長州出身の総理が維新150年の映画を作らせようとして大きな損失を出したそうだ。経済も外交も
損失ばかり出して、公文書を改竄させて、こりゃ後始末が大変だ……150年目を機に瓦解しちゃう
のではないだろうか? 維新でひどい目にあった会津では、戊辰150年という言い方をしていた。
なんにも新しくなってないし、戊辰戦争は忘れない。そういう気骨なんだろう。
会津若松城を地元では鶴ヶ城と呼んでいる
ちょうど桜が咲いていた。『八重の桜』という大河ドラマがあったっけ。今年は薩摩の『西郷どん』を
やっている。きっと、維新150年=戊辰150年だから。維新と呼ぶのは薩長の新政府で、幕府側は
みんな、瓦解と呼んでいた。たとえば漱石の『坊っちゃん』の清も、瓦解を大いに悔しがっていた。
瓦解にくらべれば、戊辰は十二支と十干の組み合わせだから、まだ抑制が効いている。
白虎隊は誤解で自害した
戊辰の戦争で幕府が瓦解したとき、鶴ヶ城では八重が鉄砲を打ちまくって奮戦してたというけれど、
山中にいた白虎隊は城で飯を炊く煙をみて落城したと誤解して自刃したという話がある。武家屋敷
の火事の煙だという話もある。どちらにしても勘違いで、泰平の世が続いた後の戦争だから起きた
行き違いにちがいない。
阿弥陀寺 会津東軍墓地
西軍つまり薩長は、会津藩戦死者の遺骸を葬ることを許さず、放置させた。勝てば官軍のやること、
上野の山でもどこでも葬儀を禁じたという。幾度もの嘆願で埋葬が認められたのは明治2年の2月。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺にかぎられ、この阿弥陀寺には1300の遺骸が埋葬された。
1300もの遺骸を合葬
新選組三番隊長の斉藤一は、坂本龍馬を暗殺した張本人ともいわれる剣客だが、局長の近藤勇の
密命で新選組の離脱組に加わり、その主要人物を暗殺してからは新選組に戻って山口二郎と改名。
戊辰戦争では鳥羽伏見から会津若松まで戦ったが、西軍が迫り土方歳三らが仙台に向かった際に
隊士十余名と会津に残った。降伏後は、一瀬伝八と名乗って越後高田に幽閉されるが、明治3年に
藤田五郎と改名して斗南に移った。
斉藤一/藤田五郎の墓
藤田五郎として新政府の警視庁に入り、会津藩主の松平容保の媒酌で会津藩士の娘(八重が男装
するとき黒髪を切ってやった高木時尾)と結婚。西南戦争で薩摩をやっつけるなどして活躍後、大正
4年まで生きた。後半生を会津人として生きた本人の遺志で、ここに眠っている。
藤田姓で葬られている
阿弥陀寺の入口には鋳物の大仏があったが、太平洋戦争で日本が瓦解する前年に出た金属供出令
により、大仏は人々に見守られながらタスキをかけて 「出征」 した。いまは台座だけが残されている。
出征して溶かされた大仏の台座
そういえば漱石の『坊っちゃん』には、まるで会津っ子の典型のように描かれた人物がいる。山嵐だ。
会津若松駅前に掲げられた「あいづっこ宣言」が、また、いかにもな感じだった。
あいづっこ宣言
一 人をいたわります
二 ありがとう ごめんなさいを言います
三 がまんをします
四 卑怯なふるまいをしません
五 会津を誇り年上を敬います
六 夢に向かってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ
ならぬことは ならぬものです
関連記事: 明智光秀首塚から會津墓地
損失ばかり出して、公文書を改竄させて、こりゃ後始末が大変だ……150年目を機に瓦解しちゃう
のではないだろうか? 維新でひどい目にあった会津では、戊辰150年という言い方をしていた。
なんにも新しくなってないし、戊辰戦争は忘れない。そういう気骨なんだろう。
会津若松城を地元では鶴ヶ城と呼んでいる
ちょうど桜が咲いていた。『八重の桜』という大河ドラマがあったっけ。今年は薩摩の『西郷どん』を
やっている。きっと、維新150年=戊辰150年だから。維新と呼ぶのは薩長の新政府で、幕府側は
みんな、瓦解と呼んでいた。たとえば漱石の『坊っちゃん』の清も、瓦解を大いに悔しがっていた。
瓦解にくらべれば、戊辰は十二支と十干の組み合わせだから、まだ抑制が効いている。
白虎隊は誤解で自害した
戊辰の戦争で幕府が瓦解したとき、鶴ヶ城では八重が鉄砲を打ちまくって奮戦してたというけれど、
山中にいた白虎隊は城で飯を炊く煙をみて落城したと誤解して自刃したという話がある。武家屋敷
の火事の煙だという話もある。どちらにしても勘違いで、泰平の世が続いた後の戦争だから起きた
行き違いにちがいない。
阿弥陀寺 会津東軍墓地
西軍つまり薩長は、会津藩戦死者の遺骸を葬ることを許さず、放置させた。勝てば官軍のやること、
上野の山でもどこでも葬儀を禁じたという。幾度もの嘆願で埋葬が認められたのは明治2年の2月。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺にかぎられ、この阿弥陀寺には1300の遺骸が埋葬された。
1300もの遺骸を合葬
新選組三番隊長の斉藤一は、坂本龍馬を暗殺した張本人ともいわれる剣客だが、局長の近藤勇の
密命で新選組の離脱組に加わり、その主要人物を暗殺してからは新選組に戻って山口二郎と改名。
戊辰戦争では鳥羽伏見から会津若松まで戦ったが、西軍が迫り土方歳三らが仙台に向かった際に
隊士十余名と会津に残った。降伏後は、一瀬伝八と名乗って越後高田に幽閉されるが、明治3年に
藤田五郎と改名して斗南に移った。
斉藤一/藤田五郎の墓
藤田五郎として新政府の警視庁に入り、会津藩主の松平容保の媒酌で会津藩士の娘(八重が男装
するとき黒髪を切ってやった高木時尾)と結婚。西南戦争で薩摩をやっつけるなどして活躍後、大正
4年まで生きた。後半生を会津人として生きた本人の遺志で、ここに眠っている。
藤田姓で葬られている
阿弥陀寺の入口には鋳物の大仏があったが、太平洋戦争で日本が瓦解する前年に出た金属供出令
により、大仏は人々に見守られながらタスキをかけて 「出征」 した。いまは台座だけが残されている。
出征して溶かされた大仏の台座
そういえば漱石の『坊っちゃん』には、まるで会津っ子の典型のように描かれた人物がいる。山嵐だ。
会津若松駅前に掲げられた「あいづっこ宣言」が、また、いかにもな感じだった。
あいづっこ宣言
一 人をいたわります
二 ありがとう ごめんなさいを言います
三 がまんをします
四 卑怯なふるまいをしません
五 会津を誇り年上を敬います
六 夢に向かってがんばります
やってはならぬ やらねばならぬ
ならぬことは ならぬものです
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