散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

長岡百穴

2021-06-26 | Weblog
埼玉に吉見百穴があるように、栃木に長岡百穴があると知って
どんな百穴か見に行くことにした。この調子だと、少なくとも
関東一円にいろいろな百穴が埋もれているに違いない。



長岡百穴の手前にはネギが植えられていた。吉見百穴よりも
カジュアルで、入場料もとらない。見物客用の駐車場はある。
なんて良心的な穴だろう。



宇都宮から20分ぐらいバスに乗って豊郷台入口で下車し、10分
ぐらい歩いて探した。バスは1時間に2本ほどあるので、まあ
遭難の心配もなく散歩にちょうどいい穴。



凝灰岩を掘った横穴は群墓と見られており、西の方ではヤマト
が血で血を洗う権力闘争の末に曲がりなりにも統一国家の体裁
を整えようと悪戦苦闘していた7世紀ごろの穴。



長岡百穴には、後世の人が一穴一体ずつ観音を掘ったという。
それで穴の中を覗いてみると観音のカプセルホテルのようだ。
百穴といっても実際に数えると52穴。



埼玉の吉見百穴は戦時中に兵器工場、兵器倉庫として使われた
けれども、栃木の長岡百穴はそんなこともなく、常にのどかな
穴だったらしいことが、穴の様子からうかがわれる。

関連記事:    吉見百穴
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きんじろうカフェ

2021-06-19 | Weblog
箱根のポーラ美術館にレオナール・フジタ(藤田嗣治)の企画展を鑑賞しに出かけたら、そこの
学芸員さんが一昨年ぐらいに何かのタイミングで「きんじろうカフェにぜひ行ってください」と
話してくれたことを思い出し、帰りに小田原の報徳二宮神社に寄ってみた。



小田原城に隣接する、二宮尊徳(金次郎)を祀る神社の一角にあるカフェが「きんじろうカフェ」
で、せっかくだからカフェオレを頼んだらラテアートが二宮金次郎だった。「経済なき道徳は戯言
であり、道徳なき経済は犯罪である」でおなじみ金次郎に、経済を騙る犯罪者よ謝れ。



そんなことを念じながら、カフェラテをひとくち飲んだら金次郎の背が少し伸びた。いいことした
と思ったので、カフェラテをもっと飲んだら背がもっと伸びた。ぐんぐん伸びて、金次郎が大人の
階段をそれはもう一歩一歩、着実にステップアップして行く。



嘉永5年(1852)二宮尊徳翁は湯舟のふちに腰かけて言われた。世の中では、そなたたちのような
お金持ちがみんな足ることを知らず、あくまで利益をむさぼり不足をうったえている。それは丁度
大人がこの湯舟のなかに突っ立って、かがみもせず湯を肩にかけながら、湯舟が浅すぎて膝までも
こないぞと怒鳴るようなものだ。



金次郎の精神が消えていく……自分が屈みさえすれば、湯はたちまち肩まできて自然と十分になる
だろう。ほかに求めることがどこにあろうか。世間の富裕層が経済に不足を唱えるのはこれと何ら
変わりはない。そんな教訓が、マスクケースの裏に印刷されていた。



あれよあれよという間に、金次郎がお骨になってしまった……百石の者は五十石に屈んで五十石の
余財を譲る。もし町村でひとりこの道をふむ者があれば、人々はみんな分を越えた過ちを悟ること
だろう。いまの世の中、政財界の者がやっていることは一から十までこれと正反対の犯罪である。




関連記事:   箱根再訪

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出島

2021-06-05 | Weblog
カフェの窓から出島が見える。そう、「カフェ」の「窓」から出島が……
あれ? 出島というのは扇形の島が海に出っ張って、陸と隔絶してるから
出島のはず。地続きでカフェから見えてちゃダメなのでは。



島原の乱などのキリシタン一揆に手を焼いた幕府が南蛮人に懲りてしまい、
耶蘇教を広めないと約束したオランダに限って、海に突き出た出島で貿易を
許したのだった。橋ひとつで陸とつながり、周囲は海だった。しかし現在は
陸に囲まれている。明治以後の埋め立てでこうなった。



埋め立て地のカフェの窓から、出島がよく見えたというわけ。ちょうどいい
から出島をぐるりと回ってみる。中に入ったことはあるけど周囲を歩くのは
初めてだ。



いちおう濠というか溝というか、わずかな水で周囲の陸地と仕切られている。
出島の中には南蛮人の館もあれば幕府の役人が働く館もある。



ああいうところに南蛮渡来の品を保管したり、役人が中身をあらためたりする
のだろう。ちなみに入場料は大人520円だった(入場してないけど)。



塀に高い低いの違いがあるのは元からそうだったのか、復元するとき見えやすい
ように部分的に塀を取り除いてあるのか。



役人の他に遊女も出入り可能だった。高野聖(真言宗の僧)も出入りできたが、
他宗派の僧や山伏は入ることを禁じられた。禁制札にこうあった。

一、傾城の外女人入ること
一、高野ひじりの外出家、山伏入ること
一、諸勧進のもの並びに乞食入ること
一、出島廻り膀示杭の内、船乗り廻ること、附り橋の下船乗り通ること
一、断りなくして阿蘭人出島より出ること



完全に外界と交流を断たれていたことは旧唐人屋敷でも同様だった。唐人屋敷は
陸続きだったけれども、出島は細い橋で出入りを制限された。



こういう立派な金属を使った橋ではなかったのではないかと思うが、橋を通して
ヨーロッパの科学や中国の思想が伝えられた。



ケンベルやシーボルトが伝えた医学のほか、通詞を通してフランス語、ロシア語、
イギリス語、コペルニクスの地動説、オランダ商館長からは洋式兵法も伝えられ、
中国からは黄檗宗、おくんち、凧揚げ、ベーロン、精霊流しなども伝わった。



これでだいたい一周したことになる。埋め立てた土地には路面電車が走っている。
意識しないと出島だとは気づかないで通り過ぎてしまう。


関連記事:  旧唐人屋敷
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