散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

道真の牛

2022-02-26 | Weblog

ヒンズー教のシヴァ神はナンディンという聖なる雄牛を乗り物にしているから、ヒンズー教の寺院に行くと牛の石像がある。インドで牛が神様として大切にされているのも元はといえばシヴァ神の眷属だからにちがいない。仏教と共に伝来した五大明王の中に牛を乗り物とするのがいるのも、あれはヒンズー教が習合した仏教だから。神道と仏教が習合するのだって、最初からヒンズー教と習合した仏教が入ってきてるわけなので極めて自然な流れだった。

菅原道真を祀る全国の天満宮に牛の石像や金像があるのも、ヒンズー教の聖なる牛を崇める伝統を汲んだものだろう。そっくりだし、撫で牛と称してご利益にあずかろうとするのもヒンズー教らしい。教養あふれる天神さまのことだから、天竺で牛が神様なのは当然ご存じだったはず。聡明すぎて藤原一族のうらみを買い、右大臣の座を追われて太宰府に左遷された2年後、没するに及んで遺体を京へ運ぶときは牛が立ち止まった土地に埋葬せよと遺言したとか。牛が動かなくなった場所が現在の北野天満宮で、いまや境内は撫で牛だらけだった。

あっちにも、こっちにも撫で牛がいる。撫で撫でされて光ってる。まるでヒンズー教の寺院のようだ。新型コロナ感染拡大防止のため、アルコール消毒液が供えてあるのはご時世柄として、ここまで撫で牛だらけになるとは天神の道真も想像しなかったに違いない。それでも牛に自らを委ねたのは、仏教を通して隠然たるヒンズー教の力に何事か期待するところがあったものと思われる。あの時代のインテリならおまじないに全身全霊を傾けていたはずだから。

そういえば嵯峨野の化野念仏寺に夥しい石仏を並べた中山通幽という明治人が岡山に鼻ぐり塚なるものを作り、「牛の大恩に報いるため」死後に残された鼻輪を牛の形見として何百万も積み上げたのを見かけたときは何じゃこりゃ! としか思わなかったけど、もしかしたら牛の大恩に報いる行いもどこかヒンズー教とつながりあるのかもしれないし全然ないかもしれない。少なくとも、あそこにあった牛の銅像はヒンズー教の寺院にあるのと似たような佇まいだった。

関連記事:  化野念仏寺

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寺×寺×寺

2022-02-19 | Weblog

用事で京都に行ったとき夕方ひまなので東寺をひやかし、北大門を出て観智院のほうへ歩いた。この道だけが唯一、平安京ができた当時の道の幅を残していると聞いたので、どんなものかと思ってそこを歩いてみたのだ。

東寺は5時で閉門するので、ぼやぼやしてると締め出されるから、そうならないうちに引き返す。観智院の本尊である五大虚空蔵菩薩像はたしか以前みたことあり、もしやブログに書いたかも。すっかり忘れてた。宮本武蔵の襖絵とかも。

締め出される前に、五重塔が夕陽に染まる様子をみておく。高さ55mで五重塔としていちばん高いらしい。次に高い五重塔は奈良の興福寺にある。東寺の五重塔は空海の没後50年ほどで完成し、落雷で4度焼けて4度再建された。

急いで京都駅に駆けつけ、予約しておいた夜の定期観光バスに乗り込む。まず閉門後の泉涌寺別院、雲龍院をどんどん日が暮れていくなか拝観。ここは南北朝時代に北朝の後光厳天皇が作らせた寺で、菊を貫いて立つのは徳川慶喜の灯籠。

どうも石棒みたいで気になると思って廊下を歩いていると中庭にも陽物みたいな石棒屹立してる。北朝のまじないか何かだろうか。南朝・北朝が交互に皇位を継承したころ後光厳天皇の皇子の後円融院はここに現存最古の写経道場を設けた

テレ朝の女子アナがニュースステーションか何かで感激してた「悟りの窓」から夕闇の庭を覗く。どうも穴を通す趣向の多い寺だなと思わずにいられない。蓮華の間では障子に小窓が四つあり、穴から椿・灯籠・紅葉・松が見えて隠微である。

台所の守り神、大黒さんが寺の台所にあり、すごく怖い顔してた。住職がいうには大黒さん天竺では怒髪天を衝く憤怒の相をしてる荒神で、日本で柔和な顔になった。そういえばインド・ネパールのカレー店に怖い顔の大黒天いたかも。

台所だけあって住職の娘らしい女学生ふうの子がぬっと顔を出したかと思ったらすぐ引っ込んだ。皇室ゆかりの御寺がいっきに庶民的な感じになった。雲龍院を後にして、再び観光バスに乗り込み、今度は黄檗宗の端芝山という禅寺へ。

黄檗宗は明が滅んで清から逃げてきた大陸の僧侶が伝えた禅宗だから、奈良平安鎌倉の仏教寺院とはまったく趣が違う。奈良平安鎌倉の仏教寺院だって大陸文化の影響なのに、新しく伝来した黄檗宗はそれらよりも一層エキゾチックだ。

どこから見てもチャイナな寺院の中に、閑臥庵という普茶料理のレストランがある。普茶料理もやはり清から逃れてきた明の僧侶たちが黄檗宗といっしょに伝えた新しいスタイルの精進料理だ。今夜は閑臥庵で初めて普茶料理をいただく。

身分の違いなく大皿を4人で囲むスタイルと聞いた覚えがあるけど、新型コロナ感染防止のためか弁当スタイルの個食、かつ黙食。お寺だから酒はないと覚悟してきたのに寺男がなんとアルコールの注文を取りにきた。しかしながら覚悟してきたのでお茶にしておく。

徳川家康が天麩羅を食べて死んだ後に普及した精進料理だから、獣や鳥や魚の肉がない物足りなさを揚げ物で補う傾向がある。黄檗宗といえば何といっても代表格は隣の宇治市にある黄檗山萬福寺なので、いつか黄檗山萬福寺で普茶料理が食べたい。

関連記事:  黄檗山萬福寺

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小峰城

2022-02-12 | Weblog

スマホで写真を撮る手が吹雪でかじかみ、痛くてたまらない。ここは福島県白河市、東北本線の白河駅から歩いて5分か10分の小峰城……東北の中でも福島県は南のほうだし、その福島県の中でも白河市は南のほう。8世紀に白河の関が設けられたこともある東北の玄関口で、鉄道駅でいうと福島よりも郡山よりも南だから、こんなに寒いとは思っていなかった。東京で暮らしていると冬でも手袋なんか、自転車にでも乗らないかぎり必要ないから持ってないし、帽子をかぶっていても耳が冷たくて千切れそう。雪が目に入り涙がこぼれる。そんな小峰城。

白河にあるから白河城だとばかり思っていたが、ネットで調べると白河小峰城という名で紹介されているし、地元の案内板には小峰城としか書いてない。小峰城が正式な名称なんだろう。有名なところでは徳川幕府の8代将軍、吉宗の孫で白河藩に養子に出され、藩主になった松平定信が名君として手腕を買われ、やがて幕府の老中を務めて悪評芬々の「寛政の改革」を行ったので、こんな狂歌がある。

  白河の清きに魚の住み兼ねて元の濁りの田沼恋しき

小学校の歴史の授業を聞くともなく聞くかぎり、学問を禁じ文化を弾圧し倹約に務めて失敗した頭の固い田舎者という評価だった。歴史は身内が書くから名君として捏造された人物像が教科書に載っても、狂歌は田沼意次を讃えて白河の松平定信を貶す。市井の絵描きや字書きはけしからんと癇癪を起こして弾圧した、秀才バカの典型だと小学校の先生が教えてくれた。

倹約しか能がないという松平定信の器量が小さいせいか、ずいぶん小さい城だなと駅から眺めて思ったけど、近くに寄ったら立派な石垣が築いてあり、遠くから城に見えるのは櫓だった。まともな石垣を備えた城は東北にあまりない。平地に堀と石垣をめぐらせて防備を固めた城を作った大名は織田信長が最初で、その薫陶を受けた豊臣秀吉や徳川家康が広めた。だから、関東以北の城は土塁だけで石垣がなかったり、簡素な石垣しかなかったりする。たとえば小田原城なども、秀吉が攻めたころ巨城ながら土塁の城だった。

門をくぐると本丸などは跡形もなくて、おそらく天守閣がそれなりの規模でそびえていたのだろう。残っているのは櫓だけ、というより櫓も復元されたもの。ここに石垣を備えた城を築いたのはケチで有名な松平定信ではなく、もっと昔、本能寺の変で織田信長が死んだあと下剋上で天下人になろうとした豊臣秀吉が邪魔者として遠ざけた丹羽長秀の子が転々としてこの地に流れ着いた結果だった。

羽柴秀吉が世渡りのために名をもらい受けたとも噂される丹羽長秀の子、丹羽長重は岐阜で生まれ、12歳のとき本能寺の変が起こると、その年に信長の娘を娶ったというから秀吉から見れば野望の邪魔だった。15歳のとき父が没すると越前・若狭・加賀・近江の123万石を相続したものの、秀吉によって石高を2度も削られた。秀吉没後、関ヶ原の戦い直前に徳川方の前田利長と争った結果、徳川家康に領地を没収されてしまったが、江戸幕府の成立後に常陸国古渡1万石を与えられ辛くも大名に復活。家康の没後、奥州棚倉に国替えとなり棚倉城を築城中にまた白河へ移封された。長重57歳。そこから築いた石垣のある城がこの小峰城で、現在の白河市街地の基礎になったというから、東北にまで信長の遺風が伝わったのだった。

いまは櫓しかないが、交通の要衝でもあり、石垣のある立派な城だったためか、丹羽家を追い出して徳川四天王をはじめとする幕府の名家が代々の城主となって白河藩主を務めた。榊原家・本多家・松平家・阿部家……初代藩主は丹羽長重だが、3代目以降は徳川縁故のお歴々が幕末まで藩主となり、吝嗇な松平定信は12代目だった。最後の白河藩主は17代目、阿部正静だったが、幕府の政治で失脚して棚倉に移封され白河城は領主不在のまま戊辰戦争で焼けた。

江戸城の無血開城後、血に飢えた薩長の賊が将軍菩提寺の上野寛永寺を焼き払った後もなお北上してくるので、奥羽越列藩同盟は城主不在の小峰城に集結して守りを固めた。なにしろ交通の要衝だし、立派な石垣はあることだし、もしかすると城主不在なのも都合よかったかもしれない。錦の御旗を掲げた薩長の賊にとっては、徳川四天王らが代々藩主を務めた白河の城はなんとしても落としたい。結果そのとおりになり、小峰城はすっかり焼けた。

平成3年(1991)に三重櫓が復元され、平成6年(1994)に前御門が復元されたのが現在の状態で、近年全国各地で行われるようになった城廓建築物の木造復元の先駆けになったというのが地元の自慢らしい。東北本線はどうやら内堀と外堀のあいだを走行しているようだった。

 

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出陣学徒壮行の地

2022-02-05 | Weblog

根っからのミーハーなもんで、無観客オリンピックのために巨費を投じて建造された維持費のかかる国立競技場をひやかしにきた。するとチケット売り場の真向かいに、出陣学徒壮行の地の石碑がぽつんと野ざらしになってた。

わずかでも維持費の足しにしようと、入場料を徴収して見学者を募る国立競技場。しかし、維持費を除いて国民1人あたり1万円、東京都民ほぼ10万円、五輪貴族どもの享楽の後始末として搾取される。ひどい話だ。ところで、出陣学徒壮行の地の石碑だけど、1931年の満州事変のあとも、1941年の真珠湾攻撃のあとも徴兵猶予されてた大学生のうち文化系の青年たちが1943年10月(敗戦の少し前)に猶予を解かれて、10万人ほど学徒出陣させられた。

半年のうちに世相は変わったと坂口安吾は戦後まもなく「堕落論」の冒頭に書いたが、戦後のみならず戦中も目まぐるしく世相が変わった。文部省主催の出陣学徒壮行会がこの地で東京周辺77校参加のもと断行された翌年、1944年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文化系男子に加えて女子学生まで軍隊もしくは戦時生産に動員され、学園から人影が消えた。オリンピック観戦の学徒動員より酷だった。そして敗戦。

オリンピックやるには緊急事態宣言でコロナ封じるしかない →    コロナ封じは失敗だからオリンピック1年延期するしかない →     オリンピック延期で干上がる観光をどうにかするにはGoToキャンペーンしかない →    GoToキャンペーンで感染爆発が起きたけどオリンピックやるには緊急事態宣言が出せないからマンボウ(なんだそりゃ)出すしかない →    マンボウじゃ効果ないからオリンピックやるには緊急事態宣言しかない →    そんな茶番が繰り広げられて、半年もせず世相がころころ変わった。戦前・戦中・戦後の暗黒と、いまも変わってない。ミーハーの自分でもさすがにこれはおかしいんじゃないかと、リオデジャネイロ、ロンドン、北京、アテネ、シドニー……過去5大会の合計金額を上回る費用をかけたチャチな中抜きスタジアムの席に腰掛けて首かしげた。

 

 

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