なしで保つのはせいぜい2〜3日だし、ソーラーバッテリーも一応あるが携帯トイレの数にかぎりがある。

2泊3日、ゆるゆる山行を果たして里に下り、古書店で読み捨ての本を買い込んで、安宿でゴロゴロして読み耽るのも悪くない。安逸に放浪するなら山より街だろうか。費用も山より街のほうが抑えられる(選択肢が多い)というのが、社会生活を30年ほど送った末に束の間リタイヤ暮らしを経験してみて得られた教訓だった。

 

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ナカバ平

2024-06-08 | Weblog

「ゴミはお持ち帰りください」とゴミ箱をいくつも並べた上に書いちゃうと、その中のゴミを持ち帰ってください(ご自由にお持ち帰りください、そして売るなり何なり好きにしてください)とお願いしているように見えてしまう。ここは富士急行の河口湖駅……ごった返す人の約9割は外国人だ。観光地はインバウンド頼み。

駅前のコンビニにカメラを向けるフィリピン人、マレーシア人、パキスタン人、フランス人、デンマーク人、中国人、台湾人……彼ら、彼女らが何を珍しがって撮影してるのかと思ったら、コンビニの屋根ごしに見える富士山だった。そういうことかと彼ら、彼女らを尻目に坂を下り、河口湖へ。観光客相手の店に日本人の姿はない。

人混みを避けて河口湖天上山あじさいハイキングコース入口のほうへ歩を進める。途中にある看板の文字を読むと、船津天上山あじさい植栽事業は平成11年3月27日・28日の両日、下記の船津地区住民のボランティアにより植栽されたという。

愛友会・辰巳会・子丑会・二一会・気寄会・ハーバル工房保護者会・船津戦没者遺族会・揚友会・三五会・富士見会・七日会・睦会・高尾会・梅若会・若葉会・十日会・梨の木会・うそぶき会・一三一四会  以上、河口湖町・船津財産区

あじさいハイキングコースというわりには、あじさいの花があまり咲いてないので、どうしたんだろう? 平成11年に植えたけど令和6年までの四半世紀ですっかり枯れてしまったのか? と心配して別の看板の文字を読んだら、7月中旬から8月上旬があじさい開花の時期らしい。標高が900mそこそこあるので低地とあじさいの時期がズレているようだ。

その先を登ると天上山の中腹、ナカバ平に出た。ドイツ人か何か頭頂部の薄やかなのが石碑の前でスマホまさぐり、お困りの様子なので無視してベンチに腰掛けて休む。薄やかなのが近づいてきて、「この字はホレタですか?」とスマホを見せてきた。ゲイなのか? 不器用なやり方で「惚れた」と伝えてきたのか? 山の男はヤバい。

恐る恐るスマホの画像をのぞくと「惚れたが悪いか」と書いてある。やっぱりゲイだった。逃げると襲ってくると聞いたので、正対して平静を保ちつつ「惚れたが悪いか太宰治と書いてあります。太宰治は日本の作家です。昔、タヌキがウサギに惚れたのでウサギに嫌われて殺されました。そういう話を書きました」と伝え、惚れたら死ぬ暗示を深層心理に送り込む。

それを聞いて納得したのか、あるいは恐れをなしたのか、「Oh!」といって男がのしのし去っていく。そこで石碑の裏に回り、小さく刻まれた文字も読む。散歩の途中とにかく何でも読む習性があり、散歩ブログのネタになることが少なくない。

太宰治の名作「お伽草子」のなかの一篇「カチカチ山」は、ここ河口湖町船津の天上山のあたりを舞台として書かれた。富士山と河口湖の景色を配して、有名な昔噺の兎を美少女、狸を中年男とする卓抜な性格設定で書かれた物語は、時とともに光彩を増す珠玉の作である。不朽の傑作を生み出すもとになった地点から、人を喜ばせる面白い物語を書くために、命を削った作者の面影を忍びたい。  長部日出男

 

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なめとこ山

2024-05-05 | Weblog

なめとこ山の熊のことならおもしろい。で始まる宮沢賢治の「なめとこ山の熊」なら子供のころ読んだことがある。どうやらここは、なめとこ山のあたりらしい。東京を午前中に出て、新幹線で駅弁を食べて、新花巻からバスに乗って、バス停で宿のバンに乗り換えて到着したら午後4時。夕食は5時。

移動と食事しかしていない。夕食後、といってもまだ明るいうちに湯に入る。白猿の湯というのが自慢らしい。熊とか、白猿とか、動物の多いところだが、この白猿の湯は宿の案内によると日本一深い自噴岩風呂だという。自噴ということは、この場所で噴出してる(ポンプなどで運ばない)のだろう。深いから立って浸かる。

神棚の奥に書いてある文字をのぞき込んで読んだ。応仁の乱より前、当温泉主の藤井家の遠祖が薪樵をしていると、白猿が岩窟から出て桂の根元に湧き出る湯で手足の傷を癒しているのを発見し、それが温泉であることを知った。仮小屋を立てて、一族の天然風呂として開いた。

藤井家は武士であったが、1440年に江刺勢と戦って鉛(このあたり)に敗走してきた。それで木樵百姓に身をやつしていたそうである。子孫の三右エ門が宝暦年間に大衆浴場とすべく安浄寺住職の計らいで役司の許可を得るも、飢饉、震災などの苦難により開業ままならず、三之助の代にようやく長屋を建てて温泉旅館を始めることができたのが1786年(天明6年)……238年前。

藤井家の三之助が始めた旅館だから、藤三旅館というらしい。宮沢賢治が書いた「なめとこ山の熊」は没後まもない1934年(昭和9年)に刊行されたそうだが、その冒頭近く「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている」とある。なめとこ山はこのあたりの山である。藤三旅館の湯治部は夜9時消灯だから寝る。

朝7時に朝食の膳が運ばれてくるから、6時45分に起きて待つ。標高はどれくらいあるか腕時計の高度計で調べたら、128mと表示された。さほど高地でもない。あたりの山の標高は600m〜800mぐらい。なめとこ山はどれだろう。詳細不明だそうだけど観光目的の地図にはダムの上流の山の一つがそれに比定されている。

たしか十分な田畑を持たず、山林が国の所有になって伐採できなくなった小十郎は、家族を養うために熊撃ちを生業にした。名人などと呼ばれているが熊には申し訳なく思っており、胆や毛皮を里の商人に買い叩かれるのを不当に感じている。そのうち熊の言葉がわかるようになり、熊撃ちを苦痛に感じていたある日、不意を襲われて熊に討たれる。熊は小十郎を殺すつもりではなかったとか何とか、死にかけの小十郎に伝えた。そんな話だった。

山歩きの装備で来てるので、ハイキングコースか何かおすすめの散歩道がないか宿の人に聞いたら、整備されたコースはないし熊が出るから1人で山に入るのはおすすめしないという。買い物をするような店もなく、飲み食いできるものもなく、見るものといえば近くの赤い橋と鉛のスキー場(シーズンオフで閉鎖中)ぐらい。橋を渡ると鉛の集落がある。(要するに何もないのか……)

赤い橋は映画『海街diary』に出てくる橋だという。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずが一緒に暮らすあの映画はたしか鎌倉・江ノ島あたりの話だったのに、岩手の橋がどうして出てくるのか。不思議に思って聞いたら鉛の藤三旅館がロケ地になっているからだという。どうして東北の湯治場が、湘南のdiaryに出てくるのか。もしや湘南のふり? 見てないから、わからない。

宿からも見えるくらい近い。もしかして、「なめとこ山の熊」ゆかりの地としてよりも『海街diary』ゆかりの地として知られていたりして。ブログのタイトル、「なめとこ山」より「湯の街diary」のほうがよかったかな? どっちにしても場所がよくわからないことに変わりはないが、岩手の花巻の鉛温泉スキー場のあたり。

布観橋(ふかんばし)と表示されている。「布観橋 海街diary」で検索したら、すずが旅館を指さした場所と出てきた。何でも出てくる世の中だな。3姉妹と母を捨てて家を出た父がよそで作った腹違いの妹を迎えて4人で暮らす、吉田秋生の漫画を下敷きにした是枝裕和監督の2015年の映画。ふーん。

すずが指さした旅館が鉛温泉の藤三旅館だが、映画では「あづまや」という旅館になっているらしい。3姉妹のうち2人ここに逗留したようだ。ちなみに立って入る白猿の湯は混浴だが、場所がバレるので入浴シーンはないだろう。川に面して露天風呂もある。そっちは座って入れるが、もし対岸からのぞけば丸見え。だからどうという話ではないけども。

忘れ物かな? と思ったら宮沢賢治ゆかりの地の案内板だった。それによると、なめとこ山は賢治を研究する人々の間では「特定の山を指していない」として豊沢川源流の山々の総称とされてきたのだが、無名の山「八六〇高地」の古地図(なんのや)に「ナメトコ山」の記載があることから、賢治生誕100年の1996年に国土地理院の地形図に「ナメトコ山」と記載されることになったようだ。

 

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震生湖

2024-04-14 | Weblog

秦野の駅で小田急線の電車を降りると見える丘にのぼったら湖があった。震生湖という名のとおり、地震で生まれた湖らしい。地震でどうして丘の上に湖ができるのか。ふしぎに思っていたら「震生湖の生い立ち」を記した立札があった。わりと新しい湖で、およそ100年前の関東大震災のとき地滑りで生まれた。

これがその震生湖。ちょうど桜が咲いていた(対岸の駐車場あたり)。1923年(大正12年)9月1日の大地震で市木沢の北斜面が250mにわたって地滑りし、沢を堰き止めて湖ができた。堰塞湖(えんそくこ)というそうだ。1930年(昭和5年)には東京帝国大学地震研究所の寺田寅彦らが測量調査を行った。2021年(令和3年)に国登録記念物になった。

花見がてら湯を沸かし長期保存食のカルボナーラをふやかして食べた。いつ震災が来ても困らないように備蓄してる食糧をストックローテーションのために消費したわけだが、ちょっと足りないんじゃないかと思ってパン屋さんで買ってきたカレーパンが保存食より美味かった。どうやら保存食だけでは、健康で文化的な最低限度の生活を営むことが難しいとわかった。

およそ100年前の震災でも、今年1月1日に起きた能登の震災でも、被災者はプライバシーのない避難所で雑魚寝だった。ナチスがユダヤ人をガス室で大量虐殺する目的で作った収容所(アウシュビッツとか)でさえタコ部屋のような寝台で休むことができたのに、日本の避難所の設備は3か月後もそれ以下だった。台湾で大地震が起きると3時間後に食料も電源もあるテントで被災者が保護されたのと比べて、雲泥の差だ。

それにしても震生湖のあたりは花盛りだった。そのわりに人がいなくて、のんびり、ゆったり過ごせる。穴場というものかもしれない。もしも覚えていられたら、来年もぶらぶら歩きにこようと思い、メモがわりにブログを書いておくことにした。秦野の駅の反対側には丹沢の峰々を望むこともできる。その気になれば登山もできるけど、その気になることは多分ないだろう。

 

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日暮里

2024-04-06 | Weblog

朝焼けの日暮里、夕暮れの朝日町。ああ、そんな日暮里で電車を降りて谷中の墓地へ足を向ける。墓地のへりに面した幸田露伴居宅跡に立ち寄った。ここに住んでいたのは2年ほど、明治24年1月からだと立札に書いてある。その居宅から日々、天王寺の五重塔を眺め、同年11月にあの小説『五重塔』を発表した。

その五重塔の跡地が墓地の中で公園になっていた。正保元年(1644)に建てられた谷中の五重塔は安永元年(1772)に消失したのち、天明8年(1788)から寛政3年(1791)にかけて再建された。再建に取り組む大工の棟梁、八田清兵衛の仕事ぶりを書いたのが露伴の小説『五重塔』だった。

露伴が小説に書いたあと、第二次世界大戦の東京大空襲でも焼けなかった五重塔は、昭和32年(1957)に消失した。48歳の男性と21歳の女性が不倫の清算を図って焼身自殺したのが原因らしい。よそでやれ。消失してから30年後ぐらいに小説を読んだとき、一体どこに五重塔があるんだろう? と思ったが、ここだったか。

さらに30年ぐらい経ったら、墓地から五重塔が見えない代わりに東京スカイツリーが卒塔婆のように見える。この墓地はもともと天王寺の寺域であったのを明治政府が没収して墓地にした。まっただなかに五重塔の礎石があるから、なんかおかしいとは思ったが、五重塔のまわりは初めから墓地だったわけじゃない。

墓地に足を踏み入れると思う。死んだ人たちの家と生きてる人たちの墓、もとい死んだ人たちの墓と生きてる人たちの家は相似形だから、写真に撮ると区別がつかない。手前に建つ家と向こうに建つ墓、もとい手前に建つ墓と向こうに建つ家はそっくりで見分けがつかない。

そこらへんを適当に歩き回ったら雪之丞変化の墓があった。長谷川一夫は映画で雪之丞を2回演じたが、2回目の雪之丞は映画出演300本の記念作品だったらしい。そんな大スターのわりに墓が地味なので奥ゆかしいと思ったら、これはどうやら案内表示に過ぎなくて、墓はこの左側にあった。そりゃそうか。というか右側と思ってしまいそう。

あたりに巨大な、いかめしい、これ見よがしな墓が多い中では比較的こぢんまりしてるほうだ。右手前の墓石は長谷川家の水子の墓。向こうに3つ並ぶ墓石の真ん中に、雪之丞変化の長谷川一夫が眠っているんだろうと見当をつけて、正面の戒名だけじゃわからないから側面に回り込んで確かめる。

昭和五十九年四月六日 父 一夫 と書いてある。ウィキペディアで検索した長谷川一夫の死亡日と一致しているので、間違いない。気がすんだので日暮里駅まで戻り、電車に乗って帰ってきた。

 

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首都圏外郭放水路

2024-03-10 | Weblog

いつか行こうと思いながら、なかなか行くチャンスがない場所のひとつ「首都圏外郭放水路」へ行ってきた。どこにあるのか、よく知らなかった(埼玉だろうぐらいの認識だった)場所……たしかに埼玉の畑の中、というか野原の下にそれはあった。春日部のほうといえばイメージできるだろうか? 住所で表現すると、千葉県野田市宮崎……千葉じゃん!

春日部の道の駅・唱和の資料館で見たパネルによると、利根川・江戸川・荒川といった大きな川にはさまれた埼玉の一部(中川・綾瀬川流域と呼ばれる地域)はお皿のように窪んだ地形で、大落古利根川・倉松川・中川などの支流が緩やかに流れており、昔から洪水の被害が絶えなかった。そこで支流のそばに縦抗を掘り、縦坑をトンネルでつないで江戸川に近い調圧水槽に水を送って、ポンプで江戸川に流す放水路を地下に作った。

それが首都圏外郭放水路で、調圧水槽を「地下神殿」になぞらえて、見学者を受け付けている。洪水の心配がないときは水槽が空なので人が入っても大丈夫らしい。特撮番組や映画、音楽のプロモーション映像のロケに利用されることも多いと聞く。それで、なんとなく見覚えがあるんだろう。全長6.3kmのトンネルは国道16号線の地下およそ50mのところを通してあるという話だ。

見学者はこのような小屋(に見える地下神殿の入口)から階段を百段以上、自力で下りて自力で上がらなければならない。そう聞くと大変そうだが、地下50mと思ったら大したことないようにも感じられる。山登りで「あと50m」といったら、もうちょっとでたどりつく場所という感覚だから。もっとも、山登りと比べるほうが変なので、足腰に自信がない見学者を戒めるための「百段以上、自力で」なのだろう。エレベーターやエスカレーターはない。

重機はこうやって立坑を下ろしたり、立坑から吊るし上げたりするそうだ。昔、ぼやき漫才の人生幸朗・生恵幸子が「考えると夜眠れなくなっちゃう疑問」として地下鉄はどうやって穴に入れるのか、責任者出てこい! 的なネタをやっていたことを薄っすら覚えている。こうやって穴に入れているのかもしれない。

この穴の上では少年がスケートボードをやっていた。下は奈落で、およそ50mポッカリ口を開けていると知ったらスケートボードやってる足がすくみそう。知らぬが仏とはまさにこのこと。知っててやってる、ということはあるまいね。

階段はくねくね曲げてあり踊り場がたくさん設けてあるから、もし足がすべったとしても50mまっすぐ転がり落ちることはない。トントン下りてくると「地下神殿」が広がっている。高さ18m、幅78m、長さ177m。ガンダムが高さ18mだから、ホワイトベースの格納庫がだいたい「地下神殿」ぐらいかもしれない。それぐらいのスケール感といえばわかりやすいだろうか、わかりにくいだろうか。どうだろうか。

河川が氾濫しそうになって施設に水を取り込むのは、年に平均7回程度。どうしても水と一緒に土砂も入り込み、ポンプで排水したあとも床に数㎝土砂がたまる。見学エリアは手作業で土砂をよけて客を入れる。平均して年7回程度、お客さんのために土砂を(部分的に)どけて、歩きやすくしてあるわけだ。年末に重機を使って全体の清掃を行うらしい。

いわれてみると見学エリアの端から向こうに土砂がたまってる。このまんまでも歩けないことはないが、泥の状態だったら嫌だ。もっとも、汚れてもいい防水シューズ(山歩き用)を履いてきたので、きれいに土砂を取り除いた見学エリアを目にしたときは、ちょっとだけ残念に思った。だからといってエリアを越えて土砂の上を歩くようなことはしない。係員に怒られたくないから。

見学エリアの高さ18mの柱に何か表示してある。上のパネルは「定常運転水位」……あの水位を超えないところまで、調圧水槽に水を溜める。水位を超えそうになったらポンプで排水を急ぐ。台風のときなどはフル稼働しないと、あの水位を超えそうになるらしい。下のパネルは「ポンプ停止水位」……江戸川への排水はあの水位まで水が下がったら止める。残った水はトンネルを通し、別の縦坑からポンプで排水する。そんなことが、平均して年7回程度ある。

そんな作業を管理する場所がこちら。モニターに何やら施設の様子が映されている。「地下神殿」もロケ場所に使われるけど、この管理室がロケ場所として使われることもある。窓ガラスに『翔んで埼玉2』のワンシーンが例として掲げてあった。

「甲子園監視システム」ということは片岡愛之助が率いる大阪陣営が他県の人間を強制労働させている甲子園の地下の様子をモニターする場所だろうか?

ここは千葉県野田市宮崎だけど。

TBSドラマ『下町ロケット』で操作室がロケに使われました! 日テレドラマ『大病院占拠』で操作室がロケに使われました!! TBSドラマ『マイファミリー』で操作室がロケに使われました!! ロケ場所みつけるのも大変だろうな。

ロケ場所としての用途にとどまらず、地下の大神殿は春日部の暮らしと産業を支えているようだ。国土交通省による誇らしげなパネルが施設内に掲げてあった。水害が軽減されたことにより、企業の誘致が進んで物流倉庫やショッピングセンターが立地したという。

管理室は地下ではなく地上にあり、窓から外を眺めると見渡すかぎりのどかな風景が広がっている。地面にある円形のものは、第1工区トンネル1396mを掘ったシールドマシンの面板で、外径12.04m重さ120t。固い土を掘るカッタービットと呼ばれる刃が688個ついてると、近くで見た立札に書いてあった。

 

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バス散歩

2024-03-02 | Weblog

前回しょっぱなからコースをはずれたので東42からやりなおし。東京駅八重洲口(南口)のバス12のりばで待つ。雨降りだからバス散歩には、むしろ好都合。なんにも用事がないけれど、南千住車庫前行きに乗って阿呆みたいに揺られる。

アメリカ大陸を縦横に結ぶ、低所得層の交通手段グレイハウンドバスに乗りたいと思っても、アベノミクスで円の価値は下がり、日本人の資産が大幅に目減りしたから、おいそれと低所得層のバスにも乗れない。東京の路線バスで我慢するしかない。

バスが日本橋をゆくとき、灰色の窓に寄りかかって見慣れた景色を少し高い位置から眺めると、普段の東京と少し違って見える。まるで観光に来たようではないか。地方の都市で路線バスに乗ったときの感覚を催す……知らない町を走ってみたい、どこか近くへ行きたい。

浅草が近づいてくると、すぐ前をはとバスが走行する。浅草寺にでも行くんだろうか。それとも浅草演芸ホールにでも? あのバスの中では初々しいバスガイドさんか、ベテランのバスガイドさんが、マイクで何やかや東京案内のおしゃべりをしていることだろう。こっちは路線バスだし、お客さんも少ないから静かに前進あるのみ。

人力車の群れが路上をゆくのが見える。こうして路線バスの車窓から東京を眺めるのもまんざら悪くない。雨降りで寒い日だから、人力車で凍えるよりバスに揺られてるぐらいのほうがいいかも。最高気温、3度とか4度とか。数日前は突然22度ぐらいあったのに。

泪橋のバス停で降車ボタンを押してバスを下りる。ちばてつやの漫画『あしたのジョー』の冒頭でかなりのページ数を割いて、物語の導入として泪橋のドヤ街の描写があったのを覚えている。丹下のおっちゃんや矢吹丈がどんな吹き溜まりからボクシングで世界をめざすのか、しつこく泪橋を描いてあった。

これが泪橋の交差点。いまはもう橋がない。江戸時代、小塚原の御仕置場へ処刑されに行く罪人たちがあの世に去ることを悟り、涙を流して渡った橋だから涙橋=泪橋というそうだ。さすがにいまはもう、袖を濡らしてる人はどこにもいない。何の用があるのか車がビュンビュン走るだけ。

南千住車庫前バス停まで歩き、そこで上野松坂屋前行きバスを待って乗る。グレイハウンドバスに乗るとアメリカの低所得層の息づかいを感じることができるそうだが、東京の都バスに乗っても低所得そうな乗客の息づかいのようなものは感じられる。手ぶらで乗り降りする東南アジアの若者たちは、どこに何の用があるんだろう?

キャリーバッグを持って都バスに乗り込むのは旅行者なんだろうけど、どことなく低所得そうな雰囲気が漂う。そもそもキャリーバッグが安物っぽい。それはいいけど、なんでまた南千住からバスに乗るのか? これからどこへ行って、何を楽しむつもりなのか。あるいは稼ぎに行くのか。

日本のお年寄りも都バスに乗ってくる。高齢者はバス料金が無料になるか優遇されるからバス移動するんだろう。あんまり日本の若者はいない。低所得そうなんだけどな若者も……。奨学金がいつのまにか学資ローンに化けて20年、社会に出る前に多額の借金を背負うケースが多くてバブル後の氷河期世代なんかより過酷だと聞く。

吉原に身を沈めて学費を捻出する学生も多いとか。廻れば大門の見返り柳いと長けれど、と樋口一葉の「たけくらべ」に出てくる吉原大門のバス停が近づいてきた。目を凝らしてよく見ても、どれが大門でどれが見返り柳かまったく分からなかった。いまはどっちもないんだろうな、たぶん。

そうこうするうちにバスは走行して上野界隈をすぎてゆく。バスに乗ってるのも飽きてきたけど、おとなしく終点の上野松坂屋前まで乗っていく。せいぜい2時間弱なのに飽きちゃうとは長距離移動のグレイハウンドバスなんて無理そう。御徒町で古着屋をのぞき、別に何も買わず地下鉄で帰った。

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アルプスからバスで

2024-02-23 | Weblog

グレイハウンドバスで旅する『アメリカ細密バス旅行』という本を読んで無性にバスを乗り回したくなり、とりあえず東京駅八重洲口12番のりばから1時間に3本出てる都バスで南千住まで行ってから後のことを考えようと思った。その前に腹ごしらえをしておこうと、八重洲地下街のカレーショップALPS(アルプス)へ。

カレーと麻婆豆腐の相盛り500円を2度ほど食べにきたことがあり、今回は券売機で最高額メニューと思われる「満腹スペシャル7カレー」なる7種トッピングのカレー950円をふんぱつ。給食みたいな先割れスプーンが懐かしい。これを食べたら地上に出て路線バスで南千住のほうへ揺られていくんだ。

そういうつもりだったのだが、地下街を歩いてたら新しくできた地下バスターミナルに出てしまい、物珍しくて見物しはじめてしまった。京都にある北大路バスターミナルのようではないか。新宿バスタができたときは名古屋の立体バスターミナルに比べて何となく殺風景だと思ったけど、ここも殺風景……地域のせいか時代のせいか。

やがて新橋駅・新宿駅西口経由で渋谷駅まで走る路線バスが入線したので、ものは試しに乗ってみる。Suicaで220円均一だったようだ。地下から地上へ出る通路を見たら、あとは普通によく知ってる道ばかり走るので、浜松町あたりで眠くなり新宿御苑のへんまで寝ていた。30〜40分ぐらいか。

新宿駅の東口から西口へ地下通路をくぐり、西口26番のりばで京王バスを下りる。西口のロータリーにバス停がいっぱいあったと思い、地下通路にもぐって心当たりのロータリーのほうへ歩いていった。このへんだったかな? という場所から、階段を上がってみたらバス停が消えていた。

なにやら囲いこんで掘りかえしたり壊したり……そうだった。新宿も渋谷も銀座も、しっちゃかめっちゃかなんだった。東京ってどうしてこうなんだろう。焼けても焼けなくてもバラックみたいに建て増して、いつも便利になるわけでも美しくなるわけでもない。当面のこととして西口バスのりばは一体?

小田急ハルクのほうへ足を伸ばすと一部のバス停がまだ残っているようだったけど、あそこへ渡る通路がない。人足が立たされて「渡るな」と拡声器で言わされてるだけで、どうやってあそこまで行くかろくに説明しない。どうやら、よくわからずに邪魔だけしてるようだった。問い質してもまともな回答が得られなかったから。

仕方がないので地下通路に下りて、案内表示を見落としてないか確かめてみる。閉鎖のお知らせはあっても、行きたい場所に応じてどのように進めばよいか指し示す掲示は全然なかった。ところどころ表示される矢印は、どれが古くてどれが新しいか不明なのでかえって混乱の元になる。東京のことが嫌いになりそう。

要領を得ない矢印をたどり、まだ残ってるバス停のところへ上がってくることができた。都バスが何台か停車してる。もうバスはいいや、という気分になっていたけど、あと1路線ぐらいは乗っておこうと考えて王子まで揺られて居眠りする。そこからはもう地下鉄を乗り継いで帰宅した。

こんなことでは

グレイハウンドに

乗れないかも。

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海老名歴史さんぽ

2024-02-10 | Weblog

海老名など高速道路のサービスエリアとして認識するだけで歩いたことがなかったので、なんにも用事がないけれど小田急の電車に乗って海老名で降り、そこなる「海老名歴史さんぽ」案内板をながめて歩こうと、ネットで案内板設置のおしらせを読んで決めた。

市役所の売店などで同名の冊子が200円で販売されていると聞いて、数年前から関心を持っていたのだが、案内板が令和5年(昨年)に設置されたなら、わざわざ冊子を探さなくて済む。しかし、海老名市のウェブサイトに明記してある北口が海老名駅になかった。

表玄関らしい東口で小田急の駅員に尋ねても、裏口らしい西口へ行ってJRの駅員に問うても「海老名駅には東口と西口はあるが北口はない」という返答。どうなってるのか海老名市。もしや役人の誤記か? と疑いつつ、表玄関の東口で駅周辺の案内図をよく見る。

すると、利用客がいるのか怪しまれる人通りの少ないアクセスの悪い場所に相鉄線の海老名駅北口がポツンと存在した。それなら「相鉄線の」海老名駅北口と明記せねば「海老名歴史さんぽ」案内板を訪ねる人らが東口と西口を右往左往し、北口にたどり着かないか、たどり着くまでに時間をロスするのではないか海老名市?

案内板がいちおう存在したので頭に入れて相模国の国分寺へ歩いていく。聖武天皇の詔で国ごとに設置されることになった官寺のうち、法隆寺式伽藍を持つ初期の国分寺は大和国、下総国、相模国の三つしかないというのが、相模国国分寺のある海老名市の誇りらしい。

あの空地でキャッチボールしてる親子の向こうにあるのが国分寺の塔の基壇にあたるところだという。国分寺も国分尼寺もあっというまに廃れてしまい、たいていは荒れ果てて偲ぶよすがもないから、あれくらいでも遺跡があれば立派なほうだ。

国分寺も国分尼寺も庶民の生活がどんどん苦しくなるのに私利私欲にかられた為政者が湯水のように血税をつぎこんで工事させたので、現代でいうなら維新万博(とカジノ)会場のようなもの。憎まれて壊されて、後の世に親子がキャッチボールする場所として利用されたら立派なほうだ。

鎮護国家・鎮災至福をスローガンに押し進められたプロジェクトが特に具体的な成果もなく形ばかり完成したのち破綻するのは、官の事業にありがちなことで、そういうところも維新万博(とカジノ)用地の夢洲そっくり。イラストが法隆寺式伽藍の様子で、塔のミニチュアだけ駅前の商業施設に屹立してる。

空地に隣接する海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」をのぞいてみる。おばさんが出てきたから200円か300円ぐらい入館料を取られるかと思ったが、無料だった。よければ案内すると申し出てくれたけど遠慮した。新石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代(国分寺建立)など、海老名の遺物が時代順に並ぶ。

このへんは河岸段丘のようだ。舟つなぎ用の杭として打ったケヤキの棒から発芽して大木になったという「海老名の大ケヤキ」の名残が大切に保存されていた。県指定天然記念物であると立看板に記してある。そろそろ帰りたくなってきたが、河岸段丘を登って官寺の国分寺が廃れた後の名ばかり国分寺へ。

梅の木が見事に丸めてあった。こんなふうに刈り込んだ梅を見かけたのは初めてだ。薬師堂、薬師堂と縁起に書いてあるから薬師堂が元々あり、近くの国分寺が廃れた後に遺物を何かしら移してきて官寺ではないが国分寺を名乗ったものらしい。紛らわしいことを……。

「海老名歴史さんぽ」案内板にも出ていた鐘がものものしく飾りつけてある。想像したより小さかった。いつの鐘だろう? と寺伝を読んだら、鎌倉時代の正應5年(1292)に海老名氏が鋳造した梵鐘だというから、本来の国分寺にまったくなんの関係もない。もうええわ、やめさせてもらうわ! と漫才のようにお辞儀して急いで海老名を去り、小田急で帰った。

 

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近松と西鶴の墓

2024-01-20 | Weblog

兵庫県尼崎市のJR塚口駅(大阪から数駅)で降りて、ちかまつロードを歩いていくと10分か15分くらいで近松公園に着く。近隣には近松保育園やネオ近松と称するアパートなど、近松門左衛門にちなむ建物がいくつかあった。近松という地名ではないが「近松のまち あまがさき」として市や県が注力してる。

近松門左衛門は江戸時代の劇作家で、人形浄瑠璃(文楽)の台本を多く残した。福井藩士の次男として承応2年(1653)に生まれた次郎吉は、父の杉森信義が浪人したので寛文7年(1667)京都に出てきて、丁稚奉公をはじめる。奉公先の縁で浄瑠璃や歌舞伎に接し、天和3年(1683)というから30歳で書いた「世継蘇我」が上演されたらしい。

人形浄瑠璃の公演をチケットぴあなどで調べると、どうも関東より関西のほうが上演の機会が多い。近松は西で浄瑠璃を書いて、竹本座で上演したのだから。とはいえ、時代物を書いているうちは泣かず飛ばず。世話物の「曽根崎心中」が当たって名を成すのは元禄16年(1703)だから人間五十年を越えて、苦労の末の遅咲き。

売れっ子になった近松は宝永3年(1706)大阪に移り住み、そこの地縁で尼崎を描いた「五十年忌歌念仏」を上演したのが宝永4年(1707)。六十代になって尼崎の荒寺、廣済寺の再興を資金面で助けたのが正徳4年(1714)……昭和50年(1975)その寺の隣に建てられたのが近松記念館で、近松公園の一角を占める。

正面は施錠してあり、通用口に回るよう貼り紙がしてあったので、そっちから入ると管理人さんが出てきて入館料200円を徴収し、展示室を開錠して電灯と空調をつけ、展示の案内をしてくれた。前の管理人さんが3年前に他界してから、老後の3時間労働でここの番をしている。浄瑠璃は先日、初めて見たそうだ。

隣の廣済寺は、再興の恩人である近松のため、本堂の裏に離れを設けて仕事部屋として近松に提供した。この「近松部屋」は明治の末まで残っていたという。1階と中2階の2部屋あり、近松記念館の模型で概略がわかる。

中2階への短い階段が記念館に展示されている。実物だという。管理人さんにその話を聞かなかったら、ガラスの向こうに展示されている梯子のようなものを目にしても気に留めなかったかもしれない。

近松の墓は大阪の谷町筋にあるのだが、隣の廣済寺にも実はあり、どちらも本物だと管理人さんは言う。昭和25年(1950)に墓を掘ったら骨があったとか、後に過去帳が出てきて近松の戒名が記録されているとか、証拠(になるのか?)をいろいろ取り揃えてある。かえってあやしい。

せっかくだから廣済寺のほうの墓も見ていく。寺域を描いた江戸時代の絵図を見ると周囲がまるで海のようなのは、水田だからそう見えるらしい。カラーだったら水田とわかりそうだけど、墨だけで描くと木立のところが島のようではないか。

廣済寺の墓地に入ると近松の墓が整えてあり、思ったより小さかった。「冥土の飛脚」「国性爺合戦」「日本振袖始」「心中天の網島」「女殺油地獄」「関八州繋馬」など百の戯曲で名を轟かせ、享保9年(1724)に没した。それから300年。

大阪に戻り地下鉄の谷町六丁目駅から谷町筋を下ると、八丁目のガソリンスタンド脇にあるのが近松門左衛門の墓だ。このへんには相撲の力士を贔屓にする支援者がたくさん住んでいたので、いまでもパトロンのことをタニマチと称する。近松にも熱烈なタニマチがいたのだろう。

世話物で名を馳せたから、伝統的な時代物を高尚とする向きからは邪道と蔑まれた。しかし庶民は時代物を喜ばず、近松が書いた時代物は20年ずっと空振り続きで竹本座が潰れかけたところで一発逆転、三面記事的な要素のある実話を元にした世話物の浄瑠璃が大ヒット。いまでは古典として残っている。

近くの誓願寺で無縁仏の中に埋もれていた井原西鶴の墓石、明治の文豪、幸田露伴が発見して現在は墓地の中央通路の奥にしっかり据えてある。無縁仏の中から見つける露伴の熱意すごい。職業戯作者を近代作家の祖として敬う思いが強かったのだろう。露伴がいなければ無縁仏のままだった。

 

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番町界隈2

2023-12-02 | Weblog

番町界隈を歩いてブログを書いたとき、文人通りを行き来しても島崎藤村の住居跡が見つからなかった話をしたら、ご家族のかたが場所のわかる地図をくれたので改めて尋ねてみた。見つからないわけだ。脇道に曲がった場所で、案内板が木に隠れてた。

枝をかき分けて字を読むと、昭和12年(1937年)から藤村が6年間ここに住んだそうだ。6年後の昭和18年(1943年)は没年だから、晩年の住居ということになる。たまたまなんだろう、画家の藤田嗣治のアトリエが同時期に目と鼻の先にあった。藤田は藤村の亡くなる前後に神奈川へ疎開し、転居後のアトリエは空襲で焼けた。

いまはアパートになっている藤村の住居跡も、だから空襲で焼けたに違いない。もっとも藤村は昭和18年(1948年)に大磯の自宅で亡くなったというから、空襲以前に疎開なのか転居なのか大磯に移っていた。文人通りの住民はこぞって神奈川に越したのかもしれない。泉鏡花は空襲より先に近くの住居で逝去した。

そこから四谷駅のほうへ出て、お堀端の公園沿いに市谷駅のほうへ進んだら、内田百閒の住居跡があるはず……いただいた地図を頼りに尋ねると、あそこの角地がそうに違いないけど光文書院のビルがあるだけで案内板や記念碑のようなものはない。『ノラや』のノラはこの辺で失踪したのだろうか。

ノラを探して徘徊する百閒もかくやと近隣を捜索したら別の旧居跡に看板が出ていた。藤村が番町に転居してきたのと同じ昭和12年(1937年)に百閒も番町に越してきて、いまの番町公館のところに住んだが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼け出され、看板の立つ場所の掘建小屋に戦後も3年ほど住んだ。そのあと光文書院の場所に三畳御殿を建てて移り住み、昭和46年(1971年)に亡くなるまで暮らした。

さらに市谷駅のほうへ足をのばし、フランス出身の風刺画家ジョルジュ・ビゴーの住居があった角地にきてみた。工事をやっていて痕跡ひとつなかった。道路をはさんで向かいに吉行淳之介が住んでいた(時期はぜんぜん違う)というので、右往左往して調べたが何もそれらしき跡はなかった。

二七通りを九段のほうへ歩いていくと、寺田寅彦の住居跡は見つからなかったけれども東京家政学院の門前に『明星』発祥の地の案内板があった。明治33年(1900年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社の機関誌として始まり、高村光太郎、北原白秋、与謝野晶子(鳳昌子)らが寄稿した。集英社の『明星』とは別物。

その先の路地に入って1本目の通りとの角地が、平塚らいてうの住居跡のはずなんだけど何の痕跡もなかった。明治44年(1911年)に25歳で雑誌『青鞜』を創刊して、「原始、女性は太陽であった」という表題の文章を寄稿し、大変な話題になった。そのわりに案内板すらない。

二七通りに戻って九段のほうへ歩くと、塙保己一の和学講談所のあったところでまたビル工事か何かやっていた。『群書類従』を編纂した江戸時代の人で、若くして目が不自由になり、琴だか三味線だか弾いていたのが学問に志して古文献の研究に邁進したすごい学者さん。アパートか雑居ビルにでもなるのかな。

その先の永井荷風の住居跡はこのような更地になっていた。靖国神社のほうへ曲がったら小山内薫の住居跡があると思って、行ったり来たりしたけどアパートや飲食店があるだけで手がかりすら見つからなかった。塙保己一の和学講談所の跡の工事現場に戻って、国木田独歩の住居跡を探しにいく。

そこは大妻女子大や付属校が密集するエリアになっていて、国木田独歩の住居跡や坪内逍遥の住居跡や武林無想庵の住居跡を、いまどき珍しいセーラー服の学生らが通り過ぎる。もっとも独歩や逍遥や夢想庵の住居跡として表示があるわけでもないので、おそらく誰ひとり意識することなく入学から卒業まで通過するだけ。

坂を下って大杉栄の住居跡がどうなってるか見にきたら、そこの角地はセブンイレブンになっていた。獄死したアナーキストの住居跡がコンビニエンスストアになってるとは意地の悪いこと。もちろん案内板や記念碑の類など、あるはずもない。つまらなくなってきたので、そこから地下鉄に乗って家に帰った。つづき(番町界隈3)は、また今度にしよう。

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京都1200年

2023-11-25 | Weblog

京都の中心は時代と共に東へ東へ移動してきた。たとえば京都駅などは平安京の中心線より、かなり東に位置しており、南に下がってもいるので、1200年前だったら京の外れもドン外れ、ギリギリの隅っこだ。芥川龍之介の小説『羅生門』に出てくる、荒れ果てた城門より東にあたり、やや北だからどうにか平安京の内側とはいえ、あの小説の時代なら荒廃すさまじき場所だったはず。

そんな京都駅から烏丸通をまっすぐ北へ上がると京都御所がある。北朝の初代、光厳天皇が1331年に即位した場所で、当時ごたごたしたことは明らかだ。北朝ができる前の正統(のちの南朝の源流)が内裏を置いていたのは現在の岡崎、平安神宮のあるところで京都御所よりさらに東だった。代々の内裏も、北朝の御所も、794年にできた平安京の内裏より東にかなり寄ってる。

南朝はその後、滅びたから、北朝の御所が天皇の在所として明治の首都移転まで続いた。明治天皇も北朝の系統なのだ。1331年から1869年までだから538年間。しかし京都には東京遷都を歴史的な事実として認めない人がけっこう存在しているという噂を聞いたことがある。その人たちには、この御所がいまも日本の中心なんだろう。

そんな御所も幾度も焼亡し、現在の建物は1855年のもの。京都は空襲で焼けなかったけどその前に何度も焼けている。社寺も仏像も古いものが残っていない。そういうのは滋賀にむしろ多い。さて、1869年に北朝の明治天皇が東京の宮城(元・江戸城で現・皇居)に移るまで、御所(南朝に遠慮してるのか内裏と呼ぶことは少ない)の周辺には多くの宮家や公家が住んでいた。

御所のまわりの細い水路はこんな水量でも皇室を守る結界の役割を果たしていたのだろう。俗世の堀とは意味合いが違うから、こんな規模でいいんだ。この外で暮らした貴族がこぞって東京へ、明治天皇を追いかけて移住したから、御所の周辺が荒れ放題に荒れた。これはいかんということで公園として整備されたのが、いまの京都御苑。だから現在、京都御苑の中に京都御所が収まっている。

順路に沿って京都御所を見学したあと、京都御苑を突っ切って南の端まで出てくると丸太町通が東西に通っている。丸太町通を西へ歩いていくと、794年に平安京ができたときの内裏があった場所に至る。そこで丸太町通を西へ西へ、黙々と歩いていく。けっこうな距離だけど昔の人も歩いたんだから歩くしかない。烏丸通を超えて千本通のほうへ、丸太町通を西へ歩く。

途中、堀川通の手前に真新しい看板があり、宇治の平等院を建てた藤原頼道の屋敷がここにあったというから寄り道する。令和3年にこの地に社屋を構える企業が宣伝を兼ねて藤原頼道の邸宅「高陽院」の跡地であると訴えかけたものらしい。

さらに丸太町通を西へ進み、堀川通を渡って千本通との交差点に至る。そこがまさに平安京の元の中心、大極殿があった場所だと表示が出てる。794(鳴くよ)うぐいす平安京から1200年たった1994年、発掘調査でここがその場所だとハッキリしたって書いてある。いまとなっては御所からも内裏(平安神宮)からも遠く、京都観光の繁華街からも離れている。見物客などいない。

それまでは、千本丸太町の交差点より北西に位置する内野公園(児童公園)の場所が大極殿だと思われていた。明治28年(1885年)このあたりが荒れ果てたのを見るに見かねた役所が急遽、写真のような大極殿跡の石碑と石段を児童公園の一角に築いた。しかしその場所はズレていたことが百年あまり後、平安遷都1200年の1994年に判明した。それから早、30年が過ぎ去ろうとしている。

昭和38年(1963年)の下水道工事で見つかった、平安京の内裏の回廊の一部の跡に遺構と石碑があった。千本丸太町の交差点から信号ひとつ分、北に上がって東に折れたところ。平安遷都の当時の文書を元におおまかな場所の見当はついているんだろうけど、実際に学術調査をやって初めて「ここだったのか」ということになるらしい。公文書の保管は大切なことで、安倍政権みたいに公文書改竄を平気でやるようになると国は滅ぶ。国賊というのは安倍晋三みたいな人のことだと、京都1200年の歴史を歩いて遡りながら思った。

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読売ランド前から

2023-11-18 | Weblog

向ヶ丘遊園で下車して歩き回ったのが思ったより楽しかったもんで、小田急線の下り列車でさらに2駅ほど都心を離れて読売ランド前で下車した。向ヶ丘遊園は2002年に閉園したけど、読売ランドはまだ閉園していない。木造コースターが超怖いと聞いたことが昔あるのだが、いまも木造のままかどうか。

新宿からくると自然に南側の改札を通ることになる。読売ランドは北側らしいので、踏切(←これが都心には滅多にないので少し懐かしい)を渡って駅の反対側に回り、郵便局を過ぎて右手の路地に入る。「この先行き止まり」のほうへ歩いていくと多摩自然遊歩道に足を踏み入れることになる。

遊歩道の立札のところで、向こうから老人が列をなして歩いてくる。旗を見ると歩こう会かなんかの群れだ。こんなのと遊歩道ですれ違ったら難儀だから立札のところでやり過ごす。100人ばかり、あとからあとから家畜のように連れられてくる。どうしてもホロコーストを思い出してしまう。その妄想を振り払うのが大変だった。

老人たちが途絶え、やっと1人きりになったので多摩自然遊歩道を静かに歩くことができる。住宅地のすぐ裏にこんな山道のようなものがあるとは。そこはかとなく縄文人がかつて暮らしていても不思議ではない雰囲気が漂う。ヒッピーとかのコミュニティがあってもおかしくないような……?

そうそう、こういう衝動的なのか意図的なのか判別しがたい絵が遊歩道の両側に現れてきてね。そうすると向こうから原始的なのか文明的なのか、言い方を変えると下手なのか上手なのか形容しがたいエレキのバンド演奏のようなものが聴こえだし、静かに歩くどころではなくなる。

森の中に突如、出現したコミュニティ。これはヒッピーの祭典だろうか。多摩方面にはいまだに、そういうムーブメント的なものが残っているのだろうか。1991年の夏に青森県の六カ所村で体験した、いのちの祭りにどこか似てる。この人たちもやっぱりNO NUKEを唱えているんだろうか?

森を抜けると車道があって、道なりに進んだら日本テレビの生田スタジオに出た……ここ、タレント取材にきたことある。1999年か、1998年ぐらいかな。収録に来てるタレントの上がり待ちで、夜7時ぐらいから待機して夜9時すぎから洋服のショッピングについて話を聞いたような。もう忘れた。

さらに歩いていくと、よみうりランドが見えてきた。キャーキャー歓声は聞こえるけど、はたして木造コースターが健在なのかどうか遠くから眺めてもよくわからない。こっちは裏手みたいだし、正門に回って入園するのもおっくうだから、よみうりランドに寄らないで京王よみうりランド駅をめざす。

途中、こんな見晴らしのいい場所に出た。山じゃないか、自分がいる場所。そんなつもりじゃなかったから、水も持たずに歩いてきた。ほとんど手ぶらだ。こんな装備で大丈夫か。死亡フラグが立たないうちに里に下りて駅まで歩く。京王よみうりランド駅のつもりが京王稲田堤の駅に出た。かまわないから京王で帰った。

 

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向ヶ丘遊園

2023-11-10 | Weblog

楽しそうな名前の駅だと思って電車を降りた。向ヶ丘遊園。かつて遊園地があったようだが、いまはもうない。ようこそ生田緑地へ!と改札口に掲示してあり、遊園地なきあと緑地がいちばん推しみたいだから、その緑地のほうへ歩いていく。

途中、川を渡って府中街道を越える。このあたりに向ヶ丘遊園の入口があったらしいんだけど、いまはとくにそれらしき様子がない。2002年に閉園して、もう20年以上になるから無理もないだろう。まっすぐ生田緑地のほうへ進む。

駅から1本道だから迷いようがない。10分ほど歩くともう緑地に入る。そこに日本民家園があるので寄っていく。各地から民家を移築してきて保存している野外博物館のようなところで、進んでいくと思ったよりたくさんの民家が寄り集まって農村に迷い込んだみたい。

このように正門を入ると宿場があり、その先に信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村がある。神奈川の村は関東の村じゃないかと思うけど、ここはおそらく神奈川なので他の関東とは一線を画す意識があるのだろう。川崎市なのかな?

これが信越の村だった。雪で倒壊しないためだろうか、屋根の角度が関東の村(含む神奈川の村)と比べて鋭角のように思える。何が面白いのか見物して歩いてるおじさんの姿がそこらじゅうに見られる。もっとも自分も同じように、つまらない顔で徘徊してるおじさんに過ぎない。

関東の村に差し掛かると、子供たちが嬉々として麦わらの民芸品を青い目の外国人に装着してもらっていた。日本の伝統文化はこのように、ものずきな外国人らによって守られていくのだろうか。そういうものなのかもしれない。

さびしい気持ちになったので日本民家園を抜け出して、生田緑地をさらに奥へ進むと青少年科学館があった。しかしながら青少年だった時期はとっくに過ぎ去り、残念ながら科学っていう気分でもないので、素通りしてさらに生田緑地の奥へ急ぐ。

メタセコイアの林を通る。こういうところを歩くと、どうしても思い出さずにいられないのはフルタ製菓のセコイヤチョコだ。丸太を縦割りしたような形状でウエハースをクリームで包み、チョコで覆っている。植物はセコイア、チョコはセコイヤ。そうなのだから仕方ない。画家がルノワール、喫茶室がルノアールなのと同じ。

メタセコイアの林を抜けると、そこはもう岡本太郎美術館だった。川崎市立と表示されているから、ここはやはり神奈川県川崎市なのだ。これでいいのだ。ゲイジュツはバクハツだ。ムン!なんだかわからない。岡本太郎はテレビで奇人変人ぶってたが、『自分の中に毒を持て』などの著書を読むと、まともな思考力のある人だったことが露呈する。

せっかくだから美術館を見物して、することがなくなったので元きた道をまっしぐらに戻った。駅前の珈琲館に寄ってドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第4部を読み、混んできたので店を出て小田急線の普通列車で新宿駅まで座って続きを読んだ。そんなことはどうでもいいか。

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番町界隈

2023-11-05 | Weblog

関東大震災で壊滅するまでは番町界隈にちらほら作家や画家、音楽家などが住んでいた。震災後は郊外へ移り住んだ。いまの地理感覚だと山手線の外側へ。まだ倒壊する家屋もないような、手つかずの森や野原が多かったから、被災者が住みつくのに適していた。話はそれるが、震災で被災した寿司職人が地方へ散った結果として、江戸前寿司が全国に広まった。

そんな100年前の震災以前、いまの地理感覚だと地下鉄の麹町とか半蔵門とかに程近い、日本テレビ旧本社ビルの再開発問題で揉めに揉めているという(警官うろつく)番町あたりに暮らした作家や画家、音楽家などの名残というか痕跡というか、ゆかりを求めてある日そこらを歩いて回った。「番町文人通り」という愛称もあるらしい。

たとえば明治29年(1896年)、有島武郎、有島生馬、里見弴の作家3兄弟の父がここに自宅を構えた。3兄弟ともすでに青少年だったから、ここで育ったといっていいかどうか疑問ではあるけど、多感な時期を過ごしたのは間違いない。このへんは徳川の時代に直属の武士を住まわせた場所で、いざとなったら将軍が甲州へ逃げる突破口だった。幕府の瓦解後、住む人が減り、家を構えやすくなった。

3兄弟の長男、『生まれ出づる悩み』や『或る女』の有島武郎が大正12年(1923年)6月9日に軽井沢で自殺し、同年9月1日に関東大震災が起こると、3年後に作家の菊池寛がこの地に住んで文藝春秋社を起こした。文春砲でおなじみの、あの会社だ。菊池寛は芥川賞・直木賞を設立した人でもある。『真珠夫人』なども書いた。

有島3兄弟や菊池寛が住んだ場所はこのようなアパートになっている。大都市の宿命で戸建に住む人が亡くなると跡地はほぼ100%アパートになる。そうでなければ事務所や商業施設になる。番町界隈はアパートばかり。日本テレビ旧本社ビルの再開発が揉めに揉めているのは、ほかでもない地元アパート住民の猛反対があるから。

明治43年(1910年)から泉鏡花が死ぬまで、『婦系図』のモデルでもある愛妻すずと暮らした旧居跡は有島3兄弟や菊池寛の住居跡のアパートのすぐ裏手だった。震災後もここで暮らし続けたようだから、泉鏡花は番町の文人の代表例といってもいいのかもしれない。みんな散り散りになってしまったから。

みんな散り散りになった後、昭和12年(1937年)にパリから帰ってきた画家の藤田嗣治(晩年はフランスに帰化してレオノール・フジタ)がこの地にアトリエを構え、敗戦直前に神奈川の小渕村に疎開するまで住んだ。アトリエは転居後の空襲で焼けたというから疎開して正解だった。ちなみに泉鏡花は空襲より前に他界していた。

藤田嗣治のアトリエがあった場所も、このようなアパートになっている。すぐ隣か、もしかしたら同じ場所に、震災より前に作家の島崎藤村が住んでいたようなのだが、跡地の看板が見つからなかった。芥川龍之介には批判されたけど島崎藤村は日本文壇の功労者なのだから、看板ぐらいあってもいいのに。ちなみに藤村は神奈川の大磯で戦時中に逝去した。神奈川に疎開するのが流行りだったのか。

「君死にたまふことなかれ」で有名な歌人の与謝野晶子と、雑誌「明星」(といっても戦後の芸能誌じゃないほう)を主宰した与謝野鉄幹の夫婦は、明治44年(1911年)から4年間この地に暮らした。ほかにも直木三十五、武田麟太郎、初代中村吉右衛門、網野菊、串田孫一といった人たちが周辺に住んだらしいが、串田孫一の住居跡しか看板が見つからなかった。

だいぶ離れたところに、作曲家の滝廉太郎の居住地跡があった。明治27年(1894年)から7年間、亡くなる2年前まで住んでいたというから、これまで看板の出ていた誰よりも先に暮らし始めた先輩だ。「荒城の月」「花」「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」などを作曲した人で、場所も離れているし時期も早いし別格かも。

滝廉太郎の住まいは袖摺坂に面していた。今でこそ車道が2車線もあるが、もとは行き交う人の袖と袖が摺れるほど狭かったので袖摺坂という。そんな由来と一緒に、作家の国木田独歩もこのへんに住んでいたと案内表示に書いてある。一番町のほうが、文人の住みつくのは四番町などより早かったのかもしれない。そしてみんないなくなった。

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