散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

黄檗山萬福寺

2016-12-30 | Weblog
はじめて行ったのは小学校3年生か4年生か5年生……ぜんぜん興味なかったから記憶がないけど
10歳前後だったと思う。まんぷくじ、なんて「お腹いっぱい」みたいな名前だけ面白いから頭の片隅に
残っていた。それだけ。


35歳ぐらいのときに再び訪れた

仏教の宗派に興味を持つようになったのは、たぶん学生のころじゃないかと思うけと、比叡山ではなく
大陸から直に伝わった禅の黄檗宗の総本山が萬福寺だとあらためて認識して、そのまま忘れていた。
禅といえば栄西の臨済宗と道元の曹洞宗が双璧だけど、もうひとつ黄檗宗というのがある。珍しい。
萬福寺。知ってる。それだけ。


明から隠元が直伝

唐から鑑真が直伝した律宗の唐招提寺と、明から隠元が直伝した禅宗の萬福寺。このふたつは異色
あるので何度でも訪ねたくなる。仏教といえばお経、念仏のイメージが強い。律と禅も重要なんだけど
島国だから我流になりがちなところ、直伝の律宗と禅宗はどこかピリッとして建物も異国風。


清から逃れてきた明の黄檗宗

祖国で滅びた伝統を異国で守り伝えていく気合の賜物かもしれない。大陸のどこにもない文化の粋が
ここにある。そんな気がするから何度でも見たくなる。


このスケール感

実際に訪ねて歩き回ると異国に迷い込んだようで、京都の宇治にいるような気がしない。錯覚するのは
散歩の大切な楽しみ方のひとつ。観光客が他にいないので陶然としてくる。


七福神めぐりのルーツを謳う幟

10歳のときも見たかもしれないが記憶になくて、四半世紀ほど経った35歳のときに初めて見たのが
ビックリするような布袋さん。


キンキラキンしかもニッコニコ!

仏教のイメージをくつがえすパワーがある。布袋さんは弥勒菩薩の化身ということで篤い信仰の対象に
なっているそうだけど、それって禅とは全然、関係ないのでは?


しかし魅力がある

道教と仏教が習合してるんじゃないか。習合してるおかげで元祖、七福神めぐりの布袋さんとして異国の
伝統を守る寺院に人がやってくる。本当は敷居が高いのに、こうしてひょいとくる人がいる。


さらに奥には……

布袋さんのまわりを四天王がとりかこむ建物をつきぬけて、さらにまっすぐ奥にすすむとそこにようやく
釈迦がいる。いってみよう。


釈迦の頭上に真空

やっと禅らしくなってきた。脇侍のほかに、ぐるりと阿羅漢(だと思う)がとりかこんでいる。真空って、
禅のことばだったのか。パスカルの実験とか訳すときに作った翻訳語とばかり。


らごらそんじゃ

釈迦のまわりをとりかこむ尊者のなかでも異彩を放っているのが、お腹をひらいて顔を見せている
ラゴラ尊者。ついつい写真を撮ったものの、逆光だった。


木魚のルーツのナントカ板

せっかくだから木魚のルーツになったというナントカ板を見ていく。黄檗宗が伝来する前は木魚が
日本になかったのか。それとも木魚だけ先にやってきて、あとから黄檗宗といっしょにルーツの板
が伝来したのか。たぶん後者だろう。


振り向けばイチゴ

なんだろう、このイチゴ? と思ったら齋堂(食堂)の前で、ナントカ板(魚板)は「ごはんですよ~!」
の合図にも使われるらしく、生飯台は食前に一箸の飯を餓鬼や鬼子母神に施しする台だという。飯
じゃなくてイチゴを乗せたら、餓鬼や鬼子母神は喜んだろうか? ブーイングしたろうか?

関連記事:  崇福寺
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方丈記の方丈

2016-12-25 | Weblog
ひさしぶりに下賀茂神社にいこうと思いついて出町柳から歩いていくと、糺の森にこんな看板が
立ててあった。なんとなく寄ってみた。


鴨長明の方丈の庵をリメイク

ゆくかわのながれはたへずして……で始まる日本三大随筆のひとつ「方丈記」を書いた鴨長明は
下賀茂神社の禰宜(宮司)の息子で、自分も父と同じように下賀茂神社の禰宜になると思っていた
のになれなくて、ずっと祖母の豪邸に居候していたが、30歳で追い出された。


リメイクした方丈の庵の裏に回る

ずーっと不遇をかこち、就活もうまくいかず、50歳で出家して大原に住んだときの庵はこれより
大きかった。55歳でさらに山奥の日野に結んだ小さな庵が、これと同じ方丈。そこで「方丈記」
を書いて62歳で没した。不遇だが長寿だった。


だいたい四畳半


下賀茂神社に就職できなくて山奥に結んだ方丈だから、下賀茂神社の息のかかった糺の森に
あるのはおかしい。絶対おかしいんだけど、

石川や 瀬見の小川の 清ければ
月も流れを たずねてぞすむ


という新古今和歌集に収められた長明のうたにある、瀬見の小川が河合神社の脇を流れてる
からということで、わざわざ方丈の庵をリメイクしてここに建てた。


人を集めて収入を得る算段かも

手鏡に人の顔を描いたような、不気味なものが夥しく飾ってある。これはなんだろう? とよく
みたら絵馬だった。


美しくなる願いをこめて化粧する

絵馬に化粧をほどこして奉納するようだ。ペンやクレヨンや色鉛筆を使う人もいるらしい。
願いの書いてある面が見たいんだけど、取り外して読むほど興味ないので顔だけ眺めて
立ち去った。ふらふら御所のほうへ歩いていって、みつばちで豆かん食べた。

関連記事:  出町柳
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戦艦武蔵の碑

2016-12-23 | Weblog
ひさしぶりに大宮の氷川神社にきたら、見慣れない石碑ができている。戦艦武蔵の碑……この前
ここにきたとき存在しなかった。碑文を読むと約1年前、平成27年10月24日に建立されたとある。


つまり今年きてなかったんだ~ 

ブログを読み返すと前回きたのは昨年9月だったらしい。その後まもなく、戦艦武蔵の碑ができた
というわけか。どうしてまた埼玉の大宮に戦艦武蔵の碑が? 海なし県なのに。


泳いでくる鴨が戦艦武蔵のよう

戦艦武蔵顕彰会によると、「戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後
の戦艦である。」ということで、撃沈された大和よりも後にできたようだ。


気をもらってる?

「パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の
弱点に注目し、主砲46cm砲3連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として建造され
た。」と碑文に書いてある。


この人たちも気を

あいかわらず樹から気を分けてもらう人が次から次へやってくる。全国にある氷川神社の総社が
ここなのだ。「武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のもの
ではなかった。」


この人も一所懸命

「また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する緘口令等、建造秘匿
の徹底を図った。」 三菱の寄付で建立された石碑かな?


この人も真剣そう


上から何か下りてきてますか?

「昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、式
が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。」


ああそれなのに!

「昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行なわんと
フィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン
海に没した。」 引き受けたというより狙い撃ちされたのでは?


分祀したまま沈没

「同作戦により戦艦武蔵の乗員1319名戦死、生存者1329名もマニラ防衛戦争に投入され、
最終的に祖国の土を踏めた者は430名余と言われている。」 2648名も乗ってたのか。


生存率16%ほど

「ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。 戦艦武蔵顕彰会」




関連記事:  盆栽村(前回の氷川神社)

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縁結び空港

2016-12-16 | Weblog
出雲縁結び空港に着いたら八重…神社の絵馬掛けがあった。ここに絵馬を掛けると年に1度、八重
…神社に奉納されるということで、面白い絵馬がないかと1枚1枚よく見たけどなかった。


八重…神社へ

4日間の仕事を終えて帰るとき、八重…神社に寄った。急な階段をのぼる。ここまでくるのは大変
だから空港に絵馬掛けが出張しているのかな?


狛犬の形が面白い

随神門の修繕をしている人に「こんにちは」と声をかけたら「わっ、びっくりした!」と驚かれた。
耳が遠いみたい。ここの宮司さんかと思ったけど工事の人だった。たぶん。


古い形なのかな?

ここから階段がさらに急になり、のぼる途中で脚がだるくなる。こんなところに毎朝、毎夕おつとめ
するとしたら、大変だろうな。やりたくない、やりたくない。


石造りの階段

こんな思いをして面白い絵馬がなかったらどうしよう? 悪い予感は当たるもので、この神社には
絵馬掛けがなかった。奉納された絵馬とやらは一体どこへ。


巨石にくいこむ社

二礼二拍手一礼して、あたりをきょろきょろする。巨石信仰なのかしら。左から右から社を眺める。
いちおう写真も撮っておいた。


石が御神体です左からどうぞ~


右からもどうぞ~

巨大な一枚岩を仰ぎみると、あやしい穴がある。穴に板が置いてあり、何か書いてある。どれどれ、
コンパクトデジタルカメラでズームしてみるか。


よく見えないな…


金鶏の岩屋、か

スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治したあと、ワシオノタケルとかいう魔神が岩窟に住んで
鶏を使い村人を苦しめていたのを、スサノオノミコトが退治したら魔神が金鶏に変わって村人に
つくしたとか、つくさないとか。


牛馬の守り神

鶏を使って村人を苦しめるって、どういうこと? 牛や馬を追い回すとか? 金鶏が村人につくす
というのも、何をしてくれたのかナゾすぎる。


八重山神社、宇野千代が小説に…

このへんは何でも八重で、神社も八重なら滝も八重だ。ヤマタノオロチも八股だし八重でなきゃ
ダメなのかもしれない。


道を下ると八重滝というのがある

せっかくきたから寄っていく。といっても冬だし、滝という気分じゃないから最初の滝尻滝だけ。
季節がよければ涼しげでいいんだろうな~


滝尻滝、はげしい


ここにも巨石が…


上から滝尻滝をのぞいて戻る

それから出雲縁結び空港に戻り、もういちど絵馬掛けをみて驚いた。八重山神社だと思っていたら
八重垣神社から出張してきてる絵馬掛けだった。


おかしいと思ったら八重ちがい

このへんは八重山神社と八重垣神社とか、須佐神社と須賀神社とか、いろいろあってややこしい。
飛行機に乗って帰る。



関連記事:  八重垣神社はこちら





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鈴ヶ森刑場跡

2016-12-05 | Weblog
師走でもぽかぽか陽気だったので午後から散歩にでかけた。代休だったのだ。京急の立会川で
降りて、東海道を引き継ぐとかいう第一京浜(国道15号)を大森海岸のほうへ、数分歩いていくと
こんな建物が道路沿いにあった。鈴ヶ森刑場跡、大経寺。


さっそく火炙台が

どれどれと立ち寄ると、なにやら穴の開いた石があり、その上の看板に「火炙台」と書いてある。

八百屋お七を初め火炙の
処刑者は皆この石上で
生きたまま焼き殺された
真中の穴に鉄柱を立て
足下に薪をつみ縛りつけて
処刑されたのである

鈴ヶ森史跡保存会



すぐそばに磔台が

丸橋忠弥を初め罪人が
この台の上で処刑された
真中の穴に丈余の角柱が
立てられその上部に縛り
つけて刺殺したのである

鈴ヶ森史跡保存会


こわいこわい、こわいのである。丸橋忠弥は謀反のかどで役人に踏み込まれて殺されたのだが、
死体がさらに磔刑に処せられたというから街道沿いの見せしめである。


それから首洗の井

鈴ヶ森史跡保存会というのは、たぶん大経寺の関係者じゃないかと思う。ここにあった刑場で
10万人から20万人が処刑されたという。200年で10万から20万人なら年に500人から1000人、
毎日2~3人処刑された計算になるわけで、東海道を旅する人はもれなく処刑を見物できたと
いっても過言ではないのである。首洗いの井なんか真っ赤っ赤である。


その人たちのお墓

東海道は海沿いだったから、ここで70人ほど切支丹が逆さ磔にされて水刑に処せられたとか。
さだめしそれを旅人が眺めたのであろうな。




関連記事:  芝・高輪
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