新幹線の車窓からも、天下分け目の関ヶ原は見える。名古屋と米原の間で窓の外を眺めていると
「 関 ヶ 原 古 戦 場 」と記した看板が目に入る。(方角でいうと北側)
だけど新幹線はスピードが速すぎるので、わけもわからないうちに関ヶ原なんか過ぎ去ってしまう。
そこで名古屋か米原で新幹線を下りて、東海道本線に乗り換え、関ヶ原駅で下車してみる。
ここが関ヶ原かい? メーテル……。
銀河鉄道999じゃなくて東海道本線なのでメーテルは答えない。名古屋より岐阜羽島のほうが
距離的に近いけど、東海道本線に接続する名古屋か米原から関ヶ原に降り立つ。
改札(ひとつ)を出ると、駅前に観光案内所がある。地図か何かもらえるかなと思って入ったら、
おばさんが地図の裏にスタンプを捺していけばいいと強く勧めるので、それじゃせっかくだからと
ポンポン捺していく。
いっぺんに15個も!?
もともとスタンプラリーだったんだろうけど1か所で全部のスタンプを捺せちゃう。申し訳ないと思って
捺していくうちに、だんだん面倒になってくる。でも、根気よくすべて捺して案内所を後にする。
関ヶ原だいたいこんな地形になってる
交通の要所で、ある程度の広がりがあるから、大軍どうし合戦するのにもってこいの地形なんだろう。
まわりの山に陣取って、できれば平野の敵を取り囲み、一気に攻め下りたい。
そういう場所だから、関ヶ原の合戦(1600年)のまえにも2回ほど、このあたりで天下分け目の戦いが
行われたと聞いている。
のぼりが立ってる
最初は壬申の乱(672年)で、天智天皇の跡継ぎの大友皇子(弘文天皇)を大海人皇子(天武天皇)が
攻め滅ぼした。つぎは青木ヶ原の戦い(1338年)で、後醍醐天皇を追放した足利尊氏と、天皇擁護の
北畠親房があいまみえ、ぐだぐだになって尊氏の勝ち……だったかな?
東首塚がみえてきた
観光案内所を背にして左へ、線路沿いにちょっと歩くと陸橋があり、それで線路を渡ったら左側にすぐ
首塚がある。関ヶ原の合戦で敗れた西軍の首が、たくさん埋まってる……のかな??
首洗いの井戸だって
それはもう血まみれな、残酷な光景が広がってたにちがいない。さて、気を取り直して道路に戻り、
役場のほうに歩いていく。
左端の四角い建物が関ヶ原町役場
ずーっと武将の、のぼりが立っている。町役場のあたりで左に曲がると公園があって、そこがまた
「徳川家康最後陣跡」という遺跡になっている。
のぼりが高々と掲げられて、すべり台や鉄棒が設置してある
ここで、家康が敵将の首実検をしたといわれている。あっちにもこっちにも血塗られた史跡が……。
やっぱり公園で遊ぶ子供たち、合戦ごっことかするのかなあ。
戦国武将ごっこするには最適かもしれない
また道路に戻って、交番のほうへ歩いていく。関ヶ原といえば忘れちゃいけないのが……そうそう、
これこれ!
やぎ乳アイス???
せっかくだから食べようかと思ったら、工場が休業していてショップも閉まっていたので、あきらめて
トコトコ歩いていく。
歩いて回るのにちょうどいい(案内表示もよく立ってる)
それにしても静かで、のどかな町だ。2011年10月31日、月曜日。つまり平日で、休日出勤の振り替え
として、仕事を休んで古戦場にきてる。
この田んぼでも、かつて合戦が????
関ヶ原を歩きながら、のぼりや旗が遠くに立っているのを見ると、合戦の様子を陣地から眺めたら
どこか静かで、のどかに見えたかもしれないと思う。高台から見下ろしてたり、遠くで見物してると
サッカーかラグビーの試合みたいだったかも。
決戦地がこれだもん
タクシーが1台、観光客を乗せて走り去っていく。ほかには誰もいないから、この決戦場はもう
ぼくだけの決戦場といっても過言ではない。しかし、これくらいの規模なんだね。
だんだん決戦地にちかづいていくと、こうなる
ここまでくると、「おっ? 向こうの山に、のぼりが何やらたくさん立ってるぞ!」ということになる。
笹尾山にある石田三成陣跡だ。
……あそこなり!!
敵の激しい抵抗にあって、あそこまで辿り着けずに命を落とした人も、ひとりやふたりではないだろう。
しかし今日は、誰もいないからラクラクあそこまで農道を歩いてゆける。
おやおや?????
なんか急に人が大勢いる!!! しかも女子ばかり……。なるほど、あれがウワサの「歴女」とやらか。
鎧と兜を身に着けた武者までいるじゃん!!!! 霊だったりしてね。
どう見ても、石田三成
デーハーな兜だな、おい。いまとちがって戦場じゃ目立ってナンボだったから、あんなクワガタつけて
がんばってる。カブトムシもクワガタムシも、武士のいでたちが名前の由来になってるんだろうけど、
武士が登場していない古代から平安時代まで、なんて呼ばれてたのかな??????
迷彩が登場したのは1944年と第二次大戦の末期で、それまで軍服といえば目立ってナンボのもん。
戦国武将のいでたちと同じで、戦場に誇りが残ってたんだろうね。もう皆無だけどね。
どう見ても、島左近が歴女にサインしてる
サインもらってるの中学生かな……? 中学校いかなくて大丈夫かな……? 余計な心配してみたり。
月曜日だというのに歴女はどこからきて、どこまで帰ってゆくのか。
三成や左近は「ではな!」と声を張って、ママチャリを押して近くの建物(廃校?)の中へ戻っていった。
ふーん、霊じゃなくて人間なんだね。
日曜日はすごいことに
武将隊全員参加によるフルパフォーマンスって、いったいどんなものだろう。都会で過ごして地元に
帰ってきた人たちが企画して、毎週日曜日にやってるのかな???????
逆茂木の柵を越えて笹尾山に登ると、石田三成の陣跡がある
どうして観光地にいくと高いところに登るはめになるんだろう、十中八九。この日も息を切らして
登ったら、そこからは天下分け目の関ヶ原をよく見渡すことができた。
きっと勝てると思って戦ったんだろうな……
「 関 ヶ 原 古 戦 場 」と記した看板が目に入る。(方角でいうと北側)
だけど新幹線はスピードが速すぎるので、わけもわからないうちに関ヶ原なんか過ぎ去ってしまう。
そこで名古屋か米原で新幹線を下りて、東海道本線に乗り換え、関ヶ原駅で下車してみる。
ここが関ヶ原かい? メーテル……。
銀河鉄道999じゃなくて東海道本線なのでメーテルは答えない。名古屋より岐阜羽島のほうが
距離的に近いけど、東海道本線に接続する名古屋か米原から関ヶ原に降り立つ。
改札(ひとつ)を出ると、駅前に観光案内所がある。地図か何かもらえるかなと思って入ったら、
おばさんが地図の裏にスタンプを捺していけばいいと強く勧めるので、それじゃせっかくだからと
ポンポン捺していく。
いっぺんに15個も!?
もともとスタンプラリーだったんだろうけど1か所で全部のスタンプを捺せちゃう。申し訳ないと思って
捺していくうちに、だんだん面倒になってくる。でも、根気よくすべて捺して案内所を後にする。
関ヶ原だいたいこんな地形になってる
交通の要所で、ある程度の広がりがあるから、大軍どうし合戦するのにもってこいの地形なんだろう。
まわりの山に陣取って、できれば平野の敵を取り囲み、一気に攻め下りたい。
そういう場所だから、関ヶ原の合戦(1600年)のまえにも2回ほど、このあたりで天下分け目の戦いが
行われたと聞いている。
のぼりが立ってる
最初は壬申の乱(672年)で、天智天皇の跡継ぎの大友皇子(弘文天皇)を大海人皇子(天武天皇)が
攻め滅ぼした。つぎは青木ヶ原の戦い(1338年)で、後醍醐天皇を追放した足利尊氏と、天皇擁護の
北畠親房があいまみえ、ぐだぐだになって尊氏の勝ち……だったかな?
東首塚がみえてきた
観光案内所を背にして左へ、線路沿いにちょっと歩くと陸橋があり、それで線路を渡ったら左側にすぐ
首塚がある。関ヶ原の合戦で敗れた西軍の首が、たくさん埋まってる……のかな??
首洗いの井戸だって
それはもう血まみれな、残酷な光景が広がってたにちがいない。さて、気を取り直して道路に戻り、
役場のほうに歩いていく。
左端の四角い建物が関ヶ原町役場
ずーっと武将の、のぼりが立っている。町役場のあたりで左に曲がると公園があって、そこがまた
「徳川家康最後陣跡」という遺跡になっている。
のぼりが高々と掲げられて、すべり台や鉄棒が設置してある
ここで、家康が敵将の首実検をしたといわれている。あっちにもこっちにも血塗られた史跡が……。
やっぱり公園で遊ぶ子供たち、合戦ごっことかするのかなあ。
戦国武将ごっこするには最適かもしれない
また道路に戻って、交番のほうへ歩いていく。関ヶ原といえば忘れちゃいけないのが……そうそう、
これこれ!
やぎ乳アイス???
せっかくだから食べようかと思ったら、工場が休業していてショップも閉まっていたので、あきらめて
トコトコ歩いていく。
歩いて回るのにちょうどいい(案内表示もよく立ってる)
それにしても静かで、のどかな町だ。2011年10月31日、月曜日。つまり平日で、休日出勤の振り替え
として、仕事を休んで古戦場にきてる。
この田んぼでも、かつて合戦が????
関ヶ原を歩きながら、のぼりや旗が遠くに立っているのを見ると、合戦の様子を陣地から眺めたら
どこか静かで、のどかに見えたかもしれないと思う。高台から見下ろしてたり、遠くで見物してると
サッカーかラグビーの試合みたいだったかも。
決戦地がこれだもん
タクシーが1台、観光客を乗せて走り去っていく。ほかには誰もいないから、この決戦場はもう
ぼくだけの決戦場といっても過言ではない。しかし、これくらいの規模なんだね。
だんだん決戦地にちかづいていくと、こうなる
ここまでくると、「おっ? 向こうの山に、のぼりが何やらたくさん立ってるぞ!」ということになる。
笹尾山にある石田三成陣跡だ。
……あそこなり!!
敵の激しい抵抗にあって、あそこまで辿り着けずに命を落とした人も、ひとりやふたりではないだろう。
しかし今日は、誰もいないからラクラクあそこまで農道を歩いてゆける。
おやおや?????
なんか急に人が大勢いる!!! しかも女子ばかり……。なるほど、あれがウワサの「歴女」とやらか。
鎧と兜を身に着けた武者までいるじゃん!!!! 霊だったりしてね。
どう見ても、石田三成
デーハーな兜だな、おい。いまとちがって戦場じゃ目立ってナンボだったから、あんなクワガタつけて
がんばってる。カブトムシもクワガタムシも、武士のいでたちが名前の由来になってるんだろうけど、
武士が登場していない古代から平安時代まで、なんて呼ばれてたのかな??????
迷彩が登場したのは1944年と第二次大戦の末期で、それまで軍服といえば目立ってナンボのもん。
戦国武将のいでたちと同じで、戦場に誇りが残ってたんだろうね。もう皆無だけどね。
どう見ても、島左近が歴女にサインしてる
サインもらってるの中学生かな……? 中学校いかなくて大丈夫かな……? 余計な心配してみたり。
月曜日だというのに歴女はどこからきて、どこまで帰ってゆくのか。
三成や左近は「ではな!」と声を張って、ママチャリを押して近くの建物(廃校?)の中へ戻っていった。
ふーん、霊じゃなくて人間なんだね。
日曜日はすごいことに
武将隊全員参加によるフルパフォーマンスって、いったいどんなものだろう。都会で過ごして地元に
帰ってきた人たちが企画して、毎週日曜日にやってるのかな???????
逆茂木の柵を越えて笹尾山に登ると、石田三成の陣跡がある
どうして観光地にいくと高いところに登るはめになるんだろう、十中八九。この日も息を切らして
登ったら、そこからは天下分け目の関ヶ原をよく見渡すことができた。
きっと勝てると思って戦ったんだろうな……