特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

言いわけ

2011-02-15 17:52:35 | Weblog
なんだかんだやっているうちに、二月も半ば。
前回の更新から、はやくも一ヵ月が経とうとしている。
労苦をベースに考えると日が経つのは遅いけど、ブログ更新をベースに考えると、日が経つのは早く感じられる。

怠け者の言いわけにしか聞こえないかもしれないけど・・・
ブログ製作は、私の本業ではない。
以前にも言ったように、私はデスクワーカーではなく“デスワーカー”だから。
そして、読み手が思っている以上に?手間がかかるわけで、結構な頭と時間がとられるもの。
だから、頭と時間にそれなりの余裕がないと、書く気が起きないのである。
そうは言っても、読んでくれる人がいる以上、長期の放ったらかしはマナー違反?
だとしたら、詫びるしかない(あらためる気はないけど)。

今回、しばらくブログが更新できなかったのは、現場に集中していたため。
昨年夏と同じような状況があったからで、精神がダウンしてブログ製作どころではなかったからではない。
それどころか、幸い、精神状態は、安定傾向に戻りつつある。
日々に現場仕事が与えられており、鬱々としがちな気分が紛れているのだ。

残念ながら、ブログ製作は、自分に対する訓戒や教示などの効果はあるけど、気分転換や気分浮揚などの効果はあまりない。
それは、弱音や泣き言が多い文面から読み取れると思う。
鬱々とした気分を紛らしてくれるのは、やはり、特掃隊長の真骨頂である現場業務。
私にとって、現場業務は大切なものなのだ。
だから、現場業務には、感謝と喜びをもって積極的に出かけて行くように心掛けている。
身体的には楽じゃないけど、しなびた精神を立ち直らせることができるから。


「気が紛れること」といえば、前回の記事に書いた通り、酒に酔ったときもそう。
なんとなく、気持ちが浮揚する。
その酒のことだけど、前回ブログの後、やっとのことで減酒に着手。
本来なら、 “禁酒”がベストなのだろうけど、そのプレッシャーに対するストレスはかなりしんどそうなので、とりあえず“減酒”にした。
飲まない日をつくったり、飲むにしてもその量を減らすように心がけた。
アルコールをゼロにしなかったのがよかったせいか、覚悟したほどのストレスは抱えないでいられた。
酒代も節約でき、肝心要の肝臓を労わることもできた。
また、気のせいか、翌朝の精神ダウンも飲酒翌日にくらべると軽いような気がした。
財布にも、身体にも、精神にも優しい・・・酒を遠ざけることによってもたらされるメリットは大きかった。

しかし!・・・上記が過去形になっていることにご注目!
残念ながら、調子よく減酒できたのは始めの二週間くらい。
真面目に減酒を続ける自分への御褒美で“にごり酒”を買ったのが運の尽き・・・
現在は、「今日は仕事を頑張ったから」「今日は早く帰れたから」「明日は休みだから」etc・・・
なんやかやと自分に都合のいい言いわけをしては、酒の量を増やしてしまい・・・
自分が意志の弱い人間であることを、つくづく思い知らされている今日この頃なのである。



特殊清掃の依頼が入った。
電話を入れてきたのは、顔見知りの不動産管理会社スタッフ。
「管理物件で、硫化水素の事故が起こった」
「現場はひと段落ついているので、後片付けと清掃をお願いしたい」
とのことだった。

硫化水素なんて深海や専門工場など特別な場所では珍しいものではなくても、社会一般の存在するものではない。
しかしながら、ある意味で名の知れた代物。
私も、それを聞いて、現場で何が起こったか容易に想像できた。

指示された現場は、一般的なマンション。
事故が起こったのは、その一室の浴室内だった。
私を出迎えたのは、中年の女性。
「留守番を頼まれている親戚」とのこと。
私が管理会社の依頼をうけた清掃業者であることを伝えると、女性は深々と頭を下げて足元にスリッパを出してくれた。

浴室をのぞくと、故人が使った薬品の容器やボトルがビニール袋に梱包された状態で残置。
それらは消防隊員が梱包したらしく、更に、隊員は浴室内を洗浄してから撤退していったとのことだった。
それでも、浴室に足を踏み入れると、かすかな硫黄臭を感知。
それに肌寒さを感じた私は、専用マスクを装着し、女性に浴室から離れて窓辺にいるよう指示した。

消防による一次作業も済んでおり、浴室の清掃作業は難しいものにはならなかった。
でも、あまり簡単に済ませてしまうと、家族に不安感が残るかもしれず・・・
私は、必要性の低い作業を組み入れて、かなり厳重な作業を行った。
そして、その時間の中で、若者が死ぬ道を選んだことに思いを廻らせ、自分の中にいる同士にその意味を尋ねた。

作業を終えた私は、不動産会社の担当者に電話。
現場の状況と作業の内容を報告した。
担当者は、まず、私の作業を労ってくれた。
そして、事を起こした本人の身勝手な振る舞いを批難する気持ちと、そういう行動を起こす神経が理解できないことを強調しながら、聞きたがる野次馬(私)にことの経緯を話してくれた。

部屋には、両親とその長男と長女、4人が居住。
決行したのは長男で、20代の若者。
それを助けようとした父親もまきぞいに。
消防や警察がかけつけて、付近は、一時騒然。
担当者も現場に駆けつけ、近隣対策に奔走。
本人と父親は、病院に救急搬送。
母親と長女も救急車を追うように家を飛び出した。
父親は、重症でありながらも一命をとりとめた。
しかし、本人は病院に着く前に死亡が確認されたのだった。

担当者は、一連の騒動に疲れ気味。
また、故人に対しては、憤りをおぼえている様子。
「亡くなった人のことを悪く言ってはいけないのかもしれないけど・・・」と前置きしながらも、おさまらない気持ちを次々に口にした。
一方、それに同調できるほどの見識を持たない私は、気持ちの入っていない生返事を繰り返すばかりだった。


自殺を図る人の中で、本当に死にたくてやる人はどれだけいるのだろうか・・・
個人的な先入観があるかもしれないけど、私は、少なからずの人は死にたくて自殺を図るわけではないと思っている。
自分に言いわけがきかなくなったから・・・
自分を最も甘やかしてくれるはずの自分が、自分を甘やかさなくなったから・・・
そして、そんな自分が許せなくなり、生きていることに耐えられなくなったから・・・
薬やアルコールの力をかりて決行した痕跡を垣間見ると、そう思わざるを得ない。

“死にたいから自殺を図る”“生きていたくないから自殺を図る”
私の概念では、この二つは同義ではない。似て非なるもの。根本的に違うものがある。
では、なぜ、決行してしまうのか。
それは、「生きているのがツラいから」「生きていくことに耐えられないから」。
「絶対的に死にたいから」ではないのだ。
この類のことは、“生に対する健常者”には理解してもらえないものかもしれない。

「若いうちは、いくらでもやり直せる」と、“健常者”は言う。
しかし、“やり直しがきく”“きかない”は、年齢の問題ではない。
確率の問題でいえば、高年齢より若年齢のほうがやり直しやすいかもしれないけど、時代はもはやそんなに甘くなくなってきている。
この社会が、やり直しのきかない仕組みになっているのは、多くの人が感じていることだろう。
そして、若いからこそ、生きるのがイヤになることもあると思う。
先の長さが重荷になって、中高年者より重い憂鬱感に苛まれる・・・
自分の将来にはどんな苦難が待っているのかと思うと、生きていたくなくなるのは不自然なことではない。

「死ぬ気になれば、なんだってできる」と、“健常者”は思う。
しかし、生きる気がないと何もできない。
人は、“生きるため”という積極目的があるからであって、“死なないため”という消極目的を達成するために何かをするわけではないから。
死なないために何かをしても、楽しくも嬉しくもなく、幸福感もないだろう。
そんな人生に、生きていることの喜びが見いだせるだろうか・・・

「生きていればいいことがある」と、“健常者”は考える。
しかし、これは、漠然としすぎ。
似たようなことを訴えていながらも、諸手を挙げては賛成できない。
私は、“命が助かること”と、“人生が救われること”は別物であると考えており、少々の“いいこと”は救いにならないと考えているから。
もちろん、自死を推奨し容認しているわけではない。
ただ、“生還”した人のうちで、一体どれだけの人が幸福感を得られているのだろうと思うと、疑問を持たざるを得ないのだ。


私は、他人の不幸に胸を痛めるような人間ではないけど、それでも、この現場にいて何かを気の毒に思った。
それは、多分、故人の死を悼むものではなく、残された家族のことを痛ましく思う気持ちだったのだろうと思う。
同時に、「(故人が)助かればよかったのに・・・」と言い切れない冷たい自分もいた。
私は、そんな自分に深い溜息をつきつつ、「そんな人間は、俺だけじゃないはず・・・」と、自分に言いわけをしたのであった。




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