散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

鬼の手形

2013-06-29 | Weblog
盛岡といえば石割桜……秋とか冬しか来たことないから咲いてるの見たのは写真だけ。桜の樹が石の割れ目から
伸びている。夏に来るのも初めて。青々と葉が繁っていた。


割れているの、わかりますか?

盛岡藩の重臣の庭園跡だそうだけど、いまは裁判所の前庭。なんか、石割桜だけじゃなくて盛岡には石割梅とか
石割けやきとか、やたら石を割る樹が多いらしい。いちいち見て回るの面倒……しかし、三ツ石神社(また石?)
にあるという、鬼の手形を押した岩というのは好奇心ひかれる!


あそこか

鬼を英語にすると「デーモン」になるんだ……デーモン小暮は、小暮鬼。そんなことより、昔この地方に羅刹という
鬼がいて人々を苦しめていたのを、三ツ石の神がこらしめて石に縛りつけたとか。


それがこの三ツ石神社なんだって

デーモンは、じゃなかった……鬼は泣いて詫びを入れ、もう二度と現われないという誓いとして、岩に手形を
押して去っていった。これが「岩手」という地名の由来らしい。


岩手って鬼の手形なの?

よもや好奇心にかられて訪ねたところに岩手の由来が転がってようとは……鬼が縛りつけられた石っていうの
は、さてどれかな?


これのことかな

いかにもそれっぽいけど、三ツ石というわりに、二ツしかないように見える。おかしいな……ちょっと回り込んで
調べてみよう。


裏に回ると三ツ石だった

これが三ツ石なのは、どうやら間違いないらしい。どこに鬼の手形があるんだろう? わからないから聞いて
みよう……と思ったけど、あいにく誰もいない。


これはお遊びだろうし

賽銭箱のほうに回ってみたら、巫女さんも神主さんもいなくて、戸閉まりしてある代わりにパンフレットみたいな
ものが置いてあった。(というか落ちてた?)


1986年のハンドプリント

この写真で見るかぎり、石に生えた苔に手形が(いっぱい)押されている。そんなのが何百年も残るだろうか?
げんに27年しかたってないのに、どこにあるかわからなくなってる。


このへんかな~

岩手をさがして顔をちかづける。と、小銭のにおいがする……1円玉や、5円玉の気配を感じて目を凝らすと、
なんということでしょう。


石の割れ目からコインが生えています

生えているというより、植えてあるというか、打ちつけてあるというか、ギョッとして割れ目を辿っていくと
いっぱい硬貨が挟まっています。


なつかしのJ-Men's Tokyoみたい

あれはお札でしたが、これは小銭です。時代ですね。じゃなくて、なんだろうこれは。ご利益があるんだろうか、
小銭を岩に食い込ませると。


力づくでやってある

すごいな~とバブルの余韻に浸っているうちに、手形についての探究心がどこかへ消えてしまったので、中津川
沿いに歩いてくだると盛岡城址公園の桜山神社にも、巨大な岩が。


あら~

どこへ行っても巨石があるので、岩手ってそういう信仰が大昔あったのかな~と思わずにいられなくなります。
そういえばどこぞにストーンヘンジみたいなものがあったような……?



関連記事: 岩手 (震災前の真冬の岩手)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浪分神社

2013-06-21 | Weblog
路線バスは電車に比べて迷いやすい。迷うのは自分だけで、バスはただ決まったルートを走る。仙台から帰る前、
まだ少し時間あるから路線バスで浪分神社を訪ねてみようと思った。貞観の大地震大津波のときはともかくとして、
元禄に創建して以来、慶長の大地震大津波でも、天保の大地震大津波でも、浪に洗われず無事だったといわれる
その神社へ行くには「霞の目」というバス停で下りればいいらしい。明治29年と、昭和8年にも大津波があったはず
なんだけど、そのときも無事だったんだろうか。きっと無事だったんだろうな。


「霞の目(営)」行きのバスに間違えて乗ってしまった…

仙台駅前で「霞の目」行き路線バスを待ってたら、「霞の目(営)」行きのバスがあっちほうのバス停にきたので、
似たようなもんだろうと思って飛び乗ったのがいけなかった。「霞の目(営)」は「霞の目」よりも2つ手前までしか
行かないから、下りたあと迷いながら900m歩くはめに。自衛隊の駐屯地と飛行場のあいだを抜けていく。


すると、谷風の墓があった

身長6尺2寸5分(約190cm)、体重47貫(約176kg)の巨漢で、相撲取りとして63連勝を記録して、寛政7年に
現役のまま46歳でなくなったという。(墓の向こうは自衛隊の官舎)


谷風の墓をまわりこむと浪分神社が建っている

つまり駐屯地や飛行場も、津波に洗われない土地にちゃんと作られているというわけか。神社のまわりを見回すと
コンビニのローソンはあるし家もあるし平和に生活しているように見える。神社だけ奇跡的に無事だったわけでなく、
このへん一帯が被害を免れたのなら、それはそうだろう。ただちょっとまばらな気はするけれど、もともとこうだったら
それこそ余計なお世話だ。Google MAPでみてみると、仙台駅と海岸の中間地点にあり、海岸からの距離はだいたい
4kmほど。航空写真によれば家があるのはこのあたりまで。あとは田んぼか更地のように見えた。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仙石線

2013-06-16 | Weblog
仙台で仕事したのは金曜の夕方。つぎの日は土曜で何にも用がないから、帰るのをやめて1泊した。翌朝、
伊達政宗をまつる青葉神社に行ってみる。青葉城址にあるものと思っていたら、ぜんぜん違うところにある。
地下鉄の北仙台でおりて徒歩5分。

 
あれれ、鳥居がない……? 脇をみると、崩れた石鳥居らしいものが揃えてあった

これはあれだろう、2011年3月11日におこった東日本大震災のときに崩れてしまったんだろう。地震の爪痕、
こんなところで出会うとは。石段をのぼっていくと、拝殿のまえの石燈籠も崩れていた。


地震で崩れた燈籠が、もともとあった場所のそばに、ちゃんときれいに並べてある

仙台駅周辺の繁華街なんか歩いていると、そんなには地震の影響を感じることもないけど、ふとしたところに
こうして影響が見られる。海のほうへ行けばもっとかもしれない。仙台と石巻を結ぶ、JR仙石線に乗ってみる
ことにした。


駅で路線図をみると、まだ一部の区間が不通らしい

このまえ秋に見たときもそうだったけど、松島海岸駅から矢本駅まで「列車代行バス運転区間」になっている。
もう2年も経つのに鉄道が復旧していない。ともかく石巻まで行ってみよう。


石ノ森章太郎にちなむマンガッタンライナー

ほんとはこれに乗ったら1時間かそこらで石巻につくんだけど、バスに乗り換えたりするから2時間はかかる。
石巻、最初に行ったのは20年ほど前。それから3回ぐらい行ったことあって、最後は10年ちょい前……。


松島海岸駅に列車代行バスが2台並んで待っている。これに乗るのか……

意外と快適。バスの窓から外の景色をよく眺めても、とくに地震や津波の被害というのが最初わからないのは
よそ者だからかな?


こんな感じで道路脇の様子に別条はない

高城町、手樽、陸前富山、陸前大塚……何度か通ったことある駅に、バスが各駅停車する。駅前の道路に
停車するだけで、鉄道がどうなってるのかわからない。ところが、野蒜駅にはバスが入った。


あれが野蒜駅か……どうして電車不通なんだろう?


あ、なんかひしゃげてる……


こっちもねじれて倒れそう……

これだからバスで代行しなくちゃいけないのか、なるほど大変だな。仙石線になつかしさを感じているから、
ショックを受けてしまった。あれから2年も経つのに、こうなんだな……


矢本駅から、また電車に乗りかえて石巻に向かう

20年ほど前に石巻に来たら、支倉常長の「サン・ファン・バウティスタ号」が北上川の中州で建造中だった。
2回目に来たら「サン・ファン・バウティスタ号」は完成していた。3回目のときは、博物館に移設されてた。
3・11で壊れたかなと思ったら、船だから波に漂って、ほぼ無事だったと聞いている。


サン・ファン・バウティスタ号

遣欧使節がローマにいったときの船。さて、石巻はいま「サン・ファン・バウティスタ号」より「石ノ森萬画館」で
町おこしを図っているから、駅にはサイボーグ009が。


加速装置の009と、視聴覚で索敵する003……あっ、上にジェットの002


駅から石ノ森萬画館まで、いたるところに石ノ森キャラが!(中にはデッサン狂ってるのも)


いたずらされてニュースになったのはこれか……


「萬画館は石巻の宝 一日も早く復興してくれ
 わしゃ待ってるぞ」 (ギルモア博士)

マンガロードでとことん押しているけど、20年前と比べると商店街自体はずいぶん寂しくなってしまっている。
気のせいじゃなくて、証拠を見つけてしまった。


商店街マップにテープが貼られまくっている

地震と津波のせいなのか、時の流れのせいなのか……思い出をたどりながら、「サン・ファン・バウティスタ号」
が昔あったところに今ある「石ノ森萬画館」へ。


あれだ! (無事だったのか)


受付嬢がサイボーグみたいな服


せっかくだから入場して館内くまなく見ていこう


そういえばお昼まだ食べてないから、黄レンジャーのカレーライスでも

赤レンジャーのミートソースはぎりぎり理解できる。青レンジャーのボンゴレ、緑レンジャーのエビピラフ、
桃レンジャーのカルボナーラは……?? やっぱカレーでしょ。


ふと目を挙げたら、知ってるお店がポツンと

あー、「友福丸」っていうお店、確か入ったことあるけど、あんなに孤立してなくて賑やかな町だったような。
そうか……津波の被害って、爪痕として残るより根こそぎ失われがちだから、知ってる場所があって初めて
実感できるのか。


胸を痛めつつ平和にマンガを読んで過ごす土曜の午後


出入口にある石ノ森章太郎の手と握手して帰りました
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関門海峡

2013-06-13 | Weblog
おいちゃんはゴムひも売りながら南へ北へ、西へ東へ旅してるんだが、門司ってところに流れ着いたよ。幸福の泉の向こうに
見える黒い碑は、九州の鉄道の起点を示す「0哩」の標だ。


門司港のそばにできたのが、鉄道の門司駅よ

風のうわさにね、門司港ってところはレトロな町だっていうから、おいちゃん見にきたよ。レトロ、レトロ……レトロは一体
どこに転がってるんだい? あのレンガの建物がそうなのかい。


それにしても見物人がやたらめったらいやがるぜ。足の踏み場もねえや……

こう見えて、おいちゃん人混みは大の苦手だからさ、せっかくだがレトロはあきらめて、対岸の下関に渡ることにしたよ。
関門海峡ひとっとび。門司と下関は目と鼻の先だからね。


こっちは下関。源平の戦いで海に沈んだ安徳天皇を祀る赤間神宮にきたよ

門司と下関で関門海峡とは、うまいこというね。入水した平家一門の墓碑がある寺は、明治の神仏分離で赤間神宮になって
ここにあるよ。小泉八雲の「耳なし芳一」が暮らして化け物に耳を引きちぎられた寺さ。芳一の祠もちゃんとある。


そこに砲弾が飾られてたよ

日露戦争の戦利品なんだって。旅順で手に入れたと石に文字が刻んである。いいけど、一体なんでこれがこんなところに。
それにしても、港は混雑しても神社は人が少ないから心が落ち着くね。


神社のわきに伊藤博文の生家跡を示す碑が

伊藤家は代々、参勤交代の大名が宿泊する本陣を兼ね備えた立派な屋敷を持っていて、長崎のオランダ商館長が江戸に参る
ときの定宿でもあったとか。どうりでハイカラなわけさ。


屋敷跡の一角が日清戦争の講和談判場として、これまた史跡になってる

さっきの砲弾は日露戦争、こっちの談判は日清戦争。なんだか戦争のにおいが強いところだね。おいちゃん、ドンパチ別に
萌えないんだけど入場無料だから中を覗いたよ。


こっちが清国の高官で、あっちが日本の高官だね

いちばん偉そうなのが伊藤博文(内閣総理大臣)で、つぎに偉そうなのが陸奥宗光(外務大臣)。右端に見切れてるのが
清国の全権大使、李鴻章らしいよ。


写真のイスとテーブルがそのまんま置いてある

両サイドの大きなイス(肘掛つき)に座ってるのが、伊藤博文と李鴻章というわけだ。ぐるっと向こう側にまわってみると、
伊藤博文と陸奥宗光の名前が木の札に書いて立ててある。


なんてわかりやすい展示なんだろう……

下関で講和談判が行われたわけは、全権の故郷だからというのもあるんだろうけど、日本の黒船(軍船)が大陸に向かって
せまい海峡を通過する光景が、清国の使節団に脅威を与えるのに絶好だったからさ。


このせまい関門海峡がよかったみたい

そういえば、下関のある山口県ではこんなお菓子が売られていたよ。隔世の感があるね。おいちゃん、もちろん買わないけど
なんとなく写真撮っといたら、ネタになったからよかったよ。じゃあまたな。

 
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高千穂

2013-06-03 | Weblog
高千穂神社に用があって延岡にとまり、バスで1時間くらい揺られて用をすませたあと、どうせまた
延岡にとまるのだから早く戻ってもしょうがない。そこらへんを散歩しようと思ったわけです。



バス 神殿 ・・・

さすが天孫降臨の地、子供が描く絵はアマテラスオオミカミだし、バス停の名は神殿だし、観光客が
いっぱいきている(自分もそうだから人のこと言えない)。


ボートは4時間待ちとか(誰がそんなに待つんだろう)

高千穂峡まで足を延ばし、お昼にチキン南蛮定食を注文して30分くらい待ち、10分かからずに食べる。
チキン南蛮は延岡が発祥の地と延岡の人は口を揃えるが本当だろうか?


今日の塚  「鬼八塚」 (首塚)

神殿(バス停)からそう遠くないところに、塚があった。ちゃんと手入れされている。神武東征のとき
だと思うけど、兄の三毛入野命(みけいりぬのみこと)が暴風にあい延岡から高千穂に戻ってくると
留守の間に鬼八という悪者がこのあたりを荒らしていた。三毛入野命は鬼八を退治したけれども、
また生き返って暴れたので鬼八の体を三つに切り、分けて埋めたうち一つがこの首塚だとか。

毎年、鬼八を鎮めるために16歳の娘が人身御供として捧げられていたが、天正年間(戦国時代)に
猪と米で代用することになったというから、それまで毎年ひとりずつ娘が捧げられた……。

そんなに毎年、16歳の娘がいたんだろうか? 合計2000人ぐらい捧げられた勘定。なんと、あわれ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする