先週末、七里ヶ浜に仕事の用があったので、鎌倉で江ノ電に乗り換える前にちょっと源頼朝の墓を訪ねることにした。
たしか梅の頃にも鎌倉にきて、桜の時季にまた訪れた。
いざ鎌倉というより、また鎌倉
このまえ素通りした鶴岡八幡宮に立ち寄り、三の鳥居をくぐって左右の池、源平池をよくみる。右が源氏の池、左が
平家の池。よくみると源氏の池には島が三つ、平家の池には島が四つ。
こっちが平家で、手前の島から
あと三つ島が見えるから四つ島
反対側が源氏で、手前の島から
あと二つ島が見えるから三つ島
こういう趣向を凝らしたのは北条政子で、平家の池の「四」は「死」に通じ、源氏の池の「三」は「産」に通じるので
平家が滅びて源氏が栄えるように祈願したとか。
それだから源氏池には政子石
安産祈願の絵馬がいっぱい!
とはいえ北条氏は平家で、源氏の将軍が三代で途絶えてから実権を握ったのは北条氏だから何の祈願やら……。
ちなみに源氏の池と平家の池はもともと分かれてたけど、いまでは水がつながってる。
まっすぐ行けば鶴岡八幡宮だが
手前で右折して東鳥居から出る。そのまま、横浜国立大学付属小学校・中学校に沿うように左、右、左、右と曲がり
源頼朝の墓があるほうへ。
道なりに進むからわかりやすい
鎌倉には城がない。べつに焼け落ちたわけでもなく、もともと城がなくて幕府の建物は屋敷にすぎなかった。立派な
のは鶴岡八幡宮ばかり。城がなくて屋敷だけなのは、鎌倉の地形が天然の城郭みたいなもので、切り遠しが城の門
の役を果たしていたから……そうこうするうちに幕府の屋敷跡の碑が。
源氏三代の屋敷跡
鶴岡八幡宮のわきの街角にそっけなく碑がある。このへんに、もともと幕府の建物があったと清泉小学校の生徒が
模造紙に説明を書いて石碑の向こうに掲示している。
大蔵幕府と呼ばれていたそう
源氏の将軍が三代で途絶えると、北条泰時というか北条政子が幕府の建物を宇都宮辻子(二の鳥居の近く)に移した
と、清泉小学校の「大蔵幕府新聞」に書いてあった。
大蔵幕府新聞
この小学校があるところも、昔は幕府の敷地だったというわけ。清泉小学校に沿って歩いていけば、源頼朝の墓まで
たどりつく……と「大蔵幕府新聞」の地図に記してある。
なるほどこっちのほうにあるのか
桜のトンネル潜る
つきあたりに墓所
将軍は頓死したから、暗殺されたのではないかとも。石段の上の持仏堂に葬られて、戦国時代までに荒れ果て、
江戸中期に島津氏が塔を建てた。島津氏は源氏の直系を任じていたから。いまある塔は後の世のものなので
見なくてもいい気がしなくもないけど……
いちおう見ておく
石段の上で振り返って目に入る景色が、だいたい源氏の幕府があったところ。そう思って眺めてから仕事へ。
だいたいあのへん最初の幕府
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