散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

九十九段

2021-12-25 | Weblog

結婚式で雅叙園に行った。かつて目黒雅叙園として有名だったように思う。買収でもされたのか、いまはホテル雅叙園東京という。エントランス脇のエレベーターに乗ると百段階段を見物できる。これはそのエレベーターの内部で、なかなか彫琢を凝らしてある。

エレベーターを下りると、自然の斜面を生かした造りなのだろう。木造の階段がこのように残されていた。文化財、百段階段。しかし実際に上ってみたら、九十九段しかなく行き止まりになっている。「亢龍悔いあり」といって、頂点を極めた後は落ちる宿命だから、あえて極めないようにしたと思われる。

階段だけでなく小部屋がいくつも設けてあり、それぞれ趣向を凝らした客間のようになっている。遊興の場でもあったのか、いまは生花だのメダルだの何だのを展示する会場として利用されることが多いらしい。それらの小部屋の一つは、柱などに彫刻が施され極彩色に塗られた跡を留めていた。

古めかしい階段を下りてきてエレベーターでエントランスに戻り、雅叙園の奥の方へ歩いていくとレストランがあり、すぐそばに再現トイレと呼ばれる豪華なお手洗いがあった。何を再現してあるのか、百段階段のトイレは広々とした和室にぽつんと和式の便器があったから、それの再現ではないだろう。

結婚式場のほうは近代的なビルで、吹き抜けの内部に庭があり伝統的な家屋が設置してある。それらを見下ろすように、いくつものパーティー会場があって、織田信長が権力の象徴として新奇な天主閣の吹き抜けに伝統的な建物を配した幻の安土城のようだと、余計なことを考えつつ宴席に連なった。

 

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埼玉の台湾

2021-12-18 | Weblog

新型コロナウイルスで世界が一変してしまい、自由に海外旅行などできなくなって約2年が過ぎた。2020年の正月をネパールで迎えて以来、ただの一歩も日本を出ていない。近場でいいから、たとえば台湾でいいから行きたい。

そんなことを思いながら埼玉を歩いてたら目の前に台湾の道教寺院が出現した。ここは東武東上線の若葉駅東口からまっすぐ伸びる道を駅を背に2kmあまり歩いたところ……聖天宮という宗教施設。まるで台湾に来たみたい。

振り向くと日本の田舎の光景が広がる。夢だった。台湾に行きたいと強く思うあまり日本の田舎で台湾の白昼夢を見てしまったんだ。情緒は大丈夫だろうか。いかんいかん。気を取り直してもう一度だけ振り返ると、そこに台湾があった。

どっかの女子がしゃがみ込んで写真を撮ってる。入場料500円を払うと中に入って、写真撮影などすることができる。大病して一命を取り止めた台湾の人、康國典大法師が一念発起、三清道祖のお宮を建てようとしたら台湾ではなく埼玉に建てよとお告げがあった。

昭和56年、さっき電車を下りた若葉駅もまだなく雑木林が広がっていたこの田舎を整地して台湾の宮大工を呼び寄せ、15年の歳月を費やして平成7年に聖天宮を開いたと入場パンフに書いてある。

コスプレ者たちが建物内で何らかの撮影をしていた。20年ばかり前、台湾に行ったとき道教寺院にコスプレ者はいなかったので、にわかに日本の現実に引き戻された。500円で撮り放題なら、ちんけなハウススタジオを借りるより気分が出るだろう。

露出の多い衣装を身につけたコスプレ者たちもいた。全員カラコン入れてるので、目が合うと怖い。さっきしゃがんで写真を撮ってる女子ふたり写り込むから邪魔だなと思ったけど、それは間違いで、あれくらいどうということはなかった。

いまは訪れる人もまばらだけど、お正月には混雑するのだろうか。いや、旧正月かな。参拝者の数とコスプレ者の数どっちが多いんだろう。龍は五千頭も彫刻などでお宮にほどこしてあるというから、いずれにしても人より龍の数が多いかもしれない。

天井板にも龍がびっしり。柱にも龍がびっしり。壁にも屋根にも、そこらじゅう龍がびっしりだから、15年でよく作り上げたものだと驚く。それからさらに四半世紀、雑木林だったところに東武東上線の若葉駅ができて、途中の道の両側にマンションや工場が建った。畑も多い。

鐘楼に登ると龍だらけの天門の向こうに畑が広がっており、台湾気分が一転、埼玉気分になる。まっすぐな道をまた2km以上もくもくと歩いて駅まで戻るのが面倒くさいこと限りない。どうしてここにお宮を建てよと道教の神様はお告げしたのだろう。横浜か神戸か長崎より埼玉がよかった理由は?

休憩所には台湾の飲み物やお菓子、土産物の類が自動販売機で売られている。ひょっとすると、ここがいちばん台湾気分の濃厚な一角かもしれない。飴玉やキーホルダーをバラまいて「台湾に行ってきました」と偽装することも可能だ。

龍だらけの建物の全貌が見渡せて美しいのは、むしろ入場するより遠くからのほうがいいかもしれない。それじゃ気が済まないから一度は中に入ってしまうが、前を通りながら三清道祖に一礼でもするのが最善なのでは。

若葉駅まで戻って、東武東上線を何駅かくだり、東松山で下車してやきとり食べた。東松山のやきとりは豚。それも、かしら。しかし、やきとんが普及した昨今では豚だろうと鶏だろうと問題ない。台湾もいいけど埼玉も悪くない。

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おまけの花月楼

2021-12-11 | Weblog

泰澄大師の足跡を訪ねて白山平泉寺に行く前に昼ご飯を食べたところ、福井県勝山市の花月楼が変わった天井の建物だった。勝山市といえば今やUFOのような恐竜博物館が有名だけど、明治大正昭和の初めは恐竜よりも蚕の繭で生糸を取って絹を織る繊維工業で景気がよかった。

 

それで花街が河原町通りに栄え、明治30年に開業した花月楼の現在の建物が明治37年にできたという。当時の大工が腕によりをかけて拵えたのが、ちょうど傘を広げたような曲線の傘天井。そのころの花街の景気はすでになく、料亭は平成11年に廃業したが、ほぼそのまま現在はレストランになっている。

これが傘天井。できた当時の状態を保っているともいえるし、解体して修繕する腕のある大工さんが現在もういないから最小限の補修を施して大切に建物を使い続けるしかないともいえる。人絹が登場して絹の値段が下落するまで(下落してからも)養蚕と繊維で儲けた旦那衆が芸者を揚げて酒食や歌舞音曲にうち興じた。

いまはお料理だけ、往時の趣をかすかに感じ取りながら天井を見上げて賞味する場所になっている。花街の旦那衆が好んで食べたのが、ぼっかけ……お櫃のご飯を少し残しておき、茶碗に装って、だしをかけて茶漬けのように流し込む。いわば、ぶっかけ。お酒をたっぷり嗜んで、たらふく料理を召し上がり、疲れた胃腸をやさしく癒す1杯だったのだろう。

 

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2021-12-04 | Weblog
全国的には無名でも福井・石川・新潟のほう、越の国では大徳として敬われた私度僧の泰澄大師はわけあって架空の人物とされてきたが、じつは天皇の直系であり皇位継承候補No.1の人物だったという本を読んだ。
 
 
乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子(天智天皇)をかついで藤原姓を賜った鎌足の子、不比等の謀により越の国に逃れざるを得なかった幼な子が長じて僧となり、古来の神々と仏の垂迹を説いて神仏習合の白山信仰を開いたのだが、不比等が日本書紀を編むにあたり念入りに歴史から消し去ったという。
 
 
その泰澄大師の墓がある、越知山大谷寺にきた。乙巳の変(大化の改新)で斃された蘇我氏こそ天皇家であり、中大兄皇子(天智天皇)の死後に壬申の乱を起こして即位した天武天皇は天智の弟ではなく蘇我入鹿の血を引く正当な天皇だったが、その後を継いだ大津皇子を不比等が謀殺して即位の事実を消し去った。女帝(持統)を立てて、天智の家系が正当な皇室であると示す日本書紀を作ることで歴史を捻じ曲げた。その際に天武が天智の弟だったことにした。
 
 
天武の死後に即位した大津皇子を抹殺し即位をなかったことにしても、その長子である粟津王が生きていては皇位継承権の第一位は粟津王であり、正統な蘇我の血統を排除できない。いずれ累が及ぶであろう幼い粟津王は越の国に逃れ、長じて泰澄大師になったというのが『藤原不比等が最も恐れた男 伝説の高僧・泰澄大師 実は天武天皇の嫡孫であった』長谷川義倫・著、国山古代史研究所・刊(2015年1月13日初版、2020年12月21日改訂)の記述だった。
 
 
飛鳥時代の話であり、天武11年(682年)生まれの粟津王が没したという天平神護3年(767年)までの間にこの大谷寺ができたのなら1300年ほども昔になる。仏教はまだ地方に浸透しておらず、政権を取り戻すための武力拠点として各地に寺院を建立するには古来の神々を取り込まなければならなかった。それが本地垂迹・神仏習合であり、白山信仰として越を中心に全国へ広まった。
 
 
白山信仰の一大拠点となった平泉寺の越前馬場は、天正2年(1574年)の一向一揆で浄土宗の信者に焼かれ、平安時代の聖観音菩薩像がかろうじて土中に埋められ難を逃れた。明治の廃仏毀釈のとき顕海寺に隠されて毀釈を逃れた観音像を夢に見て、元のお堂に戻した人の孫が90歳を超えた今もお堂を管理している。
 
 
管理人がいなくなったら、たびたび難を逃れた聖観音菩薩像はどうなるのだろうか。このお堂の向こうの坂を上れば、やがて白山の頂に至るはず。そこには神仏習合した白山信仰の秘仏が長らく立ち並んだが、やはり明治の廃仏毀釈のとき、里に下されて無量光院林西寺に匿われた。
 
 
秘仏であるから写真撮影は禁止。しかしパンフレットに載っているので、それを写して上げる分には仏罰も神罰も当たるまい。白山御本地仏の十一面観世音菩薩立像を初めとする、維新まで山上に安置された仏像の数々。十一面観音なら日本中にあるが、それらは白山信仰と関係あるかもしれない。
 
 
いちばん右にあるのが泰澄大師座像で、白山の弥陀ヶ原御前室堂に安置されていたもの。だんだん興味が出てきたので、いつか白山に登ってみたい。
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