散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

しばられ地蔵

2016-09-22 | Weblog
亀有と松戸の間の金町で電車を下りて歩くと水元公園のそばの業平山南蔵院につきます。緊縛というと
どうしてもSMを連想しますが、サド侯爵もマゾッホも縛ったり縛られたりするのはあまり得意でなさそう。
しばりは日本文化なのかも。


安全に楽しめますよう

しばられ地蔵の絵馬にどんなことが書いてあるかと思ったら案の定、遊縛民と称する縛龍さんと縛柳さんが
「縛りが上手になって安全に楽しめますよう」と一願を掲げています。他の絵馬も同じような祈願ばかりです。
なんだかすごいですね。


安全第一

安全に楽しむのはよいことです。しばられ地蔵がどんな緊縛を受けているか見てみると、ぐるぐるに縛られて
満足そう。これは緊縛師とか遊縛民の人々が、安全にしばる願いを込めて真剣に技を磨いた成果でしょうか。
衆生の願いを聞き届け、緊縛に身を挺する地蔵の慈悲は尊くもありがたいですね。


サイドからの眺め

しばられ地蔵を最初に緊縛したのは名奉行の聞え高い大岡越前守忠相だそうです。しばった上に車に乗せて
江戸市中を引廻したというから、さぞかし物見高いやじ馬連中の好奇の的になったことでしょう。


百円の願かけ縄で願かけて情けをかけて

大岡越前のように大胆なことは平成の世では難しいかもしれませんが、それでも一本百円の縄を用い幾百人が
それぞれの念をこめて地蔵をしばります。


解き縄入れ

思いを遂げたら、縄を解かねばなりません。解いた縄はこのような解き縄入れに投じます。縄の数だけ、秘めた
思いが叶った証……そう考えると感慨深いものがありますね。



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こちら亀有

2016-09-17 | Weblog
連休だけど行くところがないのでコンビニでジャンプを見たら『こち亀』が最終回らしい。そうだ亀有に行こう。
中身も読まずにそう決めて電車に乗った。


連載40周年で幕

『こちら葛飾区亀有公園前派出所』略して『こち亀』の連載が終わると聞いて、ネットで惜しむ声が沸いたが
その人たちが毎週『こち亀』を楽しみにしていたかというと必ずしもそうではない。あんたらが読まないから
幕が下りたんでしょーが(笑)


手すりが両さん柄

亀有駅に着いたらエスカレーターの手すりが両津勘吉こと両さんの柄になっていた。そこに手を置く婆さんが
着てる服の柄まで両さん……かと思ったら違った。


階段がコミックスの背表紙に

いつもはこうじゃないんだろうけど、連載が終わるにあたって集英社が宣伝費を湯水のようにかけて、こういう
お祭り騒ぎを演出してるみたい。駅員さんが「立ち止まらないでくださーい!」と声を張り上げていたけど、なら
やらなきゃいいのに。


改札を出たら表紙

1巻から200巻までの表紙が地べたに貼ってあるっぽいけど確かめるのは面倒くさいから、ただ踏んづけて
歩いた。すると外には


両津勘吉の像が

デッサン狂ってるけど、かろうじて両さんとわかる像が立って歓迎してた。おなじ葛飾区では柴又に寅さんが、
亀有に両さんが、このような見世物になっている。


ようこそ亀有へ!

カラオケ スターコートが妙に気になる。手前には「秋本治先生 こちら葛飾区亀有公園前派出所連載40年間
お疲れ様でした」とか何とか書いてある垂れ幕が下がってた。


反対側はどうかな

駅の反対側がどうなってるか見にいこうと表紙コレクションを踏んづけて引き返すと、しゃがんで自撮りしてる
若い女の子たちにマスコミが群がって餌食にしている。夕方のニュースのネタになるのかな?


反対側はカラーだ

両さんと中川と麗子の像が今年8月に立てられて、新たな見世物になっていた。これで終わりかと思ったら全然
そんなことはなく、そろらじゅう両さんだらけ。


お祭り姿の両さん

スタンプラリーまでやっている。銅像……だとは思うけど、なんだろうこの色は? 金ではないし、銅でもないと
いう感じがする。どうでもいいか。


マラカス両さん像

『北斗の拳』とか『魁!男塾』とか『ドラゴンボール』とか、ジャンプの連載は長期化してマンネリ化する傾向
があるけど、『こち亀』は30年ほど前すでにダントツの長期連載で、いまにして思えば10年そこそこなのに
よく続いてるなという感じだった。


商店街にペナント

ジャンプの部数がバブル期に伸びて500万部とか600万部とか、新聞より多い部数を叩き出していたころも
『こち亀』は連載の目玉じゃないけど片隅にいつも載っていて、下町のリアリティが希薄になっても趣味ネタで
命をつないでいた。ジャンプは200万部を切ったろうな、100万部は維持してるかな?


両さんどら焼、両さんサブレ……

両さんめんこ焼、両さんキャンディーも量産してる。しまった、うっかりダジャレを書いてしまった! 下ネタと
ダジャレは封印してるのに。そうでもないか。


こどもひまわり110

地元のPTAとか教育委員会とかのシンボルにも、不良警官が就任してる。最近は読んでないからわからない
けど、連載の初期はそれはもうひどい警官だった。


サトちゃんまで…

ラサール石井がアニメで両津の声をやったり、舞台で両津を演じたりしていたのを覚えてる。SMAPの香取も
何かやってたようだけど見てない。


コラボ嫌いだから

ジャンプの表紙みて亀有にきてみたら、思ったより連載終了で盛り上がっていて驚いた。今後もキャラクターで
権利ビジネスしていかないといけないから投資を怠らない。どんな商売も元手をかけないと成功しないんだな。
お金をかけずに儲けようとしても無理ってことか。


あんなところにいた

これだけやってたら生身の両津勘吉がいなければおかしいと思って歩いていたら、あんなところにリアル両さん。
これは回りこんで顔をたしかめなきゃ。


やっぱり本物だった

もっと本物らしくするには、ふんぞり返るのではなくて低い姿勢を保たないといけない。そんな風に突っ立っちゃ
ダメ。研究が足りない。愛情がない。


少年時代の両津

駅前に掲示してある地図をみると、まだまだ両さん像とか中川像とか麗子像とかあるようだけど、全部見るの
大変だからこれぐらいで帰る。もともと『こち亀』そこまで好きじゃないし。

関連記事:  柴又  (寅さんの場合)
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寒川神社

2016-09-16 | Weblog
相模線の宮山駅で下りると、このように「寒川神社下車駅 正面信号右へ500メートル」と大きく
改札の上に掲げてあるので、その通りに正面信号右へ500メートル歩いていく。


ヤギが川辺で草を食んでいる

神奈川県の中央部にあたるのではないかと思うが、のどかなところだ。いつか古本屋さんで百円
で買って読んだ本に、寒川神社はテレビの神様と書いてあったので、それは面白そうだと思って
ページを破いて手帳にはさんであった。ふと思い出して訪ねてみる。


現役バリバリの結婚式場つき

鳥居の前にこんな立派な施設が建っている。さびれてない。テレビはともかく、江戸の裏鬼門で
寒川比古命、寒川比女命という古そうな神を祀り、相模國一之宮になってる。源頼朝が政子の
安産を祈願したとか、いろいろと由緒があるみたい。


なぜテレビの神に

さかのぼること44年、昭和47年(1972年)の元日から放送スタートした『木枯らし紋次郎』の
撮影中、主演の中村敦夫がアキレス腱を断裂したとき制作会社のスタッフがここで厄払いした。


それでこういう絵馬があるのか

中村敦夫は脚をギプスで固めて紋次郎を演じきり、番組は視聴率30%以上の大ヒット作になった。
その制作会社(たぶんC.A.L)は『水戸黄門』や『大岡越前』を制作したときにも寒川神社に参拝して、
高視聴率を挙げたもんだから、他の制作会社も訪れるようになったと。


テレビ関連の願いごとが多いなら

番組名とか詳しく書いたヒット祈願の絵馬が掛ってるんじゃないかと思って、わざわざ見にきてみた。
しかし、厄という字をさかさまにした厄落としの願いばっかりで、テレビの視聴率アップを願ったものは
ちっとも見当たらない。なにこの神社、詐欺じゃない? (詐欺ではない)


夜尿の病気がなおりますように

病気快癒祈願が多い。そういえば木枯らし紋次郎もアキレス腱断裂だもんな……。テレビ関連の願い、
しいていえばこれぐらい。


スターになる 早坂ひらら

テレビ業界のおもしろ絵馬を見つける目論見は、すっかり空振りに終わった。テレビを誰も見ないのは
寒川神社へのお参りが絶えているからだったら怖いなー。


世の流れは神も止められない?

新宿から小田急線の急行で約50分、海老名でJR相模線にのりかえて約20分、宮山駅から歩いて
約10分……帰りは相模線で茅ヶ崎にまわって、東海道線で帰ろうかな? なんて思って歩いてたら、
さっきのヤギが草を食むのをやめて座っていた。


おなかいっぱいなんだろうか?


普通に(望遠なしで)見るとこう

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鎌ヶ谷大仏

2016-09-10 | Weblog
ハンカチ王子がいちばん人気あったころ、鎌ヶ谷大仏にある日本ハムファイターズの2軍の本拠地で
練習施設の鎌ヶ谷スタジアムにファンが殺到したそうだけど、最近どうなんだろう。半価値王子なんて
いわれたり、ベースボール・マガジン社の社長にポルシェのカイエンをねだってマカンを買ってもらった
ことが週刊誌に載ったり……そんなことを思い出しながら鎌ヶ谷大仏にきた。


まさか、あれが鎌ヶ谷大仏?

新京成線の鎌ヶ谷大仏駅にまったく案内がないから、どこだろうと迷いつつ大仏チューリップロードを
歩きだし、ふと左を見たら、それっぽいけど小さいのがあった。駅のすぐ前だから案内なかったのか。
しかし道路の反対側で、信号が離れてるから回り道しないと大仏に近づけない。


大仏コンタクト

大仏がコンタクトレンズするみたいな看板を眺めながら、離れた場所の信号を回って大仏のところへ。
ハンカチ王子を思い出しながら来ても鎌ヶ谷スタジアムに寄るつもりはない。


高さ1.8m

というと座高が人間の身長ぐらいか。安永5年(1776年)に鎌ヶ谷宿の大黒屋が鋳造させた青銅の
仏像……鎌ヶ谷は何の宿場かなと思ったら、江戸川の本行徳河岸と利根川の木下河岸を結ぶ約9里
の木下街道(きおろしかいどう)の宿場だったらしい。


拝みにきた人

銚子で獲れた魚介類を木下河岸に上げて、この街道を通して本行徳河岸で舟に積み直し、日本橋
まで届けたというから、活気があったんだろう。江戸でも大きな青銅の地蔵を鋳造することが流行り
だったみたいだし、威勢よく釈迦如来像を作らせたか。


大黒屋の福田家の子孫が所有

そんなつもりはなかったけれど、よく一緒に語られるという牛久大仏と東京大仏も見に行ったことが
あり、東京大仏はブログに書いたこともある。牛久大仏は本当に大きい。


居酒屋大仏

便乗商売してるのは見たところコンタクトレンズと居酒屋くらい。駅の名前になっているのが不思議な
気もする鎌ヶ谷大仏だった。

関連記事:  地下鉄赤塚(東京大仏)
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千葉づくし

2016-09-08 | Weblog
千葉はいつも近くにあるのに、千葉のことをあまり知らない。東京とそう変わらないと思い込んでいる
けど、よく考えたらそんなはずはないので千葉にきてみた。そしてモノレールに乗った。


車窓からの眺め

モノレールから見る千葉は抽象的。むしろ東京より特徴的。もしや東京の中心は千葉にある? いまや
東京が千葉を模倣してる? だんだん、そんな気がしてきた。


世界でいちばん千葉モノレール

県庁前で下車すると、ギネス世界記録を千葉モノレールが持っているとアピールするポスターを発見!
なんでも車体が走行桁からぶら下がっている「懸垂型モノレール」としては、営業距離が世界一らしい。
その距離、じつに15.2km。


あなどりがたし千葉モノレール

映画『バットマンビギンズ』に出てくるモノレールよりも、千葉モノレールのほうが長いのだ。そういえば、
どこか千葉はゴッサムシティっぽい。じつは千葉がモデル? NYじゃなくて。


千葉県庁の摩天楼

あそこに知事の森田健作がいるんだろうか。ドラマ『俺は男だ!』のように剣道着で竹刀を振るってる
はずはないが、たまに主題歌の「さらば涙と言おう」を口ずさむことはあるかも。


駅から千葉城が!

聞いたことないと思ったら、平安時代の末期に千葉氏が屋形を築いたことはあっても、天守閣のある
城郭がここに存在したことはなかったという。歩いていってみる。


昭和になって新たに築城された

しかし考えてみれば江戸城だって天守閣を新しく築けばよいのに、千葉が東京に先んじて城を築いた
のは、あたかも東京と千葉のありかたを象徴しているかのようだ。ファンタジー千葉城の中に入ったら、
そこは千葉市立郷土博物館だった。


ここに金塊以外すてるな

お札を捨てようと思ったのに金塊以外は捨てちゃいけないようなので、尻から黄金の塊を……と
いった詩的な表現はやめておこう。お札でふくこともできないから。


千葉城からまっすぐ千葉神社へ

500mから600mぐらい歩いて千葉神社へ。千葉市立郷土博物館の展示によれば千葉氏は妙見信仰
をこの地に広めたので、千葉神社の主祭神は北辰妙見尊星王だった。


千葉劇場を通過

千葉中央駅まで歩いて京成千成線に乗り、となりの千葉寺駅で下りる。マツモトキヨシに向かって左へ
まっすぐ行くとサイゼリアがあるので、その角を左に曲がると千葉寺。


千葉真一が出てきそうな雰囲気

一駅なのだから歩けば歩けない距離じゃないはず。でも、それは東京の感覚で千葉は違うかもしれない。
そこで安全策をとって電車に乗った。たぶん歩けた。


千葉寺の山門

千葉氏が千葉にきたのは1126年(大治元年)で、いまから890年前だと千葉市立郷土博物館の展示
に記載されていた。千葉寺はそれよりも古い。709年(和銅2年)に僧行基が開いたことになっている。
そのとき行基が植えたという、眉唾な銀杏の巨木があった。


樹齢1307年?

銀杏というのはどれくらい長生きするんだろう? 鎌倉の鶴岡八幡宮で公暁が実朝を待ち伏せた銀杏
より大きいのが自慢らしいけど、あっちはとっくに雷で倒れて見る影もない。若木がひょろひょろ生えて
なんとか命脈を保ってる感じなのに、こっちは立派だな……何代目かな?


ちょっと探したらやっぱりあった

それだけ古いお寺なら無縁仏もたくさんあるはずと思って、墓地を見渡したらすぐ見つかった。だけど、
飛鳥や奈良の時代に庶民を仏式で供養したとは思えないから、こうして永代供養されてるのは新しい
時代の仏さんだろう。妥当なところで江戸から明治、大正、昭和?


何しにきたんだっけ? 千葉寺

どうしても無縁仏をブログに乗せがち……散歩ブログじゃなくて、無縁仏ブログになってしまいそうだ。
千葉寺では毎年、大晦日の夜に顔を隠した人々が集まって政治の不正をあげつらい笑う「千葉笑」の
行事が行われているとか。千葉が東京と同じってことはないようだ。


千葉づくし

関連記事:  新宿二丁目
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臼杵

2016-09-04 | Weblog
臼杵の石仏は朝6時から拝観できる。夜は7時まで(冬は6時まで)と拝観時間が長い。この夏はとても
暑かったから、朝7時13分だかに大分駅を出る日豊本線の普通列車に乗って8時ごろ臼杵駅で下車。
まだ観光案内所も開いてないし、路線バスも動いてない。タクシーで石仏を訪ねた。


ずいぶん立体的な磨崖仏だな

チケット売場がまだ開いてないので、とりあえず入口の方へ歩いていったら、入口で券を売っていた。
やわらかい凝灰岩の岸壁に刻まれた60余体の磨崖仏。いまは平安時代後期から鎌倉時代にかけて
彫られたといわれているが、昭和61年(30年前)に初版がでた『謎秘める国宝臼杵石仏 石仏は何を
語るか』(宇佐美昇著・石仏観光センター刊)を買って読んでみると、様式や信仰などいろいろの面で
研究、推測し、平安の中期・末期・鎌倉・室町時代など、いろいろの説があると書いてある。


謎だらけの石仏群

30年で少しは研究が進んだようだけど、誰がどのような目的で造営したのか、はっきりしたことは今も
わかっていない。平成7年(20年ほど前)に4群59体が国宝に指定されたという。写真は、ホキ石仏
第二群第一龕(がん)の阿弥陀三尊像。


その脇に比較的小さな阿弥陀が


9体刻まれている

これでひとまとまり。保護するために屋根がついて東屋のようになっている。こういうのが4群あって、
どれも国宝ということか。


ちゃんと案内表示が出ている

順路通りに見ていく。時間が早いせいか誰にも会わないから、自分だけの石仏群のように錯覚しそう。
ふりかえると大変のどかな景色が広がり、蝉と蛙が鳴いている。


ホキとは岸險という意味の地名


ホキ石仏第一群第四龕

地蔵十王像ということで中尊に地蔵菩薩をすえ、冥府にあって亡者の罪を裁き救済する十王像を左右に
5体ずつ配している。いわれてみると確かににそうらしい。錫杖を持たず、右足を座し左足を立てている
地蔵菩薩は古い様式で、珍しいそうだ。


これは如来三尊像

ホキ石仏第一群第三龕で、中尊に金剛界大日如来を配し、右に釈迦如来、左に阿弥陀如来が並んでる
というけれど穴のほうが気になる。何の穴だろう? お供えではなく、願文や経巻を治めたんじゃないか。
この中に手を入れた人は千年で何人ぐらいいるのだろう。


これも如来三尊像

ホキ石仏第一群第二龕で、穴が埋められているようなのが気になる。入口でもらったパンフによると、
中尊の阿弥陀如来は静まった顔で眉、目、髭を墨で描き、量感あふれる姿が特徴だという。


これも如来三尊像?

ホキ石仏第一群第一龕で、4体あるように見えるけど如来三尊像でたぶん合ってる。中尊は釈迦如来。
並べ方に意味あるのかもしれないけど気にしない気にしない。


順路3・山王山石仏

隠れ地蔵と呼ばれているとか。関係ないけど臼杵は後年、大友宗麟が城を築いてキリシタンが増えた土地。
やたら城下に寺が多いと思ったら江戸時代に領主の稲葉氏が隠れ切支丹を改宗させるために寺を増やして
踏絵させたりした名残だとタクシーの運転手さんが教えてくれた。稲葉氏は、岐阜からやってきて味噌作りや
醤油作りなどを臼杵に広めたという。


順路4・古園石仏

ああこれ見たことある。臼杵のポスターとか本の表紙になっている中尊の大日如来像だ。「切れ長の目に、
引き締まった口元が極めて端正で気品あふれる表情」とパンフでも絶賛してある。石仏観光センターの中に
皇族が来訪したときの写真パネルがあった。


昭和54年 皇太子殿下

そのころまでずっと顔面が胴体を離れて地面に安置してあったようだ。たしかに今も首のところに継ぎ目が
なんとなく見えている。昭和55年から14年間に及ぶ保存修復工事が行なわれて、やっと胴体と頭が一体
になったものらしい。その他の石仏もずいぶん修復されている。


テレビのロケの写真パネル


これも何かの写真パネル


修復された現在の古園石仏


よくこんなふうに修復できたな


修復なのか創作なのかってほど


手つかずの磨崖仏


なごり雪の花が夏に咲いている



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