散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

府中競馬

2014-04-29 | Weblog
府中にある東京競馬場に用があって、京王線の東府中駅からのびている「盲腸線」で府中競馬正門前駅へ。
「盲腸線」というのは、終点なり起点なりが他の路線と接続していない行き止まりの路線のことで、盲腸みたい
にみじかい。土日に競馬があるときだけ混んで、平日はガラガラ。


でも、8両編成で1時間に数本

競馬をやる趣味はないので空いてる平日……ではなく、JRA競馬博物館を無料で見ることができる祝日を
選んで、わざわざやってきた。盲腸線だけあって府中競馬場正門前駅のホームは広い。土日はこのホーム
に人がごったがえすのだろう。競馬がないとこの通り閑散としている。


閑、散・・・・・・


閑、散・・・・・・


閑、散・・・・・・

まがりなりにも祝日なのだから、もうちょっと賑わっているかと思ったが甘かった。競馬やってない競馬場
にくるのは競馬やってない人だけ。正門があいていないので、柵にそって東門をめざす。


なかなかの広さと大きさ


柵には互い違いに馬の頭と馬に乗る人の飾り


ようやく東門に到着~

競馬のある日は入場料200円、ない日で博物館を公開してる日は入場無料。お父さんだけ競馬にのめり
こんで家庭崩壊しないように、競馬場内には子供も母親も楽しめるアトラクションがたくさん。例えば……
ミニ新幹線とか、ミニチュアポニーとか、馬車とか、ターフィ(JRAのマスコット)とか、いろいろ。


子供が遊ぶ歓声がきこえる


競馬博物館なかなかご立派

ギャンブルって胴元がもうかる仕組みなんだなぁと感慨を新たにして、博物館の中へ。とても空いている。
やっぱり競馬やってない日に足を運んで正解だったかも。


馬の脚って膝みたいなところが足首なんだな……

足に見えるところは中指で、脛に見えるところも中指で、腿に見えるところが脛にあたり、脚の付け根っぽい
ところに膝があり、付け根は胴体に隠れてるってことか。


子供ひとりにお姉さんひとり

なにしろ空いてるから体験コーナーの順番がすぐ回ってきて、観客がいなくてもお姉さんは明るく声を張って
実況してくれたり、ほめたり囃し立てたり、おだてたりしてくれる。


ちゅうバスに乗って府中まで行く

帰りは東府中まで1駅分くらい歩こうとしたら、ちゅうバスがちょうどやってきたので100円払って乗り込み、
府中まで運んでもらってラクだった。盲腸線にはもう乗らなかった。

関連記事: 江北六丁目団地  ・・・盲腸線に乗ったことなど
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勝どき

2014-04-25 | Weblog
このところ天気いいから会社にじっと座ってられなくて、おとといは築地を歩いてコラムネタをひろい、
きのうは聖路加のまわり歩いてコラムネタをひろった。きょうは勝どきを歩いて、あいにくコラムネタは
ひろえなかったけれども、かわりにブログネタをひろった。


やさしさ見つけた

薬局だからお年寄りが置き忘れた携帯電話かも。勝どきは埋め立て地で、どこまでも凹凸のない平らな
地面が続く上に高層ビルが多いから、人情とか温かみを感じる土地ではないかと思ったら、あるじゃん。
やるじゃん薬剤師さん。


十返舎一九の墓所

もうちょっといったら東陽院というお寺に、弥次さん喜多さんがお伊勢参りをする『東海道中膝栗毛』の
作者、十返舎一九の墓所を示す碑があった。裏側を見ると昭和33年に東宝映画がこれ立てたみたい
なことが刻んである。


そんなようなこと

てことは、このお寺にお墓があるんだろうけど、門が閉まってる中で幼女がひとり遊んでいて、なかなか
入りにくい。幼女に聞いてもわからんだろうし、だいたい怪しまれそう。庶民が半ば道楽で旅する先駆け
みたいな滑稽本の作者だから、その末流の末流の末流の……なんだかわからないところに散歩ブログ
もあるかもしれず、お墓が見たい気もしたけど今日はあきらめた。 近いからまた訪ねられるし。


いちおう裏に回ってみたりして

墓地があるかなと期待したけど見当たらない。勝どきって明治から大正にかけて埋め立てられたらしい
から、お墓ったってそんな古くないだろう……と思うと、十返舎一九の墓があるのは不思議かも。どこか
から移してきたのかな?


いいところに気づいちゃった……

立て札を読むと、十返舎一九は天保2年(1832年)に没し、浅草永住町の東陽院に葬られたんだけど、
関東大震災のあと東陽院がこの地に移転し、墓も移された。つまり、亡くなった場所ではない。ならば
べつに墓石は見なくてもいいかな。


またいわくありげ

防災まなぶ不動明王……左の碑を読むと、「東京消防庁職員、佐藤学君(まなぶキター)は昭和57年
5月5日深夜、中央区勝どきのマンション火災に出場、猛煙猛火をかいくぐって7階のベランダに突入し、
熾烈なる火炎に対し我が身を母子らの楯として身を焼かれながらも庇護し、次々と4名の救出に成功。
そのあと、リフターに自分も乗れば、重量が超過して墜落する危険があることを考慮し、救急活動と酸素
欠乏で極度に披露した体にむち打ち、1人火炎を分けて無枠のはしご車の先端に飛びついたのであった。
しかし非情にもそのはしごは噴出する火炎に赤く焼けていて、灼熱のはしごを握る両の掌は焼けただれ、
ために握力が弱まっていた所に、一挙に拡大して噴射した火炎と熱風に圧せられて殉職なされた。享年
30歳、新婚3か月であった。(これで半分)


あの2階建てには

まなぶ君はホテルニュージャパンの火災のときも4名、宿泊客を助けた優秀な消防署員だったみたい。
ふりかえるとビルの下に2階建ての家(?)があり、カベに掲げた手書きの看板を読んでみると……


2階で巨大スクリーン完備

なんか意外なことが書いてあって、びっくりしたことであった。 勝どきの話は、これでおしまい。
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切支丹燈籠

2014-04-19 | Weblog
切支丹燈籠とかいうのを見てみようと思って市ヶ谷にきた。市ヶ谷にきたのは初めてでも何でもなく、
こないだもカレー部の活動でアジャンタにきたし、仕事で通りかかることもあるし、どちらかといったら
おなじみの場所なのに切支丹燈籠があるのは知らなかった。


靖国通りを靖国神社のほうへ

このまえ読んだ本に切支丹燈籠のことが書いてあり、徳川2代将軍秀忠の茶道指南役だった古田
織部が考案した石灯籠は、十文字になった竿のデザインと石に刻まれた地蔵像を、隠れ切支丹が
十字架とマリア像に見立てて祈りを捧げたものだという。


パク森の本店つぶれてる……

カレーとドライカレーが一緒にごはんの上に盛られる「パク森カレー」の銘店が、ちかごろ値下げに
熱心だと思ってたら3月に店をたたんでしまった。TVチャンピオンのカレー職人選手権で優勝した
こともあったのに。 (練馬の工場をカメラ片手に内緒で訪ねたこともあるのに)


東郷通りへ右折

パク森の先で、靖国通りと直角に交わる東郷通りへ右折する。東郷といえば誰もがきっと思い出す
のは、デューク東郷……またの名をゴルゴ13だろう。あの東郷もまた本名かどうかわからないが、
世界をまたにかけて仕事するのに「東郷」の名は通りがいいから名乗っているのかも。


東郷通りの先には公園がある

なんで通りがいいかというと、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃破して日本を勝利に導いた
アドミラル・トーゴー(東郷提督)は世界的に有名だからだ。白人の超大国にアジアの小国が戦争で
勝つなんて前代未聞だったから、世界史上の驚異として知れ渡っている。黄禍論が起こってアメリカ
に日本がこっぴどくやられる遠因になったみたい。たぶん TPPとかも無関係ではない。


ここが東郷元帥記念公園か……

ロシアにいじめ抜かれていたトルコでは東郷といえばアジアの英雄で、東郷というビールが愛されて
いるのをこの目で見たことがある。一応イスラム教の国なのに、はばかりなく酒を飲むから驚いた。
(政教分離しているとはいえ……)


東郷平八郎ビール

明治の末期に「陸の乃木、海の東郷」と並び称されたとか。乃木大将のほうは戦争あまり上手くない
のに対して、東郷はとても上手だったようだ。しかし東郷の住居跡は公園に、乃木の住居跡は神社に
なっている。この違いは何だろう? と不思議に思いながら公園を歩く。


ごくあたりまえの土曜日の光景

ちかごろは、このように公園でカメラを持ち歩いてると不審者と間違われるかもしれないから細心の
注意が必要だ。細心の注意を払って挙動不審になると危険だから努めて自然を装う。すると肩に力
が入って動作がぎこちなくなり、「あの人カメラなんか持って怪しい」と思われそうで疲れる。


これが力石、徹?

徹ではない。両手ぶらりの力石(りきいし)ではなく、ただの力石(ちからいし)。日本じゅうにある。
村の鎮守、神社の境内、会所や村境にあって、若者たちが力試しに用いたとか。この石の表面には
五拾七貫目(およそ213.75kg)と刻まれているが、実際に計量したら、146.4kgだったと千代田区教育
委員会が平成5年に看板を立てている。


公園前が二七通り

東郷通りと直角、靖国通りと平行に通る二七通りに面して「二七不動院」があると、このまえ読んだ
本に書いてあった。そこに切支丹燈籠があるというから、忙しいのに(?)わざわざ訪ねてきたのだ。
九段南にある二七不動院は、寺そのものの開基は明治初期と、それほど古くはない。隠れ切支丹
ならばそれはそうだろう。


このへんかな~?

寺堂は、関東大震災や太平洋戦争の戦火で失われたが、本尊のお不動さんだけは無事だったため、
戦後に寺が再建された。そのころから毎月、二と七のつく日に縁日が立って、昭和30年代ごろまでは
にぎわっていた。その不動院を入って右側、草に埋もれるように今も佇んでいるという切支丹燈籠を
探しにきたのに、ないじゃない。


どうもこのあたりらしいけど~?

住所は九段南4-2-11で、東郷元帥記念公園に参道が面してるとなると、このスーパーが怪しい。
ネットで検索すると二七不動院は4年前、2010年に火災で焼失して再建されなかったらしい。という
ことは、跡地がこうなってるのか。


つまり、ここが参道だったのか!

切支丹のキの字もなくなって、すっかり散歩は空振り。石灯籠ぐらい焼け残ってないのかと思って
町内グルグル歩き回ったけど、残念ながら何もなかった。


そこらへんの花の写真を撮って帰りましたとさ


関連記事: 乃木坂  (乃木大将の屋敷跡のこと)
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御囲御用屋敷

2014-04-12 | Weblog
中野の駅前も変わりましたね。サンモールの手前に大きな階段ができたり、エスカレーターなんかも
ついたりして見違えてしまいます。


エスカレーター上ってみた……

中野サンプラザなくなるってウワサが一時期、まことしやかに語られましたが、それから1年たっても
2年たっても全然なくなりません。デマだったんでしょうか。隣にあるのが中野区役所です。


区役所前で犬がとぐろ巻いてる

なんでも江戸時代に5代将軍の綱吉が「生類憐みの令」を出したとき、保護されて増えまくった野犬
を捕まえて、このあたりに集めておいたとか。それまで野原だったんでしょうね。


「御囲御用屋敷」と呼ばれた場所

いまの中野3丁目・4丁目から野方、新井、高円寺のあたりまで16万坪もの土地に犬が囲われて、
地名も囲町だったなんて知りませんでした。再開発してるところ、巨大な犬屋敷だったとは。


そうなの? おかあさん

幕府が設けた犬の囲い込み施設がなくなったのは、8代将軍の吉宗のとき。おびただしい犬たちは
どこへいったんでしょうね? 天国かな。


てことは、犬の銅像は鎮魂のため?

桃の木が植えられて桃園になったそうですが、明治・大正・昭和と時が移ると共に軍用地になって、
第二次世界大戦中はあの有名な陸軍中野学校がここにあったみたい。


変われば変わるもの…

中野サンプラザの裏って、すべりおちそうですよね。昔ここのテニス教室に通ったことがあるのを、
いま思い出しました。中野に住んでるとき。


中野ブロードウェイ

せっかくだからブロードウェイに寄って、古本1冊買って帰りました。シャッター下ろしてるお店が
多くて、下ろしていないところは9割「まんだらけ」という感じ、まんが古書店だったのに、すっかり
骨董屋さんになりましたね。変われば変わるもの……。
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足尾銅山

2014-04-05 | Weblog
日光から足尾まで路線バスが出てるのを見かけて、子供と一緒に乗り込んだ。だいたい1時間くらい、
うとうとしてるあいだにバスは山道をくねくね(たぶん)走り、足尾銅山のあたりを通った。「銅山観光は
こちらでお降りになるのが便利です」と運転手さんがいうから、バスを降りた。


トロッコで坑道へ・・・

20年前、わたらせ渓谷鉄道でここへ来たことがある。運転免許の合宿で前橋に2週間ほど寝泊まりし、
日曜が休みで銅山を観光しにきた。鉱毒事件で田中正造が明治天皇に直訴したことで知られてるけど、
訪ねてみたら古河鉱業のほうは関連会社がたくさん栄えて、バブルがはじけたばかりとはいえ大企業は
強いなあと思ったものだった。


あれから20年・・・

坑道の中はあいかわらず。古河鉱業のものになる前も、江戸時代から銅が掘られて坑道の総延長が
1234kmに達するとか。およそ東京から博多までの距離に等しいと、暗がりに解説パネルが出てる。
銭形平次が投げる銅銭も、全部じゃないかもしれないけど、ここの。


鉱脈が見つかると縦横に掘ってアリの巣みたい

わたらせ渓谷鉄道って観光列車みたいな名前だけど、もともと足尾の銅を桐生まで運び出すために
敷かれたんだろうな。


ドドドドドドド・・・

こうやって、穴ほって、穴にダイナマイト入れて爆発させて、そこから坑道を掘ったとか。そりゃあ、
キケンだったにちがいない……。


いまの日本人にはムリかも

穴から出て「鋳銭座」に入ったら、江戸時代の銭の作り方が詳しく展示してあった。型に銅を流し込み、
枝の先についた葉みたいな銭を切り落とす……つまり、こんな感じ。


チョッキン、チョッキン、チョッキン


こうやってたのか~

今川焼みたいに1枚、1枚、丁寧に型に入れてるのかと思った。職人さんたち、帰るとき勝手に銭を
持ち出さないように裸にされて調べられたとか。


毎日たいへんだな、こりゃ



銅もありがとう また銅ぞ


さて、わたらせ渓谷鉄道の通洞駅まで歩いて、桐生までの切符を買って、1時間くらい電車を待つ。
子供はゲームをやっている。


20年前もこうだったか、ぜんぜん記憶がない

こんなつまらないブログでも、ひまなとき書けばあとで読んで「ああそうか」ぐらいは思うよすがに
なるかもしれない。ならなくても、べつにかまわない。


きた! 窓になんか色褪せたのが…

いちどは鉱毒で汚染された渡良瀬川にそって、桐生へ下っていく。ついたら何か食べようと思ったのに、
駅を出て商店街を歩いてみると軒並みシャッターがおりている。


なかなか飲食店がない・・・

まえに来たときは夏祭りだったから、にぎやかな町のように見えたけど、ふだんは日曜日もこうなのか。
ちょっとびっくりした。


西桐生駅で私鉄の乗り継ぎ切符を買って帰る


自転車持ち込み可だった


関連記事: 桐生  (夏祭りのようす)
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ワールドスクエア

2014-04-04 | Weblog
このまえ日光にいったとき、朝から東照宮の極彩色の建物など見て歩いて、午後することがなくなった
ので、東武で2駅の下今市で乗り換えて鬼怒川温泉からバスに乗り、東武ワールドスクエアへ。


左甚五郎の眠り猫(日光)

子連れだから、ひとりでは行かないところに足が向く。世界の有名な建築物や遺跡などを25分の1の
縮尺で再現したテーマパーク。海外旅行になかなか行けなかった時代にオープンした施設だとばかり
思ってたけど、開業は1993年らしい。バブル期に計画されて、はじけた後に完成したのか。


東京スカイツリー

たぶん一生、訪ねる機会がないと感じてたのに、こんなかたちで間近に接することになろうとは……
ギリシャ悲劇みたいな運命の皮肉。スカイツリーがあれば当然、東京タワーもあって。


オリオンクレープも作ってある!(と子供が喜んだ)

オリオンクレープというのは、東京タワーの下にあるクレープ屋さんで、25分の1の模型にもちゃんと
再現されているのだった。何とかってメニューまで同じらしい。


整備の人まで再現してある!

代々木競技場の整備の人まで、ちゃんと再現……じゃなくて、本物の人間。 どうも大きいと思ったら
そういうこともあるんですね。


成田空港からスカイツリーってこんな近くなのか~


スカイツリーってどこからでも見えちゃうんだな~


エッフェル塔が砂漠に~


万里の長城に西遊記の一行が~

方角がおかしいとか何とか、いってもしょうがない時空の歪みが、あっちにもこっちにも出現している。
つげぐちしてもキリがないから、これぐらいにいたしとうございます。
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