散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

トキワ荘

2017-12-31 | Weblog
仕事納めをしてヒマになったので、マンガの聖地トキワ荘ゆかりの地をぶらぶら歩いてみる。仕事納めを
しなくても、昭和のマンガ家たちが暮らした街並をゆっくり歩くヒマぐらいなら年中あるんだけれども、まあ
こういうのは気分だから。


お米屋さんが案内所に

手塚治虫は1年ぐらいしか暮らさなかったトキワ荘。そこに藤子不二雄や、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、
鈴木伸一、水野英子らが住んでマンガを描いたのも、じつは数年の出来事。そのころは賑やかな商店街
だった豊島区の椎名町あたりも半ばシャッター通りと化して、トキワ荘で町おこし。


トキワ荘そのものは現在はない

2020年に向けてトキワ荘を復元する計画があると聞いたけど、そういうのはかえって見る気がしない。
そうなる前にさらっと見ておきたい。案内所の2階にトキワ荘の一部屋(寺田ヒロオの居室)を再現した
展示があって、階段を上ると職員のおばさんが後をついてくるから「展示の写真を撮っていいですか」
と一応ことわったら、「ネットに上げなければね。個人で楽しむならOKよ」というので写真は上げない。
たいした展示でもないし。


マンガによく登場するラーメン店

案内所を出て右に松葉という店がある。トキワ荘のマンガ家がよく利用したラーメン店で、いまも営業
している。マンガ家たちがトキワ荘にいたのは60年ぐらい前だから、その頃やってた店主がいまもいる
はずはないと思うけど、中をのぞいてみることに。


おもてにマンガが貼ってあった

ガラガラ……と開けると「いらっしゃいませ」と声がかかる。他にお客さんはいない。ラーメンは500円。
普通それを食べるところだろうけど、なんとなくラーメンという気分ではなかったのでチャーハン600円
を注文してみた。トキワ荘のマンガ家が通ってた頃は子どもだったかもしれない、高齢といってもいい
女性がひとりで店をやってる。


マンガ家や芸能人の色紙が多数

「んまーい!」「ンマーイ!」とみんなが描いてるので、そういえばそんな決めゼリフがあったようだと
だんだん思い出した。そんな中でお笑い芸人ザブングルが、「おいしくて悔しいです!」と持ちネタを
披露しているのが懐かしさを誘った。ザブングル最近どうしてる?


チャーハンに味噌汁ついてきた

ベニショウガは嫌いなのでお盆によけて、チャーハンと味噌汁をいただく。おいしかった。量も多い。
若いマンガ家には量の多さも重要だろう。そのマンガ家たちも歳を取って、あの世に旅立った人も。
松葉はあと何年ぐらい営業を続けるのだろうか。


松葉の向かいの路地を行くと…

目と鼻の先にトキワ荘の跡地がある。いまは出版社になっている。その敷地にモニュメントがあって、
トキワ荘がかたどってある。


昭和27年から57年まで

手塚治虫が住んだのは昭和28年から29年、マンガ家が2階に集まって暮らしたのは昭和30年代前半
までだから、あとの20年ぐらいは一般の人が住んでいたことになる。築30年で取り壊されて35年たつ。
2020年ごろ復元されても、やっぱり見にこないだろうと思った。(きたりして)


1階の人たちも一般人だろうな
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上野三碑

2017-12-18 | Weblog
2017年10月31日に群馬県は高崎市の「上野三碑」がユネスコの世界記憶遺産に登録が決まったということで、
12月17日にふらっと高崎にきてみたら、さっそく上信電鉄が「上野三碑巡りフリー乗車券」を1120円で売り出し
ているので、とりあえず購入して電車に飛び乗り、吉井駅で飛び降りた。こんなことでもなければくることもない
さびしいところである。


上野三碑ってなーに?

ろくに知らないのに見にきてしまったが、古代の上野国(こうずけのくに)……いまの群馬県に存在している
飛鳥・奈良時代の三つの石碑がたいへん貴重なものだというので、もともと国の特別史跡に指定されていた
のが、いま新たにユネスコの登録を受けてえらい騒ぎになっている。


「上毛かるた」にも詠まれていた

「鶴舞う形の群馬県」でおなじみ、群馬県民ならば知らない人はいない「上毛かるた」にも上野三碑のひとつ、
多胡碑が詠まれており、吉井駅の改札の上に掲げてあった。多胡碑、山上碑、金井沢碑の三つで上野三碑。
なんでも平安時代より前の古碑というのは国内に二十例ほどしか残っていないそうで、高崎に三つもあるのは
特筆すべきことらしい。それはこのへんの豪族がえらかったということか。


大判振る舞いで無料バスが巡回

多胡碑は吉井駅から徒歩25分ほど。それぐらいなら歩くつもりだったが、ユネスコに登録された記念なのか
無料バスが45分に一度やってくるので、それに乗った。乗客が他にいなくて貸切だった。数分で多胡碑へ。
わざわざ歩いて駅に戻って電車に乗って西山名駅で降りて20分歩いて山上碑にいくよりも、45分後のバス
で山上碑まで運ばれたほうがよさそうだ。


和銅4年ごろの多胡碑

朝廷の弁官が命じる。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から300戸を分けて新たに郡を作り、羊に
支配を任せる。郡の名は多胡郡とせよ。和銅4年(711年)3月9日甲寅。左中弁正五位下多治比真人による
宣旨である。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等)尊。


ちゃんと屋根のある建物の中

さすがに野ざらしではなく、鍵つきの小屋に安置されていてガラス窓からのぞく体裁だった。あとで回った
山上碑、金井沢碑もそうだった。大正10年に揃って国の史跡になったから、そのころ屋根がついたようだ。
おそらく石碑などは雨風に打たれていたはず。


昭和初期にはこんな屋根だった

窓ガラスなどついてないように見えるから、雨はしのげても風はどうかな? 最近になって多胡碑、山上碑、
金井沢碑にちなんで、ゆるキャラが生まれた。




さて、多胡碑の近くに古墳があった。大きな墳墓を作るほど有力な豪族が、仏教と漢字を受け入れて石碑を
だんだん作るようになったという順序なのか。


大きな円墳と小さな円墳があった

これは大きなほう。ところで無料の巡回バスがくるまで、45分をつぶすのに石碑と円墳だけじゃもたない。
ちょうどいいところに「多胡碑記念館」という施設があって、ユネスコ登録記念で入場無料だったから中で
展示を見た。多胡碑、山上碑、金井沢碑のレプリカがあったので、もう見て回らなくてもいいかと思ったが、
バスの時間がきたので山上碑に向かった。


なんかずいぶん階段上るみたい


やっぱりやめとけばよかった?


階段を上ると、また円墳があった


そしてこちらが山上碑

陽物崇拝の石柱のようでもあるけど、そうではないかも。完存する日本最古の石碑で、壬申の乱を制して
即位した天武天皇の時代に建てられた。東国最古・最大級の方光寺の僧が母のために碑文を刻ませたと
彫ってある。石に文を刻むこと自体が最先端の流行だったにちがいない。


古墳の裏の山をさらに登る……

高崎自然歩道を歩いていけば、3kmほど先に金井沢碑があるらしいので、バスに乗るのをやめて歩く。
それはいいんだけど上り下りが結構きつい。


猪が出たらどうしよう?

3kmぐらい歩いても平気だとは思ったけど、山を越える用意をしてないので飲み物しか持っていない。
この時点でお昼はすぎており、整備された道だから安心とはいえお腹がすいてきた。


会うのは高齢者ばかり

どうしていつもこうなるんだろう。死ぬことはないけど腹がへると元々あまり興味がない石碑を見るのに
山道を歩く意味あるのかと考えてしまう。遊びだから意味なんかない。


金井沢碑についた~~

神亀3年(726年)に三家氏が仏教の教えで結びつき、祖先の供養、一族繁栄を祈るために造立した石碑。
仏教は無になり空になるから、先祖の供養は本来の趣旨じゃないけど、日本に受け入れられるときにはもう
別物だったんだな。腹へった。根小屋駅まで歩いたら、何か食べ物の店あるかな。


やっぱりそんなものはなかった


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Comment (1)
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