「面白いところだな……元は畦道かな?」
と興味がわいてきた。翌日は土曜日で、午後から会社でマッチョな方を撮影することになっていたけれども
午前中は暇なので、もういちど北千住の路地をくねくね歩いた。
戦争で焼けなかったらしい
田んぼの上がそのまんま繁華街になって、畦道のあとを人が行き来する……ように見える。路地をくねくね
昨日と違う通り抜け方したら、こんな(どんな?)ところに寺が。
ぎっしり墓があり無縁塔も
これは天保8年(1837)に起こった大飢饉の餓死者の供養塔で、塔の側面に刻まれて風化しかけた碑文には、
「飢えて下民に食なし」
「この地に死せる者828人」
「370人を金蔵寺に葬り」
などとある。この寺は金蔵寺といって、本尊は閻魔大王。
葬るというより投げ込みか?
その塔と並んで建つ別の供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、この地で死んだ遊女の戒名が石に刻まれている
と寺の立て看版に書いてある。どの石だろう?
戒名がずらずら刻まれている石を探してみる
聞いたことがある。幕府公認の吉原と別に、品川、内藤新宿、板橋、千住などの宿場には本陣や脇本陣の他に
食売旅籠とかいう安価な非公認の遊女屋があって、そこで働く飯盛女というのが今でいう風俗嬢だったと。
これがどうもその子たちの戒名らしいな
身売りした女は人別帳(住民票みたいなもの)から外されるので、死んでも実家の墓に入ることはなく多くは
投げ込み寺に死体遺棄されたとか。
明治になって無縁仏として供養
あてもなく散歩するとうっかり墓地に入り込みがちで、今日もまた縁もない仏の集うところを用もなくうろうろ
してしまった。自分も前世は無縁仏だったのかもしれない……急いで出社してマッチョな方をお出迎えする前に
写真を整理してブログを書いてアップした。
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