散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

アルプスからバスで

2024-02-23 | Weblog

グレイハウンドバスで旅する『アメリカ細密バス旅行』という本を読んで無性にバスを乗り回したくなり、とりあえず東京駅八重洲口12番のりばから1時間に3本出てる都バスで南千住まで行ってから後のことを考えようと思った。その前に腹ごしらえをしておこうと、八重洲地下街のカレーショップALPS(アルプス)へ。

カレーと麻婆豆腐の相盛り500円を2度ほど食べにきたことがあり、今回は券売機で最高額メニューと思われる「満腹スペシャル7カレー」なる7種トッピングのカレー950円をふんぱつ。給食みたいな先割れスプーンが懐かしい。これを食べたら地上に出て路線バスで南千住のほうへ揺られていくんだ。

そういうつもりだったのだが、地下街を歩いてたら新しくできた地下バスターミナルに出てしまい、物珍しくて見物しはじめてしまった。京都にある北大路バスターミナルのようではないか。新宿バスタができたときは名古屋の立体バスターミナルに比べて何となく殺風景だと思ったけど、ここも殺風景……地域のせいか時代のせいか。

やがて新橋駅・新宿駅西口経由で渋谷駅まで走る路線バスが入線したので、ものは試しに乗ってみる。Suicaで220円均一だったようだ。地下から地上へ出る通路を見たら、あとは普通によく知ってる道ばかり走るので、浜松町あたりで眠くなり新宿御苑のへんまで寝ていた。30〜40分ぐらいか。

新宿駅の東口から西口へ地下通路をくぐり、西口26番のりばで京王バスを下りる。西口のロータリーにバス停がいっぱいあったと思い、地下通路にもぐって心当たりのロータリーのほうへ歩いていった。このへんだったかな? という場所から、階段を上がってみたらバス停が消えていた。

なにやら囲いこんで掘りかえしたり壊したり……そうだった。新宿も渋谷も銀座も、しっちゃかめっちゃかなんだった。東京ってどうしてこうなんだろう。焼けても焼けなくてもバラックみたいに建て増して、いつも便利になるわけでも美しくなるわけでもない。当面のこととして西口バスのりばは一体?

小田急ハルクのほうへ足を伸ばすと一部のバス停がまだ残っているようだったけど、あそこへ渡る通路がない。人足が立たされて「渡るな」と拡声器で言わされてるだけで、どうやってあそこまで行くかろくに説明しない。どうやら、よくわからずに邪魔だけしてるようだった。問い質してもまともな回答が得られなかったから。

仕方がないので地下通路に下りて、案内表示を見落としてないか確かめてみる。閉鎖のお知らせはあっても、行きたい場所に応じてどのように進めばよいか指し示す掲示は全然なかった。ところどころ表示される矢印は、どれが古くてどれが新しいか不明なのでかえって混乱の元になる。東京のことが嫌いになりそう。

要領を得ない矢印をたどり、まだ残ってるバス停のところへ上がってくることができた。都バスが何台か停車してる。もうバスはいいや、という気分になっていたけど、あと1路線ぐらいは乗っておこうと考えて王子まで揺られて居眠りする。そこからはもう地下鉄を乗り継いで帰宅した。

こんなことでは

グレイハウンドに

乗れないかも。

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海老名歴史さんぽ

2024-02-10 | Weblog

海老名など高速道路のサービスエリアとして認識するだけで歩いたことがなかったので、なんにも用事がないけれど小田急の電車に乗って海老名で降り、そこなる「海老名歴史さんぽ」案内板をながめて歩こうと、ネットで案内板設置のおしらせを読んで決めた。

市役所の売店などで同名の冊子が200円で販売されていると聞いて、数年前から関心を持っていたのだが、案内板が令和5年(昨年)に設置されたなら、わざわざ冊子を探さなくて済む。しかし、海老名市のウェブサイトに明記してある北口が海老名駅になかった。

表玄関らしい東口で小田急の駅員に尋ねても、裏口らしい西口へ行ってJRの駅員に問うても「海老名駅には東口と西口はあるが北口はない」という返答。どうなってるのか海老名市。もしや役人の誤記か? と疑いつつ、表玄関の東口で駅周辺の案内図をよく見る。

すると、利用客がいるのか怪しまれる人通りの少ないアクセスの悪い場所に相鉄線の海老名駅北口がポツンと存在した。それなら「相鉄線の」海老名駅北口と明記せねば「海老名歴史さんぽ」案内板を訪ねる人らが東口と西口を右往左往し、北口にたどり着かないか、たどり着くまでに時間をロスするのではないか海老名市?

案内板がいちおう存在したので頭に入れて相模国の国分寺へ歩いていく。聖武天皇の詔で国ごとに設置されることになった官寺のうち、法隆寺式伽藍を持つ初期の国分寺は大和国、下総国、相模国の三つしかないというのが、相模国国分寺のある海老名市の誇りらしい。

あの空地でキャッチボールしてる親子の向こうにあるのが国分寺の塔の基壇にあたるところだという。国分寺も国分尼寺もあっというまに廃れてしまい、たいていは荒れ果てて偲ぶよすがもないから、あれくらいでも遺跡があれば立派なほうだ。

国分寺も国分尼寺も庶民の生活がどんどん苦しくなるのに私利私欲にかられた為政者が湯水のように血税をつぎこんで工事させたので、現代でいうなら維新万博(とカジノ)会場のようなもの。憎まれて壊されて、後の世に親子がキャッチボールする場所として利用されたら立派なほうだ。

鎮護国家・鎮災至福をスローガンに押し進められたプロジェクトが特に具体的な成果もなく形ばかり完成したのち破綻するのは、官の事業にありがちなことで、そういうところも維新万博(とカジノ)用地の夢洲そっくり。イラストが法隆寺式伽藍の様子で、塔のミニチュアだけ駅前の商業施設に屹立してる。

空地に隣接する海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」をのぞいてみる。おばさんが出てきたから200円か300円ぐらい入館料を取られるかと思ったが、無料だった。よければ案内すると申し出てくれたけど遠慮した。新石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、奈良時代(国分寺建立)など、海老名の遺物が時代順に並ぶ。

このへんは河岸段丘のようだ。舟つなぎ用の杭として打ったケヤキの棒から発芽して大木になったという「海老名の大ケヤキ」の名残が大切に保存されていた。県指定天然記念物であると立看板に記してある。そろそろ帰りたくなってきたが、河岸段丘を登って官寺の国分寺が廃れた後の名ばかり国分寺へ。

梅の木が見事に丸めてあった。こんなふうに刈り込んだ梅を見かけたのは初めてだ。薬師堂、薬師堂と縁起に書いてあるから薬師堂が元々あり、近くの国分寺が廃れた後に遺物を何かしら移してきて官寺ではないが国分寺を名乗ったものらしい。紛らわしいことを……。

「海老名歴史さんぽ」案内板にも出ていた鐘がものものしく飾りつけてある。想像したより小さかった。いつの鐘だろう? と寺伝を読んだら、鎌倉時代の正應5年(1292)に海老名氏が鋳造した梵鐘だというから、本来の国分寺にまったくなんの関係もない。もうええわ、やめさせてもらうわ! と漫才のようにお辞儀して急いで海老名を去り、小田急で帰った。

 

関連記事:   古墳と国分寺 

 

 

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