散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

関ヶ原

2011-12-30 | Weblog
新幹線の車窓からも、天下分け目の関ヶ原は見える。名古屋と米原の間で窓の外を眺めていると
「 関 ヶ 原 古 戦 場 」と記した看板が目に入る。(方角でいうと北側)

だけど新幹線はスピードが速すぎるので、わけもわからないうちに関ヶ原なんか過ぎ去ってしまう。
そこで名古屋か米原で新幹線を下りて、東海道本線に乗り換え、関ヶ原駅で下車してみる。


ここが関ヶ原かい? メーテル……。

銀河鉄道999じゃなくて東海道本線なのでメーテルは答えない。名古屋より岐阜羽島のほうが
距離的に近いけど、東海道本線に接続する名古屋か米原から関ヶ原に降り立つ。

改札(ひとつ)を出ると、駅前に観光案内所がある。地図か何かもらえるかなと思って入ったら、
おばさんが地図の裏にスタンプを捺していけばいいと強く勧めるので、それじゃせっかくだからと
ポンポン捺していく。


いっぺんに15個も!?

もともとスタンプラリーだったんだろうけど1か所で全部のスタンプを捺せちゃう。申し訳ないと思って
捺していくうちに、だんだん面倒になってくる。でも、根気よくすべて捺して案内所を後にする。


関ヶ原だいたいこんな地形になってる

交通の要所で、ある程度の広がりがあるから、大軍どうし合戦するのにもってこいの地形なんだろう。
まわりの山に陣取って、できれば平野の敵を取り囲み、一気に攻め下りたい。

そういう場所だから、関ヶ原の合戦(1600年)のまえにも2回ほど、このあたりで天下分け目の戦いが
行われたと聞いている。


のぼりが立ってる

最初は壬申の乱(672年)で、天智天皇の跡継ぎの大友皇子(弘文天皇)を大海人皇子(天武天皇)が
攻め滅ぼした。つぎは青木ヶ原の戦い(1338年)で、後醍醐天皇を追放した足利尊氏と、天皇擁護の
北畠親房があいまみえ、ぐだぐだになって尊氏の勝ち……だったかな?


東首塚がみえてきた

観光案内所を背にして左へ、線路沿いにちょっと歩くと陸橋があり、それで線路を渡ったら左側にすぐ
首塚がある。関ヶ原の合戦で敗れた西軍の首が、たくさん埋まってる……のかな??


首洗いの井戸だって

それはもう血まみれな、残酷な光景が広がってたにちがいない。さて、気を取り直して道路に戻り、
役場のほうに歩いていく。


左端の四角い建物が関ヶ原町役場

ずーっと武将の、のぼりが立っている。町役場のあたりで左に曲がると公園があって、そこがまた
「徳川家康最後陣跡」という遺跡になっている。


のぼりが高々と掲げられて、すべり台や鉄棒が設置してある

ここで、家康が敵将の首実検をしたといわれている。あっちにもこっちにも血塗られた史跡が……。
やっぱり公園で遊ぶ子供たち、合戦ごっことかするのかなあ。


戦国武将ごっこするには最適かもしれない

また道路に戻って、交番のほうへ歩いていく。関ヶ原といえば忘れちゃいけないのが……そうそう、
これこれ!


やぎ乳アイス???

せっかくだから食べようかと思ったら、工場が休業していてショップも閉まっていたので、あきらめて
トコトコ歩いていく。

 
歩いて回るのにちょうどいい(案内表示もよく立ってる)

それにしても静かで、のどかな町だ。2011年10月31日、月曜日。つまり平日で、休日出勤の振り替え
として、仕事を休んで古戦場にきてる。


この田んぼでも、かつて合戦が????

関ヶ原を歩きながら、のぼりや旗が遠くに立っているのを見ると、合戦の様子を陣地から眺めたら
どこか静かで、のどかに見えたかもしれないと思う。高台から見下ろしてたり、遠くで見物してると
サッカーかラグビーの試合みたいだったかも。


決戦地がこれだもん

タクシーが1台、観光客を乗せて走り去っていく。ほかには誰もいないから、この決戦場はもう
ぼくだけの決戦場といっても過言ではない。しかし、これくらいの規模なんだね。


だんだん決戦地にちかづいていくと、こうなる

ここまでくると、「おっ? 向こうの山に、のぼりが何やらたくさん立ってるぞ!」ということになる。
笹尾山にある石田三成陣跡だ。


……あそこなり!!

敵の激しい抵抗にあって、あそこまで辿り着けずに命を落とした人も、ひとりやふたりではないだろう。
しかし今日は、誰もいないからラクラクあそこまで農道を歩いてゆける。


おやおや?????

なんか急に人が大勢いる!!! しかも女子ばかり……。なるほど、あれがウワサの「歴女」とやらか。
鎧と兜を身に着けた武者までいるじゃん!!!! 霊だったりしてね。


どう見ても、石田三成

デーハーな兜だな、おい。いまとちがって戦場じゃ目立ってナンボだったから、あんなクワガタつけて
がんばってる。カブトムシもクワガタムシも、武士のいでたちが名前の由来になってるんだろうけど、
武士が登場していない古代から平安時代まで、なんて呼ばれてたのかな??????

迷彩が登場したのは1944年と第二次大戦の末期で、それまで軍服といえば目立ってナンボのもん。
戦国武将のいでたちと同じで、戦場に誇りが残ってたんだろうね。もう皆無だけどね。


どう見ても、島左近が歴女にサインしてる

サインもらってるの中学生かな……? 中学校いかなくて大丈夫かな……? 余計な心配してみたり。
月曜日だというのに歴女はどこからきて、どこまで帰ってゆくのか。

三成や左近は「ではな!」と声を張って、ママチャリを押して近くの建物(廃校?)の中へ戻っていった。
ふーん、霊じゃなくて人間なんだね。


日曜日はすごいことに

武将隊全員参加によるフルパフォーマンスって、いったいどんなものだろう。都会で過ごして地元に
帰ってきた人たちが企画して、毎週日曜日にやってるのかな???????


逆茂木の柵を越えて笹尾山に登ると、石田三成の陣跡がある

どうして観光地にいくと高いところに登るはめになるんだろう、十中八九。この日も息を切らして
登ったら、そこからは天下分け目の関ヶ原をよく見渡すことができた。


きっと勝てると思って戦ったんだろうな……
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黄葉

2011-12-28 | Weblog
年末というのに新宿のイチョウの黄色さ!
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箱根

2011-12-25 | Weblog
たいしたコーヒーじゃなくても、白い息を吐いて森を眺めながら飲むとおいしく感じられる。


飲み終わる頃には凍える

何年も前から紅葉の遅れが取り沙汰されているけれど、今年など特に遅いんじゃないかな?
ようやく箱根湯本のあたりが、クリスマスのころ紅葉してる。


冬景色とはいいがたい

登山鉄道でスイッチバックしながら数百mのぼると、さすがに紅葉も茶色く朽ちて散りかける
ものの、まだまだ木々に葉が残り、冬の寂しさも厳しさもない。


寒いことは寒いんだけど

逞しい女性だなぁ……。この年末、天皇誕生日と土日のクリスマスがいっぺんにやってきて、
箱根の温泉に家族でいってみた。昼間することがないから、近くの彫刻の森美術館をのぞく。
まえにも家族できたことある。


逞しい動物だなあ……

夏は涼しくていいけど、冬はちょっと寒いかも。それでも子供は遊具(みたいな彫刻作品)を
見ると、靴を脱いで遊びに突撃するから元気だな。


こういうので遊んでると、どこの子も区別がない

前回まだ小学生になる前だったのに、今回は「遊べるのは小学生までです」っていう制限に、
まだ引っかからずに済んでるけど次回はもうダメかもしれない。


ピカッソって書いてあるよ? とか言ってるし

「ピカソは知ってるけどピカッソって書いてあるよ。なんで?」とか、展示作品をしげしげと見て
「ピカソって絵うまいの?」とか、「適当だね」とか言ってる。


たすけ手

それにしても、「大きな手」として展示された作品のミニチュアが、おみやげ屋さんで見たら
「HELP!」となってたり、「しゃぼん玉のお城」の原題が「ダイアモンドの結晶」だったりと、
つまらん邦題をつけるのは悪い習慣だし何の意味もない余計なお世話。


連休だからか保護者同伴なら子供無料だった

野ざらしにして彫刻が傷まないのか少し心配になるのと、光沢を失わないように拭き掃除を
毎日やってるのか少し気になる。拭き掃除しようとしたら大変そうなのも多いし。


巨大立像とか、宙ぶらりんの球とか拭きにくそう。

どうでもいいこと考えながら、ぐるっと一周して、駅前であったかい山菜そばでも食べてから
登山鉄道で宿に戻った。

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乃木坂

2011-12-21 | Weblog
乃木坂に打ち合わせに行ったら少し早く着いたので、あたりを散歩してみる。もともとは
幽霊坂だったんだ。明治の忠臣・乃木大将の邸宅が幽霊坂にあって、天皇が崩御すると
乃木大将が殉死 → その夫人が乃木大将に殉死 → 夫婦が神格化されて神社ができた。


それが乃木神社の由来

ちょうどいいから、ここで時間つぶす。100年前まで人間だったせいかサービスがよくて、
あたたかいお茶のポットと紙コップが「ご自由にお飲みください」と置いてある。


なかなかないよ、こんな神社

まずは拝殿のほうを眺めにいく。神仏に祈るということを最近あまりしていない。神社仏閣は
好きだけど見るだけ。今年もいろいろ見歩いて、「散歩ブログ」に書いたっけ。


拝殿のほうへ拝殿のほうへ、だんだんと近づく

この神社、ガラガラーンって鳴らすやつがついてない。鳴らさなくても、いつもそこにいるって
解釈で桶?


さざれ石

君が代に出てくる「さざれ石のイワオとなりて~♪」のさざれ石が、拝殿の横っちょのほうに
置いてある。エントロピーの法則でいくと、イワオが崩れてさざれ石になるのが道理だけど、
言霊パワーでさざれ石が集まってイワオになったのが、こちらでございます。


「寶物殿」も入場無料

山田風太郎の『人間臨終図鑑』に、乃木大将の最期が載っていたのを思い出す。帰宅後に
ひもとくと、あるある。「六十三歳で死んだ人々」のところに、乃木希助。


乃木大将自刃の刀と、静子夫人自刃の小刀

「明治四十五年九月十三日午後八時、明治天皇の霊柩は二重橋を出て、青山練兵場内の
葬場に向った。品川湾に碇泊する第一艦隊の撃ち出した弔砲は、遠雷のごとくひびいていた。
その弔砲を聞きつつ、赤坂新坂町の自邸で、乃木大将とその妻静子(五十六歳)は自刃した」


「寶物殿」に遺品が展示されている

「ただこの静子夫人の死については、自害ではなく乃木による無理心中ではなかったか、
という重大な疑惑が残されている。そのいずれにせよ、結婚生活前半の姑壽子による
異常な嫁いびりといい、夫の人間離れしたストイシズムといい、旅順戦における二人の
息子の戦死といい、この凄惨な最期といい、近代において彼女ほど哀切な生涯を持った
女性はまれである」(『人間臨終図鑑』より)


そりゃあ神格化されるわな

乃木坂に打ち合わせに行く機会は、来年も何度もあるだろうから、こんどまたゆっくり
「寶物殿」で遺品を眺めて時間つぶすとしよう。
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雍和宮

2011-12-18 | Weblog
てっきり北新橋から西へ向かっているつもりが、北へ歩いていたらしい。だいたい碁盤目状に
なってるから迷うはずないと思って、北京から東京に帰る前に3時間かそこら散歩してみたらば
道に迷った。


おかしな様子はないんだけど


なんか仏像や仏具の店が多い

この国では、とっくの昔に仏教が廃れたと聞いていたから、こんなに店があるのは妙なことだと
思いながら歩く。(まだ迷ったことに気づかない)


布袋さんみたいだけど布袋さんではないのかもしれない

そのうち寺院の門にたどりついた。門前町だったのか。しかし、ガイドブックの地図を見ても、
こんなところに立派なお寺があるとは記されていない。


これがその寺院の門

ともかく入ってみることにした。入場料を25元(そのときで350円)払うと、チケット代わりの
ROMの包みに「雍和宮」と書いてある。そっか、北新橋の西じゃなく北へ地下鉄1駅分ほど
迷い歩いてしまったみたい。雍和宮というラマ教寺院があるって、地下鉄の案内表示にも
なんか書いてあるの見かけたような。


英語の説明を読むと清の黄金期に造られたラマ教の大寺院

ラマ教というのはダライラマで有名なチベット仏教のことらしい。チベットの人だけじゃなくて
清朝を興した女真族や、モンゴル族にも信仰されていると聞く。中原の南方と北方に信仰が
広がってるということか。たぶん上座部仏教の系統なんだろう。


でっかい線香に火を移して…


膝まづいて拝む様子は、かなり真剣だ

この国で廃れたのは日本にも伝わった大乗仏教の系統で、清朝の支配層や北方、南方の民
の間ではラマ教ことチベット仏教がいまでも盛んなのだった。


現在の政府は、いい顔しないんだろう

ガイドブックの記述によると、雍和宮の総面積は6万6000㎡に及び、満州、モンゴル、中国、
チベットの各文化圏の様式が織り交ぜられた建築物が立ち並んでいる。


これとか、どこの様式なんだろう

清朝は宗教に寛容だったそうだから、いろいろ織り交ぜられたのかな。ここに集まる人たちは
女真族の末裔なのかもしれない。そういえば、天安門で押し合いしていた漢民族の末裔よりも、
どこか落ち着きがあって礼儀正しい。


たくさんある拝殿で膝まづいて拝む


拝んでも拝んでも終わらないのでは…


漢字と女真族の文字で併記

よく見ると、草原の民が使ったこの文字、建物の至るところに記されている。模様みたいで
最初は気づかなかったけど、あっちにもこっちにも書いてある。


なんて書いてあるか知らないが、堂々としている

あまり漢字は見かけないけど、この北方民族の文字は、これみよがしに配置されているぞ。
清というのは、どうやら面白い国家だったらしい。


動物たちが並んで仏に従っているのか?


いちばん奥の建物にギネス認定の弥勒菩薩像が

1本の巨大な白檀の香木から削り出したマイトレーヤー(たぶん弥勒)として、世界最大だと
書いてあるっぽい。高さ26m、奈良の大仏より断然デカい。


大きすぎてよくわからん

五色のリボンみたいなのが垂れているのは、あれにつながって浄土へいざなってもらおうという
魂胆にちがいない。藤原道長や頼道の最期と同じ発想のように思える。あんまり上座部仏教の
感じがしないなあ。建築と同じで、他力本願の大乗仏教とかも織り交ぜられてるのか。


これを回すとお経を読んだのと同じに?


お手洗いがすごく立派!

道に迷って雍和宮に来たけど、現在位置さえ分かれば碁盤目状の北京を歩くのはたやすい。
生活感のある町をぶらぶら歩き回る。(ときどき行き過ても挽回できて安心)


占いの店


お茶の店


自転車修理の店

そうこうするうちに、空港に向かうべき時間がだんだん近づいてきたから、北京で最後の食事を
済ませる。


こういう感じの四川料理店で


こういう感じのものを食べて

国土が広いのにどうして北の端っこに首都を置いて暮らしているんだろう? 南の方がきっと
住みやすいのに……? とか思いながら帰ってきました。
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天安門

2011-12-12 | Weblog
2008年に北京オリンピック開会式が行われた鳥の巣(北京国家体育場)に仕事で出入りする
機会があるとは思わなかったけど、2日目からもう慣れて、俺の巣みたいな気がしてきたのは
もちろん勘違い。


夜は鳥の巣が赤く光る

鳥の巣とホテルの往復に明け暮れると、急ごしらえの都会の景色しか目に入ってこないので、
北京にきた実感がわいてこない。


ホテルは高層ビルだし


行き帰りの眺めはこんな感じだから……

そこで3日目、午前中の取材が飛んだのを幸い、午後まで天安門のほうへ行ってみることに。
タクシー移動だと目に入らないけど、地下鉄の駅まで歩くとホテルの脇にこんな町がある。


屋根にはパラボラがあって衛星放送を見てる

極端だなあ、住居の違い。地下鉄はX線の荷物チェックを受けないと乗れないけど、乗ったら
タクシーより自在に動ける。あべこべのようでもタクシーはつかまらないから不自由なのだ。


あっというまに天安門広場

だんだん実感がわいてきた。ここって昔(25年くらい前)は自転車に乗った人たちがわんさか
わんさか行き交う場所だったと思うけど、自転車なんか見当たらない。1989年の天安門事件で
多くの学生が人民解放軍に殺される映像も見たけど、そんな爪あとも感じられない。


全土から人が集まる観光地

紅衛兵を組織して文化大革命をおこした毛沢東が目指したのは、インテリが存在しなくて
共産党の指導に従う貧富の差が無い社会なのに、いまの人民共和国は貧富の差だらけ。
それでも毛沢東は天安門で人気がある。


天安門を抜けると、そこは故宮(昔の紫禁城)

せっかくここまできたから、押し合いへし合いする人の流れに身を任せて、故宮博物館を
見物する。昔の紫禁城を博物館にしたところで、やたら広い。


江戸城よりも、ベルサイユ宮殿よりも大きい

どこまで行っても門があり、門の中に椅子が飾ってある。その繰り返し。日本の戦国時代の
城とは考え方が違って、攻めてくる敵を撹乱したり、一網打尽にする工夫などまるでない。
非常にシンプルなところが、王道というものなのかも。


椅子はこんなふうに展示されている

近くに寄って見ることはできない。押し合いへし合いする人民にもまれてみると、これじゃあ
危なっかしくて近くで見せられないだろう。故宮博物館は、台湾にもある。台湾の博物館には
周の時代の立派な青銅器なんかも豊富に展示してあって、優れた古代文化を感じられたけど、
北京の博物館は清朝の建築の威容を目の当たりにするのみで古代文化に触れられない。


どっちがいいってことではない

山鹿素行が江戸時代に書いた『中朝事実』という本には、漢民族は五胡十六国から南北朝に
かけて300年間、遼の209年間、金の109年間、元の90年間、そして清(当時)でも北方民族の
支配を受け続け、混血が進んで漢民族でなくなり、文明も漢以降は停滞したと指摘してある。


獅子が我が子を踏んづけてる!

いわれてみると、近ごろ借金で話題のギリシア人も古代ギリシア人ではないし、イタリア人も
古代ローマ人ではないのだから、いまのチャイニーズが漢民族ではないのは当たり前かも。
いまの日本人がもう縄文人じゃなくなってるのと同じこと。


奇妙な石を愛でる文化があったらしい


このへん(かなり奥)までくると、もう押し合いへし合いしてない


故宮の一角にハンバーガーショップがあった

それにしても、この国の人は赤が好きだ。黄河流域の黄土に多量の酸化鉄が含まれているから、
焼くと紅色になって、この色に繁栄、幸運、寿、目出たさといった意味を周の時代の人々が込めた
という話は本当だろうか?


故宮を通り抜けると丘の上に寺が

やっとシャバにでてきたよ。写真にならないくらい故宮はデカかった。外に出ると物売りの人が
たくさんいる。湯気の立つトウモロコシの立ち売りとか、甘栗とか……


へんな帽子を売るおじさんとか……

「三輪車」「三輪車」って人力でどこかまで乗せていこうとする客引きに、「No」っていったら
「Why?」って食い下がってきた。理由なんか話してたら終わらないから、歩き去るしかない。


気温が氷点下だから堀が凍ってる


こういう感じだと人の住む場所って気がする

まだ少し時間があるから、高層ビル街でもなく史跡でもない、普通に人が暮らす市街地を散歩。
やっぱり歩かないと旅した気がしない。


―― 愛国 創新 包容 厚徳 ――


本屋さんに易の本がけっこうある


古典も簡体字で書いてあるんだなー


北京ってこんなとこだと思ってた(けど違った)


写真店は「巴里之恋」(LOVE IN THE PARIS)


フランスパンかと思ったら芋だった

んで鳥の巣にまた戻って、極寒のスタジアムで夜10時くらいまでお仕事するのでありました。

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