散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

石垣山

2017-03-20 | Weblog
ほぼ天下統一した猿によって、最後の最後に落とされた北条氏の小田原城を通りかかったら、
しかえしのつもりか猿が檻に入れられていた。


「猿め……、猿め……」

その猿が小田原城を見下ろす山の上に、一夜にして築いたように見せかけたという石垣山城を
ちょっくら訪ねることにした。


小田原駅から一駅の早川駅へ

JR東海道線に乗って、早川駅で降りる。これまであまり意識したことのない駅だけど、どこへ
行くのか人が思ったより降りる。


一夜城として道路標示に

山だから当然あっちだろう、と思った方に、一夜城歴史公園として表示されている。新幹線が
走る低い高架をくぐり、坂を上がっていく。


こっちの看板は太閤一夜城址と

坂を上がるのは好きではないけど、何にもない(と思われる)場所へ行くには歩いて上るしか
ないから今日は覚悟してきた。


誰もいない急坂を上る

地中海にいる錯覚する。振り向くと海が見える。花粉かPM2.5がとんでるらしくて、悲しくも
ないのに涙がでてきた。


駅から2kmあまり、あと340m

淀殿が秀吉に呼ばれて石垣山の一夜城にやってきたと書いてある。小田原攻めに集まった
諸大名も、長期戦に備えて妻を呼び寄せたと書いてある。


石垣山一夜城までいよいよ50m

なかったらどうしよう? と思ったけど、看板がこれだけ出てるということは、この先に何か
あるってことだからホッとした。


一夜城 すぐ左 ってそっち右?

ちょっと心配になったけど、矢印のほうを見たら城っぽい地形になってるし石も転がってる
から、ここが石垣山の一夜城址だろう。


関東で初めての、石垣のある城

信長・秀吉の全国統一の過程で広まった石垣は、当時まだ関東になかったというから、この
山が石垣山と呼ばれるのは意味のあることだった。もとは笠懸山とか、松山だった。


小田原城は土の城だったという

3km先の山の上に、一夜にして石垣の城が現われたら、北条氏政もびっくりしただろうな。
木で覆われた山に城を隠して建て、いっぺんに木を伐ったというけれども。


やれやれまた上るのか

ここまで歩いて上ってきたけど、着いたらバスがいた。期間限定で、うめまる号という名前の
観光回遊バス(500円で乗り降り自由)が小田原駅から出てるらしい。


あの人たち、うめまる号かな?

帰りは500円払って、うめまる号で小田原駅まで戻ろうと思った。しかし、高齢者ばかりに
見えるのは気のせいか。自分の趣味は高齢者と同じ?


二の丸の曲輪、広々としている

あの高台の上が本丸なんだろうけど、ほとんど何にも残ってない。それにしても、最新技術の
石垣をもった城がここから小田原城を見下ろしたら、威圧感あったに違いない。


関東の連れションを誘った景色

写真にするとわからないけど、肉眼だと小田原城がよく見える。関東の連れション創始者(?)
秀吉も家康も関東人でも何でもない。


緑が北条氏の小田原城で、赤が豊臣の包囲網

左下の角にあるのが秀吉の石垣山城。いまここにいるわけ。水軍もいるし、これだけ囲われたら
いくら何でも持たないだろう……全国を敵に回したようなものだから。


おしゃれ横町の北条氏政の墓

小田原駅前のおしゃれ横町には、自刃した北条氏政の墓がある。夫人の墓と弟の氏照の墓も
一緒に並べてある。


鈴がいっぱい墓所にかけてある


関連記事:  小田原  ←1年前の4月
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祈りの岩

2017-03-11 | Weblog
250年以上も幕府に見つからないようにキリスト教を信仰していた、潜伏キリシタンの「祈りの岩」だ。
この大きな岩の下に、年に一度、復活祭前の「悲しみ節」の夜に潜伏キリシタンが集まって見張りを
立て、オラショを練習した。オラショとは「祈り」を意味するポルトガル語で、日本語に訳さないで伝承
してきた。「主の祈り」「アベ・マリヤ」「ケレド」「こんちりさんのりやく」「天地始之事」「ルソンのオラショ」
などがあるらしい。でも、日本語に訳した「主の祈り」をテープで聞いた。どう考えればいい……?


潜伏キリシタンの遺物(聖遺骨入れ)

マーチン・スコセッシが映画化した遠藤周作の『沈黙』の舞台が長崎のこのあたり。市街地から車で
40分~50分かかる。昭和40年ごろまでは、道が悪くて2時間かかったらしい。江戸時代には舟しか
移動手段がないから、潜伏キリシタンを取り締まる役人が舟で沖に現われると、陸に上がってくる前
にキリシタンである証拠品をさっと隠した。


海に張り出した崖を回ってくる

茅葺き屋根の家に住んでいたので、竹の筒に聖なる品を入れて屋根にズボッと差し込めばバレない。
そのまんま家で煮炊きするから竹の筒が煤けて黒くなる。こんなふうに黒くなる。


潜伏キリシタンの命を救った竹筒

潜伏している間にイメージが変容して、マリア像もだんだん天女っぽくなった。教えのほうもきっと、
少しずつ変化したのではないだろうか。『沈黙』にも書いてあるように。


天女みたいな聖母の像

明治になってカトリックの教会ができると、潜伏キリシタンの中には教会に通う人たちも出てきた。
しかし教会に通わないで、自分たちの教えを守る人たちも多かった。教会から「隠れキリシタン」と
呼ばれた彼らは、自分たちを「昔キリシタン」「古キリシタン」と呼んだ。


今では海でサーフィンする人も

祈りの岩のある山の奥には、「昔キリシタン」「古キリシタン」の神社があって、枯松神社という。
江戸の初めの日本人伝道師バスチャン(セバスチャンが訛った)の、さらに師であるサン・ジワン
を祀るキリシタン神社だ。


サン・ジワン枯松神社ともいう

拝殿の中にサン・ジワンの祠がある。というより、祠があるところに古キリシタンが社を建てたのだ。
どんな祠かというと、こんな祠だ。


サン・ジワンは伝説の人

「隠れキリシタン」と呼ばれた「昔キリシタン」「古キリシタン」は明治以後も独自の共同体を維持して、
自分たちの教えや儀式を守った。「組」あるいは「帳」と呼ばれる小組織に分かれ、それぞれに日繰り
やオラショを伝承する最高指導者の「帳方」、洗礼を授ける「水方」、連絡係の「触役」がいて、組織を
まとめてきた。葬儀なども自分たちで執り行ってきた。


高度成長期に変化の波が訪れた

若い人たちは仕事を求めて都会に出ていく。残った「昔キリシタン」「古キリシタン」は高齢化して、
だんだん人数が減っていく。「組」や「帳」が維持できなくなり、儀式も執り行えなくなる。


昭和40年代から戒名が

代々、洗礼名で葬られてきた「昔キリシタン」「古キリシタン」が独自に葬儀を維持できなくなってきて、
昭和40年代ぐらいから仏式を受け入れ始め、戒名がつけられるように。


パウロ以外みんな戒名

どうしてか、また墓地を歩き回っている。散歩をしていると、いつのまにか墓地に足を運んでしまう。
墓地は情報の宝箱だから、ということにしておこう。


こちらは洗礼名で頑張る

ドメーゴス、シテーナ、カテリーナ、法妙梅枝来雲信女だけ戒名で、イサべり、サントメ―、マリヤ、
ルシーナ、カラシナ、ドメイゴスは洗礼名だ。よく見ると没年は昭和二十年代がほとんど。


教会よりも仏式のほうが寛容?

多くの「昔キリシタン」「古キリシタン」が仏式で葬られることを選んだのは、「隠れキリシタン」という
呼び方をしないで、教義に寛容なのかもしれない。


近くのカトリック黒崎教会

雑誌の取材にきた町で、空いた時間に神社や墓地をまわったけれど、ページに反映されることは
まったくなかった。

関連記事:  長崎
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池島

2017-03-04 | Weblog
きっと四万十川に追い抜かれたんだろう。平成2年度の環境庁の調査で日本一の清流に選ばれた
という神浦川は、西彼杵半島の脊梁をなす山地から西に流れて角力灘に注ぐ。



河口に位置する漁港から、池島が見える。そこで2001年まで石炭を掘っていたというからすごい。
炭坑は昭和の遺産と思っていたけれど、2001年といえば平成13年。



あそこに見えるのが池島だ。なにやら住居のようなものが見える。昭和34年に石炭を掘り始めて、
最盛期には7000人を超える住民がいた。当時は人口密度が日本一だったという。



片道400円ぐらいで池島に渡れるというから、行ってみることにした。1日に何便か、フェリーとか
高速船とかボートが出る。実際に海を渡ると、岸で眺めるより波が荒い。ボートはつらいかも。



これが池島の空撮写真。ちいさな島に思えるけれど、港の中にすっぽりと軍艦島が収まるらしい。
もっとも、池島がでかいわけじゃなく軍艦島がちいさいだけ。



島に着いたら、こっちこっちと会議室に連れ込まれた。そこにはヘルメットをかぶった人たちが、
集会の始まるのを待っていた。何の活動かと思ったら、炭坑の見学に出かけるのを待っている
人たちだった。



ヘルメットをかぶらされ、見学料として2500円ほど徴収された。船代にくらべると結構たかい。
せっかくだから穴を見ていく。



常日頃、自分が働いているとき炭坑に入っているイメージがわいてくる。北海道の夕張で炭坑を
見学して以来ずっとそうだ。長崎の池島の炭坑は、さてどうだろう。



案内をしてくれる人の言葉が九州なまりで、ほとんど聞き取れない。ここで産出する石炭はとても
品質がよくて、日本の各地で炭坑が閉山しても2001年まで営業を続けた。



池島から潜って海底の鉱脈を掘り進んだ。鉱区はこのような広がりを見せている。と、いっている
ように聞こえたが、確かなことはわからない。このまま掘り進めば軍艦島のほうまで鉱脈が続いて
いるといったような、いわなかったような。



こんな石炭が、まだまだ掘れば出てくる。うまく使えば役に立つのだけれど、海外産の石炭に比べ
コストが高いので競争にならない。そんなふうに聞こえた。



この葉巻のようなものは、発破につかうダイナマイト。よかった、うっかり火をつけたら大変だった。
もう二度とブログが書けなくなるところだった。



あそこが出口である。あそこから外に出ると、何でもない日常の光景がじつに美しく見える。じつに、
あわれぶかく思えてくる。会社から帰るときのように。



池島の市営アパートは、家賃が月5000円らしい。5万円ではなく、5千円。島には銭湯があって、
料金は100円だと聞いた。そう確かに聞いた。



泊まろうと思えば宿泊施設もあるそうだけど、高速船に乗って戻る。この島に住んでいる人が十数人、
渡ってきて降りた。入れ代わりに乗って、神浦川の河口に戻る。



関連記事:  夕張
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