京の三条大橋は江戸から見ると東海道の終点で、角倉了以が高瀬川を掘削するまで鴨川はいまや繁華街の
「河原町」のほうまで幾筋にも分かれて流れていたという。そのころまでは荒野で、都のはずれでもあり、刑場と
して多くの人が斬首された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/f0/bcbb34f844a9267bbe180acf9103a09f.jpg)
たとえば豊臣秀吉がまだ存命だったころ、甥の秀次を2代目の関白にしておきながら、謀反の疑いをかけて
高野山に追放したおり、秀次が自害したあとも許さずに幼児や妻妾ら39名を刑死させたのも三条河原だ。
1595年(文禄4年)のことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/9e/19f3ded2b27f80922778caeedc1b6024.jpg)
遺骸は河原に埋葬されたが、鴨川の氾濫で次第に埋もれ、流され、荒廃した。16年後に角倉了以が高瀬川を
掘削する際、いくつか墓石を掘り当て、供養のために瑞泉寺を建てた。それがいまもある、三条木屋町のこの寺。
ずいぶん念入りに案内が出ているので、通りすがりに立ち寄った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/a0/bf73def2682116934b9ae6b308313ed2.jpg)
ここで斬首されたのは子女と付き人39名だから、秀次の遺体は高野山から運ばれたのか。もしくは墓石だけ、
あとで持ってきたのかもしれない。墓石をいだく石塔と、その両側に39の石塔が並んでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/d1/e0ca46b354c0359ff4ad813b816017b3.jpg)
どれが誰がびっしり書いたものが掲示してあった。あとで調べたら、処刑の日には三条河原に塚が築かれて、
そこに秀次の首が据えてあった。いっせいに引き出された妻妾は、まずその首を拝まされ、つぎからつぎへと
の手で首を斬られた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/cd/138315bb2ca212e051de8d2edb9c0932.jpg)
それがだいたいこのへんの人たちである。また、1歳や2歳の幼児は立てなかったり、覚悟が決まらないので、
が左手で犬の子のようにぶら下げ、母親が見ている前で突き殺した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/36/1915f3c78e9a84c0446725e0f4e5317a.jpg)
それがだいたいこのあたりの人たちである。死刑執行の奉行は石田三成、増田長盛、前田玄以ら。妻妾らの
亡骸は1か所に集められ「秀次悪逆塚」と書いた石塔が建てられたが、京の人はこれを「畜生塚」と呼んだ。
その「畜生塚」が埋没したあとに建てられたのが瑞泉寺で、いま見てる供養塔の集まりだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/9f/79847d150d132de67286a70fecbf704d.jpg)
奥にある立派な3基の石塔の中央に、「中空の石櫃」が安置されている。この中に首が納められたといわれる。
あとはみんな後世にできたもの。中空の石櫃はこちら。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/34/da4b11e80d51522960423c3dbbcb306e.jpg)
さて、三条河原で思いがけず墓参りしたあとは、とある春画鑑賞の会へ。予約制だが、この時間は1名のみで
まるで貸切のようだった。浮世絵版画や肉筆の巻物(大名の嫁入り道具)は、状態がいいとそれはもう美しい。
これを見にきたついでに秀次の供養塔の前を通りかかったのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/d7/d95e5ea2b9d1f2a87e4df3b0c18f9a66.jpg)
ついでだから細見美術館に足を伸ばして「描かれた『わらい』と『こわい』展 ―春画・妖怪画の世界―」をみて
急いで東京に帰ってきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/9f/ac1ac2597b2ea5010d539cd5164ded8d.jpg)
関連記事: 明智光秀首塚から會津墓地
「河原町」のほうまで幾筋にも分かれて流れていたという。そのころまでは荒野で、都のはずれでもあり、刑場と
して多くの人が斬首された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/f0/bcbb34f844a9267bbe180acf9103a09f.jpg)
たとえば豊臣秀吉がまだ存命だったころ、甥の秀次を2代目の関白にしておきながら、謀反の疑いをかけて
高野山に追放したおり、秀次が自害したあとも許さずに幼児や妻妾ら39名を刑死させたのも三条河原だ。
1595年(文禄4年)のことである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/9e/19f3ded2b27f80922778caeedc1b6024.jpg)
遺骸は河原に埋葬されたが、鴨川の氾濫で次第に埋もれ、流され、荒廃した。16年後に角倉了以が高瀬川を
掘削する際、いくつか墓石を掘り当て、供養のために瑞泉寺を建てた。それがいまもある、三条木屋町のこの寺。
ずいぶん念入りに案内が出ているので、通りすがりに立ち寄った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/a0/bf73def2682116934b9ae6b308313ed2.jpg)
ここで斬首されたのは子女と付き人39名だから、秀次の遺体は高野山から運ばれたのか。もしくは墓石だけ、
あとで持ってきたのかもしれない。墓石をいだく石塔と、その両側に39の石塔が並んでいる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/d1/e0ca46b354c0359ff4ad813b816017b3.jpg)
どれが誰がびっしり書いたものが掲示してあった。あとで調べたら、処刑の日には三条河原に塚が築かれて、
そこに秀次の首が据えてあった。いっせいに引き出された妻妾は、まずその首を拝まされ、つぎからつぎへと
の手で首を斬られた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/cd/138315bb2ca212e051de8d2edb9c0932.jpg)
それがだいたいこのへんの人たちである。また、1歳や2歳の幼児は立てなかったり、覚悟が決まらないので、
が左手で犬の子のようにぶら下げ、母親が見ている前で突き殺した。
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それがだいたいこのあたりの人たちである。死刑執行の奉行は石田三成、増田長盛、前田玄以ら。妻妾らの
亡骸は1か所に集められ「秀次悪逆塚」と書いた石塔が建てられたが、京の人はこれを「畜生塚」と呼んだ。
その「畜生塚」が埋没したあとに建てられたのが瑞泉寺で、いま見てる供養塔の集まりだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/9f/79847d150d132de67286a70fecbf704d.jpg)
奥にある立派な3基の石塔の中央に、「中空の石櫃」が安置されている。この中に首が納められたといわれる。
あとはみんな後世にできたもの。中空の石櫃はこちら。
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さて、三条河原で思いがけず墓参りしたあとは、とある春画鑑賞の会へ。予約制だが、この時間は1名のみで
まるで貸切のようだった。浮世絵版画や肉筆の巻物(大名の嫁入り道具)は、状態がいいとそれはもう美しい。
これを見にきたついでに秀次の供養塔の前を通りかかったのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/d7/d95e5ea2b9d1f2a87e4df3b0c18f9a66.jpg)
ついでだから細見美術館に足を伸ばして「描かれた『わらい』と『こわい』展 ―春画・妖怪画の世界―」をみて
急いで東京に帰ってきた。
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