されば悲しきアホの家系(続々………々)

 
 法事というのも、退屈極まりないものだった。子供だった上に興味もないから、私は、二条の家に行くのがなんの仏事のためなのか、いつも、とんと分からない。

 が、分からない、なんて口にしてはいけない。死んだ祖父や祖母が今、冥途の旅路のどのくらいのところにいるのか、伯母たちがしなくてもいい説明をし始めるからだ。そして、
「こういう法要は、ちゃんとせえへんとな、爺さんや婆さんが、自分が死なはったこと忘れてしもて、この世に戻ってきてしまうんやで」と、ゾンビじゃあるまいに、脅しを添える。
 死んだこと忘れるなんて、アホは死んでもアホなものらしい。

 法事のときには「お寺さん」を呼ぶ。山吹色の法衣に紫の袈裟を掛けた、アラレちゃんのような眼鏡をした海坊主のような坊さんが、二条の家の「お寺さん」。読経のためにやって来る。
 冬はともかく、夏もその格好では、さぞ暑かろうのに、坊さん涼しい顔をして、扇子を手にパタパタと扇いでいる。

 図体のでっかい坊さんのことだから、奥の部屋の仏壇の前に座を占めると、その部屋には、あともう2、3人しか坐れない。で、残りは、テーブルと食器棚と冷蔵庫まで置いてある2畳の板の間、そして表の畳の部屋にまではみ出した格好で、銘々が座布団を敷いて坐る。

 読経は1時間半くらいかかる。その間、じっと正座していなければならない。坐るほかは何もできない。眠ることもできない。で、空想を働かせて時間をやり過ごすしか、私には救いの道がない。
 ……この坊さんの声、惚れ惚れするようなバス。これだけの声量があれば、声楽家にでもなるべきだと思う。棒読みの読経なんて、勿体ない。

 To be continued...

 画像は、ピール「日本人形と扇子」。
  ポール・ピール(Paul Peel, 1860-1892, Canadian)

     Previous / Next
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )