特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

追憶 ~後編~

2011-05-05 15:15:38 | Weblog
「実は・・・母が亡くなったのは、5年も前のことなんです・・・」
「え!?」
「・・・」
「5年ですか!?」
「はい・・・」
「てっきり、そんなに間がないとばかり思ってました・・・」
「悩んでいるうちに、5年もたっちゃいまして・・・」
「そうだったんですか・・・先日、私、何か失礼なこと言いませんでした?」
「いや、それは大丈夫ですけど・・・」
「勝手に勘違いしてまして・・・失礼しました」

私は、故人が亡くなってからそんな年月が経っているとは思わなかった。
現地調査のとき、家には生活感が充分あり清潔も保たれていたから。
また、和室には、遺骨も置いてあり、枕机も仮のものだったから。
しかし、実際は違っていた・・・故人が亡くなってから、もう5年も経っていた。

私は、その年月をきいて驚いた。
私が経験した中では、圧倒的に長い期間だったから。
同時に、そこから、故人に対する女性の思いと葛藤の重さが伝わってきて、私の声のトーンは自然に落ちていった。


夫(女性の父親)を亡くした故人は、最期の数年、一人暮らしをしていた。
ただ、近くに住む女性が故人宅を訪れるのが日常の習慣になっており、近所付き合いもあり、“孤独”というわけではなかった。
また、身体に特段の病気や故障を抱えることもなく、身体介護はもちろん家事支援なども必要としていなかった。
しかし、ある日のこと・・・
いつも通り実家を訪れた女性は、寝室のベッドにもたれかかっている故人を発見。
慌てて揺り動かしたが、すでに息はなく・・・
既に帰らぬ人となっていたのだった。

葬式は、慌ただしく執り行われた。
その慌ただしさは、悲しみを紛らわせてくれた。
しかし、それも束の間。
女性は極度の喪失感に苛まれた。
それでも、実家には故人(母親)の気配が残され、女性はその気配に故人の存在を感じた。
そして、家にあるものに触れるのが恐くなり、故人が亡くなったときのままにしておきたい衝動にかられ・・・
そのまま、時ばかりが過ぎていった。

最初の2年くらいは、母親がいなくなったことが悲しくて寂しくて仕方なくて、遺品処分なんてまったく考えられなかった。
それでも、女性が抱える喪失感と悲哀は少しずつ薄らいでいった。
そして、3年目くらいから、「悲しんでばかりじゃいけない」と思えるように。
自分の手で整理をはじめ、細かなものを少しずつ処分していった。
そして、5年が経ったあるとき、女性は一念発起。
「そろそろ元気をださないと母親(故人)に申し訳ない」と思えるようになり、家財のほとんどを片付ける決心をした。
そして、そのタイミングで、そんな事情があるとは露ほども知らない私が、いつものペースで現地調査を実施したのだった。

しかし、私が送った見積書をみていると、躊躇いの気持ちが再燃。
女性は、寂しさを通り越した恐怖心のような感情に苛まれた。
それでも、「片付けなければ」と、自分を鼓舞。
しかし、考えれば考えるほど、片付けられなくなり・・・
迷っているうちに時は流れ・・・
結局、片付けのタイミングを逸してしまったのだった。


家は、相続によって女性が所有権を取得。
売却の予定もなく、中を空にしなければならない事情も見当たらず。
建物に不具合があるわけでもなく、誰かに迷惑がかかっているわけでもなし。
片付けに期日を設ける必要はなく、無理矢理片付けようとしなくてもいいのではないか・・・
目に見えるものは、自然に古くなり、朽ち果てる・・・心配してもしなくても、いずれ消えていくもの・・・
過去のいた故人が女性の支えになり励ましとなるなら、それを消そうとする必要はないのではないか・・・
むしろ、それは大切にしていいものではないか・・・
私は、女性にそんな風なことを伝えた。

「不思議なことに、父が亡くなったときはこんな風にならなかったんですよ・・・アノ世で父が怒ってるかもしれませんけど・・・」
そう言って女性は笑った。
私は、そんな女性に、自身が悲しみを想い出に変える時間を手に入れつつあることを感じた。
そして、女性が母親の想い出に笑顔を浮かべるようになるのは遠くないものと思った。

「もうしばらく、このままにしておこうと思います・・・すみません・・・」
という女性に
「私がこの仕事をしているかぎり期限はもうけませんから、“片付けよう”と思われたら、またいつでも連絡下さい」
と応えて、電話を終えた私だった。


忘れたくても忘れられない、捨てたくても捨てられない・・・
忘れたほうがいいことは、なかなか忘れることができない・・・
しかし、忘れてはならないことは、簡単に忘れてしまう・・・
捨てたほうがいいものは、なかなか捨てられない・・・
しかし、捨ててはいけないものは、簡単に捨ててしまう・・・
それもまた人間。
これは、理屈でどうこうできるものではない。

何かを記憶にしまい込むには、時間がかかる。
そのために、つらい時間を過ごさざるをえないこともある。
ただ、時間は、感情や温度に関わりなく、乱れることなく、刻一刻と万物に平等に流れる。
どんな記憶も遠い過去にしまってくれる。
大切なのは、忘却を試みることではなく、その時間を待つこと。耐えること。

亡くなった人のことは過去に片付けてしまわないと前に進めない・・・残された人はそんな考えを持ちやすい。
しかし、それらには、片付けたほうがよいものと、そうでないものがあると思う。
寂しさや悲しみ、重荷や足枷になるようなものは片付けた方がいいだろうけど、笑みがこぼれたり元気のもとになるようなものは残しておいた方がいいと思う。

心配しようがしまいが、目に見えるものは、いつか朽ち果て、そして消える。
新築の家も、ピカピカの車も、流行の洋服も・・・
もちろん、この(その)肉体も例外ではない・・・
どんなに大切にしていても、しかるべきときにしかるべきかたちで消えていく。
ただ、目に見えないものの中には、消えないものがあるかもしれない。
死をもってしても消えないものがあるかもしれない。

人は、目に見えないものを心に蓄えることができる。
そして、それらを温めることができる。
更に、過ぎる時間と追憶が、苦しい記憶をも、悲しい記憶をも、辛い記憶をも、生きるためのエネルギーに変えてくれるのである。

それを信じて、今は耐えよう。
そして、今を生きよう。
人は、好きなように生きられるのかもしれないけど、好きなときに生きられるのではないのだから。
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