チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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第74話 かいごさま(その1)

2007年05月29日 | チエちゃん
 チエちゃんの家では春から秋にかけて「かいこ」を飼っていました。
 蚕(かいこ)は、カイコガの幼虫で、成長すれば4~5㎝の大きさになる白い芋虫です。桑の葉のみを食べ、4回の脱皮を繰り返して約1ヶ月で成長し、白い繭を作ります。この繭が絹糸の原料となるのです。

 養蚕はこの地方の産業でした。隣町のW町にはたくさんの機織り工場がありましたし、反対隣のR町とそのまた隣のK町には製糸工場(繭から糸を取り出す工場)もありました。
 あの頃、日本の絹織物産業は衰退への道をたどり始めていましたが、まだまだ、地場を支える重要な産業でした。その産業は、チエちゃん家のような小さな養蚕農家によって成り立っていたのです。

 そして、蚕はお足を運んでくれる大切な家畜であり、「おかいこさん」とか「おかいこさま」と呼ばれておりました。この地方では方言なまりで「かいごさま」と呼んでいました。

 桑の葉が芽吹く頃になると、チエちゃんの家では養蚕所作りを始めます。

 まず、おじいちゃんとおばあちゃん、チエちゃんは北側の部屋に寝所を引っ越します。空いた奥の八畳間は畳を上げて板の間にし、板戸や障子戸の隙間に新聞紙で目張りをします。

 続いて、八畳間の両端に蚕を飼う”わらだ”を置く棚を竹ざおを使って10段ぐらい作ります。”わらだ”というのは、竹で編んだ直径1mくらいの平べったい籠のことで、丸いお盆を大きくしたような形をしています。これに紙を敷き、その上で蚕を飼うのです。1段には4枚のわらだが載せられますから、片側だけで40枚、両側で80枚のわらだの中で蚕を飼うことになります。

 その次には、ホルマリンを散布して部屋全体の消毒をします。その他、養蚕に使う器具もあわせて消毒をします。蚕は病原菌に弱く、感染すると、全滅してしまう恐れがあるからです。

 最後に、部屋の中心の床板を外して、掘ってある炉に炭火を入れる準備をします。蚕は寒さにも弱く、部屋を暖かくする必要があったからです。
 こうして、かいごさまを迎える準備ができました。

 それから、いよいよ蚕がやってきます。
30×50cmくらいの木枠に張られた黒い不織布と白い和紙の間に、孵化したばかりの虫眼鏡で見なければ分からないような1㎜にも満たない真っ黒い毛虫がウジャウジャいます。
お母さんは鳥の羽を使って、その木枠から蚕を1頭(匹)も逃すまいと丁寧にわらだに移します。

 それから、新芽の柔らかい桑の葉を包丁で細かく切って、パラパラとわらだの中の蚕に与えるのです。

 こんな風に、かいごさまは母屋で大切に育てられたのでした。

不定期につづく




第73話 「おとうさん」と「かあちゃん」

2007年05月26日 | チエちゃん
 チエちゃんが小学校に入学する日を心待ちにしていたある日のこと、お母さんがチエちゃんを呼んでこう言いました。

 チエも もうすぐ1年生なんだがら、お父さんのごど、いつまでも
 「おとう」って言ってねで、これがらは「おとうさん」って呼ぶようにしねっかな

 チエちゃんはそれまでお父さんのことを「おとう」、お母さんのことを「かあちゃん」と呼んでいたのです。
「おとう」は幼児語の延長でもありましたし、もともとこの地方では「おっとう」「おっかあ」の呼び方もあったからです。

 なんでなの?

 学校に行って、「おとう」って言ってだら、笑われッぺ!
 母ちゃんのことは「かあちゃん」でいいがら、お父さんのことは「おとうさん」って呼ぶんだぞ!

 う、うん、わがった!

 急にそう言われても、何だか照れくさくて、なかなか「おとうさん」と言えません。

 おとう・・・・、さん

呼ばれたお父さんも、恥ずかしそうです。いつも頭の片隅に「おとうさん」という言葉が渦巻いています。それでも、練習をして、何とか入学するまでには普通に言えるようになったのでした。

 それにしても、どうしてお母さんはお父さんの呼び方だけを直したのでしょうか。
お母さんのことも「おかあさん」と呼ぶように躾ければよかったのに。

 お母さん自身も「おかあさん」と呼ばれることが照れくさかったのでしょうか。
それとも、一家の主であるお父さんの方が偉いんだ、お父さんを敬うようにしなさいという教えだったのでしょうか。

 それ以来、チエちゃんは「おとうさん」「かあちゃん」と呼んでいるのです。
もっとも、孫たちの前では「じいちゃん」「ばあちゃん」ですけどね。

 

第72話 田植え(その2)

2007年05月23日 | チエちゃん
 田んぼにはまった長靴を抜こうとして、足だけすっぽ抜けてしまったチエちゃんは、体中泥んこになることは免れましたが、片足は泥の中に着いてしまいました。
そこで、ズボンの裾を捲り上げ、裸足で田んぼに入りました。最初は冷っとしましたが、泥のぬるっとした感触が、泥んこ遊びを思い出させます。

 しばらくして、随分とがんばったと思い、振り返ってみれば、まだまだ列の半分しか進んでいないのでした。う~んと背伸びをした後、残り半分に挑戦です。

 そして、ようやく終わりになる頃、「いっぷくすっぺ!(休憩しよう)」の声がかかりました。
 田んぼから上がったチエちゃんは、何となく足がかゆい感じがしました。
よく見てみると、足に昆布の佃煮ようなものが付いています。

 うわ~ん、とって!とって!

 なんとそれは、ヒルでした。お父さんがヒルを取ってくれたあとからは、血が出ていました。

 蒸しパンとジュースでいっぷくしたあと、チエちゃんは蛭のおかげで田んぼに入る気が失せてしまいました。いいえ、それは言い訳で、実は田植えに飽きてしまったのです。
 それからは、おやつの前に手と足を洗った用水路で、弟たかひろ君と水遊びが始まりました。ドカンから流れ落ちる水に手を入れたり、葉っぱをちぎって流したり、楽しい時間はあっという間に過ぎてゆくのでした。

 お弁当を食べた後、チエちゃんたちはおばあちゃんと一緒に家に帰ることになりました。
このようにして、チエちゃんの初めての田植えは終了したのです。

 そして、田植えの夕飯にはご馳走が並びます。
赤飯、お刺身、筍と身欠きにしんの煮物、天ぷらなど。
「結い」のお手伝いをしてくれた人へご馳走して、労をねぎらうのです。
大人達はビールやお酒を飲んでいます。お客さんがいるせいで、おじいちゃんも今日ばかりは陽気なお酒のようです。

 チエちゃんも、一人前にお手伝いをした気分で、ジュースを飲んだのでした。
 
 

第71話 田植え(その1)

2007年05月20日 | チエちゃん
 今日はチエちゃん家の田植えです。
朝から一家総出で、大忙し。
チエちゃんも今年初めて、田植えの手伝いをするので、張切っていました。

 田植えには、勇作おじさん(由美ちゃん、洋子ちゃんのお父さん)と隣組のサダオやんも手伝いに来ることになっています。
 これは「結い」と言って、田植えや稲刈りなどの人手が必要な作業の時に、隣組(1つの集落、班のこと)同士、お互いにお手伝いをする助け合い制度のことです。
「結い」は、大抵1日または半日単位となっていて、1日お手伝いをしてもらったら、「結い返し」として1日相手をお手伝いすることがルールでした。
必ずしも同じ作業で返す必要はなく、人手があるときには、次回の稲刈りで返すということもありました。

 作業着に長靴を履いて田んぼに行くと、田んぼは代掻きも終わり、植え易いように竹の道具で、線が引いてありました。
当時は、耕運機を持っている人ですらに数軒でしたから、田植え機など持っている家はなく、どこの家でも手植えをしていました。

 それでも、耕運機を持っていれば、力の要る田起し作業を機械がやってくれるので、随分と楽になっていたのです。米作りは俗に八十八の手間がかかると言われており、その全てを手作業で行なっていた時代には、それはそれは重労働だったことでしょう。
 チエちゃんの家にはまだ耕運機がありませんでしたから、耕運機を持っているサダオやんにその作業をお願いしていたのです。

 田んぼでは、大人はもう作業を始めています。
チエちゃんも苗の束を持ち、田んぼの中に入りました。
お母さんから植え方を教わります。
苗を1本取り、浅すぎず、深すぎず植えつけます。
加減の分からないチエちゃんには、これが難しい。
田んぼの中に引かれた線の間に、足を置き、3列ずつ植えていきます。
 
 見様見まねでなんとか数本植えたところで、足を抜いて移動しようとしましたが、田んぼの泥にはまって、なかなか抜けません。
とうとう、長靴は田んぼに残ったまま、チエちゃんの足だけが抜けてしまいました。
そのまんま、田んぼの中に前のめりになりそうになった所を、何とか手を着いてドロンコになることは免れたのでした。

 

第70話 百円札

2007年05月17日 | チエちゃん
 チエちゃんが通う小学校には子ども貯金制度がありました。
入学した時に、郵便局からお祝い金30円が入金された貯金通帳をもらいます。
それに毎月積み立てていくのです。

 三つ折りの貯金通帳を開くと、毎月100、100、100・・・・の数字が並んでいます。
チエちゃんは、毎月15日の貯金の日に貯金通帳とお母さんからもらった百円札を持っていったのです。
担任の先生に預けると、翌日か翌々日には、新しい100の数字が印字された通帳が戻ってくるのでした。

 「このままずーっと、貯金していけばすごいお金持ちだあ」チエちゃんはそう考えたものでした。小学校低学年のチエちゃんにとって、あの頃の百円札はとても大金に思えたものです。なんたって、お札なんですから。
あの頃の百円札は、現在の千円札ぐらいの価値があったのではないでしょうか。

 ここで、当時の100円の価値について考えてみましょう。
牛乳1本20円、もりそば1人前50円、ラーメン1杯63円、ビール1本120円、封書15円、はがき7円 ちょっと例が少ないですね。
 大卒者の初任給が15,000円~20,000円であったので、現在は約10倍。確かに百円は、現在の千円ぐらいの価値があったのです。

 ところで、にしゃばあちゃんは、チエちゃんにこんないたずらをしました。
百円札1枚と10円玉10枚を並べて、「おこづかいをあげるから、どっちがいい?」と聞きました。
高学年になっていたのなら、チエちゃんは迷わず百円札を選んだことでしょう。
でも、チエちゃんは使い慣れない百円札よりも、駄菓子がたくさん買える10円玉10枚を選んだのでした。それを持って、遠藤商店に走ったことは言うまでもありません。

 そういえば、あの子ども貯金のお金はどうなったんだろう?

第69話 納豆屋さん

2007年05月14日 | チエちゃん
 昭和40年代のあの頃、チエちゃんの家には2~3週間に一度、納豆屋のおじさんがやって来ました。

 おじさんは荷台に納豆を入れた箱を載せ、

 なっと、なっと、なっとう~

の元気な売り声とともに、自転車を漕いで街の方からやって来たのです。
 自転車を道路脇に停め、5、6個の納豆を手に持ってチエちゃん家への坂道を上って来ます。荷台の納豆を盗むものなど誰もいなかった時代です。
 おじさんは玄関先に腰掛け、しばらく世間話をした後、代金を受け取って帰って行きます。俳優 斉藤洋介さん似の陽気なおじさんでした。

 当時の納豆は経木に包まれた三角形の形をしていました。
包みを解いて中身を小鉢に入れ、塩、さらに醤油をかけ、グルグルとかき混ぜ、十分に糸を立ててから食べたものです。チエちゃんは納豆が大好きでしたが、今ではもうあの頃の食べ方はしませんね。
添付のタレをかけ、さらっと混ぜる程度が好きですから。

 あの頃は、こんな風に行商にやって来る人がいました。
じじみ売りのおじさんもその一人でした。天秤ばかりとざるに入ったしじみを持ってやって来ました。つまり、計り売りをしたのです。このおじさんは地井武男さんにそっくりだったなあ。

 そして、こうしてやって来た行商さんは、顔馴染みで、チエちゃんの家では決して「今日は要りません」と断ることはありませんでした。持ちつ持たれつの関係と言いますか、売り手もちょうど無くなる頃、食べたいなと思う頃にやって来ましたし、買い手も来てくれるのを楽しみに待っていました。せっかく来てくれたのだから買ってあげようという気持ちもあったのです。

 三角納豆が発砲スチロールの容器に変わってからも、しばらくはおじさんがやって来ましたが、年を取ったせいなのか、行商の時代ではなくなったせいなのか、いつの間にかおじさんと顔を合わせることも無くなりました。

 帰り道は鼻歌を歌いながら、のんびりと帰っていくおじさんでした。

第68話 よしのぶちゃん誘拐事件

2007年05月11日 | チエちゃん
 昭和38年、東京台東区で当時4歳のよしのぶちゃんが誘拐され、身代金を奪われるという事件が発生しました。
 夕方、公園に遊びに行くと言って出かけたよしのぶちゃんの姿が忽然と消えうせた2日後、犯人から身代金要求の電話が入ります。指定の場所に身代金を届けますが、警察の失態から身代金は奪われ、よしのぶちゃんの安否も分からないまま、事件は迷宮入りかと思われました。

 当時、この事件は大々的に報道され、日本中がこの話題で騒然となったのです。
 チエちゃんはよしのぶちゃんと大して年齢が違わなかったものですから、他人事ではなかったのでしょう、お母さんも、おばあちゃんも、「知らない人について行ってはいけない」と注意したものでした。
 それから、2年後の昭和40年7月警察の必死の捜査により、犯人が逮捕され、よしのぶちゃんは遺体となって発見されました。何と、よしのぶちゃんは自宅から数百メートルしか離れていないお寺の墓地に埋められていたのでした。
 チエちゃんはなぜか、この時の報道映像をいつまでも覚えています。
 墓石の回りに大勢の捜査官がいました。
 よしのぶちゃんが「僕の分まで生きてくれ」と言っているように思えました。

 

第67話 みなみ山のばか婿

2007年05月08日 | チエちゃん
 むが~し、むが~し、みなみ山にばが婿がいだんだと。

 あるとき、山の向こうのとなりのに呼ばっち、出がけで行ったんだと。
そごの家でうま~いだんごをご馳走になったんだと。あんまりうまがったもんで、ほっぺた落ぢそうにになったんだどぉ。

「あ~、うまがった。うぢに帰ったら、おっかあに作ってもらうべ。」

そう思って、その名前を忘すんにように、帰り道は、だんご、だんご、だんごって言いながら帰ってきたんだどぉ。

 ところが、山道の途中に水たまりがあったんだと。
その水たまりを「どっこいしょ」っと、乗っ越えたとだんに、「だんご」っつう言葉を忘っちまったんだと。
ほんで、しかたねえがら、「どっこいしょ、どっこいしょ」って言いながら、うぢさ帰ったんだと。

「おっかあ。今帰ったぞ~。『どっこいしょ』っつうものをよばっち、ぽっぺた落ぢるぐらいうまがったがら、おめえも作ってくんにがあ。」って、言ったんだと。

「何、ばがなごど言ってんだあ。『どっこいしょ』なんていう食い物あるわげねえべ。」と、おっかあが言うもんだがら、喧嘩になっちまったんだと。

 ばが婿がおっかあをほうきでひっぱだいたら、おっかあのおでこに大きなたんこぶができたんだと。
おっかあは、たまげて
だんごのようなたんこぶがでぎだ。だんごのようなたんこぶがでぎだ。」と言ったもんだがら、

ばが婿はやっと思い出したんだと。

「おっか、おっかあ。そのだんご、だんごだあ。だんご、作ってくれろ!」

 今夜は、これでおしまいだぞ!

 お布団の中でチエちゃんは目をキラキラさせて、おばあちゃんからこんな昔話を聴いたのでした。

 ほんじゃ、きょうはおしまいない。 




第66話 こいのぼり

2007年05月05日 | チエちゃん
 チエちゃん家では、端午の節句も桃の節句と同様に旧暦でお祝いをしていましたが、こいのぼりは別格です。

 4月末の気候がよくなるのを待って、早々とこいのぼりを泳がせたものです。
こいのぼりは、弟たかひろ君が生まれたときに買い求めたもので、布製でした。
 庭には稲を掛けたりする時のために、常時杭が打たれてありましたから、それに竹竿を縛り付けて支柱としました。
こいのぼりを付けたロープを引くと竹竿の先の滑車を廻して、スルスルと登っていくのがおもしろく、「私がやる~」と言ってはお手伝いをしたものでしたが、最後にロープを縛るのは力が要るので、大人に頼るしかありませんでした。

 そして、五月人形も5月の連休には飾りつけたように記憶しています。
あごひげを伸ばした神武天皇(手に持った弓の先に金色の鳶が止まっていた)、槍を持った加藤清正、櫃の上に飾られた兜、熊と相撲をとっている金太郎、金色のこいのぼりなどがありました。

 どうして旧暦にお祝いをしたのかといえば、ちまきにするための笹の葉や飾りつける菖蒲がまだ成長していなかったからだろうと思われます。
旧暦の5月5日には、三角のちまきを黄粉でいただき、軒に菖蒲とよもぎを差して、お風呂に菖蒲を入れてキュッ、キュッと鳴らしながら香りを楽しんだものでした。

 それにしても、チエちゃんには気にかかることがありました。
通学路の途中、小木先生の下宿の近くのあるお宅にはこいのぼりではなく、鯉の滝登りや金太郎、武者絵のきれいなのぼりが立っているお家がありました。
そのことをおばちゃんに聞いてみました。
「ああ、あれはない、絵のぼりといって、男の子が丈夫に育つようにと立てるものだがら、こいのぼりとおんなじだ。あそごの家はずーっとのぼりを立ででるない。」
 うちにも、あんな絵のぼりがあったらいいのになあと、うらやましいチエちゃんなのでした。

第65話 山菜採り

2007年05月02日 | チエちゃん
 チエちゃんのゴールデンウィークの楽しみといえば、お友達と誘い合わせて行く山菜採りです。従姉妹の由美ちゃん、洋子ちゃん、1コ下のお友達、とし江ちゃんたちとワラビ採りに出かけたものです。

 ちょうどベッド岩の向かいの村道辺りから、サラシ川とは反対側の山へと登り、南の斜面をワラビを探して、上がったり、下がったりしながら歩いてゆきます。
 山へ入ったばかりには、目の前にワラビが出ていても気づかず、なかなか見つけることができません。そのうちに慣れてくると、あっちにも、こっちにもにょきっと出ているワラビが目に飛び込んで、夢中で摘んでいきます。
 開いてしまったワラビは固くて食べられないためか、これを採りません。
また、4~5cmの小さいワラビも採らないというのが、山菜採りの暗黙のルールとなっていました。

 一通り、南側の斜面を採ったあとは頂上を目指してけものみちを登っていきます。
途中にはヤマブキが黄色の花をつけ、タチツボスミレは可憐な薄紫の花を咲かせています。蛇のひげはラピスラズリのような青い実をつけて、チエちゃんたちを迎えてくれるのでした。
 この辺りまで登ってくると、綿毛に包まれたゼンマイも採れるようになります。
そうして、一山を超えて、熊ん様の上のあたりを通り、とし江ちゃん家の裏側にたどり着く頃には、一人当たり2束~3束のワラビを抱えて帰って来るのでした。

 熊ん様の隣のとし江ちゃん家の裏には古い井戸があり、つるべを落として汲み上げた水が歩き疲れた体に甘く染み渡ったことが忘れられないチエちゃんです。

 それから、翌々日にはおばあちゃんとも山菜取りに行きました。
今度は、チエちゃん家の向かいの沢に入っていきます。
ワラビ、ゼンマイを採るのは同じですが、この他、おばあちゃんはいろいろな山菜のことを教えてくれたのでした。
 ゼンマイに似たコゴミ、山うど、タラの芽、中でもチエちゃんの好物はトリアシと呼ばれる山菜でした。本当の名前は分かりませんが、茎の先が三本に分かれており、鳥の足に似ていることからその名が付いたようです。
何とも美味な山菜です。

 帰り道には棚田の畦で、ふきのとうを採り、田んぼの中のおたまじゃくしを観察して、家路につくのでした。

 追記:Webサイトで”トリアシ”を見つけましたので、「食べる山野草木」さんをリンクさせていただきました。正しい名前は「トリアシショウマ」というようです。葛などと同じく山野のどこでも見られる植物です。