博物館の寿命って、どれくらいだろう?
というのも、だんだん訪れるお客さんが少なくなるにつれて、カギを締めて
「予約制」にしてしまう博物館が、日本全国いたるところにあるみたいだから
・・・たとえば博多の元寇記念館がそうだったし、天童で訪ねた天童民芸館
(佐藤千夜子の生家)もその通り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/bb/8ea6575bab2f6cdbf59fa960deefac89.jpg)
さすが将棋のまち、天童。
もともと、興味があるわけじゃなかったんだ。事情があって東北にいき、帰りに
1泊するのにちょうどよかったから天童に泊まって、せっかくきたから何か見よう
と、手元のガイドブックをめくってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/24/e6845947b301c1e3b235c96f20281779.jpg)
歩道のタイルが詰め将棋に!
2~3年前に古本屋さんで買った、1996年発行のJTB『ひとり歩きの東北』で、
天童のページに載ってた天童民芸館の紹介文がちょっと風変わりだった。
〇〇〇から×××まで何を展示しているかわからないけど、とにかくすごいもの
を見せられた気分になる不思議な空間・・・・・・といった紹介の仕方。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/33/e582105078360cd6a02b3d34da2df865.jpg)
将棋下手の天童市民は大変?
ぼくが天童にきたのは1992年以来、18年ぶり2回目だって思い込んでたから、
将棋資料館みたいな定番観光スポットより、ちょっと変わったところが見たい。
そう思って民芸館に予約の電話を入れてみた。「予約制」とあったので。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/fa/f59b76a3a18afb4614851ee6e04a0861.jpg)
期待通り! ポストに将棋の駒。
朝9時40分。そろそろかな? ホテルのチェックアウト前に天童民芸館に電話すると、
なぜか温泉旅館につながった。・・・つぶれたかな民芸館。ガイドブック古いし・・・。
めげずに一応、聞いてみる。「天童民芸館の予約はこちらでよろしいですか?」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/b6/44bf5be95f508bf4bf0e6e75a870d69a.jpg)
電信柱にまで・・・・・・
「いま係の者がおりませんので、確認して折り返しでも、よ、よろしいですか?」
なぜか慌てる旅館のひと。民芸館、つぶれたわけではないらしい。約5分後、
地元訛りの早口のお爺さんから電話がかかってきた。何を言っているのか
よくわからないけど、要約すると大体こんな感じ(・・・だと思う)。
「まだ家にいるから開けられない、10時半すぎでいいか? 千夜子が見たいのか
将棋が見たいのか? 何が見たいんだ? 東京か? 何人だ? 1人?」
こいつわ、マンツーマン見学になっちまいそうな予感がしやがるぜ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/99/a15e34f739867243a0787af3533f4510.jpg)
天童、もしや初めてかも?
千夜子って誰なのか、よくわからないけど、生家が天童民芸館ということはきっと
興味があるフリしたほうが見物するのに都合いいはず。そう考えつつ返事する。
これだから編集者というやつは信用できないのさ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/49/66e6234e1b5c93d05dc5def7093e2dcf.jpg)
結論。天童じつは初めてだった!
なぜ天童にきたことがあると思い込んだのだろう? 山寺にも山形にもきたから
天童にもきたと思ったんだろうな。歩き回っても、ぜんぜん見覚えなかった。
再開発されたわけでもなさそうだし、完全に勘違いだ~~~!!
そうこうするうち、天童民芸館(NHK朝の連続ドラマ『いちばん星』佐藤千夜子の生家)
に到着した。お爺さん、もうカギを開けにきてくれたかな?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/59/33b7969b961f8aa12ead50d3948d2e40.jpg)
「人間将棋」の山のふもとに・・・
「天童民芸館は、昭和43年個人で市郊外の旧家を譲り受けて民具(昭和30年代以前)
を展示公開したのがはじまりである。その後、昭和45年に富山県五箇山から合掌造り
の多層民家を移築して見てもらうとともに、屋内に民俗資料を収集して展示した」
ということは、今年で42歳の厄年にあたる施設なのである。(博物館の寿命って・・・)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/00/b9662aa9e5d913ee2ebce5394311b921.jpg)
みーつけた!
「また昭和57年には、天童の生んだ歌姫・佐藤千夜子の生家(注/写真上)を移築して
関係遺品を展示しており、千夜子のヒット曲をテープで聞けるようにしている。これは
見学者から大好評を得ていることの一つである」
つまり、昭和57年(1982年)頃がこの民芸館の全盛期と思っていいのではないだろうか。
以来、四半世紀とちょっと。(博物館の寿命って、どれくらいだろう?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/f3/701b6cb8e7b57f83419c665b2e7f9d45.jpg)
中に入る前に様子を伺う。なんとなく、待たれている?
「日本の流行歌手第1号・レコードアイドル歌手佐藤千夜子は、1897年(明治30年)
3月13日天童市一日町に生まれ、子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、賛美歌
を歌う。14歳で上京。ミッション系の普連土女学校、青山女学院と進み、オペラに感銘を
受けて音楽を志す。1920年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、
聖歌隊員として賛美歌を独唱したところ、作曲家の中山晋平に見出された」
歴史上の人物ぽいのキター(・∀・)イイヨイイヨー!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/25/9f83b4618d101a771f9889f595e8df76.jpg)
全国カラオケ大会?
思い切って、中に入ってみる。
「昭和30年代までの生活用品」・・・といっても、映画『ALLWAYS 3丁目の夕日』
でみた東京下町の生活用品と、また違った趣がある。「昭和の世界」というよりも
「明治・大正の世界」という感じ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1a/5fb7127d80c5e77804a9417b5e188b91.jpg)
案の定、お客さんは他に誰もいない様子。
奥からお爺さんが、ゆっくりした足取りで出てきた。「いらっしゃい。お電話くれた方?
もう天童は大体見て回ったの? いつまでいるの? 千夜子のファン?」といったことを
地元訛りの早口でしゃべっている(らしい)。「まぁ、ゆっくり見て行って。ここはね・・・」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/7c/2feab50ba4a8be127d42cb360687e661.jpg)
千夜子はクリスチャンだった。
「・・・昭和43年に亡くなった千夜子の生涯が、昭和52年にNHKで朝の連続ドラマになってね、
『いちばん星』って見たことある? ない? ないの? もう30年ちょっと前になるからね・・・
だんだん来る人の数が減ってきてね・・・昔は観光バスでお客さん大勢来たけど、いまはもう
ほとんど来なくなったから、普段はカギ閉めてね、電話で予約くれた人にだけ、カギ開けて
見てもらうことにしてるの。入場料500円ね。はい、ありがとうどうも。ゆっくりしていって」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/25/88e8ffc003369eb1b468a7ec887ea094.jpg)
鴨居には四十七士が勢ぞろい。
ゆっくりしていって、ゆっくりしていってと何度も声をかけにくる。何やら急かされている感じ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/21/f29335427fc61fa9aa524ba96c71bce5.jpg)
こんなものまで展示してある。
「ゆっくりしていって。2階もありますから」・・・「ゆっくりしていって。離れもありますから」・・・
「ゆっくりしていって。離れでは千夜子のレコードをテープで流しますから」・・・
うるさいな! きっと千夜子の歌が聴かせたくて、聴かせたくて、聴かせたくて、聴かせたくて
カギを開けて待ち構えていたんだな? (これは一通り聴くまで帰れないぞ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/ed/2e055ae1e2af8cc0dae00f2c61d6b1c5.jpg)
2階は1階に比べて明るい。電話機がズラリ。
さて、千夜子は1921年(大正10年)24歳のとき、中山晋平、野口雨情らと全国歌の旅に参加し、
中山晋平とつきあい始める。3年後、帝国ホテルの「中山晋平作品発表会」で歌手デビュー。
27歳だった。1926年(大正15年)、NHKラジオ放送で「中山晋平作品集」を歌う。29歳。
当時まだレコードが登場していないから、歌手活動といえば地方興行とラジオなのね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/b4/9d6c8bc25c059cec378179a69836d75f.jpg)
蓄音機は千夜子の魂のコレクションだったんじゃないか?
1927年(昭和2年)、千夜子が30歳のとき初めてレコード会社「日本ビクター」が設立され、
翌年「日本ビクター」の第1号レコードとして佐藤千夜子の「波浮の港」が発売された。
おそらく蓄音機を持っている家庭はすべて、彼女のレコードを買ったであろうという。
日本のレコード歌手第1号の誕生で、芸名を「佐藤千夜子」としたのも、このときらしい。
ちなみにコマーシャルソング第1号を歌ったのも彼女で、いまのカルピス(当時は別の名前)
のラジオCMソングを、レコードデビュー前に歌ったらしい。音源はカルピスの会社にも
残っていないとか。
あとでお爺さんが見せてくれた「波浮の港」のレコード盤には、「新民謡」と書かれていた。
いわゆる「歌謡曲」は、そのころ「新民謡」と呼ばれていたんだって。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/c5/051393f4d8105f5ec9ee64d428d6b2c5.jpg)
将棋の歴史まで展示されるとブログ長くなるから・・・
映画主題歌の第1号も彼女で、1929年(昭和4年)、32歳のとき歌った「東京行進曲」がそれ。
ほかにも続々とヒットを飛ばし、古賀政男のマンドリン・ギター曲「影を慕いて」を世に出して
作曲家として大成するきっかけを作るなど、人気絶頂の1930年(昭和5年)、33歳でイタリアに
オペラ歌手の修行をするため旅立つ。
ある意味、ロックな生き方だけど、目指すところはロックではなくオペラだった・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/db/e6f585e4301d370eecb19835b057122c.jpg)
駒作りの道具もズラリ。
3年ほどオペラ修行したが、イタリアで名声を得ることはできず、1934年(昭和9年)37歳で
帰国。しかし日本を留守にしている間に若手が台頭していて、レコードデビュー当時の勢いを
取り戻すことはできなかった。「プライドが高い人だったから・・・」お爺さんはレコードかけながら、
マンツーマンで語り聞かせてくれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ae/7f133da20e0f325bef1ea38d0a3f7efb.jpg)
離れには、こんなステージが!
レコードは傷みやすい(割れやすい)ので、カセットテープに吹き込んだ歌を、ステージ脇の
ラジカセ(上の写真)で聴かせてくれる。奥にある背広は、古賀政男の遺族から贈られたという
古賀のステージ衣装。そして右に掛かっているのが、千夜子のステージ衣装(の着物!)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/82/f30b8e1fb52182df07fc77d81e058c4d.jpg)
おしんもきたよ!(朝ドラつながり?)
戦時中は、戦地訪問団員として慰問をして回った。1939年(昭和14年)、42歳ぐらいからだ。
そういえばNHKの朝のドラマって、ちょっと前まで「大戦中の暮らし」が必ず描かれてたね。
すごいのは1943年(昭和18年)、46歳のとき南方の戦地へ慰問に向かう途中で船が沈んで
5日間も太平洋を漂流したこと。日本海だったらカラダが冷えて死んでいたかもしれないが、
たまたま戦艦「大和」に助けられて、山本五十六の前で歌ったとか。
その後も71歳まで生きて、昭和43年に新宿の都立大久保病院で亡くなり、天童民芸館の
隣にある天童教会共同墓地に埋葬されているそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/77/6dda49b500951e0f4d42e17def8c8d8d.jpg)
安らかにお眠りください。
カセットテープを取り替えつつ、千夜子の歌を説明しながら、マンツーマンでお爺さんが
DJトークした内容は大体そんなところ。疲れたでしょ? 直に聞いたら、もっとだよ?
でも、お爺さん、ありがとう。予約制でこれからも、がんばって!
そして天童は初めてだったみたいなので、駅前にある将棋資料館にも一応いきました。
織田信長の子孫が、関が原のあと領地変えを繰り返し命じられて、幕末に天童にくると
たった2万石・・・。困窮した武士が内職で始めた将棋の駒作りが、そもそもなんだって。
意外に歴史は新しい。明治・大正に育った工芸品がブランド化したのは昭和。しかし、
平成になって廃業する家も多いという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/61/0a039d89a02085f40b1b7ae6fff372a0.jpg)
やたら駒数ある! できるんだろうか、こんな将棋。
というのも、だんだん訪れるお客さんが少なくなるにつれて、カギを締めて
「予約制」にしてしまう博物館が、日本全国いたるところにあるみたいだから
・・・たとえば博多の元寇記念館がそうだったし、天童で訪ねた天童民芸館
(佐藤千夜子の生家)もその通り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/bb/8ea6575bab2f6cdbf59fa960deefac89.jpg)
さすが将棋のまち、天童。
もともと、興味があるわけじゃなかったんだ。事情があって東北にいき、帰りに
1泊するのにちょうどよかったから天童に泊まって、せっかくきたから何か見よう
と、手元のガイドブックをめくってみた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/24/e6845947b301c1e3b235c96f20281779.jpg)
歩道のタイルが詰め将棋に!
2~3年前に古本屋さんで買った、1996年発行のJTB『ひとり歩きの東北』で、
天童のページに載ってた天童民芸館の紹介文がちょっと風変わりだった。
〇〇〇から×××まで何を展示しているかわからないけど、とにかくすごいもの
を見せられた気分になる不思議な空間・・・・・・といった紹介の仕方。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/33/e582105078360cd6a02b3d34da2df865.jpg)
将棋下手の天童市民は大変?
ぼくが天童にきたのは1992年以来、18年ぶり2回目だって思い込んでたから、
将棋資料館みたいな定番観光スポットより、ちょっと変わったところが見たい。
そう思って民芸館に予約の電話を入れてみた。「予約制」とあったので。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/fa/f59b76a3a18afb4614851ee6e04a0861.jpg)
期待通り! ポストに将棋の駒。
朝9時40分。そろそろかな? ホテルのチェックアウト前に天童民芸館に電話すると、
なぜか温泉旅館につながった。・・・つぶれたかな民芸館。ガイドブック古いし・・・。
めげずに一応、聞いてみる。「天童民芸館の予約はこちらでよろしいですか?」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/b6/44bf5be95f508bf4bf0e6e75a870d69a.jpg)
電信柱にまで・・・・・・
「いま係の者がおりませんので、確認して折り返しでも、よ、よろしいですか?」
なぜか慌てる旅館のひと。民芸館、つぶれたわけではないらしい。約5分後、
地元訛りの早口のお爺さんから電話がかかってきた。何を言っているのか
よくわからないけど、要約すると大体こんな感じ(・・・だと思う)。
「まだ家にいるから開けられない、10時半すぎでいいか? 千夜子が見たいのか
将棋が見たいのか? 何が見たいんだ? 東京か? 何人だ? 1人?」
こいつわ、マンツーマン見学になっちまいそうな予感がしやがるぜ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/99/a15e34f739867243a0787af3533f4510.jpg)
天童、もしや初めてかも?
千夜子って誰なのか、よくわからないけど、生家が天童民芸館ということはきっと
興味があるフリしたほうが見物するのに都合いいはず。そう考えつつ返事する。
これだから編集者というやつは信用できないのさ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/49/66e6234e1b5c93d05dc5def7093e2dcf.jpg)
結論。天童じつは初めてだった!
なぜ天童にきたことがあると思い込んだのだろう? 山寺にも山形にもきたから
天童にもきたと思ったんだろうな。歩き回っても、ぜんぜん見覚えなかった。
再開発されたわけでもなさそうだし、完全に勘違いだ~~~!!
そうこうするうち、天童民芸館(NHK朝の連続ドラマ『いちばん星』佐藤千夜子の生家)
に到着した。お爺さん、もうカギを開けにきてくれたかな?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/59/33b7969b961f8aa12ead50d3948d2e40.jpg)
「人間将棋」の山のふもとに・・・
「天童民芸館は、昭和43年個人で市郊外の旧家を譲り受けて民具(昭和30年代以前)
を展示公開したのがはじまりである。その後、昭和45年に富山県五箇山から合掌造り
の多層民家を移築して見てもらうとともに、屋内に民俗資料を収集して展示した」
ということは、今年で42歳の厄年にあたる施設なのである。(博物館の寿命って・・・)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/00/b9662aa9e5d913ee2ebce5394311b921.jpg)
みーつけた!
「また昭和57年には、天童の生んだ歌姫・佐藤千夜子の生家(注/写真上)を移築して
関係遺品を展示しており、千夜子のヒット曲をテープで聞けるようにしている。これは
見学者から大好評を得ていることの一つである」
つまり、昭和57年(1982年)頃がこの民芸館の全盛期と思っていいのではないだろうか。
以来、四半世紀とちょっと。(博物館の寿命って、どれくらいだろう?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/f3/701b6cb8e7b57f83419c665b2e7f9d45.jpg)
中に入る前に様子を伺う。なんとなく、待たれている?
「日本の流行歌手第1号・レコードアイドル歌手佐藤千夜子は、1897年(明治30年)
3月13日天童市一日町に生まれ、子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、賛美歌
を歌う。14歳で上京。ミッション系の普連土女学校、青山女学院と進み、オペラに感銘を
受けて音楽を志す。1920年(大正9年)、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、
聖歌隊員として賛美歌を独唱したところ、作曲家の中山晋平に見出された」
歴史上の人物ぽいのキター(・∀・)イイヨイイヨー!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/25/9f83b4618d101a771f9889f595e8df76.jpg)
全国カラオケ大会?
思い切って、中に入ってみる。
「昭和30年代までの生活用品」・・・といっても、映画『ALLWAYS 3丁目の夕日』
でみた東京下町の生活用品と、また違った趣がある。「昭和の世界」というよりも
「明治・大正の世界」という感じ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/1a/5fb7127d80c5e77804a9417b5e188b91.jpg)
案の定、お客さんは他に誰もいない様子。
奥からお爺さんが、ゆっくりした足取りで出てきた。「いらっしゃい。お電話くれた方?
もう天童は大体見て回ったの? いつまでいるの? 千夜子のファン?」といったことを
地元訛りの早口でしゃべっている(らしい)。「まぁ、ゆっくり見て行って。ここはね・・・」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/7c/2feab50ba4a8be127d42cb360687e661.jpg)
千夜子はクリスチャンだった。
「・・・昭和43年に亡くなった千夜子の生涯が、昭和52年にNHKで朝の連続ドラマになってね、
『いちばん星』って見たことある? ない? ないの? もう30年ちょっと前になるからね・・・
だんだん来る人の数が減ってきてね・・・昔は観光バスでお客さん大勢来たけど、いまはもう
ほとんど来なくなったから、普段はカギ閉めてね、電話で予約くれた人にだけ、カギ開けて
見てもらうことにしてるの。入場料500円ね。はい、ありがとうどうも。ゆっくりしていって」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/25/88e8ffc003369eb1b468a7ec887ea094.jpg)
鴨居には四十七士が勢ぞろい。
ゆっくりしていって、ゆっくりしていってと何度も声をかけにくる。何やら急かされている感じ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/21/f29335427fc61fa9aa524ba96c71bce5.jpg)
こんなものまで展示してある。
「ゆっくりしていって。2階もありますから」・・・「ゆっくりしていって。離れもありますから」・・・
「ゆっくりしていって。離れでは千夜子のレコードをテープで流しますから」・・・
うるさいな! きっと千夜子の歌が聴かせたくて、聴かせたくて、聴かせたくて、聴かせたくて
カギを開けて待ち構えていたんだな? (これは一通り聴くまで帰れないぞ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/ed/2e055ae1e2af8cc0dae00f2c61d6b1c5.jpg)
2階は1階に比べて明るい。電話機がズラリ。
さて、千夜子は1921年(大正10年)24歳のとき、中山晋平、野口雨情らと全国歌の旅に参加し、
中山晋平とつきあい始める。3年後、帝国ホテルの「中山晋平作品発表会」で歌手デビュー。
27歳だった。1926年(大正15年)、NHKラジオ放送で「中山晋平作品集」を歌う。29歳。
当時まだレコードが登場していないから、歌手活動といえば地方興行とラジオなのね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/b4/9d6c8bc25c059cec378179a69836d75f.jpg)
蓄音機は千夜子の魂のコレクションだったんじゃないか?
1927年(昭和2年)、千夜子が30歳のとき初めてレコード会社「日本ビクター」が設立され、
翌年「日本ビクター」の第1号レコードとして佐藤千夜子の「波浮の港」が発売された。
おそらく蓄音機を持っている家庭はすべて、彼女のレコードを買ったであろうという。
日本のレコード歌手第1号の誕生で、芸名を「佐藤千夜子」としたのも、このときらしい。
ちなみにコマーシャルソング第1号を歌ったのも彼女で、いまのカルピス(当時は別の名前)
のラジオCMソングを、レコードデビュー前に歌ったらしい。音源はカルピスの会社にも
残っていないとか。
あとでお爺さんが見せてくれた「波浮の港」のレコード盤には、「新民謡」と書かれていた。
いわゆる「歌謡曲」は、そのころ「新民謡」と呼ばれていたんだって。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/c5/051393f4d8105f5ec9ee64d428d6b2c5.jpg)
将棋の歴史まで展示されるとブログ長くなるから・・・
映画主題歌の第1号も彼女で、1929年(昭和4年)、32歳のとき歌った「東京行進曲」がそれ。
ほかにも続々とヒットを飛ばし、古賀政男のマンドリン・ギター曲「影を慕いて」を世に出して
作曲家として大成するきっかけを作るなど、人気絶頂の1930年(昭和5年)、33歳でイタリアに
オペラ歌手の修行をするため旅立つ。
ある意味、ロックな生き方だけど、目指すところはロックではなくオペラだった・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/db/e6f585e4301d370eecb19835b057122c.jpg)
駒作りの道具もズラリ。
3年ほどオペラ修行したが、イタリアで名声を得ることはできず、1934年(昭和9年)37歳で
帰国。しかし日本を留守にしている間に若手が台頭していて、レコードデビュー当時の勢いを
取り戻すことはできなかった。「プライドが高い人だったから・・・」お爺さんはレコードかけながら、
マンツーマンで語り聞かせてくれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/ae/7f133da20e0f325bef1ea38d0a3f7efb.jpg)
離れには、こんなステージが!
レコードは傷みやすい(割れやすい)ので、カセットテープに吹き込んだ歌を、ステージ脇の
ラジカセ(上の写真)で聴かせてくれる。奥にある背広は、古賀政男の遺族から贈られたという
古賀のステージ衣装。そして右に掛かっているのが、千夜子のステージ衣装(の着物!)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/82/f30b8e1fb52182df07fc77d81e058c4d.jpg)
おしんもきたよ!(朝ドラつながり?)
戦時中は、戦地訪問団員として慰問をして回った。1939年(昭和14年)、42歳ぐらいからだ。
そういえばNHKの朝のドラマって、ちょっと前まで「大戦中の暮らし」が必ず描かれてたね。
すごいのは1943年(昭和18年)、46歳のとき南方の戦地へ慰問に向かう途中で船が沈んで
5日間も太平洋を漂流したこと。日本海だったらカラダが冷えて死んでいたかもしれないが、
たまたま戦艦「大和」に助けられて、山本五十六の前で歌ったとか。
その後も71歳まで生きて、昭和43年に新宿の都立大久保病院で亡くなり、天童民芸館の
隣にある天童教会共同墓地に埋葬されているそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/77/6dda49b500951e0f4d42e17def8c8d8d.jpg)
安らかにお眠りください。
カセットテープを取り替えつつ、千夜子の歌を説明しながら、マンツーマンでお爺さんが
DJトークした内容は大体そんなところ。疲れたでしょ? 直に聞いたら、もっとだよ?
でも、お爺さん、ありがとう。予約制でこれからも、がんばって!
そして天童は初めてだったみたいなので、駅前にある将棋資料館にも一応いきました。
織田信長の子孫が、関が原のあと領地変えを繰り返し命じられて、幕末に天童にくると
たった2万石・・・。困窮した武士が内職で始めた将棋の駒作りが、そもそもなんだって。
意外に歴史は新しい。明治・大正に育った工芸品がブランド化したのは昭和。しかし、
平成になって廃業する家も多いという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/61/0a039d89a02085f40b1b7ae6fff372a0.jpg)
やたら駒数ある! できるんだろうか、こんな将棋。