散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

銀座ツアー

2017-04-26 | Weblog
会社で仕事をしていたらメールで銀座ツアーの案内がきた。なんだそりゃ、あとで読もう。仕事が片づいて
帰る前に添付ファイルを開いて読むと、職場のすぐ近くの「知られざる名所」をめぐる徒歩ツアーのお誘い。
すべて参加すると3時間半も平日の午後を割くことになるけど、興味のあるところだけなら1時間かそこら。
近所だし、会社に居づらいから出かけてみた。


まずは銀座1の9の8、奥野ビル

昭和のはじめ(1932年というから昭和7年)に「銀座アパートメント」として建てられた、先進的な設計・装備
の高級住宅だったところが、80年以上たってレトロな雰囲気が受けてギャラリーやらショップやら入ってる。
そのビルのエレベーターが銀座で唯一の手動式だという。


手動式ってなんのこと?

電力の代わりに人力で動いている(地下に大勢の人足がいて歯車を回している)とかだったら、地下の様子
がむしろ見たい。しかし、そんな人足などいなかった。


ではなにが手動なのか?

ドアが自動で開閉しないので、手で開け閉めするエレベーターだった。そんな不便なと思うけれども、当時
は最先端の設計だったし、80年もすれば銀座で唯一のレトロな装備として珍重される。


ボタンは「呼」になってる

「上」とか「下」とかじゃなくて「呼」を押す。考えてみると今のエレベーターも「呼」だけで事足りるような気が
しなくもない。中華人民共和国の都市戸籍を持つ観光客とか、「上」も「下」も押しちゃうから。


来たエレベーターに乗る

「坂田さん」と話しかけられた。主催のPR会社の人と化粧品の掲載でやりとりしていたから誘われたことが
わかった。仕事より散歩が好きだから案内状が届いたわけではないようだ。あたりまえか。


「開」「閉」のボタンがない

あとは普通のエレベーターと変わらない。ちゃんと手動で扉を閉めないと動かないようになっている。だから、
降りるとき閉め方が甘いと他の階の人に迷惑がかかる。自動ドアにしたらよいのでは。


続いて伊東屋に向かう

奥野ビルは普段も自由に出入りできるから、ツアーじゃなくてもエレベーター体験はできる。しかし、ふらっと
行っても堂々とエレベーターで上ったり下ったりする度胸がなかなか持てないだろう。


よく行く伊東屋に到着!

文房具とか買いにくる店まで、ついてきてしまった。建て替える前は上から下まで歩いて品物を眺めたことも
あるけれども、新装オープンしてからは用のある階しか行ってないなー。


11階にファームがあった

伊東屋の社員のなかでも実力がいまひとつの二軍メンバーが集められている、人材養成所のあるフロアかな。
これから伸びるフレッシュな人ばかりじゃなくて、やる気をなくしたリストラ予備軍とかも大勢いるのかな。ぼくも
入れてもらえるかな……とか妄想したけど全然ちがった。


そこはレタスの製造工場だった

水耕栽培で葉物野菜を育てていた。「へぇ、ファームって工場だったんだ」と何かのライターさんがつぶやいた。
「私、リニューアルオープンのとき伊東屋の記事を書いたんだけど、確かファームって書いた気がする。そのとき
リリース書き写してファームが何のことか全然わかってなかった」とか話してるけど、そんな記事やだなー。


伊東屋の広報の人の話

ここもツアーじゃなくても見にくることができる場所ではある。でも、きっかけがないとなかなか見にこないんじゃ
ないかな? 見ないで記事にしてる人もいるくらいだから。


12階のカフェで召し上がれます

知らないで食べてるお客さんのほうが多かったりして。1階でもジュースにして飲ませるコーナーがあるらしい。
レタスの試食をさせてくれるというので、せっかくだから食べた。新鮮だった。


レタスを試食する人たち

このあとも催しがあるようだったが、仕事の用事があったので離脱して、とことこ歩いて会社に戻った。働いて
帰宅してからブログに書いた。丸1日ほっといて更新した。おしまい。
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小田原宿

2017-04-24 | Weblog
地蔵といえば立っているものだが、この地蔵は座ってる……だけじゃなく、でかい! ボランティアの
ガイドさんはこれが地蔵だというけれど、地蔵というより大仏じゃないの? 右下に何か書いてある。


南無延命地蔵頭王菩薩

ほんとだ、地蔵になってる。ガイドのおじさんによると、この地蔵はもともと箱根芦ノ湖の賽の河原に
安置されていたんだけれども、明治の廃仏毀釈のときに芦ノ湖畔にいづらくて小田原までおりてきた。
それからずっと小田原にいるという。


冷暖房完備だから戻りたくない

先月も今月も箱根に用があって小田原に寄った……先月は石垣山の一夜城を訪ね、そのとき500円
で缶バッジを買って乗った回遊バスが、5月14日までバッジを見せると何度でも載り放題だったことを
小田原にきたら思いだし、バッグの底からバッジを出してバスに乗ったのだ。


小田原宿回遊バス うめまる号

旧東海道の小田原宿なりわい交流館でバスを降りると、NPO法人小田原ガイド協会の無料案内あり
と地図に書いてあるから、どんなガイドかなと思って後をついて行くと地蔵の銅像があった。曹洞宗の
徳常院というお寺。


そこから海に連れて行かれる

西湘バイパスの下をくぐって相模湾に出る。ちょっと離れたところに、昭和50年代に小田原漁港が
できるまで、この浜で魚の水揚げをしていたという。定置網でブリがとれた。


浜といっても石ばかりじゃないか

バイパスを通して川を堰き止めたから、砂が流れてこなくなって、たちまち石ばかりの岸になったと
おじさんが話す。それまでは砂浜が広がって、とれたブリをならべたものだと。


だいたいこんな感じの砂だった

あっちにいる人が、何撮ってるの? という顔をした。あんたらを撮ったんじゃなくて、どんな砂かを
写したいだけだから気にしないで。


ガイドさんの後ろ姿

この上のバイパスができてから、小田原の浜の景観が変わってしまったと話す。トンネルの向こうまで
ずーっと砂浜が広がっていたそうだ。おじさんが子どもから大人になる頃までは。


堤防の上部が露出

明治35年(1902)の小田原大海嘯といって、地震ではなく台風の高潮でこのあたりが水害にやられた
あと、町ごとに高さ約9mの堤防を作ったんだけど、バイパスができて地形が変わってしまい、現在は
上のほうしか見えない。


そのことが書いてある

いまは舗装されてしまっているけれども、この堤防のあたりまでは砂浜が広がっていたと語るおじさん。
高さ9mってことは、8mぐらい埋め立てられたわけだ。


いわれないとわからなかった…

おじさんの生家がこっちのほうらしくて、宿場よりも浜辺のことに詳しいくらいだった。ブラタモリを見る
のが好きらしい。街道や宿場、城址の地形のことを詳しく聞かせてくれたけど、写真になりづらいので
せっかくだけど割愛。


官ではなく民がつくった堤防

大海嘯のあとで堤防をつくったのは民、その堤防を埋めて浜をつぶして、バイパスを通したのは官。
つまり住民のことを考えて何かしてくれるわけではないということか、昔も今も。


大海嘯の9年前に創業の鰹節店

だんだん旧東海道のほうへ。鰹節ができるまで5か月かかるらしい。カツオのほか、ソウダガツオ
やサバの節もあり、削って混ぜた節もあった。かまぼこ屋さんが12軒あって、そのうちのひとつで
タモリさんが先日かまぼこ作り体験をしたと聞かされたけど、ブラタモリ見なかったので興味薄い。


なづけて、小田原かまぼこ通り

その先のマンションの角に、北村透谷の生家跡であることを示す碑があった。ボランティアのおじさん
の口から、恋愛という言葉を初めて使ったのは北村透谷だと聞かされた。そうだったのか。


北村透谷生誕之地


関連記事:  石垣山
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