散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

江の島の奥

2017-01-30 | Weblog
江の島が見えてきた。30年ばかり前、青い鳥居の近くで客引きに「また戻ってきます」と預言のような
呪いのような言葉をかけられ、戻ってくるもんかと思っても1周して戻ってくる江の島の構造のせいで
同じ客引きにまた会ったときの気まずさを思いだし、あの客引きが元気で生きていたら何歳だろうか。
「また戻ってきます」とは今日のことだろうかと、面影を探しても見つからなかった。


赤い鳥居まで進む

くぐると右に交番があって、そっちへ道なりに進むと7分ぐらいで着くと、もらったハガキに書いてある。
どこに着くのかというとカフェMadu江の島。こっちの話だけどケイ ハヤマ プリュスの撮影のとき雑談で
MaduとかTetesの話をしたら江の島の奥に店があると聞いて、ずっと気になっていたところへお正月に
届いた年賀ハガキに割引券がついていたから、いつか行こうと思っていた。


こっちの方へ道なりに歩いていく

1月の最後の日曜は天気がよく暖かかったので、この機会にと足を向けている。道順を聞いてないと、
この道はなかなか通らないんじゃないだろうか。


海沿いの回り道…

あとでわかったのだが鳥居をくぐって真っ直ぐ進むと山を越えるので大変だし、人が多くてなかなか
前に進めない。こちらの道だと人が少なくて見晴らしがよく、上り下りが割合にゆるやか。


やがて奥津宮の参道にぶつかる

突き当たって右の石段を上ると、お目当ての店があるらしい。江の島の奥と聞いてるから、たぶん
そういうことだろうと思ってさらに進む。


江の島になじんだMaduみつけた

青山や渋谷のMaduに比べて和っぽい。30年前こっちのほうまで山を越えてきたかどうか覚えてない
けれど、青山が1993年オープンで最初だというから30年前ここはなかった。


高台から海を見渡すロケーション

席が空いてなかったらどうしようと思ったが、程よく混んで程よく窓辺に空席があった。テラスの席も
あったけど、暖かいとはいえ1月だから室内にしておいた。


焼きチーズカレー食べた

白っぽい冬の光が傾くにつれ黄色がかり、やがて青みを帯びる。刻々と移ろう海と空と木々の色を
愛でながら、湘南鎌倉野菜&温泉卵の焼きチーズカレーをごっくん。


奥津宮を見ていく

食後のコーヒーしばいてから、すぐそこの奥津宮をひやかす。やっぱりこんな奥のほうまで、30年前は
きてないかも。たしか、10年前に江の島の入口のエノスパ(温泉&サウナ)に入ってエノスパ(パスタ)
食べたっけ。Madu目当てにやっと江の島の奥まできた。


古墳みたいな岩窟ものぞいた

もとはといえばこの岩窟のために江の島が参詣の場所として開けたそうな。そうだったのか、まったく
知らなかった。カフェめぐりにきてよかった。
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南宗寺

2017-01-15 | Weblog
南宗寺まで行かなくちゃと思って阪堺電車に乗ったら路面電車だった。堺市の援助によって均一料金で
運行してると車内に書いてあった。御陵前までガタゴト揺られていく。


御陵前の次は……

下車して駅名表示を見ると、「御陵前 次は 御陵前」と変なことが書いてある。何かの間違いなのでは。
南宗寺のほうへ歩いていく。


大小便防止に鳥居

何宗寺の角には、「町を美しく!!悪臭はいやです 大小便おことわり」の文字と一緒に、鳥居の絵が
描いてあった。ちょうど便意を催したところだけど我慢して寺の中へ。


三好長慶の銅像が

堺を支配した武将、三好長慶がこの寺を開いたということで銅像が建っていた。信長よりも20数年前に
天下統一を果たしたと紹介されているけど、それはいいすぎなのでは。


秀忠と家光がやってきた坐雲亭

南宗寺の歴史を記した「南宗寺史」には、大坂夏の陣のとき家康が茶臼山で敗れて駕籠で逃げる途中、
後藤又兵衛の槍に突かれて堺まで逃げ落ちたが、駕籠を開けてみるとすでに事切れていたので遺骸を
南宗寺に隠して後に改葬したとある。


屋根の瓦に三つ葉葵の紋がある

公には大坂夏の陣の翌年に駿府城で亡くなったことになっているが、ここ堺の南宗寺に家康の墓があり
秀忠と家光がわざわざ御成になっている。


この門の向こうには家康の墓が

床下にあった卵型の無名碑が家康の墓だということで、もうちょっと立派な墓碑が松下幸之助らによって
建てられた。はっきり「徳川家康の墓」と書いてある。


徳川家康の墓

この場所には、昭和20年に空襲で焼失するまで東照宮の拝殿があったという。そこにあらためて墓碑が
建てられたわけだ。久能山東照宮や日光東照宮より、ここが本物の東照宮だったりして。


大小便防止の鳥居もあるけど…

大坂夏の陣で豊臣方を葬り去った徳川方が、じつはこっそり自陣の大御所さまを寺に葬っていたなんて!
とんでもないスキャンダルが眠る寺を後にして、また御陵前からガタゴトと路面電車で帰った。


和歌山のパンダのデザインだった
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今城塚古墳

2017-01-14 | Weblog
寒いし雨が降っているのに、わざわざ古墳を見にきた。東京が晴れて暖かいので大阪もきっと
そうだろうと思って新幹線に乗ったら、名古屋あたりで雨が降り出して新大阪は土砂降り……
JR京都線にのりかえて摂津富田(せっつとんだ)駅でおりると、高槻市のキャラクターである
はにたんが待っていた。こういうものがあるということは古墳を見せる気まんまん。引き返さず
行ってみよう。


市バスに乗って今城塚古墳前へ

継体天皇の古墳じゃないかといわれている。継体天皇といったら、そのころ皇室が断絶した
という説があって、継体という諡号がむしろ断絶をあらわすとか。聖徳太子の直系の曾祖父
とされていて、かえってあやしい。本当に継体天皇の陵墓なんだろうか。古墳の上を自由に
散策できるのは珍しい。大仙古墳(むかし仁徳天皇陵とされて今は否定されている古墳)を
はじめ、たいてい立入禁止だから。


大きすぎて写真に入りきらない

上から見ないと前方後円墳のかたちが確認できないけど、それだけの高さがある建物はない。
せめて天気がよければ歩いて楽しいかもしれないが雨だし寒いので散策する気がしない。


前方後円墳の方形のところかな


前方後円墳の円形のところかな


あんなところに埴輪がいっぱい

発掘調査で確認された位置に復元配置されている。これもまた珍しい。カラスが見張り番してる。
近くに行ったら突かれそう。家、大刀、盾、人物、動物など約190点の埴輪がずらり。


ずらり揃って雨に濡れている…


埴輪の祭には雨天も晴天もない


こういうの全国でここだけらしい

すぐそばの今城塚古代歴史館に寄っていく。帰りの市バスの時間を確認して、時間がくるまで
展示物をじろじろ。


石を積む人たち

こうすることで古墳を崩れにくく、植物を生えにくくするそうだけど、いまではどこの古墳も草木に
覆われて本来の景観とずいぶん変わっている。


無駄な努力とまでは言わないが

やりたくないなあ、こういう仕事……。高校生のときに読んだカミュの『シジフォスの神話』を連想
してしまう。ある晩、夢にまで見てしまった。


相撲取りの埴輪


鷹狩の人の埴輪


武人っぽい埴輪

この埴輪が身に着けているのは、もしかしてこういう金属の武具なんだろうか。ずいぶん立派な
ヨロイとカブトだけど、埴輪にするとシンプル。


…光り輝きすぎ?


棺の中の継体天皇


棺の石材が大事に展示されてる

棺の石材の一部は継体天皇陵(?)から運び出されて、石橋に使われていた。そう報じる新聞が
壁に大切そうに貼ってあった。


そうだったのか~

関連記事:  山の辺の道
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由比

2017-01-08 | Weblog
富士山が頭だけ出てる。天気がいいので、東海道線の由比で下りて1駅ぐらい歩く。静岡はどこかのんびり
して明るい。


由比桜えび通りをゆく

この道は旧東海道だという。2kmほど歩くと由比宿につく。桜えびは明治27年に望月平七、渡辺忠兵衛の
鯵船がうっかり網に浮樽をつけずに下ろしたら大量に引き上げられて、明治30年には由比、蒲原の160隻
の鯵船が桜えび船に変わって漁を始めたという話だ。


地震だ!津波だ!それ逃げろ

桜えび漁の由比漁港に寄る。鯵漁もしているようだ。明治27年にうっかり獲れたということは、江戸時代は
べつに桜えび食べてなかった(名物じゃなかった)。


あそこで桜えび食べてる

漁協の直売所で桜えびのかきあげとか、かきあげ丼とか、桜えびドーナツとか、そういうものをドライバーが
群がって食べてる。駅から歩いてきてるのは自分くらいかも。


桜えび見つけた?

明治27年にうっかり桜えび獲った望月平七の子孫だろうか。よっちゃんとやら、どうしてこんな悪役ロボット
みたいなのを選挙ポスターにしたんだろう? このへんが地盤なのか、やたら道端に貼ってある。


由比正雪がうまれた紺屋

よっちゃんのポスターだらけの由比宿を歩いていくと、正雪紺屋についた。慶安4年(1651)4月に徳川の
3代将軍家光が死去した後、由比正雪が浪人を集めて幕府転覆を企てた。7月29日に江戸、駿府、京都、
大阪で一斉に事を起こす予定だったのに、計画がバレて7月26日に正雪は同志と共に自刃した。


そんなことを書いた紙を配ってる

正雪は自刃する前、ある物を人に託して紺屋の敷地に埋めさせた。明治になって掘りだそうとしたところ、
手をかけた者が全員熱を出したので中止。そこに祠を立てて現在に至っているという。人に託したある物
とは何だろう? 体の一部かな? 手ぬぐいを1枚買った。


向かいに由比宿の本陣がある

本陣のすぐ前に紺屋があるってことは、そこそこ名家っぽいけど、紺屋に生まれて下剋上に間に合わず
浪人になったということだろうか。昔のことはわからない。


上から見るとこんな感じ

横一文字に旧東海道。向こう側の中央が本陣。手前の路地の左にあるのが紺屋だ。明治維新後まもなく
天皇が東京に行幸した際も、この本陣に泊まった。


そのときの建物がこれ(模型)


復元した建物がこちら

由比宿の正雪だから由比正雪……名前だけで苗字がなかったんだろうか。宿場を抜けて蒲原駅のほうへ
歩いていくと、正雪という酒を作っている蔵があった。


神沢川酒造

由比駅から宿場跡まで2kmくらい、宿場跡から蒲原駅まで2kmくらい、トータルで4kmくらいのんびり
歩いて、東海道線で帰る。


富士山が丸見えになった

関連記事:  新富士
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豊川稲荷

2017-01-01 | Weblog
日本三大稲荷のひとつというから、あとふたつどこか考えてみる。伏見稲荷は外せないだろう。
もうひとつが思い出せない。スマホで検索してみたら、三大稲荷には諸説あって候補がいくつも
あるという。九尾の狐にちなんだのか、九つの候補があるという話も。


豊川が入らない三大稲荷もある

名鉄の豊川稲荷で下車したら、駅前に狐と人が舞い踊る像があった。コンビニには狐娘(ここ)
とかいうマスコットか、ゆるキャラのポスターが貼ってある。さすが狐だらけ。


豊川稲荷の総門はどうみても寺

稲荷といえば神社だけど、お寺にしか見えない。神仏習合していた頃のまま? 総門をくぐると
鳥居があった。お寺のなかに神社がある設定みたい。


鳥居の向こうの建物もやはり寺

豊川稲荷は正式名称を「宗教法人 豊川閣妙厳寺」と称し、山号を圓福山とする曹洞宗のお寺
です……と自動販売機に書いてあった。曹洞宗ということは禅寺なのか。


オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ

禅寺のわりには、でかでかと真言が掲げてある。ナム トヨカワ ダキニシンテン という念仏も
でかでかと書いてある。なんか禅寺っぽくない。最近ビジネスマンが禅でマインドフルネスとか
いってるけど、それは禅じゃなくて密教なのではと前から思ってた。


自動販売機の説明によると……

清涼飲料水の自動販売機に書いてある説明には、こうある。一般に「稲荷」と呼ばれる場合は
「狐を祀った神社」を想像される方が多数であると思われますが、当寺でお祀りしておりますの
は鎮守・豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)です。


ダキニといったら

裸で空を飛んで人を喰うインドの魔物がルーツの神様がダキニといったような? 自動販売機
には、さらにこう書いてある。豊川吒枳尼真天が稲穂を荷い、白い狐にまたがっておられること
からいつしか「豊川稲荷」が通称として広まり、現在に至っております。


狐は祀られていなかった!!

駅からここまで狐だらけなのに、祀られているのは狐じゃなかった! 珍獣、じゃなくて鎮守の
豊川吒枳尼真天とかいうのだった! ところで伏見稲荷は鳥居だらけだったけど、豊川稲荷は
ノボリだらけ。それにやっぱり狐だらけ。


向こうまで狐が2列に並んでる

わざわざ自動販売機に書くほどだから、狐を祀る神社じゃなくてダキニを祀るお寺だよって強調
したいにちがいないのに、そのわりに狐、狐、狐。


狐狐狐狐狐狐狐狐狐狐狐……


狐狐狐狐狐狐狐狐狐狐狐狐!


だけど狐じゃない

関連記事:  化野念仏寺
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