散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

震生湖

2024-04-14 | Weblog

秦野の駅で小田急線の電車を降りると見える丘にのぼったら湖があった。震生湖という名のとおり、地震で生まれた湖らしい。地震でどうして丘の上に湖ができるのか。ふしぎに思っていたら「震生湖の生い立ち」を記した立札があった。わりと新しい湖で、およそ100年前の関東大震災のとき地滑りで生まれた。

これがその震生湖。ちょうど桜が咲いていた(対岸の駐車場あたり)。1923年(大正12年)9月1日の大地震で市木沢の北斜面が250mにわたって地滑りし、沢を堰き止めて湖ができた。堰塞湖(えんそくこ)というそうだ。1930年(昭和5年)には東京帝国大学地震研究所の寺田寅彦らが測量調査を行った。2021年(令和3年)に国登録記念物になった。

花見がてら湯を沸かし長期保存食のカルボナーラをふやかして食べた。いつ震災が来ても困らないように備蓄してる食糧をストックローテーションのために消費したわけだが、ちょっと足りないんじゃないかと思ってパン屋さんで買ってきたカレーパンが保存食より美味かった。どうやら保存食だけでは、健康で文化的な最低限度の生活を営むことが難しいとわかった。

およそ100年前の震災でも、今年1月1日に起きた能登の震災でも、被災者はプライバシーのない避難所で雑魚寝だった。ナチスがユダヤ人をガス室で大量虐殺する目的で作った収容所(アウシュビッツとか)でさえタコ部屋のような寝台で休むことができたのに、日本の避難所の設備は3か月後もそれ以下だった。台湾で大地震が起きると3時間後に食料も電源もあるテントで被災者が保護されたのと比べて、雲泥の差だ。

それにしても震生湖のあたりは花盛りだった。そのわりに人がいなくて、のんびり、ゆったり過ごせる。穴場というものかもしれない。もしも覚えていられたら、来年もぶらぶら歩きにこようと思い、メモがわりにブログを書いておくことにした。秦野の駅の反対側には丹沢の峰々を望むこともできる。その気になれば登山もできるけど、その気になることは多分ないだろう。

 

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日暮里

2024-04-06 | Weblog

朝焼けの日暮里、夕暮れの朝日町。ああ、そんな日暮里で電車を降りて谷中の墓地へ足を向ける。墓地のへりに面した幸田露伴居宅跡に立ち寄った。ここに住んでいたのは2年ほど、明治24年1月からだと立札に書いてある。その居宅から日々、天王寺の五重塔を眺め、同年11月にあの小説『五重塔』を発表した。

その五重塔の跡地が墓地の中で公園になっていた。正保元年(1644)に建てられた谷中の五重塔は安永元年(1772)に消失したのち、天明8年(1788)から寛政3年(1791)にかけて再建された。再建に取り組む大工の棟梁、八田清兵衛の仕事ぶりを書いたのが露伴の小説『五重塔』だった。

露伴が小説に書いたあと、第二次世界大戦の東京大空襲でも焼けなかった五重塔は、昭和32年(1957)に消失した。48歳の男性と21歳の女性が不倫の清算を図って焼身自殺したのが原因らしい。よそでやれ。消失してから30年後ぐらいに小説を読んだとき、一体どこに五重塔があるんだろう? と思ったが、ここだったか。

さらに30年ぐらい経ったら、墓地から五重塔が見えない代わりに東京スカイツリーが卒塔婆のように見える。この墓地はもともと天王寺の寺域であったのを明治政府が没収して墓地にした。まっただなかに五重塔の礎石があるから、なんかおかしいとは思ったが、五重塔のまわりは初めから墓地だったわけじゃない。

墓地に足を踏み入れると思う。死んだ人たちの家と生きてる人たちの墓、もとい死んだ人たちの墓と生きてる人たちの家は相似形だから、写真に撮ると区別がつかない。手前に建つ家と向こうに建つ墓、もとい手前に建つ墓と向こうに建つ家はそっくりで見分けがつかない。

そこらへんを適当に歩き回ったら雪之丞変化の墓があった。長谷川一夫は映画で雪之丞を2回演じたが、2回目の雪之丞は映画出演300本の記念作品だったらしい。そんな大スターのわりに墓が地味なので奥ゆかしいと思ったら、これはどうやら案内表示に過ぎなくて、墓はこの左側にあった。そりゃそうか。というか右側と思ってしまいそう。

あたりに巨大な、いかめしい、これ見よがしな墓が多い中では比較的こぢんまりしてるほうだ。右手前の墓石は長谷川家の水子の墓。向こうに3つ並ぶ墓石の真ん中に、雪之丞変化の長谷川一夫が眠っているんだろうと見当をつけて、正面の戒名だけじゃわからないから側面に回り込んで確かめる。

昭和五十九年四月六日 父 一夫 と書いてある。ウィキペディアで検索した長谷川一夫の死亡日と一致しているので、間違いない。気がすんだので日暮里駅まで戻り、電車に乗って帰ってきた。

 

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