散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

大雪山

2024-07-04 | Weblog

勤続30年の休暇を会社が付与したので、キャンプ用具を一式かついで大雪山に来た。この30年の悪政の結果、円の価値が60年前(1964年)より下がったと聞いているので海外へ飛ぼうとは思えず、梅雨のない北海道がそろそろ登山の季節らしいから地図をたよりに歩こうと思った。

雨が降ったら宿をとり、晴れたら野営しようという考えで、なかなか使う機会のない大型のバックパックに簡易なテント(ツェルト)と化繊のシュラフとエアマットと、ミニマムな煮炊きの道具と着替え少しと、日帰り装備のデイパックなどを詰めてしばらく放浪してみる。

飛行機に燃料を持ち込めない(預け入れも不可だ)から、旭川駅前のイオンモール3階の100円ショップで固形燃料とライターを買い求め、とりあえず1日3便あるバスで旭岳ロープウェイを訪ねたら強風のため運休していた。小雨もパラついてるし、野営する気にもならず、旭川にバスでトンボ帰り。

車窓から眺めても景色が雄大で、どこか荒涼としており、人の営みも含めてフロンティアの趣きがある。山を歩くと疲れるから、公共交通機関での移動と合間の読書だけで休暇が終わっても文句はない。平日なので車内には定年退職後のご同輩と、どこか海外からわざわざ分け入ってきた小金持ちしかいない。街でも山でもそう。街に泊まり、小金持ちの素行を眺める。

翌朝、他の路線バスに乗って大雪山の別の登山口にアクセスした。小手調べにデイパックだけで層雲峡ロープウェイを利用し黒岳に登頂。その先の野営地など見学して下りてくる。セイコーマートで食料を少し補充すれば、野営地をつないで黒岳から旭岳へ抜け、例のバスで旭川に戻れる気がした。推奨される携帯トイレも浄水器も荷物にたまたま入ってるし。

大雪山の野営地で携帯トイレと浄水器が推奨されるのは、し尿の対策だろうか。高緯度の高地で微生物に分解されない、し尿の害が問題になっている。携帯トイレは害を増やさないためとポスターに書いてあり、登山地図に浄水を推奨する注があるのは、し尿の害から身を守るためと思えてならない。

人が分け入ると汚染されるのだ。しかし、野生動物の糞尿はどうなんだ。あるいは、エキノコックス? 水洗トイレと電源とWi-Fiのある都会の生活がなつかしく、野営ばかりもしていられない。モバイルバッテリーが充電なしで保つのはせいぜい2〜3日だし、ソーラーバッテリーも一応あるが携帯トイレの数にかぎりがある。

2泊3日、ゆるゆる山行を果たして里に下り、古書店で読み捨ての本を買い込んで、安宿でゴロゴロして読み耽るのも悪くない。安逸に放浪するなら山より街だろうか。費用も山より街のほうが抑えられる(選択肢が多い)というのが、社会生活を30年ほど送った末に束の間リタイヤ暮らしを経験してみて得られた教訓だった。

 

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なめとこ山

2024-05-05 | Weblog

なめとこ山の熊のことならおもしろい。で始まる宮沢賢治の「なめとこ山の熊」なら子供のころ読んだことがある。どうやらここは、なめとこ山のあたりらしい。東京を午前中に出て、新幹線で駅弁を食べて、新花巻からバスに乗って、バス停で宿のバンに乗り換えて到着したら午後4時。夕食は5時。

移動と食事しかしていない。夕食後、といってもまだ明るいうちに湯に入る。白猿の湯というのが自慢らしい。熊とか、白猿とか、動物の多いところだが、この白猿の湯は宿の案内によると日本一深い自噴岩風呂だという。自噴ということは、この場所で噴出してる(ポンプなどで運ばない)のだろう。深いから立って浸かる。

神棚の奥に書いてある文字をのぞき込んで読んだ。応仁の乱より前、当温泉主の藤井家の遠祖が薪樵をしていると、白猿が岩窟から出て桂の根元に湧き出る湯で手足の傷を癒しているのを発見し、それが温泉であることを知った。仮小屋を立てて、一族の天然風呂として開いた。

藤井家は武士であったが、1440年に江刺勢と戦って鉛(このあたり)に敗走してきた。それで木樵百姓に身をやつしていたそうである。子孫の三右エ門が宝暦年間に大衆浴場とすべく安浄寺住職の計らいで役司の許可を得るも、飢饉、震災などの苦難により開業ままならず、三之助の代にようやく長屋を建てて温泉旅館を始めることができたのが1786年(天明6年)……238年前。

藤井家の三之助が始めた旅館だから、藤三旅館というらしい。宮沢賢治が書いた「なめとこ山の熊」は没後まもない1934年(昭和9年)に刊行されたそうだが、その冒頭近く「鉛の湯の入口になめとこ山の熊の胆ありという昔からの看板もかかっている」とある。なめとこ山はこのあたりの山である。藤三旅館の湯治部は夜9時消灯だから寝る。

朝7時に朝食の膳が運ばれてくるから、6時45分に起きて待つ。標高はどれくらいあるか腕時計の高度計で調べたら、128mと表示された。さほど高地でもない。あたりの山の標高は600m〜800mぐらい。なめとこ山はどれだろう。詳細不明だそうだけど観光目的の地図にはダムの上流の山の一つがそれに比定されている。

たしか十分な田畑を持たず、山林が国の所有になって伐採できなくなった小十郎は、家族を養うために熊撃ちを生業にした。名人などと呼ばれているが熊には申し訳なく思っており、胆や毛皮を里の商人に買い叩かれるのを不当に感じている。そのうち熊の言葉がわかるようになり、熊撃ちを苦痛に感じていたある日、不意を襲われて熊に討たれる。熊は小十郎を殺すつもりではなかったとか何とか、死にかけの小十郎に伝えた。そんな話だった。

山歩きの装備で来てるので、ハイキングコースか何かおすすめの散歩道がないか宿の人に聞いたら、整備されたコースはないし熊が出るから1人で山に入るのはおすすめしないという。買い物をするような店もなく、飲み食いできるものもなく、見るものといえば近くの赤い橋と鉛のスキー場(シーズンオフで閉鎖中)ぐらい。橋を渡ると鉛の集落がある。(要するに何もないのか……)

赤い橋は映画『海街diary』に出てくる橋だという。綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずが一緒に暮らすあの映画はたしか鎌倉・江ノ島あたりの話だったのに、岩手の橋がどうして出てくるのか。不思議に思って聞いたら鉛の藤三旅館がロケ地になっているからだという。どうして東北の湯治場が、湘南のdiaryに出てくるのか。もしや湘南のふり? 見てないから、わからない。

宿からも見えるくらい近い。もしかして、「なめとこ山の熊」ゆかりの地としてよりも『海街diary』ゆかりの地として知られていたりして。ブログのタイトル、「なめとこ山」より「湯の街diary」のほうがよかったかな? どっちにしても場所がよくわからないことに変わりはないが、岩手の花巻の鉛温泉スキー場のあたり。

布観橋(ふかんばし)と表示されている。「布観橋 海街diary」で検索したら、すずが旅館を指さした場所と出てきた。何でも出てくる世の中だな。3姉妹と母を捨てて家を出た父がよそで作った腹違いの妹を迎えて4人で暮らす、吉田秋生の漫画を下敷きにした是枝裕和監督の2015年の映画。ふーん。

すずが指さした旅館が鉛温泉の藤三旅館だが、映画では「あづまや」という旅館になっているらしい。3姉妹のうち2人ここに逗留したようだ。ちなみに立って入る白猿の湯は混浴だが、場所がバレるので入浴シーンはないだろう。川に面して露天風呂もある。そっちは座って入れるが、もし対岸からのぞけば丸見え。だからどうという話ではないけども。

忘れ物かな? と思ったら宮沢賢治ゆかりの地の案内板だった。それによると、なめとこ山は賢治を研究する人々の間では「特定の山を指していない」として豊沢川源流の山々の総称とされてきたのだが、無名の山「八六〇高地」の古地図(なんのや)に「ナメトコ山」の記載があることから、賢治生誕100年の1996年に国土地理院の地形図に「ナメトコ山」と記載されることになったようだ。

 

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白樺湖から車山をへて霧ヶ峰へ

2023-09-22 | Weblog

1日に数本のバスで茅野から上がってくると、白樺湖でアナウンスが流れた。標高約1400m、1周約4kmの人造湖だという……人造湖? そうだったのか。下車して畔を歩いてみる。遊歩道(というよりランニングコース)が敷いてあり、1時間とかからず散策できる。ボートで釣りをしてる人や、木陰にイスを置いてお茶など沸かして飲んでいる人がいて、のどかなものだ。

白樺湖は農業用の溜池として1940年、戦時中に着工した。敗戦が近い1944年、資金難を理由に工事が中断され、戦後の1946年に再開、数年かけて人造湖ができた当時は「蓼科大池」と名づけられたが住民に不評で、1953年に白樺湖と改称。そのころから観光開発が行われ、1980年代に観光のピークを迎えたが、1991年から観光客が減り続けて30年あまり。

湖畔を歩くとバブルの残骸が至るところで野ざらしになり、日本の発展と衰退を手に取るように見物できるテーマパークのよう。向こうに車山が見える。肉眼だと山頂に気象観測台が確認できて、それとわかる。タイミングが合えば茅野からくる1日数本のバスに乗って10分ほどで車山高原に到着し、そこからリフトで山頂まで上がれる。湖畔からリフトまで歩いても1時間かそこら。

1925mの山頂に上がると、気象観測台に寄り添うように車山神社が鎮座している。四隅におっ立つ御柱は、ふもとの諏訪大社の影響だろう。諏訪の神社や祠には御柱がつきものだ。諏訪湖の花火の会場にも御柱がおっ立つ。男性の陽物をかたどる石棒もあちこちにおっ立つ。長野の人は……少なくとも諏訪湖のあたりの人は、棒状のものをおっ立てるのが好きなんだな。

山頂からは八ヶ岳の連峰が望める。反対側に目を向けると、霧ヶ峰に至る高原の小径が続く。写真では分かりにくいが肉眼ならば一目瞭然。ここから先は、上り道もあるが基本的には霧ヶ峰まで下りだから割合に楽な気分で歩き通せる。日本の四季は失われ、5月から9月まで真夏日・猛暑日のオンパレードだから、今年は霧ヶ峰に2回もきたし、来年以降も手軽な山歩きにくるだろう。

車山から下りてくる途中にある湿原がまた、高山植物が豊かで歩きがいのあるところだ。白樺湖も人造湖になる前は湿原だったそうだから、こういう感じだったんだろうか。観光目的なら湿原のままのほうが案外よかったかもしれないが、戦前の人たちにその発想はなかった。農業用の溜池を作るので精一杯だった。湖畔が観光開発された後も、用水は農業に使われてるという。

蓼科湖もほぼ同じころ農業用の溜池として設けられた人造湖だというから湿原だったのかもしれない。蓼科湖と白樺湖の水は茅野や諏訪などふもとの田んぼで米作りの役に立っているそうだが、水量の確保というよりも、溜池でいったん温めることで冷水の害からイネを守るのが目的らしい。人造湖ができる前は、雪解け水が冷たすぎて、田んぼのイネが生育せずに人が飢えがちだったとか。

霧ヶ峰まで下りてくると、あとは路線バスが1日に何本か、上諏訪まで送り届けてくれるのでソフトクリームを食べるもよし、うどんかそばでも啜るもよし、時間調整にそこらへんを歩き回るもよし。上諏訪と霧ヶ峰を結ぶバスは先ほどの湿原や車山高原のリフト乗り場まで延びているから、茅野ではなく上諏訪を起点にしてもこの界隈は散策することができる。

霧ヶ峰ではグライダーの離陸を間近に見物できる。どうやら自動車で引っ張って凧のように宙に上げたあと、凧糸がわりのケーブルをグライダー側でリリースして気流を生かし飛ぶようだ。切り離されたケーブルがパラシュートで降りてくるのが、のどかでなかなかいい。あのグライダー、観光用に営業してるのかと思えばそうではなく、クラブの会員にならないと乗ることができない。なんだそうか。

 

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石鎚山炎上

2023-09-08 | Weblog

西日本最高峰の石鎚山(1982m)に登頂する計画を立てていたのだが、10日ほど前に八甲田山で遭難した(なんでもないところで尻餅をついて尾骶骨を石に打ちつけて微妙にまだ痛い)ので、登頂はあきらめた。しかし、せっかくの機会だから七合目にある修験道場、石鎚神社中宮成就社ぐらい見ておこうと訪ねてきた。

松山駅から鈍行でおよそ2時間かけて伊予西条駅へ。そこからバスで険しい山道を約1時間。だいたい標高450mから1300mまでロープウェイで7分あまり。さらに徒歩で1kmぐらい行くと成就社がある。修験道場というから古びて神さびて厳しい場所を想像してきた。しかし何やら新しく、年輪のようなものがない。

これはどうしたことかと訝りながら、そこらへんを歩きまわる。昭和57年7月1日竣工の成就社復興記念碑なるものがあった。側面の文字を読むと、昭和55年11月13日に旅館から出火して成就社礼拝施設等ことごとく類焼したと刻んである。1980年そこらじゅう焼け野原になり、1982年に建て直して今年で40年あまり。

それでどこもかしこも新しく、歴史の重みがないわけだ。絵馬など眺めていたら雨が降ってきたので旅館の食堂に身を寄せ、カレーライスでも食べて身体をあたためる。「次こそは……リタイア組」という絵馬が意味不明で、いったい何を願うのか考えていたら、ふと思い当たるところがあった。

石鎚山登頂を目指して成就社の登山口からスタートしたけど、途中で断念したリタイア組が、次こそは……(登頂したい)と絵馬を掲げたのだろう。その気持ちなら自分にも分からないことはない。四国までくる機会なかなかないし、これからどこで野宿しようかと迷いながらロープウェイ駅まで戻ってきた。

徒歩3分のピクニック園地は水場、トイレ、自販機がありテント泊OK(無料)だなんて完璧じゃないか。残暑という名の猛暑がつづく日本列島、どこへ行っても寝苦しい時節だったが、標高1300mの園地は涼しく、ホームレス志向のある自分などには願ってもない居場所だった。四国はお遍路さんの文化があるから、このような穴場がまだ他にもあるかもしれない。

 

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酸ヶ湯と八甲田山

2023-08-26 | Weblog

はじめに来たのは2009年ぐらいだった気がする。八甲田大岳の中腹にある酸ヶ湯温泉には湯治部と旅館部があり、湯治部は昭和初期の木造2階建トイレ共同アパートといった風情で旅館部(見たことない)より安価なので9月の終わり、シルバーウィークと呼ばれだした時期に転がり込み、何泊かした。山は冷やかす程度だった。

つぎは昨年だった。13年前はメールで予約を申し込み、返信をもって予約成立だったのがウェブサイトで予約完結できるようになっていたので、見違えるかと思って訪ねたら全然そんなことはなく、湯治部は相変わらず神田川のアパートみたいな感じで、そこが気に入った。天気に恵まれず、やはり山は冷やかす程度だった。

今年はしっかり山歩きしようと思って、また湯治部のアパートに転がり込んだ。部屋にいても、うっすら硫黄のにおいがする。酸ヶ湯温泉は昭和29年(1954)に国民保養温泉地第1号に指定された。その理由は「卓越した効能と豊富な温泉の湧出量、広大な収容施設、清純な環境、交通の便、低廉な料金」などで、同時に指定されたのは茨城県の日光湯元温泉と群馬県の四万温泉。

国鉄時代は向かって右端に張り出したそば屋の位置に、国鉄酸ヶ湯温泉駅があったので、鉄道でアクセスできて便利だったがJR東日本が廃線にしたので現在は青森からバスに1時間ほど乗らないとたどり着けない。今年90周年をうたっており、何基準の90周年かと思ったら昭和8年(1933)酸ヶ湯温泉株式会社に改組して大浴場などの増改修に着手してから90年だった。

おそらくこのポスターの千人風呂もそのとき計画されたものだろう。混浴の千人風呂は実際に入浴すると千人も浸かることができず、せいぜい百人がいいところだろう。ポスターに写り込んでる人数を数えても、やっと百人を超える程度。これは撮影用にぎっしり詰め込んであり、普通の入浴でこの人数は無理だ。

酸ヶ湯温泉が発見されたのは江戸時代の貞享元年(1684)で、狩人が仕留め損ねた鹿が傷を癒したので鹿湯(しかゆ)……それが訛ってすかゆになったとも、後に酸性の湯とわかって酸ヶ湯になったともいう。温泉の周辺にいくつか登山口がある。そこから八甲田大岳に登頂しようと思ったが、到着した翌日は天気が思わしくなかったので奥入瀬を冷やかした。

雨降りでも渓流ぐらいなら傘を手にぶらぶら歩けると思って十和田湖行きのJRバスに乗ったら、どうにか天気が保ちそうだったので奥入瀬の上流で途中下車して十和田湖まで歩いた。湖畔の食堂でにわか雨をやり過ごし、雨上がりにまたJRバスに乗って酸ヶ湯に戻った。部屋にいると窮屈だから公共のサロンでブログを下書き。

土曜は泊まり客で賑わうサロンも日曜は閑散としている。昭和51年(1976)から二冬にわたり、この宿を基地にして映画『八甲田山』のロケが行われた。新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』を元にした映画では、日露戦争の演習で冬の八甲田山を行軍した大日本帝国陸軍の部隊が撤退の決断を怠って全滅した。太平洋戦争にしても、マイナンバーカードにしても、インボイス制度にしても大阪万博にしても、リニアモーターカーにしても原子力にしても何にしても、日本人は引き返すことができずに破綻する。山歩きは強行せずに、困難があれば引き返す(出発しない)に限る。

翌日は雨に降られることもなく八甲田登山を楽しむことができた。モヤがなければ、360°の眺望をまのあたりにできるそう(青森市街とか、南八甲田連峰とか、太平洋とか……)だが、近くの峰のほか何も見えなかった。薄々そうじゃないかと思った。ちなみに日露戦争の予行で全滅した部隊は青森からここまで辿り着くことができず、もっと手前で遭難したという。恐ろしいことだ。

 

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八甲田

2022-07-10 | Weblog

私は今、千人風呂で有名な八甲田山中の温泉、酸ヶ湯(すかゆ)の湯治部に宿をとって万年床でブログを書いている。場合によっては最後の普通選挙になるかもしれない参院選の開票速報を横目に見ながら……そんなことはどうでもよい。期日前投票を済ませたときから諦めはある程度ついているのだ。元総理のボンボンがいまさら死のうと生きようと、国境を越えた法人の奴隷にこの国の個人が落とされるのは規定路線にすぎないのだから。

 

なんでまた八甲田に来たのか。それは練習のためだ。白山にいつか登りたいとブログにうっかり書いた(下のほうにリンク)のを友人が読んで覚えていて、8月末に金沢で仕事があるからその前後1泊2日で白山に登らないかと誘われたのだった。山登りなど久しぶりなので装備をかき集めて整え、事前に一度ぐらい全部かついでトレッキングぐらいしておこうと酸ヶ湯に転がりこんだ。鹿が傷を癒す鹿湯(しかゆ)が訛って酸ヶ湯(すかゆ)になった湯治場に転がり込むのは確か2009年の9月以来、2度目だが特に変わりない。部屋でWi-Fiが使えるようになっていたから気兼ねなく長文が書けることぐらい、あと千人風呂に混浴じゃない時間(女性専用)が朝夕1時間ずつ出来たことぐらいが変化といえば変化だろうか。

 

千人風呂は入るたびに小さくなる。2009年に騙されたときは「百人ぐらいしか入れないな」と思ったものだが、今回さらに縮んで女性が混浴時間に姿を現さない。あっ現れたと思ったらおばあさんで、おじいさんと見分けがつかない。以上はきっと気のせいで前回もたぶん同じようなものだった。湯治部に漂う硫黄の匂いは変わらない。横溝正史の『獄門島』か『悪魔が来たりて笛を吹く』か『八つ墓村』か何か万年床で読んだことを覚えている。どれだったか忘れた。寝具や雨具や防寒具を全部かつぐ練習など1日やれば十分だから、2日目はデイパックで奥入瀬あたりを冷やかそうという魂胆で今回やってきた。天気がいいとは限らないし、Kindleで何か読みながら湯治部でごろごろして帰るだけになるかもしれない。別にそれでも構わないと思いながら来た。

 

6月のうちに梅雨が明けたから大丈夫だろうと思ったのに駄目だった。ちょっと晴れ間が見えて「今だ!」とばかり雨具とバックパックを装着して酸ヶ湯から八甲田ロープウェーまで1時間ほど歩き、結局のところ雨に降られた。わざわざ雨具のテストをしに来たようなものだ。日露戦争の演習で兵隊さんが200人ぐらい、ほぼ全滅したという雪中行軍に比べればどうということはない。ロープウェーで高度を稼いだ。霧で何も見えなかった。

 

小雨なので人もいないし、足場も悪いに違いないから、大岳まで歩いて酸ヶ湯に下るルートを諦めてひょうたん型の遊歩道を歩いてまたロープウェイで下りて来た。練習にあまりならなかったけど、なあに構うもんか。酸ヶ湯に戻るバスを待っていると、タクシーの運転手さんがバスと同じ400円で行くよと声をかけて来たので乗車した。見てるとメーター倒してないから、400円は運転手さんの小遣いになるんだろう。いいことをしてスッキリしたので千人風呂にゆっくり入った。

 

関連記事:    (白山)

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八甲田丸

2013-10-05 | Weblog
このまえ青森にきたときは、まだ新幹線が開通してなかったから、野辺地まわりのJRに乗ってきたと思う。
いまやすっかり新幹線が、八甲田山をぶち抜いたトンネルを行き来しているので、野辺地まわりの在来線
は「青い森鉄道」に変わっていた。(特急だけJRが乗り入れているみたい…)


あああ~あ~~♪  八甲田丸

上野発の夜行列車おりたわけじゃないけど、青森駅は雪の中じゃないけど、北へ帰る人の群れが昔のった
青函連絡船「八甲田丸」がいまも変わらず港にいる。


レールの延長線上

2歳のときしか乗ったことないから、まったく記憶ないけれど、青函トンネルが開通するまでは北へ帰る人が
みんなこれに乗ったらしい。人も乗ったし、駅からレールで引き込まれた列車も連絡船に乗ったんでしょ?


こんなふうに、車両甲板に列車を引き込んだとか…

西村京太郎の十津川警部シリーズで読んだことある、ここから甲板に上がって、冬の海に飛び込んだ!?
と見せかけて、どこかに隠れて函館か青森にまんまと上陸した犯人がどうにかなる話。


隠れにくそう~~

場所はあっても、音と、熱と、臭いが強くて、じっと潜んでるのツラいんじゃないかしら。青函連絡船はいま、
メモリアルシップとして乗船券500円(大人)で見学できる。以前も見学したことある。


このまえ見学したときは、こうじゃなかったような?

昭和30年代の青森駅前を再現した、この「青函ワールド」は2012年から八甲田丸に展示されているそうで、
それじゃ見たことないのも当然。まえは土偶型の宇宙人とか、見たような覚えが。


ちなみに2013年の青森駅前はこう

こういうところの昭和30年代のようすを再現したのだろうか? こういうところで北へ帰る人の群れは誰も
無口になったんだろうか? (これは駅前のごく一部で、向こうはもっと開けている)


船にはグリーン席が残してあり、座ることができる

上映時間、約2時間の「青函連絡船ビデオ」が視聴できる。約2時間も座ってていい場所、街にもなかなか
ない。ちょうどいいから、腰かけて本を読む。なんとなく船旅してる気分で、他に誰も座っていないときなど
青函連絡船が貸切になったようだった。
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北斗星

2009-12-29 | Weblog
というわけで寝台列車で北海道にきた。
16時間ほどの道のり。

『相棒』のスペシャルに、この列車を舞台にしたものが
そういえばあった。青森で向きを変えるとき、ごみ箱から
証拠品を見つけて、函館で一件落着し、洞爺湖で爆弾騒ぎ。

いつか函館の屋台村でレバ刺しをつまみに焼酎を飲んでいたら
カウンターの端で飲んでいるメガネの男が教えてくれた。

青函トンネルを通って北海道にくる列車はいま、本州の太平洋側を
ぐるっと遠回りしてくるけど、やがて開通する新幹線はまっすぐ
八甲田山の下をぶちぬくトンネルを通るから早い。

いつか北斗星もなくなるだろう。
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