散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

電車がきます

2013-02-24 | Weblog
駅前の図書館で借りた分厚い本、あと20ページぐらいで読み終わる……というタイミングで駅についた。家まで持って帰るには微妙な残りページ数。いっそホームで読み切って、図書館の返却ポスト(時間外)に投げ込んで、身軽になって歩いて帰ろう。そう思って、ホームのベンチに腰掛けた。お腹も空いてるけど、20ページ読めば終わりだから平気さ。



目の前に電車が停まっては走り去る。ベンチの隣に誰か腰掛けては立ち去る。べつに気にしないで本を読んでいると、隣からメンチカツのようなニオイがしてきた。お腹が空いているので「はて何のニオイだろう?」と思って横を見ると、若い女性が大きな白いビニール袋からスナック菓子をのぞかせて、一心不乱に食べている。ちょっと怖い感じがしたので見るのをやめて本に目を落とす。やがて「ガサガサッ」と音がしたので、「食べ終わったのかな?」と思ってチラ見すると、2袋目のスナック菓子(さっきのと違うみたい)を開けて、忙しそうに口に運んでいる。目が合った。



泣きそうな顔をしている。白いビニール袋の中に部厚い女性誌が1冊入っているのも透けて見えたけど、気づかないフリをした。あきらかに帰宅途中なのに、どうして電車を何本も見送ってまで、駅のホームでスナック菓子を2袋も食べるんだろう? 3袋目に手をかけている気配がする(怖くて正視できない)。そんな一気食いしなくたって、家でゆっくり続きを楽しめばいいのに、そうできない事情でもあるのか? スナック菓子を止められているとか、それでも食べたいからベンチで貪り食っているとか……アル中の人が飲酒行動に走るのと、もしかして同じ傾向?



何本目かの電車がホームに入ってきたとき、3袋目のスナック菓子を食べ終わった彼女は、「ガサガサッ」と音をさせて白いビニール袋(月刊の女性誌も入ってる)をコンパクトにまとめ、ベンチから立ち上がった。デニムのパンツがパッツンパッツンになっている。やがてドアが開き、女は混雑した電車に乗り込んで、どこかへ去って行った。なんだろう、この言い表しようもない複雑な気持ちは?
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ヤップ島

2013-02-21 | Weblog
巨大な石のお金を使っている島、ヤップ島はミクロネシアにあります。昔は日本軍が駐留していたそうですが、今は米軍が駐留しています。ダイビングすると廃船がみえたり、マンタ(イトマキエイ)がいたりするので、その筋のお客さんが当時(20年ちかく前)たくさんいましたが、いまはどうなんでしょうか? 学生のころ、ぼくはダイビングするわけでもないのに夏休みヤップ島に行きました。その頃やっていたパソコンショップのアルバイト代をはたいたのです。


ゼロ戦の残骸を、スクーターに乗って見に行った

ヤップ島にはヤムイモやバナナやココヤシが育ち、海に出れば魚が獲れるので、別にお金がなくても地元の人は生活できます。贅沢しようと思ったら(電気を使う、コーラを飲むなど)現金収入が必要なので、観光客を迎え入れる用意もそれなりにあります。日本軍は駐留したとき道路や空港を作ったようだし、ヤップ島はサイパンなどに比べれば激戦の被害を受けなかったので、地元の人は年長者ほど日本人に親切です。ビンロウジュの実を噛ませてくれたり、ココヤシの実を割って汁を飲ませてくれたり、なにより日本語でいろいろ昔の出来事や今の生活について教えてくれるのが貴重でした。


いろいろ写真あるはずなんだけど探す気力がない

そんなある日、暇だったのでスクーター借りてヤップ島を1周しようと思い立ち、ぶらっとサンダルばきで出かけました。大きな島ではないのですが、ぐるっとまわると数時間かかりそうです。日本軍の砲台の跡をみたり、ゼロ戦の残骸をみたりしながら、ひとりで島をまわります。夏だし暑かったんでしょうね。スクーターのエンジンがオーバーヒートしてストップしました。免許もないし、日本でスクーターに乗ったこともないので、運転のしかたが雑だったのかもしれません。人っ子ひとり通らないヤップ島の森でスクーターが動かなくなったので、人がいるところまで押していかないといけません。電話もないし、日が暮れたらと思うと心細いったらありゃしない。


なんにも持っていないことが写真でわかりますね

と、そこに米軍キャンプがあったのです。助けてもらおうと思って、カタコトの英語で守衛さんに話しかけて、ぼくが困っていることを伝えました。運がよければジープか何かでスクーターごと乗せてってくれるかもしれないし、そうでなくても電話で連絡して何とかしてくれるのではないだろうか? しかし、考えが甘かったようです。米軍の守衛さんは取りつく島もない態度で、ぼくを追い払おうとします。ちぇっ、アメ公のケチ! 心の中で毒づいていると、宿舎からバスローブ姿のおにいちゃんが出てきました。ぼくに事情をたずねると、守衛さんに指示を出します。バスローブのおにいちゃん、年は若いのに幹部(候補)なのね? 守衛さん渋々どこかに電話してくれて、あっさりスクーターの整備できる人を呼んでくれました。バスローブのおにいちゃん、どうして助けてくれる気になったか知らないけど、ありがとう。そう思いながら、動くようになったスクーターで夕暮れのヤップ島を走って帰りましたとさ。
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宮崎

2013-02-17 | Weblog
JRがまだ国鉄だったころ、ゾーンきっぷは周遊券だった。おふくろは霜焼けで、おやじは胸焼けだった。わかるかな? わかんねえだろうな……。「九州どこでも国鉄に乗り放題」の周遊券を使って、小学生のころ家族旅行したことがある。指宿で砂風呂に入った。桜島をみた。宮崎で鬼の洗濯岩をみた。そんなことを、かすかにおぼえている。



国鉄の乗り継ぎに失敗したのか、運行がストップしたのか、宮崎駅で一夜を明かすことになった。旅館に泊まらず駅で家族と過ごすなんて、小学生のぼくには刺激的なイベントだったから情景が思い出せる。ただ、宮崎駅だったか大分駅だったか、そのあたり判然としない。もしかしたら博多駅だったかもしれないし、一夜を明かしたのではなく、夜遅く(21時とか22時とか)に出発する特急待ちで単に自分が眠かっただけかも。トランプでババ抜き、七並べ、ポーカーやりながら缶コーヒー飲んだ。完全に「大人の世界」と思った。



絵描きのおじさんが、ドラゴンの絵を見せにきた。おじさんの話によれば、辰年生まれだから龍が大好きで、毎日ドラゴンの絵を描いて駅で売り歩いているという。ラーメンの器に描いてある龍の絵みたいだけど、もっと手が込んでいて迫力がある。絵の具も金や銀が使ってあり、小学生のぼくの目には優れたテクニックだけど、しかし感動がないと思った。3万円するドラゴンのおじさんの絵、ちょくちょく買う人がいるというのは驚きだった。

こどもが目を輝かせてみている(と誤解した)からかどうか、いまにして思えばホームレス風だったドラゴンのおじさんは何だか機嫌よく、大きな荷物を開けて作品をいろいろ見せてくれた。当時50代ぐらいにみえたから、現在80代ぐらいの勘定になる。生きていたら今もドラゴンのおじさんは絵を描いて暮らしているだろうか。その絵が、テクニックだけじゃなく感動を伴うものになっているといいけど。
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有田

2013-02-15 | Weblog
有田のおばちゃんの家に遊びにいったときのことを、ふと思い出した。有田焼の絵付けをやっている家で、ぼくも絵付けをさせてもらった覚えがある。小学5年生だった当時、ガンダムのプラモデル(通称ガンプラ)の彩色を解説した本を持って有田にいっており、「焼き物の絵付けよりジオングのマスキングの方がいいのに」などと思いながらも、素焼きの磁器に好きなだけ絵を描かせてもらった。ジオングの頭とか、ガンダムとか、イースター島のモアイとか(なぜ?)、アダムスキー型UFOとか、やりたい放題。


1枚だけ現存している

モアイの皿はいまでも食事に使っている。30年も前に焼いてもらった絵皿。そのころ有田焼は分業で、ある程度の大量生産が可能なように、器を作る家、絵を付ける家、窯で焼く家というように近所で役割り分担していたように思う。確かなことはわからないけれど、小学5年生のぼくは大体そう理解して、ガンプラの彩色の本に読み耽っていた。彩色専門の本ではなくて、ガンダム事典のような子供向けの本の一部が、「ガンプラ名人によるリアル彩色のコツ」みたいなコーナーになっていた。ずっと忘れてたけど、いま思い出した。汚しのテクニックとかメタルっぽい表現とか。それはそうとして、有田焼の地域の分担、現在どうなっているんだろう?


これしか写真ないもんで

もしかしたら陶磁器の世界も、時代がガラッと変わっているかもしれない。30年も経っているのだ。白磁や青磁や赤絵の器が並ぶ博物館みたいなところに、そういえば連れていってもらった。小学5年生が聞いても理解できるはずがない、生産方式の変遷みたいなことも、なんとなく聞かされたような気がする。ファミリーレストランの食器がどうしたとか、こうしたとか、もうなにも覚えていないけれども。有田のおばちゃん、どんなこと話してたかな? 泊めてもらって、ガンダム事典に読み耽って、中学生のお兄ちゃんと外で遊んだような気もするけど、お姉ちゃんだったかもしれない。


それぐらい記憶あやふや

よく考えたら、有田のおばちゃんは親戚のおばちゃんでもない。冷静になって振り返ると血縁関係はなく、たんに母親の友だちの嫁ぎ先が有田焼の絵付けをやっている家で、そこに何かのきっかけで遊びにいっただけ。有田といえば佐賀県で、遊びにいくといっても大移動だから、きっと母の仲良しだったんだろう。苗字さえ覚えてなくて、「有田のおばちゃん」「有田のおばちゃん」と呼んでいたけど、母と同い年の可能性が高い。ということは、有田のおばあちゃん(失礼かな)になっているわけで、有田焼の仕事を続けているかどうか。先日、唐津に泊まる機会があって「有田が近いなあ…」と路線図を眺めたのが思い出すきっかけ。急に訪ねるわけにもいかず、場所の見当もつかないし、連絡先も知らないからそのまんま帰ってきたけど元気かなあ。お兄ちゃん(またはお姉ちゃん)は家業を継いだかどうか気になる。ただ、それだけの長い話でした。
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あてもなく

2013-02-10 | Weblog
あてもなく散歩するのはむずかしい。外に出て、さてどこへ行こう? でたらめに歩くにしても、とりあえず
どっちへ進むか決めるには何かしらイメージがないと、最初から無心に歩けるものではない。

そこらへんの神社ひやかして絵馬にどんなこと書いてあるか見物してまわるか……。さしあたり、こうした
動機でとことこ歩いて芝大神宮へ。ところが絵馬がない。神社だからって絵馬があるとはかぎらない。


かわりに塚をみぃつけた!

生姜塚。ということは、生姜を供養しているにちがいない。ところが説明がない。由来はわからないけれど、
たしか徳川の第11代目の将軍が生姜ばかり食べて子供を55人も作ったとか何とかって話を聞いたことが
ある。それで生姜塚ができたのかもしれない。


あっちにも塚みぃつけた!

貯金塚。「根氣根氣 何事も根氣 実篤」の文字が石に刻まれている。こっちの塚には由来が書いてあって、
関東大震災のあとお金が必要になって預金を下ろす人が増えたから、どの銀行も資金繰りに困って一斉に
預金封鎖して社会問題になった。そのとき不動銀行だけは通常通り預金を下ろす務めを果たしたということ
で、感動した東京っ子たちが貯金塚をつくったみたい。

この話からわかるのは、銀行に預けたお金はいざというとき下ろせないから、信用するのは危険だってこと。

芝大神宮はとても有名なのに絵馬がなかったから、新橋のほうへ歩いてって烏森神社ひやかすことにした。
しかし、そこにも絵馬がなかった。


きゃりーぱみゅぱみゅの塚

絵馬はないけど塚はある。きゃりーぱみゅぱみゅの塚かと思ったけど、そんなわけないので、よく見直したら
きやり塚。大木や岩を大勢で運ぶときに歌うのが「木遣り」だから、とび職の塚かな?

烏森神社もすごく有名なのに絵馬がなかったから、虎の門のほうへ歩いてって、こんぴらさんでもひやかす。
さすがに絵馬くらいあるだろうと思ったけど、ここにもなかった。そして塚もなかった。

ないもんだね。都心の神社はせまいから、絵馬なんか掛ける場所つくれないのかも。ぐるりと回って愛宕神社
のトンネルわきの参道をのぼって裏からアクセスする。


ようやく絵馬をみぃつけた!

「欲張らない!!」って誓ってるわりに、いきなり欲張った願い事いっぱい書いてある……。矛盾に気づかない
ということは意志もたぶん続かない。そんな気がしてならない。


ここの石段、急だなあ~!!

「出世の石段」と呼ばれるところ、一気に下ってきた。あっちこっち歩き回って血行よくなったような気がする。
通りすがりに逆光の東京タワー、わけもなく撮って帰る。

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