散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

十一ヶ寺

2015-05-23 | Weblog
なんの気なしに練馬の都営豊島園駅で地図をみると、駅前にずらっと寺が並んでる……これはいったい? ちょっと
どうなってるか確かめに、A1出口から上がってみる。


浄土宗 田島山 十一ヶ寺

ぜんぶ浄土宗らしい。地図に描いてあったように、この道をはさんでお寺が十一あるということか。どうしてだろう?
いちおう順番にみていくと……


右にあるのが快楽院、左にあるのが仁寿院 (写真は左右逆)


そのつぎは右に宗周院、左に迎接院 (写真は左右逆)


だんだん大きくなってるような気が……假宿院、本性院


あっちもこっちも葵の紋ついてるし……受用院、得生院


徳川家の息がかかってたのか……称名院、九品院(工事中)


ちゃんと十一あった……林宗院


つきあたりに阿弥陀如来、その奥に十一の寺の墓地がある

そんなつもりじゃなかったのに、また墓地に足を踏み入れてしまった。十一ヶ寺はもともと小田原にあった
お寺の塔頭(分家みたいなもの)で、江戸の初めに徳川家の息がかかって小田原から神田に移ってきた
のに、振袖火事で焼けてしまって浅草田島町に移転。だから、田島山十一ヶ寺というのか。


墓地でおそば食べてる

それがなぜいま豊島園にあるかというと、大正十二年の関東大震災で全院また焼けて、こっちに移転して
きたと。そのころはきっと何もなくて、としまえんも庭の湯もユナイテッドシネマも、あとで十一ヶ寺の近所に
できたんだろう。もちろん豊島園駅も。トイザらスも。

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フィレンツェ

2015-05-16 | Weblog
宮沢りえ、観月ありさ、牧瀬里穂がCMアイドルの「3M」と呼ばれたバブルのころ、ヤップ島という南の島に
ダイビングしにきてた広告代理店の人が、たまたまそこにいた学生のぼくに塩野七生をぜひ読むべきだって
熱弁するもんだから、何年かに一度ふと思い出してピザンツの話を読んだり、ヴェネツィアの話を読んだり。
そのうち『ローマ人の物語』を読み始めたら面白くなって、読み終えてローマを見に行ったのが2009年……
「3M」が1991年のことだから、18年後? そのときローマのついでにフィレンツェをめぐったのが6年後の今
ちょっとは仕事に役立ったような、そうでもないような。


3泊5日の弾丸出張へ

前回は「ついで」、今回は「しごと」……なかなかメインの扱いにならない。滞在時間、正味2日。それでも
世界をただいま席巻してる中華のグループ旅行にくらべたら、まだ余裕あるかも。聞くところによると中華の
人民は観光バスで午前中フィレンツェにやってきて、午後はピサの斜塔を取り囲み、その日のうちにどこか
へ去るという。たしかに仕事中、横目で見てると、午前中だけぎょうさんいた。


昼ごはんも街で食べないらしい

だからレストランの客にならない。観光バスで食べるのか? とか不思議に思いながらアーティーチョーク
のパスタを食べる時間くらいある自分は、むしろ観光してるのかも。


ヴァン・サンテとデザートも……

仕事、仕事と思っているから仕事なわけで、よそ見をすればそれなりに見聞が広がるところもなくはない。
いくら塩野七生の小説やエッセイを読んでも、メディチ家の権力のすごさは頭で理解するしかないけれど、
仕事で訪ねたメディチ家の礼拝堂で余計なことを考えるにつれ、その異常さが見えてくる。


お抱えの礼拝堂

一家でお抱えの礼拝堂を持っている、しかもこんなの。奈良の春日大社が藤原氏お抱えの神社だとか、
興福寺が藤原氏お抱えの寺だとか、ひきくらべると一瞬どっちがすごいかわからないけど、メディチ家も
藤原氏もちょっとどうかしてると実感!(仕事中)


礼拝堂のあちこちに土葬されてる

あの人たちは火葬しないから、土葬で埋まってるはず。そう考えるとエグい。大理石で覆った下には古い
死体があるわけだから。囲ってなかったら踏んじゃうし、藤原氏は床下に土葬しないし。(仕事中)


お抱えの薬局まで

だいたい、これが薬局って。いまでこそ、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局はぼくみたいなもんでも土産物を
買うことができるけれども、代々メディチ家のお抱え薬局だったというから、意味がわからない。徳川家も
こんな規模の薬局、お抱えになってござらんかったのでは……?(仕事中)


というわけで薔薇のお茶でも1杯

遊んでるじゃないか、と思うなかれ。ろくに味わう間もなく、移動することに。5ユーロ寄付したようなもの。
ついでに舌を軽くやけど。(仕事中)


ドローンの現物を初めて見た!

日本ではいろいろ規制されそうな気配で、少なくともお叱りを受けているみたいだけど、そのへんあっちは
ゆるいのかな~~音がブーン、ブーン、ビーン、ビーンってうるさい。あの音が「ドローン」って聞こえるなら
言語の壁って厚い……!(仕事中)


お肉はレアで食べるんですね

あんまり焼かないのがフィレンツェの食べ方みたいで、そのへんちょっとびっくり。ぼくはいいけど苦手な人
は気の毒かも。


こんな感じだったり……


またこんな感じだったり……


滞在2日なんてあっというま

往復にかかる時間のほうが長いんじゃないだろうか? 直行便がないから。とか思いながら長いフライトに
耐える会社員でありました。余った写真、ぺったんこ。

 
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前橋

2015-05-06 | Weblog
前橋の駅前の並木は立派だ。けやき並木に沿って歩けば群馬県庁につくようだけど、今日はそこまで歩かない。
歩きとおせば、けやき208本だという。だいたい100本ぐらいのところ、本町1丁目の信号を右折すると目的地だ。
けっこう近い。


萩原朔太郎生家跡

住居と診察室、病棟などを備えた「萩原医院」が、1886年(明治19年)この地にあり、長男の朔太郎が生まれた。
病棟は1960年(昭和35年)に撤去されたが、住居などは1968年までここに存在した。もっとも、朔太郎はとっくに
亡くなっていたけれど。


現在はマンション

駅でもらった「前橋まちあるきマップ」によると、この場所に喫茶「花梨」や「えびす食堂」、喫茶「あるく」や
うなぎの「古久屋」などがあって賑やかそう。しかし、すでに高層マンションに変貌していた。生家跡の碑は
マンションの一角、この写真の左奥に。


40歳まで朔太郎がここに住んだ

これはいつか撮った書斎の写真。たぶん、20年ちょっと前に前橋自動車教習所で合宿したとき、日曜に
フィルムで撮った。当時、すでにこの場所から生家の建物は撤去されていた。どこで撮影したものやら。
現在、住居の一部は敷島公園に移されて萩原朔太郎記念館になっている。きっと、そこだろう。


タクシーで敷島公園へ瞬間移動

敷島公園は交通の便がよくなく、20年ちょっと前にタクシーに気軽に乗るとは考えにくいから、自分は
その頃どうやって朔太郎記念館を訪ねたのだろう? 思い出せない。あとで調べたら、自動車教習所
から敷島公園までそう遠くなく、自転車で10分だというから歩いて見にいったのかも。


「土蔵」と「離れ」と「書斎」だけ

見覚えがある、やはりここだ。土蔵は1974年(昭和49年)、書斎は1978年(昭和53年)、離れは1979年
(昭和54年)にここへ移築されたらしい。それまで約5年から10年どこにあったんだろう?


書斎は以前の写真と同じかな?


見比べてみると新しい気も……

書斎は生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、40歳までここにいたとは改めて驚きだ。『月に吠える』
も『青猫』もここで書かれた。そのころ朔太郎は「詩を書く人」というより「マンドリンを弾く人」として通っていて、
書斎も「音楽室」と呼ばれていたとか。だから離れなのか。


窓から中をのぞいてみると……

以前ここで見たときより、きれいになっている気がする。何があったか少しも覚えていないけれど、なんか。
ついでなので別の窓からも中をのぞいてみる。


たしかにちょっと音楽室っぽい

それにしても40歳までここにいるというのは……どうもおかしいと思ったら、20代は東京で音楽やりながら
短歌とか詩とか書いてて、アラサ―で帰郷して味噌蔵を書斎(音楽室)に改造したみたい。40歳までいて、
再度上京し、再度帰郷して、そんなくりかえし。


離れの座敷の中はこんな感じ

せっかく前橋にきたことだから、敷島公園ばら園3乗り場に書いてある電話番号でタクシー呼んで、駅まで
戻る途中の前橋文学館へ。広瀬川に、朔太郎橋がかかっていた。


遊歩道には数々の詩碑がある

橋のたもとにはマンドリンと帽子の造形物が。これも萩原朔太郎にちなんだものなんだろう。それから銅像
があった。どうせ文学館の中は撮影できないので、いちおう外にあるものを撮っておいた。




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栃木

2015-05-04 | Weblog
知らない町を歩いていると、名所や名物より気になるものは看板。いきなり目に入る「ビアン」の3文字……あれは
なんの専門店? 栃木の土地柄? 蔵の街とばかり聞いていたけど、物資や資金が集散する蔵の街に花開く文化
の匂いが鼻をかすめた。


あれは蔵が美容室になっている

扉を開けて中の様子を見る資格がなくて残念。それにしても栃木は広大だな。広いので何でもできるが、しかし
逃げることはできない。ネットの海と同じ……いってみただけ。


すべての建物から囁き声がする

栃木が栄えるきっかけは東照大権現……家康の霊柩が日光に改葬された1617年よりあと、京の朝廷から勅使
がここを通って毎年参向するようになってからで、例幣使と呼ばれた勅使が通る道を例幣使道といったとか。


町中の例幣使道

いまの栃木も日光へ鉄道で人が押し寄せる途中にあたる。スピードが大違いだから素通りされてしまいがち
だけど、鉄道ができるまえは巴波川の舟運で江戸と日光をつなぐ商都として、どんどん蔵ができた。


栃木の蔵で荷や金のうなり声が


巴波川に鯉のぼりのうなり声が


かつての栄華をほこりつつ静かに揺れる鯉のぼり

例幣使、舟運、蔵、ビアン……ビアンは違うかもしれないが、ほかは150年くらいまえに隆盛をきわめた名残。
とても夜の早い町、栃木。


神社のインコたち

絵馬は空振り。喉が渇いたので、自動販売機でコーラでも買おうとしたら、安い、安い、激安、と何度も書いて
ある。たしかに安い……50円。


飲みもの激安の自動販売機


蔵もいいけど蔵じゃない建物もなかなか悪くない

いくら蔵の街でも蔵ばかり見ていられない。どうしてもまた看板のことが気になってしまう……たとえばそうだ、
ごみ薬局が見えてきたとき、そんなバカなと思ったら。


ごみ薬局ではなく……なごみ薬局

結局こんなことばかり気にして歩くわけだから、知らない町ならどこでもいいということに。2回目の栃木だから
少しは上手に歩きたい。そう思ったけど、ダメね器用になれなくて。


それでも北関東のことは大好き


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ある町

2015-05-03 | Weblog
この町の人たち、みんなどこに消えたんだろう? と思って探したら、MEGAドン・キホーテに集まっていた。商店街にいないから、
どうしたのかと……。


何でも手に入るから?

MEGAガン・ダーラ……じゃなかった、MEGAドン・キホーテに行けばどんな夢も叶うというし、パチンコ台ぐらいあって当然かも。
甘釘になっているから玉がよく出るというわりに、お客さんがいなくてBGMもなくて静まり返っていた。これが日常なのか。





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