白峯神宮に用があって京都にきたついでに、そのへんを歩いていると堀川にかかる一条戻橋についた。
一条戻橋というのは延喜18年(918年)に三善清行という文章博士が亡くなったとき、報せを聞いた子の
浄蔵が熊野から急いで帰ってくると、葬列がこの橋の上を通っていたとか。
橋の下の流れはこう。ほたるが出るらしい。
浄蔵は父・清行の柩にすがって激しく泣き、神仏に熱く祈りを捧げたところ、不思議にも清行が一時蘇生して
言葉を交わすことができたという伝説がある。
それがこの一条戻橋。
すぐ近くに陰陽師の安倍晴明を祀った晴明神社がある。ついでだから、そっちのほうへトコトコ歩いていく。
鳥居に五芒星がついてる。そして、その向こうにまたまた一条戻橋が……!
なんだこりゃ~と思ったら、この橋は大正11年から平成7年まで実際に使われていたもので、今の橋がかかる
とき、境内に復元したと木の札に書いてある。
晴明神社の客寄せのひとつになってるみたい。
なかなか人気のある晴明神社の境内には、日本人だけでなく、近隣の国々からも観光客が訪ねてきていて、
記念写真や動画を熱心に撮っている。
そして陰陽道のグッズを授与してもらっている。
晴明神社があったところは、平安時代どうだったかは知らないけど、そのあとで秀吉が天下を取るころには
千利休が屋敷を構えていたって石碑に書いてある。
鳥居の横に、千利休居士聚楽屋敷跡っていう石碑が。
その時代には、晴明神社はとっくに廃れていたか、存在しなかったにちがいない。いまみたいに晴明神社が
流行るようになったの、いつぐらいからなんだろう?
パチもんっぽい雰囲気の土産物屋さんも繁盛。
一条戻橋というのは延喜18年(918年)に三善清行という文章博士が亡くなったとき、報せを聞いた子の
浄蔵が熊野から急いで帰ってくると、葬列がこの橋の上を通っていたとか。
橋の下の流れはこう。ほたるが出るらしい。
浄蔵は父・清行の柩にすがって激しく泣き、神仏に熱く祈りを捧げたところ、不思議にも清行が一時蘇生して
言葉を交わすことができたという伝説がある。
それがこの一条戻橋。
すぐ近くに陰陽師の安倍晴明を祀った晴明神社がある。ついでだから、そっちのほうへトコトコ歩いていく。
鳥居に五芒星がついてる。そして、その向こうにまたまた一条戻橋が……!
なんだこりゃ~と思ったら、この橋は大正11年から平成7年まで実際に使われていたもので、今の橋がかかる
とき、境内に復元したと木の札に書いてある。
晴明神社の客寄せのひとつになってるみたい。
なかなか人気のある晴明神社の境内には、日本人だけでなく、近隣の国々からも観光客が訪ねてきていて、
記念写真や動画を熱心に撮っている。
そして陰陽道のグッズを授与してもらっている。
晴明神社があったところは、平安時代どうだったかは知らないけど、そのあとで秀吉が天下を取るころには
千利休が屋敷を構えていたって石碑に書いてある。
鳥居の横に、千利休居士聚楽屋敷跡っていう石碑が。
その時代には、晴明神社はとっくに廃れていたか、存在しなかったにちがいない。いまみたいに晴明神社が
流行るようになったの、いつぐらいからなんだろう?
パチもんっぽい雰囲気の土産物屋さんも繁盛。