チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
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物は物にして物にあらず物語/本

2009年06月28日 | 
今日はネタ切れなので、本のご紹介です。

物は物にして物にあらず物語 借りたハンカチ

物をめぐるショート・ショート

1989年5月第1刷発行なので、もう20年前の作品になります。
当時、創刊されたばかりの料理雑誌「オレンジ・ページ」に連載された短編集を単行本にしたものです。
安西水丸さんのイラストもステキ。

あの頃、私はお料理のレパートリーを増やそうと、この雑誌を定期購読していたのでした。
そこで、私は 干刈あがたさんの作品と出会いました。

それまで私は、小説という分野で、女性は男性には勝てないと思っていました。
ようするに私は、推理小説やサスペンスばかり読んでいたので、どうしても男性作家の方がスケールの大きい作品だったのですね。

それが、彼女の作品「樹下の家族」「ウホッホ探検隊」「ゆっくり東京女子マラソン」と出会って、考えを改めました。
内容は、彼女自身の離婚経験を基にした小説です。
これは、女性にしか書けない。そう思いました。

私は、彼女のファンになりました。
彼女は、ちょうど私の10歳上で、1943年生まれの団塊の世代になります。
離婚女性は、まだ堂々と胸を張って暮らしてゆけない時代でした。

残念なことに、彼女は1992年胃がんのため、亡くなりました。49歳でした。



あ、そういえば、この本、オレンジ・ページのプレゼントで当選したんだっけ・・・
シリーズ「借りたハンカチ」と「十一歳の自転車」の2冊があります。

カリカリ花

2009年06月22日 | チエの玉手箱
カリカリ花、私たちはこの花をそう呼んでいた。

 私は他所でカリカリ花を見かけたことは一度もなく、とし江ちゃん家の門道の石垣の前にだけこの花は咲いていたのだった。
なぜその名前が付いたのかといえば、枯れて干からびたように花びらがカリカリだったからだ。

 私は、このカリカリ花がいたく気に入っていた。
摘んで髪に飾ったり、家に持ち帰って宝箱に入れたりしていた。
私たちのおままごとの夕飯の豪華なおかずになったこともあった。
私がお母さん役で、カズあんちゃがお父さん役、とし江ちゃんは子供役だった。
この配役は一度も代わることがなかった。

 いつだったか、私たちがカリカリ花を全部摘んでしまったので、とし江ちゃんのお母さんにひどく叱られたことがあったっけ・・・

 とし江ちゃんがお嫁に行き、スイおばちゃんに続いて、お母さんが亡くなった後、カズあんちゃは引越しをして、とし江ちゃん家は空き家になってしまった。

 あの家に今でもカリカリ花は咲くのだろうか・・・




     わたしから メールしないと 決めたはず

        くじけそうになる 水無月の夜  


※カリカリ花の正しい名前は「ムギワラギク」です。

画像はpotolibraryさんからお借りしました。

第166話 裂き織り

2009年06月18日 | チエちゃん
 その日、大きな風呂敷包みを背負ったおばあちゃんはチエちゃんと、とし江ちゃんの家を訪れました。

 とし江ちゃん家は茅葺屋根の古い大きな家で、熊んさまの隣にありました。
とし江ちゃんはチエちゃんのひとつ年下で、二歳違いのお兄ちゃん、カズあんちゃとも、季節保育所の顔馴染みでしたから、チエちゃんはよく遊びに行っていたのでした。
 この家には、お父さんさんとお母さんのほかに『スイおばちゃん』という人がいました。スイおばちゃんは、とし江ちゃんのお父さんのお姉さんで、いかず後家ということでした。
チエちゃんは「いかず後家」という意味がよく分かりませんでしたが、あまり良い意味の言葉でないことは感じていました。
おそらく、スイおばちゃんは若い頃に病弱であったか、或いは女手のなかった生家の切り盛りをするうちに婚期を逃してしまったということではなかったのかと想像します。

 スイおばちゃんは、当時でも珍しくなってしまった機織りのできる人でした。
チエちゃんが遊びに行くと、奥の部屋からは、トン、パタン、カラリ、トン、パタン、カラリ・・・と聞こえていました。
 チエちゃんのおばあちゃんが持ってきた荷物は、洗い張りをした古い着物や布団表の布地です。この布地を細く裂いて横糸とし、裂き織りとして再生してもらうためだったのです。

 織り上がった裂き織りは、薄手のラグのような布地で、元の布の色合いによって青や赤の段染めのような風合いでした。チエちゃんの家では何枚かはぎ合わせて、コタツの上掛けとして使っていました。
古くなった布を更に再生して使う、究極のエコですね。こんなことが、当たり前の時代でした。


※ 画像は、民家園に展示してあった織機です。まさに、裂き織りを織っているところのようです。

民家園その2

2009年06月14日 | チエの玉手箱
古民家の展示は数軒あります。これは、昨日とは別の家。


チエちゃんの家でも、こんな風に家の脇に薪を重ねていました。


足踏み脱穀機 第119話収穫に書いたとおり、下写真の唐箕とともに昭和40年代始め頃まではチエちゃん家でも実際に使っていました。

唐箕(とうみ)


この道具の名前を知らないのですが、藁をたたいてやわらかくする道具。
今でもチエちゃん家にあるかも?


菰(こも)編み機 おじいちゃんがこれを使って、よく編んでいました。

40年前(十分昔かな?)くらいまでは、現役の道具たちばかりです。もしかしたら、今でも現役の物もあるかもしれません。
長い間使われていた道具が、忘れ去られていくことは寂しいばかりです。


民家園

2009年06月13日 | チエの玉手箱
落ち込み気味の気分を晴らそうと、お出かけしてみました。
F市郊外のあづま運動公園に行きました。
写真は公園内にある民家園です。
昔の古い家をここに移築再現し、展示してあります。


古民家内部です。
250年前の建築ということですが、私も見知っている道具もありました。


かまど


臼と杵

なんだかとっても、なつかしい気持ちになりました。

塩ひとつまみ

2009年06月03日 | チエの玉手箱
スーパーに笹が並んでいると思ったら、5月28日が旧暦の端午の節句だったんですね。
子供の頃の年中行事をブログに書いてきた私ですが、最近ではこの体たらくです。
昨日、嫂から“ちまき”をもらって気が付きました。

 ちまきといえば、この辺りではきな粉をつけて食べるのが一般的です。
子供の頃、私は「きな粉」とは甘みがついて売っているものだとばかり思っていました。
 私が中学か高校の時だったと思いますが、はやりちまきを作ったからと母がきな粉に砂糖を混ぜていたのです。
「ええ~っ、きな粉って最初から甘いんじゃないの?」
「そうだよぉ。こうやって砂糖を混ぜて作るんだよ。
 ちょうどよかった、チエ、塩持ってきて!」
塩なんか何に使うのだろうと思いながら塩壷を渡すと、母は混ぜていたきな粉にひとつまみの塩を入れました。それから、味見をして、
「うん、よし、これでできた!
 塩を少し入れると、甘くなるの。餡子にも塩を入れないと甘くならないんだよ。」と教えてくれました。
少量の塩を混ぜると甘味が増すということらしい。

 塩味があることによって、甘味が引き立つというわけです。

人生においても、同じようなことが言えるのかもしれません。
塩味があるからこそ、引き立つ甘味。
生きていく上での、塩味って何だろう・・・