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散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

一乗谷

2012-05-28 | Weblog
それじゃ信長が平山城をつくる以前の「典型的な山城」というものを見せてもらおうかと、琵琶湖にそって北上し
福井をめざす。さっきまで天気よかったのに、どんどん雲行きが怪しくなる。傘ないけど大丈夫かな?


福井で九頭竜線に乗り換える。一両編成……

4つめが一乗谷の駅。ここへは福井にくるたびに寄りたいと思っていたが、いつも他に用があって果たせなかった。
やっときたよ、一乗谷。なんにもないところだね。傘を買おうにも売店もコンビニもないから、しかたなく待合室に
投げ捨てられたボロ傘ひとつ回収して使う。これがないとビショ濡れになるから、緊急手段だよ。


こういうやつ。骨折れてるが背に腹は代えられん!

みじめだなあ、まったくもう。しかし次いつになるかわからないから多少は無理するさ。帰りの列車の時間をみる。
15時41分の福井ゆきまで、2時間半もあるじゃないか! ここでじってしてるのも愚かなこと……行くぞ。


13時すぎから15時41分まで探索だい

ものすごい勢いで雨が降っている。横なぐりの雨だから、傘をさしてもカラダが濡れる。冷たいし、気持ちが悪い。
でもいい! とことん歩いちゃう。……ゲリラ豪雨のバカ~!!


あと1.5km、カメラを濡らさないようにしないと

信長は火縄銃に対する防衛の必要から、せせこましい山の上でなくて小高い丘の上に城をつくって、常時そこに
家臣を集めて生活することで水平距離を確保して守りを固めるアイデアをひらめき、平山城の安土城を築いた。
それが秀吉や家康の時代の平城のヒントになって、幾重も堀をめぐらせた中に家臣を住まわせる巨大な大阪城や
江戸城ができるもとになった……そっちはわかるんだけど、山城のほうはどぅ~なってるの?


こぅ~なってるの! 谷の両端を封鎖し、普段は狭い平地に住む。

非常時は山の上の砦に立てこもる。朝倉氏はここに人口1万人の町を作り、繁栄を謳歌していたという。当時は
人口1万人の町なんて、楽市楽座の岐阜城下と、堺ぐらいだったとボランティアの人がしゃべっているのを後で
聞いたよ。


ここが一乗谷の入口(本当は出口)の石垣の門


入り組んだつくりになっていて敵の侵入を防ぐ


川の水を利用した堀があったらしい


あの山の上に非常時に立てこもる城があった

天気が悪いからとても山の上まで行けない。カラダが冷えて寒くなってきたので、駅のほうへ戻って歴史資料館
を見物する。(そうやって服を乾かして、列車がくる時間になるのを待つ)


一乗谷の模型。いつもは谷の中、戦時は山の上


谷の中に建てられた朝倉氏の屋敷の模型がこれ

結局、信長に攻められた朝倉義景は山の上に立てこもることなく一乗谷から逃げて、従兄弟に殺されてしまった。
その首を土産にして信長に取り立てられようとした従兄弟は、取り立てられることもなく死に、越前を治める人が
いなくなって信長の家臣の柴田勝家が福井に平城を築いた。そして山城の一乗谷は捨てられた、と。


福井の夜景 (あまりにも静かなので撮った)

その福井に九頭竜線で戻り、寒くてしょうがないから宿をとって風呂に入りカラダを温める。なんなんだろう、
この2012年5月の不安定な天候は……? 翌朝は晴れたので、また滋賀に戻って散歩を続ける。

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安土

2012-05-26 | Weblog
レンタサイクルで回らないといけない。バスもなんにもないから……けどまあ自転車で走るのにちょうどいい
平らな町だ。琵琶湖のそばだし、安土城だって199mの小山の上なので登っても大したことない。織田信長が
ここに平山城をつくるまで、城といえば山の上にあるのが常識だったそうだが、普通じゃないことをやるのが
天才・織田信長。どっこいしょっと、駅前で借りたママチャリで城跡へ。


自転車借りると地図くれる

安土城は完成から3年で、織田信長が死ぬと焼けた。いまはお寺が山を管理していて、拝観料を払って登る。
石の階段を登っていくと、道の両側に家臣の屋敷の敷地がある。

 
左手に見えますのが豊臣秀吉、右手に見えますのが前田利家の屋敷の跡地

いまの住宅地みたいに宅地が整備されている。なんでこれが常識やぶりかっていうと、火縄銃の射程距離を
考慮に入れて、せせこましい山の上より広い敷地がとれる小山に城をつくって、高さより距離で守りを固めた
ところが天才の発想なんだって。そこが山城と平山城のちがい。


登り降りは不便だけど……

ふもとで生活して非常時だけ山頂にたてこもる山城とちがって、平山城の安土城ではみんなが生活していた。
「火縄銃に対しては、高さより距離が大事」と天才が気づいたから、そのあと秀吉や家康の時代にはみんなが
平地を堀で囲って平城をつくった。大阪城や江戸城、その他の名城のもとのヒラメキは信長のもの。


兄の信澄より、寵臣の森蘭丸をそばに住まわせた

天主閣も、信長のはキリスト教の影響で「天主閣」だし、その他の大名のは「天守閣」……イメージしてる
ものが違う。信長はみずから神として天主閣で寝起きしたというが、他の大名は天守閣よりも御殿で生活
するのが普通になった。神でもないのに、高いところで暮らす必要がないから。


二の丸の跡が信長の墓所になっている


地上6階、地下1階の7層の天主閣の跡には礎石だけ残っている。


わざわざ見物にくる人がそれなりにいる……


琵琶湖は干拓で遠くなったが昔は真下にあった

安土というのは「平安楽土」を意識した地名で、琵琶湖の西に平安京があるなら琵琶湖の東に安土城を
という発想で名づけたものだとか。山を下って自転車でちょっと行くと、天主閣の最上部を復元した展示が
「信長の館」で見られる。


金閣寺を超える建築! (本来この下に第1層から第4層がある)

 
全体像はこんな感じで、第3層まで吹き抜けになっている


吹き抜けの部分には神道の
社があり、信長の住まいは
その上に位置している。


仏が描かれ、柱には上り竜と下り竜が彫られている

孔子や老子も描かれている。神仏や儒教や道教を超えた存在として、天と交流する神が住む場所……それが
信長の安土城だったみたい。むちゃくちゃユニークで、他の城が抜け殻のよう。
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田町

2012-05-19 | Weblog
人に話したら「えっ!豚の脳みそ?」とビックリされるので、それならここに書きとめておきます。田町というと慶応大のあるところ。
おしゃれな飲食店ばかり軒を連ねているかと思えば、全然そんなことありません。おやじの喜びそうな飲み屋が地平線の果てまで
つづく東京の下町の焼け残り。ある日「脳みそ刺身480円(…だったかな?)」という貼り紙を見かけて、ちょんの間みたいな2階の
店に上がってみようか、怖いからやめておこうか迷っていると「どうぞカウンターもありますので!」と背後から呼び込みのお兄さん
に声をかけられてトントントンと細い急な階段を上って履物を預けました。店内は写真のような畳敷き、案の定おやじの巣窟です。
(学生も混ざってる)


これが豚の脳みそ刺身、ごま油と塩でぺろり

畳の上に置いたスツールに腰かけて、脳みそ刺身を注文。ホルモンなども焼いてもらいます。食べてから「何の脳みそですか?」って
聞くのも不用心だけど、「人です」とか「猿です」とかではなく「豚です」という回答。ふーん、豚の脳みそって生で食べられるんだ……。


飾り気のないお店だなぁ

芝浦に場があって朝まで生きてた新鮮な豚の脳みそだから安心らしい。これまた食欲をそそるような、気の毒になっちゃいそうな。
お味のほうは白子と鮟肝の中間ぐらいをイメージしていただくのが、わかりやすいかも。


煮込みのホルモンも新鮮な腸の脂たっぷり

田町で飲んでいると、なんだか中央総武線の沿線にいるような錯覚をおこしてしまう……。


関連リンク: 東京都中央卸売市場食肉市場・芝浦と場HP
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彦根

2012-05-13 | Weblog
じつは滋賀県ちゃんと行ったことあるのは比叡山の延暦寺くらいで、山から琵琶湖を見下ろしたり、
湖西線や北陸本線の列車の窓から琵琶湖を眺めて溜息はついても、平地を歩き回ったことがない。
そこで生きているうちに滋賀をほっつき歩こうと思ったわけ。


ひこにゃん、ひこにゃん、ひこにゃん、にゃん♪

京都から近いのは知っていた。新幹線ひかり号の停まる米原で、北陸本線しらさぎ号に乗り換えた
ことは何度もある。そのとき米原の駅前を見渡すと、食事するにも宿泊するにも心細い感じだから、
玄関口がこれじゃあ滋賀を歩くのは難儀そうだと思ってたんだけど……各駅停車ですぐ隣の彦根駅
に降りてみると、なんだ飲食店もホテルもあるじゃん。……ホッ!


彦根駅から見た彦根城

あいにく雨が降っているけど、彦根なら泊まるところがあるから(安土とかにはないかもしれない)
ひこにゃんのいる彦根城でもひやかして一夜の宿をとることにすべし。


駅前でビニール傘を買って城まで歩く

お堀(内堀の外の中堀)の外に「埋木舎」という、ひねくれた名の屋敷がある。桜田門外の変で惨殺
された幕府の大老、井伊直弼がまだ世に出る前、ごくつぶしとして蟄居していた住まい。


堀の角の向かい側に「埋木舎」とやらがある

彦根藩の11代藩主の十四男に生まれて、とてもじゃないけど藩主の座につけるはずもなかった直弼は、
兄の直亮が12代藩主になると御殿を追い出されて、埋木舎に15年も蟄居したんだってさ。


こちらがその埋木舎とやらの門

蟄居というわりに立派な屋敷じゃないかと思うのは、うさぎ小屋に住み慣れた日本人の目で見るから
なのかな。当時はこれで、わび住まいだったの? (ちなみに三百石もらってたそう)


これが埋木舎の屋敷で……中に入ると立派な駕籠とか置いてある

十四男といっても何不自由ない暮らしをしてるように見えるが、本人は不遇をかこってたのだろうか。
  世の中をよそに見つつも埋木の 埋もれてをらむ心なき身は
なんて歌が残ってるくらいだから、それはもう不遇かこちまくったパンク青年だったにちがいない。


「No Futureでござる」 「左様しからばご尤も」

ところが36歳のとき、13人もいる兄がコロコロ死んだり、養子に出たりしていて、直弼に藩主の座が
回ってくる。ペリーが浦賀にやってきたりして大変な時期に、幕府の大老になって開国しちゃったり、
安政の大獄で強権ふるったりして、桜田門外の変で斬られちゃった。


埋もれていれば斬られずに生きられたものを

おかげで彦根藩は25万石に削られて、そのまま明治維新を迎えちゃった。そういう事情を知ってみると、
ひこにゃんの中には井伊直弼が入ってる感じがしてくる。


埋木舎をあとにして、ひこにゃんが舞う彦根城へ

初代藩主の井伊直政は、関ヶ原の戦いで東軍の先鋒としての武功を家康に認められ、石田三成の
佐和山城(すぐ近く)をそっくりもらって18万石の大名になった。大阪冬の陣で、子の直孝の働きが
認められて30万石に加増。だから、25万石に減らされるのは微妙といえば微妙。


中堀の内側をクルマがビュンビュン通行する

佐和山城を徹底的にこわして、利用できるものをすべて利用してつくられたのが彦根城なのだそうで、
石垣も全部ひっぺがしたから佐和山城の跡には石が二つしか残ってない。他にも天守閣は大津城の、
西の丸の三層櫓は小谷城の、天秤櫓は長浜城のを移築したとか。いくさの世が終わって、あちこちの
城から「いいとこ取り」して普請したのが彦根城なのね。


秀吉の居城だった長浜城から移築した天秤櫓


天秤櫓の手前の橋は非常時に落とせる仕掛け


大津城から移築してきた天守閣は国宝の扱い

姫路城、松本城、犬山城と並ぶ、四大国宝天守閣なんだって。西国から幕府を守る主要な城として位置づけられて、
江戸城、名古屋城のように天下普請(大名に命じて築かせる)されたとは知らなかった。家康の意向で、井伊家は
甲斐の武田の象徴だった「赤備え」の武具をまとって、いつも先陣を任されたという話。だからなのか、ひこにゃんの
兜が赤いのは!


これが赤備えの武具

ひこにゃんが兜だけかぶって、あと丸腰なのは天下泰平ってことか? うっ、ぶるぶる、雨に濡れてカラダが冷えた。
歩き回るのこれぐらいにして宿をとろう。お城の前に、彦根キャッスルホテルというのがある。聞いてみたら泊まれる
っていうからチェックイン。


みやげ物やさんを併設している観光ホテル


ホテルの窓から撮った彦根城


たまには朝ごはんの写真でも

翌朝ちょっと天気よくなったので、チェックアウトして城のまわりを歩いてみる。昔の街並みを保存した通りに
宗安寺というお寺があって、気になったので寄ってみる。


お寺の門は、佐和山城の表門だったものを移築してきたと書いてある

城だけじゃなくて、寺も寄せ集めて普請してある。本堂は長浜城の御殿を持ってきて使っていたが、いまはもう
建て替えられて、鬼瓦だけ残っていた。


これがその長浜城の鬼瓦


夢京橋キャッスルストリートに面してる

そこから城のほうに戻り、城を突っ切って玄宮園という大名庭園に行ってみる。天守閣を見上げるかたちになる。
ここらでビアガーデンでもやって、ひこにゃんが行ったり来たりすればウケそうだと思った。

 
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善水寺

2012-05-07 | Weblog
年に一度だけ、毎年5月5日に公開している秘仏というのを拝んでみようと思って、JR草津線の
甲西駅で降りた。湖南市循環バス「めぐるくん」が停車していて、運転手さんが「今日はええわ」
と、つぶやきながらベンチで日向ぼっこ中。「善水寺に行きたいんですが、このバス通ります?」
「それなら岩根っちゅうバス停で降りるんがええわ」「ありがとうございます」「今日は善水寺まで
行くお客さん多いけど何かあるんですか?」「仏像を特別に公開してるみたいです」「なるほど」
……というわりに、お客は他にひとりもいない。岩根のバス停(上の写真)で降りる。


めじるしがあってよかった

ここは滋賀県……うなぎ屋さんにも「滋」の字が入ってる。これから行くのは、うなぎ屋さんでは
なく「国宝 善水寺」のほう。


地図の看板あってよかった

岩根バス亭から、「うを滋」の脇を通って山に登るわけね。また登るわけね。どうしても旅先で何か
しようと思ったら、登り道を歩くはめになるわけね……。(うを滋、うなぎじゃないのか)


あきらめて登る

この季節になると、よく青虫が糸で枝からぶらさがって、風に吹かれながら上がったり下がったり
してますが、あれは何をやってるんでしょう? 鳥に食べられやすくて危険なのに。

 
観音堂っていうのがあった。本堂はまだ、この上だろう。平安時代の丈六仏だって。


その奥にでっかい岩がある。古墳かな?

お寺の略縁起を見ると、「不動の大岩」と書いてある。上部に磨崖不動明王があり文亀4年(1503)
の年号があるそうだけど、後から刻んだものだろう。

 
そこからもうちょっと登って、やっと本堂らしきところに着いた~

本堂が国宝で、中に入ると三十体あまり仏像が安置されている。重要文化財が九体。こういうことを
数えても仕方ないけど、堂内撮影不可なもんで、驚きを伝えたくて。


外側は撮ってよし

秘仏というのは天平時代の金銅釈迦誕生仏で、母の脇の下から生まれてすぐトコトコと7歩あるき、
右手をあげて「天上天下唯我独尊」といったときのポーズ。撮影禁止なので、絵はがきを撮ったのを
UPするとこう。


天上天下唯我独尊~!

生まれてすぐのわりには腰に布を巻いてる。てゆうか赤ちゃんが歩くまで1年ぐらいかかるのに、
つかまり立ちもせず右手をあげて釈迦すげぇ~

釈迦の誕生日は4月8日だけど、一般の休日に公開しようということで、訪ねてみたら5月1日から
8日まで公開されているのだった。(あら事前の情報が古かった!)


同じ河に二度入ることはできない

和銅年間(708~715)に元明天皇の勅命で草創されて和銅寺といったこのお寺は、のちに京都で
桓武天皇が病気になったとき、ここの水をもって7日祈祷して献上したところ、たちまち治ったので
「善水寺」の寺号を賜ったと略縁起に書いてある。


その水がこちらでーす

ちょうど喉がかわいていたので、空のペットボトルに入れて飲んだら、おいしかった。持ち帰りOK
だから、あとでコーヒー入れて飲んだらおいしかった。
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