チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

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使命感

2011年03月30日 | 大地震
「微力ながら力に」=思い複雑、作業の男性―福島第1原発事故(時事通信) - goo ニュース

原発事故現場で、作業にあたる男性の思いが掲載されていた。

「誰かがやらなくてはいけない。」
東京電力協力会社の社員である彼は、子どものため、地域のため、危険な現場に行くことを決めたという。
人をここまで、強くさせるものは何だろう。
守るべきものが、はっきり見えているのだろう。
「ここまで強い使命感を持ったのは初めて。一日も早く収めたい」
名も無きプロフェッショナルに敬服したい。
そして、彼らを必ずや家族のもとへと帰してあげたいと願う。



現在の福島市の状況

2011年03月29日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

先週22日からは、本格的に仕事に復帰しました。

プリウスのガソリンは、まだ半分残っています。
先々週は、ガソリン不足のせいか、放射能の恐怖のせいか、交通量が激減していました。
夜間は、シーンとして怖いくらいでした。
19日・20日くらいから徐々にガソリンが入荷して、ローリーが着いたスタンドには長蛇の列が出来ました。
3月29日現在も、まだ十分なガソリンが供給されてはいません。灯油も手に入りません。
まだまだ、「売り切れ」の張り紙をして閉めているガソリンスタンドも多いです。
ヒロシと長男は、ガソリンの補給が出来ていません。

スーパーも、カラの棚が目立ちますが、必要なものは揃います。
ただし、牛乳・ヨーグルトなどの乳製品、納豆、食パンは1人1個と数量限定販売。
夕方買い物に行く私は、手に入れることができません。

ますます悪化している原発事故の情報に、ムカつく日々です。
だから、ニュースはあまり見ないようにしています。
市民は、不安を抱えながらも、どうしようもないと開き直り、普通の生活に戻ろうとしているように見えます。
が、他市で出荷制限されているキャベツ農家の方が自殺しました。
死をもっての抗議であると、私は受け止めました。

この時期、毎日1000人の観光客で賑わう花見山には、地元の人が数人しか訪れていないとのことです。
もう、ジュウガツザクラは咲いているだろう。黄色のマンサクも、ヒュウガミズキも。
いいこともあるな。
今年は、花見山がゆっくり見られそうだ。
その時は、レポートするので、見てね!

我が家の事情

2011年03月29日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

私は、このブログに我が家のある事情を公開するつもりはなかった。
(HPをご覧の方は、ご存じですね)
へんな同情を受けるのが嫌だったからだ。
しかし、今回、この事情を話さなければ、お話が前に進まないと判断したので書くことにした。

夫、ヒロシは人工透析患者です。
糖尿病の合併症で腎機能が低下し、4年前の夏から人工透析を受けるようになった。
まあ、自業自得といえばそうなのだが、兄弟そろって高血糖なのだから、遺伝によるところも大きいのかとあきらめてもいる。

腎臓は、血液中の老廃物や毒素を漉し、尿として体外へ排出させる働きをしている。(間違ってるかな?)
老廃物や毒素が排出されなければ、人(他の哺乳類もだけれど)は自ら作り出した毒素で死んでしまう。
人工透析とは、失われた腎機能の代わりに、機械がこの老廃物や毒素を取り除いてくれるのだ。
毎週3回、病院で4~5時間の透析を受ける。
1週間(つまり3回)人工透析を受けなければ、死に至る。
もちろん、食事や水の制限もある。

発症して半年後、ヒロシは仕事を畳んだ。
断腸の思いがあったようだ。
私が療養に専念してほしいと頼んだのだ。
透析患者は、人工透析を受けていれば、普通の人と同じ生活ができるのかと言えば、そうではない。
疲れやすく、体力が落ちてくる。だるく、身体のあちこちが痛い。
自分でも、無理だと判断したらしい。

以後、我が家は、私稼ぐ人、あなた専業主夫(?)を続けている。
この時ほど、仕事を続けていてよかったと思ったことはない。



おまけ 我が家のボブ♂がキーボードを打ちました。

@p-----んhjy@p:「


その18へ つづく

大地震 その17

2011年03月28日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

2011年3月14日(月) 震災4日目

浅い眠りから、余震の恐怖に何度も目覚め、それでも眠らなければと布団の中で丸まる・・・
5時 とうとう耐え切れず、起き出す。
灯油や電気料節約のため、暖房はコタツだけ。情報は欲しいのでTVをつける。
しばらく、ぼんやり見ていると、

災害伝言板ダイヤル 171
iモード 災害用伝言板

の文字が目に飛び込んできた。
あ、これだ! 二男と連絡が取れるかもしれない。
これまで、何度掛けても携帯電話は繋がらないのだ。

「171」は、私が伝言を入れても、二男が聞く確率は低い。
iモード版とは、どんなだろう?
私は、携帯電話を使いこなせてはいない。メールは、ほとんどWebメールを利用している。
携帯メールの打ち方は、たどたどしい。
とにかく、やってみよう。

iMENU → 災害用伝言板 → 登録 → コメント入力(100文字まで)
→ ファミリー割引グループ安否確認設定 → 送信

何度も操作を間違えながら、やっと送信ボタンまで漕ぎ着ける。
行けー!
二男に届くだろうか?


5:47 メール着信音が響く。

iモード災害用伝言板にメッセージが登録されました

無事です。

回線がつながらず連絡遅れました。無事です。
ご飯は食べています。ただ、周りにもう売っていないので、この後が心配です。
家(アパートのこと)より、店が大変な状態です。
そっちは家大丈夫?
回線不安定で、また連絡遅れるかもしれないです。
(原文のまま)


よかった。無事だった。
ご飯も食べている。

就職して4年。
高校生の時、(精神的に)閉じこもりだった彼は、就職先で人間関係を築けず、仕事を辞めたいと訴えていた。
この就職難に仕事に就けたことは、有難いことなのだと説き伏せ、なんとか続けていたのだ。
幸い、半年後に転勤した店舗の店長と気が合ったらしく、積極的に仕事を覚えていったようだ。
先月20日、また転勤したばかりだった。
新しい環境に、まだ馴染めていないだろうに、自分のことより、仕事のことを心配している。
それに、いつまでも子供だと思っていたけれど、こんなに簡潔に必要なことを書けるようになっている。
おまえも、成長したな。

うれしくなった。

iモード災害用伝言板は、相手の携帯電話に直接メールとして届くのだ。便利だ。


我が家の事情へ つづく
 


ココロのケア

2011年03月27日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

ニコッとタウンのお友達で、阪神淡路大震災被災者である或る方は、震災直後2週間の記憶が全くないという。
人は、耐えきれないつらい体験があると、その記憶を消してしまうらしい。
消すというよりも、二度と思い出せないよう閉じ込めてしまうと言った方が正しいのかもしれない。
ココロの自己防衛が働くのだと何かに書いてあった。

1か月後、私もこの記憶を失くしてしまうのだろうか?
おそらく、大丈夫だとは思うが、記憶を留めているうちにできるだけ、ここに書いておこう。
今、書くことは、私の精神安定剤となっている。

数か月後、私も心療内科や精神科のお世話にならないとも限らない。
被災者の方々の心のケアが、十分に行われますように・・・


大地震 その16

2011年03月27日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

2011年3月13日(日) 震災3日目

17時 
帰宅後、作業したことで疲れ果ててしまった私は、夕食の準備をする気にもなれず、コタツで横になっていた。
台所の方で、ドスンと音がした。

また、長男が冷蔵庫の中を漁っているのか? 何か落としたな?
まったく、食料難の時に・・・

と考えていると、シーンとして後がない。
不審に思い、台所へ行ってみる。
すると、両足を投げ出し、長男が座っていた。

「どうした?」
「ん、・・・・なんかヘンだ。目の前が真っ暗だ。なんかヘン・・・頭が痛い。」
顔が真っ青だ。これは、大変だ!
あわててヒロシを呼ぶ。
「気持ち悪くないか?」
側にあった洗い桶をあてがう。長男が、吐いた。茶色の水が出てきた。
少し落ち着いてから、コタツで身体を温めることにした。

神経が図太いと思っていたが、彼も今回の震災で相当なストレスを抱えていたのだと思った。
当日、屋外に避難した時、薄着だったので寒かった上に、今日は給水所に2時間以上並んだことで、体調を崩してしまったのだろう。
薬を飲み、早々に休むことにした。


ところで、電気が通ったというのに、我が家の電話は繋がらない。
受話器を取っても、ウンでもスンでもない。
これは、何か復帰作業をしないとだめだと気付く。
ヒロシが、マニュアルを引っ張り出し、あちこち操作してやっと、ツーッという発信音が聞こえた。
けれども、あちこち、電話してみるが全く繋がらなかった。
二男とも連絡が取れない。
これまで、例のない大震災だ。相当混んでいるのだと思った。


その17へ つづく





チエちゃんのちょっとした行為

2011年03月26日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

私は、24日(木)福島市のホームページに今回の地震災害に関する市政だより速報が掲載されていることを知った。
しかし、町内会では何の連絡もない。
新興住宅地で、普段から隣近所の付き合いも少ない。
我が家は、パソコンで見ることができるが、そういう家庭ばかりとは限らないと思った。
ほとんどの住民は、60代後半~70代と思われる。

私は、会社の印刷機を使い(社長、ごめんなさい!)、最新の速報 放射能に関する特集号、市長のお詫びが掲載されている号、がれきなどの搬入場所・温泉施設の無料開放の情報が掲載されている号を選んで増刷りし、町内会長に届けた。
町内会長は留守で、奥様にお話しした。
配布の判断は町内会長にお任せすることとした。

果たして、私のこの行為は、みんなのためになったのだろうか? かえって、迷惑ではなかっただろうか?
不安をあおるだけとなったのではないのか?

昨日25日、仕事から帰宅すると、玄関の靴箱の上に、速報がのっていた。

大地震 その15

2011年03月26日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

2011年3月13日(日) 震災3日後

私は、勤務先のことも気になっていた。あの時は何もせずに帰宅してしまった。
おそらく被害があるに違いない。
誰かいるかもしれない。近くまで来たのだ、行ってみよう。
着いてみると誰もいない。だが、入り口ドアに張り紙。

3/13 13:30 緊急召集!
私は、出直すことにした。

10時30分
帰宅すると、ヒロシと長男はまだ帰っていなかった。
給水所はかなり混雑していると思われた。
30分程して、彼らが帰ってきた。
20Lポリ缶満タン。1人10Lの制限があったのだが、2人できたのだからと拝みこんだという。
それよりも、我が家に水専用のポリ缶があったことに驚く。
そういえば、ジェットスキーに行った時、そんな物があったことを思い出す。

さば缶、たくあんをおかずに昼食を済ませた私は、勤務先に向かった。

臨時会議で、被害の状況確認・その後できる限りの復帰作業を行うことになった。
ここで、もしかしたら、我が家の地区は明日14日あたり水道が復旧するかもしれないという情報も入った。

私は、自分の担当箇所の被害状況確認に行く。
まず、自分の部屋。
床に散らばっていたはずの書類が机の上に乱雑に乗っていた。
同室の男性社員に尋ねると、昨日も出勤して、おおよそは片付けたのだという。
私は、申し訳ないと思った。
次に隣室へ。初めは、何も被害はないと思われたが、西側の壁に×状のひび割れがあることに気付く。
それから、廊下に出てみると全ての壁にひび割れと床に亀裂が生じていることがわかった。
思った以上の被害だ。
ただし、倒れた家具はなかった。
2階フロアに報告に行くと、テレビが落下し、損壊したことが判明。
3階フロアの天井が落下し、危険な状況であることも分かった。
オフィスと別棟は電気がつかない。また、セキュリティにも異常があった。

追記
この時点で、勤務先の水はまだ出ていた。
マンションなどと同じで、一旦高架タンクに水を上げ、そこから給水するので、高架タンクに水が残っているうちは、大丈夫なのだ。
そのことを知っていた私は、歯ブラシを持参して歯磨きをし、思いっきりトイレを済ませた。
人間って、非常事態に陥った時、いろいろと考えを巡らせるものだとつくづく思いました。

(画像は、壁のひびわれ。よく見えないかもしれません)


その16へ つづく




大地震 その14

2011年03月26日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

2011年3月13日(日) 震災3日目

気持ちが高ぶり十分な睡眠がとれない。4時間ほど眠っただろうか。
相変わらず、余震が続く。

4時30分 起き出す。
昨日、大まかな片付けをしたが、家人が起きないうちに掃除機をかけようと思った。
こんな時に、ヒロシと長男はよく眠れるものだと思う。
肝っ玉が据わっているのか? アホなのか?

それから、電気が通ったので、炊飯器でご飯を炊くことにした。
お釜を洗うのを忘れていたが、私はそのままお米を入れた。
ミネラルウォーターを注ぎ、慎重に水加減をする。水は貴重品。一滴も無駄にできない。
お米は研がなかった。
TV「青空レストラン」で、米は研がなくてもOKと言っていたことを思い出していた。
炊き上がったご飯は、おいしかった。
私は、それをおにぎりにした。

朝食を食べていると、断水は18日まで続くらしいとの情報が入る。
たいへんだ!
ミネラルウォーターだけでは、足りない。
トイレ用に、汲み置きしたお風呂の水も半分程になっている。
これからは、小の時は何度かしてから、流そうと話し合う。

そして、私たちは、二手に別れて行動することにした。
ヒロシと長男は、給水所に並ぶ。
私は、食料の買い出しに行く。

8時30分 家を出る。
さて、どこのスーパーが開いているか?
とにかく、いつも買い物をするヨークベニマルへ行ってみることにした。
3~4人が並んでいた。
しかし、入り口の張り紙を見ると、「本日の営業は行いません。○○店で営業します」
ちょっと遠いが行ってみることにする。

運転しながらも、いろいろな考えが浮かぶ。
遠い店舗にガソリンを掛けて行っても、行列ですぐに買い物はできないだろう。
ならば、もっと近くのローカルなスーパーに行った方が良いのではないか?
私は、Uターンした。
勤務先の近くのスーパーが浮かんだからだ。

すでに30m程の行列ができていた。9時30分開店。ここに並ぶことにした。

ところで、私たちが東京電力福島第一原子力発電所の事故を知ったのは、いつだったのだろうか?
並んでいる時に、隣の方と話し合った記憶がある。
12日夜のTV報道か? 13日の朝刊か?
でもまだ、この時は、放射能は飛んでいるのだろうかなどとぼんやりと考えつつも、のんびりしていたように思う。

それよりも今、重要なことは食料だった。
9時30分。
10人ずつ区切って、店内に入ることができた。列が少しずつ進んでいく。
しかし、自由に買い物をすることはできなかった。
限られたスペースにプラスチックケースなどを積み、その上に商品を陳列、1本道を通って買い物ができるようになっていた。
私は、2Lウーロン茶2本、カップめん2個、インスタントラーメン1セット、卵1P、さば缶1個、魚肉ソーセージ1束、のり佃煮1個、さとう1㎏、そして、最後にお米10㎏を買うことができた。
お米の残りは、あとわずかだった。


その15へ つづく









円高

2011年03月25日 | 大地震
福島県福島市在住@チエちゃんです

私は、経済の知識も興味関心もない普通のおばさんです。
関心事は、今日のスーパーの特価品はなにかしら?くらいのものです。

ただ、今回の大地震・津波被害、原発事故で、円は急落するだろうくらいの想像はつきます。
しかし、TVのニュースは・・・
円高 1ドル=78円
えっ!私は耳を疑いました。

海外の投資家たちは、私の想像の遥か先を見通していたのです。
事態終息後、日本は目覚ましい勢いで復興すると。
確かに、日本は第二次世界大戦後も、阪神淡路大震災後も、目を見張るほどの速さで復興を遂げました。

海外の投資家たちの目は確かだ。

私も、そうあってほしいと切に願います。