散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

船橋に寄って

2021-02-28 | Weblog
柏と大宮、柏と船橋が東武線で1本につながっているのを見つけ
常磐線で帰るのをやめた。そんなわけで寄って参りました、船橋。
ここにある灯明台は、明治13年に点灯された擬西洋建築だ。木造
瓦屋根の3階建て。



船橋大神宮の小高い場所で常夜灯として、漁区の境界を見分ける
起点の役割を果たすべく建てられた。江戸の昔は篝火を焚く台が
あったのだが、明治に戊辰戦争で焼けてしまったので、洋式灯台
として地元の民が建てた。



この船橋大神宮は、旧幕軍が官軍に抵抗して本陣を構えたところ
で、江戸開城をよしとしない流浪の兵が集まって官軍の先鋒隊と
激突した。そのとき漁師が目印とする篝火の設備が炎上したので
あらためて西洋っぽい灯明台を木材と瓦で作った。



官軍からは賊軍と呼ばれ、自らは義軍と称した旧幕軍は約300名。
みんなで集まれそうな場所といったら、神社ぐらいしかなかった。
隊長の江原素六は福岡藩士小室弥四郎に組み伏せられたが味方に
助けられ、明治政府に出仕して麻布中学校長になったとか。



小室弥四郎のほうはその後、ほどなく討死したという。旧幕軍の
残党の中には会津や宮城、箱館に敗走しながら転戦した者もいた。
そんな船橋からは京成線に乗って帰った。

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柏から

2021-02-27 | Weblog
田んぼの畦道をそのまま残して立体的な都市にしたような柏の駅前には昭和の未来感がある。
川崎の古書店で100円だった昭和48年初版の『千葉県歴史散歩』(千葉県高等学校教育研究会
歴史部会編・山川出版社刊)を手にして柏にきた。



手賀、布瀬方面のバスに乗りたいのだが、およそ50年も昔の本だから現在の交通アクセスは
スマホでネット検索して確認しなきゃ。どうやら駅の向こう側、東武バスの東口1番乗り場
らしい。停留所で路線図と時刻表を見ると、布瀬行きバスまで2時間ある。



やむをえず、畦道の上を舗装したようなアーケードで猫をかまう。いやな予感がしたのだが、
2時間後のバスのその次はさらに5時間後だから、行きはよいよい帰りはこわい。遭難しそう。
コンビニで何か食べ物と飲み物を買い込んだほうがいいかもしれない。



2時間後の路線バスで東台まで45分ぐらい揺られる。柏市文化課がネットに上げた2014年の
情報によれば、徒歩5分のところに手賀城主原氏の墓があるはずなんだけど、どこにあるのか
わからない。GoogleMAPにも出てこない。



「周辺には(中略)手賀城址などがあります」と柏市文化課のネット情報にあるから、例の本
と照らし合わせて現在位置の把握を試みる。「…手賀城につく。小田原北条氏に属した原氏の
居城で、興福院の近辺に空堀や土塁の一部が残っている……」興福院を検索するとヒットした
ので、そちらのほうへ歩いていく。



興福院平和公園という、真新しい共同墓地がある。この近辺が城址なのだろうか。50年も前の
記述なので様子がおかしい。それでも空堀や土塁のように見えなくもない土地の起伏を頼りに、
城址らしい場所を探す。北条氏の子分なら石垣のない城だろう。



墓地を見渡す四阿(あずまや)で、持参したおにぎりを頬張りながら、ここが本丸だろうかと
いぶかしむ。史跡めぐりというより、ごっこの領域……子供か。例の本を開くと、こんなこと
が書いてある。「…本丸は現在稲荷祠が建っているあたりで、興福院内の妙見祠は二の丸跡、
門前右側は陣屋跡と推定される…」稲荷祠がないから、ここは本丸ではない。



記録に頼るのを一旦やめて、土地のかたちを見渡す。興福院を出たところから見える、あそこ
がいかにも城っぽい。なんか稲荷祠のような影もある。めんどくさいけど、どうせバスもなく
居場所もないのだから歩いて行って確認しよう。空堀のような窪みも散見される。



農家の私有地の隅っこに設けられた石段を上がってみると、稲荷祠が建っていた。見晴らしも
いいし、ここが手賀城の本丸だった場所だろう。いまは畑になってるが、丸く縄張りしてある。
畑を通り抜けて車道のほうへ出てみると、証拠物件があった。



手賀城址、の石碑が傾いている。ここが本丸ということは、さっきの興福院は場所がおかしい。
そこで共同墓地の案内所に入って、例の本を見せて尋ねることにした。「興福院の境内に原胤親
の墓がある」と書いてありますが、どこかわかりますか?



若いお兄さんが何か思い当たったようで、GoogleMAPを印刷してくれた。「本院のほうなら、
この地図には名前が出ませんが(と、手賀下の坊子供の遊び場の文字を指さしながら)ここに
あまり大きくない建物があります。今いる平和公園共同墓地は、分院なんですよ」…どうりで
昔の本とGoogle MAPの情報に食い違いがあると思った。歩いて本院へ。



その本堂に向かって左にある、下の坊子供の遊び場が二の丸の跡らしい。丸く縄張りしてある。
さっきの本丸との位置関係もおかしくない。本院の境内にあるという原胤親の墓とやらはどこに
あるのだろう? 本堂に向かって右側に墓地があった。



この中のどれか。昔すぎて文字など薄れて読めないだろうし、時期的にささやかな墓石だろう。
見つけることはあきらめた。原氏は北条氏滅亡後、徳川氏に属したが、キリシタン大名となった
ため1613年に家が断絶になった。例の本にそう書いてある。そのキリシタン墓地がどこぞにある
ようなことも書いてあるが、どこだかわからない。GoogleMAPにも出てこない。



潜伏キリシタンがこの土地にも存在したのではないだろうか。明治6年にさっそく手賀教会堂が
すぐ近くに建てられた。藁葺き屋根と瓦屋根のある珍しい教会。千葉県指定文化財ということで
補修作業が行われていた。

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日本平から久能山東照宮

2021-02-20 | Weblog
前回(いつだったか確認すると2011年の秋)ここへ来たときはサンダル履きで山を歩いて登った
ので足の裏にマメができて、それがつぶれたもんだから、痛くて痛くて参拝どころではなかった。
そんな久能山東照宮へ、日本平から9年ぶりにロープウェイでやってきた。



なかなか立派な楼門だ。徳川家康が1616年に死んだあと、亡骸を久能山に葬れという遺言の通り
ここに埋葬し、2代将軍秀忠の命で翌年、家康を祭神とする久能山東照宮が出来上がった。その
とき、後水尾天皇が書いた「東照大権現」の文字が額にして掲げてある。



埋葬したというのは、たぶん土葬だろう。増上寺に埋葬された歴代将軍は土葬だった。それらは
戦後、掘り出されて調査が行われた後、あらためて火葬して埋め直された。だから家康も土葬に
ちがいない。その亡骸は一周忌をもって日光に改葬されたと信じられてきた。



改葬したと天海が書き残したから遺体をわざわざ日光に運んだと思われてきた。しかし分霊した
だけだという説が近年は有力らしい。一周忌をもって改葬せよと家康が遺言したことになってる
のも、天海がそのように嘘をついて天下を納得させただけで、家康は慣れ親しんだ駿府の久能山
にずっと眠りたかったのではないだろうか。



家康の手形が神社に展示してあった。どうしてこんなのがあるんだろう? 不思議に思ったので
説明書きを読むと、由来は何も書いてない。家康38歳のときのもので推定身長155~159㎝程度、
手形を写した色紙は授与所にて1500円ということしかわからない。背はぼくのほうがずっと高い
が、手形の大きさは変わらなかった。おかしいんじゃないだろうか。



結婚式をやっていた。社伝によると久能山東照宮、主祭神は徳川家康だけど相殿として豊臣秀吉
と織田信長も一緒に祀られている。そんな勝手ができるものだろうか。できないんじゃないか。
ここは元々、武田信玄が築いた城らしいが武田信玄はもちろん祀られていない。


関連記事:  草薙神社から日本平へ
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尖石縄文考古館

2021-02-13 | Weblog
名刺を整理していたら、諏訪東京理科大学の先生の名刺の裏面に2体の国宝土偶が
印刷されていて、その下に「この名刺を持参した場合には、尖石縄文考古館、神長
官守先史資料館、八ヶ岳総合博物館に各1回限り、5名様まで無料で入館できます」
と印字してある。先生は、茅野市縄文ふるさと大使なのだった。



ちかごろ縄文づいているので、さっそく茅野へ……尖石縄文考古館、てっきり駅前
と思ったが山中にある。登山客ばかりのバスを1時間ほど待ち、20分ほど揺られて
ブザーを鳴らし、ひとりだけ降りる。縄文に興味のある客は他にいなかった。



受付で名刺を出したら確かに無料になった。入館料を横目で見ると500円だった。
小学校の教員をつとめながら考古学の研究を行い、尖石遺跡や与助尾根遺跡などの
発掘に功績のあった初代館長・宮坂英弌さんの偉業を讃える部屋がある。



諏訪湖周辺の立体地図に遺跡をピンで示す展示があった。綠は旧石器時代遺跡で、
赤が縄文時代遺跡、水色はd弥生時代遺跡だ。弥生時代は濃厚が盛んになるせいか
平らで水が得やすい場所に遺跡が多い。縄文より前の旧石器時代の遺跡は霧ヶ峰
山中に多い。黒曜石の入手のためでもあり、また動物を主な食料にしていたので
霧ヶ峰山中に暮らしたのだろうと解説があった。



縄文時代はそれに比べると温暖だったので、木の実を土器で煮炊きして食べたり、
マメやヒョウタンを育てて食べたりしていたという。狩猟メインに暮らすイメージ
は、どうやら新石器時代とまざっている。



衣服も動物の毛皮などではなく、植物性のものを用いていたらしい。全体的に、
弥生時代の暮らしのイメージに近いように思われる。今でいう雑穀を栽培して
食べていたようだし、後期には稲作をしていたという研究もある。



土偶はわざと一部を壊して、祭祀か呪術か何かに用いられたと考えられている
けれど、棚畑遺跡から発掘されたこの土偶はなぜか完全な形で見つかり、縄文
時代の遺物として初めて国宝に指定された。



横から見たその土偶。「縄文のビーナス」という愛称がついて、ビーナスライン
という観光道路の名称の元になった。だからこの道をドライブするときはミロの
ビーナスを思い浮かべてはいけない。土偶を思い浮かべないと。



後ろから見た土偶のビーナス。ぐるり360度から見ることができる。



中ッ原遺跡の墓と考えられる穴から副葬品らしい状態で出土した数少ない土偶。
脚を破壊した後、壊れた脚を元のように胴体に添えて埋められたという。これも
国宝で、「仮面の女神」という愛称がついている。



後ろから見たその土偶。「脚なんか飾りです、偉い人にはそれがわからんのです」
という某アニメの整備兵のセリフが思い出される。けれども存在感からいったら
この土偶は脚こそメインのようだ。



横から見たその土偶。これら2体はポスターになって茅野駅前などでも見かけた。
その他2000点余りの考古資料が展示してあり、勉強になった。



関連記事:  釈迦堂遺跡
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釈迦堂遺跡

2021-02-06 | Weblog
中央自動車道の釈迦堂PAからトコトコ階段をのぼっていくと、釈迦堂遺跡博物館を
みることができる。コロナの自粛要請が残した傷痕もまだ生々しい2020年6月21日に
リニューアルオープンしたばかり。入場料400円。



あれが釈迦堂PA(下り)だ。甲府盆地の扇状地をクルマがあまり上り下りしないで
走れるように、用地買収の費用がほどほどで済むようにアセスメントをして、とある
等高線に即して道を通そうとしたら縄文遺跡が出た。



縄文時代は長くて、だいたい1万6000年ぐらい前から2400年ぐらい前まで1万年以上
つづいた。その前は旧石器時代(群馬の岩宿遺跡が発見されて日本にも旧石器時代が
あったと認められた)……縄文のあと、弥生から現代まで2400年ほどだと考えると、
縄文時代は5倍以上。だから、変化も大きかったはず。



初期の土偶はこんな素朴なものだった。土器も素朴なもので、水煙や火焔を思わせる
ややこしいかたちの土器を縄文人が作るのは主に縄文中期だという。そこに至るまで
寒冷期もあれば温暖期もあって暮らしぶりの変遷があった。



旧石器時代と縄文時代(=新石器時代)を分けるのは、道具が打製石器から磨製石器
に進化したこと。土器を使って煮炊きを行い、何でも食べられるようになったこと。
それから黒耀石を掘り当てて流通させたことにより、生活が楽になったことも大きい。
ある意味ゴールドラッシュ以上の出来事だった。



飛び道具を簡単に作って使えるようになったのは技術革命のひとつ。縄文時代には、
農耕も行われていたようだから、1万年以上かけて生活様式の革命が進んでいった。
その後の技術革命といったら、産業革命(動力革命)と情報革命(ただいま進行中)
まで待つことになる。ここ2000年ぐらい何も起きなかった。



身近なところでいえば、いまでも日本人は土鍋を使って煮炊きしたものを大喜びで
食べている。縄文土器がだんだん変化してひらべったくなったもので食べている。
縄文人も現代人もホモサピエンスで違いがない。



1万年以上かけて変化した縄文土器がどのように変遷していったか、わかりやすい
展示が北杜市考古資料館にあった。自分でときどき参考にしようと思って、ここに
大きめに上げておく。














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